2012年10月17日水曜日
IMF世界銀行総会を横目に
イスタンブールに住むトルコ人の友人夫婦が東京にやって来た。 久しぶりの再会。 東京の街を歩き回り、焼き鳥屋、回転寿司屋、居酒屋…、酒飲みの2人のための特別観光で予定の3日間は瞬く間に過ぎた。
2人は普通の観光にも関心があったが、それほど執着はしていなかった。 とはいえ、隅田川遊覧船に乗って、浅草には行った。
夫が訊いた。「あの高い塔は何だ」。 「ただの電波塔で、世界一高いというだけ」。 「世界一とは知らなかった。 登ってみる価値はあるか」と夫。 「高いところが好きなら。 しかし飛行機に乗れば同じ。 つまらんことにカネを使うことはない」。 「じゃあ、ビールでも飲みに行こう」と夫。 スカイツリー観光は、これでおしまい。
彼らが一番興奮したのは、渋谷駅前のハチ公像を見たときだった。 「日本で一番有名な待ち合わせ場所。 今度会うときは、ここで待っている」と冗談半分で連れて行った。
ところが、2人はハチ公を見るや否や、顔を輝かせ「ウワオー」と大きな声を出した。 まったく知らなかったが、ハチ公はイスタンブールでも有名だったのだ。
日本映画「ハチ公物語」は、米国でリメイクされ、リチャード・ギア主演の「HACHI 約束の犬」となって世界に配給された。 2人は、この映画でハチ公に感銘していたのだ。 まさか、像ではあるが”本物”のハチ公に会えるとは思っていなかったから感動はひとしおだった。
グローバル化の広がりで、今、世界の人々は世界の色々なことを簡単に知るようになった。 だが、面白いものだ。 トルコの友人たちは、日本が官民をあげて宣伝している世界一、高さ634メートルの「東京スカイツリー」は知らなかったのに、ずっと昔から渋谷駅前のはじっこに鎮座している高さ、わずか91センチの銅像には愛着を感じるまでの知識を持っていた。 グローバル化した世界とはいえ、情報の伝播とはなんともいびつなものだ。
トルコからの友人は、東京に遊びに来ていたわけではなかった。 夫はエコノミストとして、10月14日まで3日間開かれたIMF・世界銀行年次総会に出席するための出張だった。 そう、グローバル化を主導してきたIMF・世界銀行。 だが、今回の東京総会は過去10年余りの各国で開かれた総会と比べると、なんとなく奇妙だった。
奇妙に感じたのは、これまで総会のたびに巻き起こった反グローバル化の激しい街頭抗議行動が皆無だったからだ。 小規模なデモ行進はあったが、新聞のニュースにもならない程度のものでしかなかった。
抗議が盛り上がらなかったのは、IMF・世界銀行が金科玉条としていたグローバル化が明らかに行き詰まり状況にあるからだ。
国境のない世界経済は、遠いギリシャの経済破綻が、そんな国には観光でしか行かない日本人の日常生活にまで悪影響を及ぼすようにした。 EU経済危機にしても、中国経済成長鈍化にしても、その世界的影響は、グローバル化のマイナス要因ばかりだ。
グローバル化の流れは今後も確実に続くにしても、輝きを失っている。 こんな状況下で、グローバル化への抗議など人々を興奮させない。 なにかが、いびつになっている。
トルコの友人と酔っ払いながら、今ここにいる世界の形が、歪んで見えにくくなっていることに気付かされる3日間が過ぎた。
2012年10月15日月曜日
シアヌーク劇場の終演
カンボジアの前国王ノロドム・シアヌークが、10月15日、北京病院で、長い療養生活の末、89歳で死んだ。 浮き沈みの激しい人生を、自ら創作した劇の登場人物を演じたように生きた男だった。
言うことがころころ変わる。 彼の言葉は、どこまでが本心なのか判断しかねる。 とはいえ、ジャーナリストからすれば、つい報じてしまいたくなるツボを心得た発言をする。 国際政治を生き抜いた天才的詐欺師だったのかもしれない。 国際支援のカネを使って、大好きなパリで贅沢三昧の生活をしていたことは秘密でもなんでもない。
あるいは、プロの亡命政治家と呼ぶべきかもしれない。 世界の注目を常に引きつけ、カンボジアという小さな国の存在を忘れさせないためなら、なんでもやってきた。 そして、1993年、カンボジア和平の実現によって、名実ともに国王に復帰した。
とにかくマスコミが大好きだった。 1989年、東京でカンボジア和平に関する会議があったときの光景は忘れられない。 会議場から出てきたシアヌークは警備の警察官にはさまれ、まわりを多くの新聞記者に囲まれながら歩いていた。
とても近寄れないので、数メートル離れたところから大声で、「ミスター・シアヌーク!」と呼びかけた。 すると立ち止まったので、再び大声で会議の見通しを質問した。 すると、彼は大真面目に返答してくれた。 だが、警察官に背中を押されて前に無理やり進めさせられた。 仕方ないと思ったが、彼の背中に向かって、もうひとつ質問してみた。 なんと、彼は首をねじって、必死に顔だけこちらに向けて、またもや答えてくれたのだ。
駐在していたバンコクでカンボジア問題を追っていたころのことだ。 シアヌークは、慣れない東京で知らない記者たちに囲まれ戸惑っていたに違いない。東南アジア諸国で頻繁に開かれる記者会見で見たような顔に会って、ほっとして、いつもの調子でしゃべってくれたのだと思う。 首を不自然にねじ曲げて懸命に声を出していたときの彼の表情を思い出すと、今でも吹き出したくなる。
シアヌークの親族には、マスコミ大好きの役者が実に多かった。 バンコクの高級ホテルのロビーで、タイ人記者とともに、シアヌークの娘をみつけ、一緒にコーヒーを飲んだことがある。 ついでに夜はディスコに行こうと誘ったら大喜びした。 残念ながら、その夜はこちらの方が忙しくなってデートは実現しなかったが。
シアヌークは若いころ、自ら映画を作ったことがある。 どうにもならない駄作だったらしい。 だが、ノロドム・シアヌークは、「国王ノロドム・シアヌーク」という役を十分に演じきり、その衣装を着たまま満足して死んでいったのだと思う。
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