2012年12月31日月曜日

2013 新しい年の旅立ち



 2012年大晦日、記憶にないくらい遠い昔以来、久方ぶりにNHKの紅白歌合戦を見た。 と言っても、同じNHKでもBSプレミアムで放映していた日本映画「駅 STATION」で、劇中画面に出てきた1979年の紅白歌合戦だ。

 雪に覆われた北海道の小さな駅。 その近くの赤提灯、「桐子」。 大晦日前日の12月30日、ふらっと立ち寄った高倉健。 うらびれた飲み屋を一人で切り盛りする倍賞千恵子。 2人は意気投合して、カウンター越しに飲み始める。 

 翌大晦日、2人は逢瀬のあと、再び「桐子」へ。 カウンターで並んで飲んでいると、紅白歌合戦で八代亜紀が「舟歌」を歌い始める。

 お酒はぬるめの燗がいい
 肴はあぶったイカがいい
 女は無口なひとがいい

 倍賞千恵子が、「私、この歌が大好き」と言って、高倉健にしなだれかかる。 外は、雪がしんしんと降る。

 一人旅の男と寂しげな女の出会い。 この2人の役者は、こういう演技をやらせれば天下一品だ。

 旅する男がいつも期待する夢を実現してくれる。

 新しい年2013年。 また旅に出よう。

君は塩分摂取を控えているか



 塩分を摂りすぎると血圧が上がる。 だから高血圧予防のためには塩分摂取を控え目にしなければいけない。 中高年世代の人々は、うんざりするほど忠告される。 刷り込み効果のせいか、気が付けばラーメンのスープは半分残すようになっている。

 ところで、専門家たちが、塩分摂取量と高血圧について語るとき、金科玉条のごとく引き合いに出すのが、南米の未開部族ヤノマモ(ヤノマミ)族だ。 食塩をほとんど摂らないので高血圧がない部族だという。

 そこで、出典が明らかにされていないのでウエブで探索してみると、どうやら原典はINTERSALTという国際研究団体の現地調査のようだ。

 以下が、その内容。
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 [1989年文献] ナトリウム摂取量が極端に低いヤノマミ族では,高血圧が見られなかった
Mancilha-Carvalho JJ, et al. Blood pressure and electrolyte excretion in the Yanomamo Indians, an isolated population. J Hum Hypertens. 1989; 3: 309-14.

 ブラジルとベネズエラの国境近くに住むヤノマミ族は,世界中でもっとも文化変容の波を受けていない先住民族である。 狩猟と焼畑農業中心の生活をしており,栽培した穀物や,採取した果物・昆虫などを食べる。 主食はバナナ,キャッサバ。食塩や精製した砂糖はほとんど使っておらず,アルコールや牛乳,その他の乳製品も摂取しない。

 26万 km2の範囲に200の集落が存在し,それぞれ40~250人が暮らしている。 このうち1986年のINTERSALT研究に参加したのは,政府保健機関から30 kmほどの位置にある3つの集落。 20~59歳の206例のうち,妊娠中の6例,24時間蓄尿量が明らかに不足していた5例を除いた195例について検討を行った。

 今回の調査を行うため,まず政府保健機関の近くの町まで調査機器が空輸された。 調査隊はそこから調査機器や生活用品などをすべて持ち,ジャングルの中を8時間歩いて集落に向かった。

 各集落には5日ずつ滞在し,血圧測定,24時間蓄尿および質問票の記入を行った。 質問には通訳を介した。 また,ヤノマミ族は自分の年齢を知らない。そのため,年齢については体格や外見,子供の数や年齢,通訳の個人的な認識をもとに推定した。

結 果
 男性は女性より身長・体重ともにやや大きく,収縮期血圧(SBP),拡張期血圧(DBP)も女性より高い傾向が見られた。

 平均血圧,および観察された最低値および最高値は以下のとおり。
   SBP   96.0 mmHg (78.0~128.0 mmHg)
   DBP   60.6 mmHg (37.0~86.0 mmHg)

 平均尿中ナトリウム排泄は0.9 mmol(24時間)で,これはINTERSALT参加国のなかでも圧倒的に低い値。 最低値は0.04 mmol,最高値は26.7 mmolだった。  84.1%(164例)が1 mmol以下の値を示し,5 mmol以上だったのは9例のみ(これは調査隊の食料を口にしたためではないかとされている)。  このように値が極端に低いため,塩分と血圧の相関については正確な解析を行うことができなかった。

 平均尿中カリウム排泄は63.3 mmol(24時間)。 尿中カリウム排泄と女性のDBPは,有意な逆相関を示した。

 年齢と血圧に正の相関は見られなかった。 女性のSBPは年齢と有意な逆相関を示した。男性のBMIは,血圧と有意な相関を示した。 年齢と血圧に正の相関が見られない理由として,これまでに慢性病や栄養不良の可能性が挙げられてきたが,ヤノマミ族は非常に重い荷物を背負って何時間もジャングルを歩くなど強靭な体力を持っており,今回の調査でも栄養不良の身体所見はまったく見られなかった。

 このほかにも,ヤノマミ族の生活には高血圧を抑制する多くの要素(BMIが低い,肥満がほとんどない,アルコールを摂取しない,脂質をほとんど摂取しない,繊維質を多く摂取する,運動量が多いなど)が見られた。

 以上のように,塩分の摂取量が非常に少ないヤノマミ族では高血圧がまったくなく,加齢にともなう血圧の上昇も見られなかった。
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 <INTERSALT>というのは、どういう団体かというと、世界初の食塩と血圧に関する国際研究組織で、1985年に研究を開始した。 現在、32か国の52集団の住民を調査対象にしている。 

 INTERSALT(INTERnational study of SALT and blood pressure) Studyは,世界32か国の52集団について,24時間蓄尿により尿中ナトリウム・カリウム排泄と血圧との関連について検討した国際共同研究。WHOや米国国立心肺血液研究所(NHLBI)のサポートを受けて行われた。食塩をまったくとらないことで知られるブラジルのヤノマミ族も,調査の対象に含まれている。

 食塩と血圧の関係についてはこれまでにも多くの調査研究が行われてきたが,調査手法にばらつきがあり,集団間で結果を比較したり,国際的な傾向をつかんだりすることが難しかった。

 そこでINTERSALT研究では,質の高いデータを収集するために,高度に標準化された調査手法が用いられた。例えば調査マニュアルや質問票は統一され,翻訳の正確性もチェックされた。検査機器は,血圧計や蓄尿器から聴診器にいたるまで,世界中で同一のものが使用された。さらには,収集した24時間蓄尿のサンプルは世界各地からベルギーのルーベンにあるセント・ラファエル大学に運ばれ,生化学的な分析はすべてそこで行われた。

 その結果,食塩摂取量の多い集団では年齢とともに血圧が上昇する度合いが大きいこと,また,個人間の検討で,ナトリウム摂取量は血圧と正の関連,カリウムは負の関連,アルコールは正の関連があることが明らかになった。               
(Intersalt web page より)
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 それにしても、 ヤノマミ族というのは、実に興味深い。 秘境ルポの候補に加えておこう。 以下が、ヤノマイ族の概要だ。

 ブラジルとベネズエラの国境付近、ネグロ川の左岸支流とオリノコ川上流部に住んでいる。 人口は1990年時点でブラジルに1万人、ベネズエラに1万5000人の計2万5000人ほど、現在合わせて約2万8000人といわれる。 言語の違いと居住地に基づいて4つの下位集団に分けられ、南西部を占めるグループはヤノマメYanomam、南東部はヤノマムYanomam、北西部はサネマSanma、北東部はヤナムYanamとよばれる。 南アメリカに残った文化変容の度合いが少ない最後の大きな先住民集団である。 言語帰属について、チブチャ語族であるとか、カリブ語族に関係があるとかさまざまな説があるが、はっきりしない。

 彼らの住居は、シャボノと呼ばれる巨大な木と藁葺きの家である。 シャボノは円形で、中央の広場をぐるっと囲む形になっており、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられていっしょに暮らしている。

 衣服はほとんど着ていない(初潮を経た女性は陰部を露わにすることを禁じられ、ロインクロスを付けて陰部を隠す)。

 主な食物は、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバなど。その特徴として、調味料としての塩が存在せず、極端に塩分が少ないことがあげられる。 彼らはもっとも低血圧な部族として有名(最高血圧100mmHg前後、最低血圧60mmHg)だが、それはこのことと密接な関係があるものと思われる。 狩猟採集や漁撈だけでなく、料理用バナナやキャッサバなどの焼畑農耕もおこなっている。

 ヤノマミ族は現在のところ、民族内部での戦争状態が断続的に続いている。 彼らの社会は100以上の部族、氏族に村ごとに別れて暮らしているが、他の村との間の同盟は安定することはまれで、同盟が破棄され戦争が勃発することが絶えない。 このような状況におかれた人間社会の常として、ヤノマミ族では男性優位がより強調される傾向がある。 肉体的な喧嘩を頻繁に行い、いったん始まると周囲の人間は止めたりせず、どちらかが戦意を喪失するまで戦わせるといったマッチョな気風にもそれが現れている。

 また、近年、ヤノマミ族の居住地域で金が発見され、鉱夫の流入は疾病、アルコール中毒、暴力をもたらした。 ヤノマミ族の文化は厳しく危険にさらされ、第一世界からの寄付金によるブラジルとベネズエラの国立公園サービスによって保護されており、ナイフや服などが時折支給される。

 都市住民と比べて種々の病気に対する抵抗力が弱い。 2009年11月、ベネズエラ領内で新型インフルエンザのため8人のヤノマミ族の死者が出たことが伝えられている[6]。

 女子は平均14歳で妊娠・出産する。出産は森の中で行われ、へその緒がついた状態(=精霊)のまま返すか、人間の子供として育てるかの選択を迫られる。 精霊のまま返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白アリのアリ塚に放り込む。 その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて精霊になったことを神に報告する。  また、寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われる。

 いわゆる価値相対主義をとらずに、先進国(近代社会)の観点から記述すれば、ヤノマミ族は技術的に人工妊娠中絶ができないため、資源的・社会的に親にとってその存在が「不必要」である子供は、森の中で白蟻に食べさせる形での嬰児殺しによって殺害される。 嬰児殺しの権利は形式上は母親にあるが、男尊女卑である以上、実際は子供の遺伝的父親や、母親の父親・男性庇護者の意思、村の意思が反映する。 ヤノマミの間では、これを「子供を精霊にする」と表現する。 これは近代社会における「中絶」と、不必要な子供を始末する点では一致するが、超自然的な位置づけがされている点が異なる。

 ヤノマミ族を三十年にわたって調査を続けたアメリカの人類学者ナポレオン・シャグノン(共同研究者はジェームズ・ニール )によるヤノマミ族の血液研究に関して倫理的な論争が発生した。

 1993年、ブラジル・ロライマ州のヤノマミ集落で16人が金採掘業者に虐殺された。

 (以上、Wikipedia より)

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 血圧を下げるということは、どうやら現代文明以前の時代の生活に近付けるということらしい。 だが、殺虫剤に対する耐性を身につけて死ななくなった蚊や虱が存在するように、人間も、いかなる美食を続けても健康を維持できる新種を生むことはないのだろうか。

2012年12月30日日曜日

強引すぎる支持率アップのキャンペーン



 今、東京で電車に乗ると、わずらわしいほど大量にぶら下げられた吊り広告が目に入る。 有名アスリートや有名タレントがにっこりした笑顔で、2020年東京五輪開催を面白おかしく訴えている。

 見え透いたキャンペーン。 最終候補に残ったマドリード、イスタンブール、東京の3都市の中で、東京の弱みは、開催に対する住民の支持が他の候補地と比べ低いことだとされている。 そこで、莫大なカネを使って、支持率アップの大作戦が開始された。

 右傾化する日本の国家主義者たちが推進するペット・プロジェクトに都民を引きずり込むため、強引な世論操作が展開されている。 

 なぜ東京でオリンピックを開催しなければいけないのか。 なにも見えないまま、東京都民は、このまま五輪支持へと追い込まれていくのだろうか。

2012年12月22日土曜日

夕張炭鉱のあった街



 午後6時40分。 まだ宵の口だというのに、雪に覆われた夕張の街には人の気配がなかった。 暗くて狭い通りで、やっと1軒の居酒屋をみつけたときは、ほっとした。 カウンターの上には、野菜や魚の手作り料理が並ぶ。 

 われわれは、せっかく夕張くんだりまでスキーに来たのだから、寂れてしまった炭鉱町の雰囲気だけでも感じてみようと街に出てみた。 確かに、雪の通り一面に、人が消えていった侘しさが漂っていた。 

 だが、腰を据えて飲みだした居酒屋「俺家」には、なんとも言えない温もりがあった。 酒も食いものも旨い。 やや悲しげな面影のあるおかみさんに訊いてみると、この店は父親の代から、既に60年がたっている。

 そうか、そうすると、この店には、まだ活気の残っていたころの元気で逞しい炭鉱夫も、顔を出して酒をあおっていたのだ。 今、その姿はない。 代わりに、亡霊たちの席で、ノウテンキの赤ら顔で酔っているのは、東京から遊びにきたスキーヤー。

 せっかくだから、この街の歩んできた過去を覗いてみよう。

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 夕張市の基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で、1981年10月16日午前0時、海面下810メートル、坑口より約3,000メートルの北部区域北第五盤下坑道のメタンガスセンサーに異常値が出ていることを地上の制御室が確認。ガスの突出事故の発生を確認し、直ちに会社側が組織した救護隊が救出作業を開始した。

 77人は自力で脱出することができたが、救護隊により34名は遺体で収容、ほか10名を坑内で死亡確認している。しかし、同日午後10時30分頃にガス爆発による坑内火災が発生、救護隊の10名も巻き込まれる二次災害となった。作業服の持つ静電気が原因で充満したガスに引火したと推測されている。

 爆発後は坑内に大量の黒煙と熱が充満し、火災も収まる兆しが見えなかったことから密閉作業が行われた。密閉作業は坑口を塞ぐもので、坑内の避難器具(通称ビニールハウス)への空気供給を止めるものではなかったが、それでも火災が収まらなかったことから、会社側は注水による鎮火の検討に入った。 この時点で坑内には59名の安否不明者が取り残されており、注水は坑内にいるこれらの不明者を見殺しにする措置の為、安否不明者の家族の猛反発を受けた。中には林千明社長(当時)に「お前が入れ」と迫る人もいた。

 注水の是非を巡る議論が白熱する中、生存者の有無を確認する為に捜索隊が坑内に入る。だが、爆発の衝撃で坑道の至る所で落盤が発生しており、救出活動を続行する事は危険と判断された(捜索中、立ったまま死亡していた労働者の遺体も確認された)。

 林千明社長は「お命を頂戴したい」と家族達に注水への同意を求め(林千明社長はその後自殺未遂事件を起こしている)、結局、10月22日に全員の家族の同意書を取り付け、翌10月23日、サイレンと共に59名の安否不明者がいる坑内に夕張川の水が注水された。

  約4か月の注水作業、その後の排水作業により遺体の収容作業が再開されたものの、遺体収容・確認作業は難航を極め、最後に残っていた遺体が収容されたのは事故から163日後の1982年3月28日のことであった。

 最終的な死者は93人で、炭鉱事故としては、1963年の三井三池三川炭鉱炭じん爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市))ガス爆発事故の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事である。

 この事故は新炭鉱に命運を懸けていた北炭に壊滅的な打撃を与えた。新炭鉱の運営を委託されていた子会社北炭夕張炭鉱(株)は2か月後に倒産、新炭鉱も事故から1年後の1982年10月に閉山に追い込まれた。北炭はその後も夕張以外の炭鉱で採炭を続けていたが、1995年空知炭鉱(歌志内市)の閉山をもって石炭から撤退、同年に会社更生法の適用を受け事実上の倒産に追い込まれた。

 行方不明者を見殺しにする注水作業は、事故当時でもショッキングな出来事であり、注水の行為の是非や実施のタイミングが世間で多くの議論を呼んだほか、炭鉱のイメージそのものを失墜させた。

 日本の石炭業界は、当時のオイルショックによる石炭見直しの風潮の中復活の機運もあったが、この事故によって、希望は吹き飛ぶ結果となった。それに拍車をかけるように、三井三池炭鉱有明鉱坑内火災(1984年、死者83人)、三菱南大夕張炭鉱ガス爆発(1985年、死者62人)と同じような最新鋭鉱で事故が立て続けに発生し、日本の石炭産業の崩壊は決定的なものとなったのである。

 この事故により石炭産業の衰退は決定的となり、夕張市は「炭鉱から観光へ」の流れを加速させ、過大な観光開発へ突き進むこととなる。そのことが、後に財政再建団体へと転落する大きな要因となった。

 現在も、清水沢には夕張新炭鉱の文字が残る坑口と慰霊碑が残る。坑口は事故で死亡した作業員達の遺族による「空気が通るように」という要望からコンクリート等による密閉はせず鉄格子で閉鎖されている。
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 夕張市。北海道・空知地方南東部の山あいに位置する。人口は市域の西側、紅葉山地区から夕張地区まで、谷間を縫うように走る石勝線夕張支線に沿って集中している。市役所は過去に夕張炭鉱があった谷合いの集落の最北部に設置されている。
 
 地名の由来はアイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る所)」。

 明治初期から炭鉱の町として栄え、空知地方でも特に多くの石炭を産出した。1874年(明治7年)にお雇い外国人で北海道開拓使(当時)のベンジャミン・スミス・ライマン地質学士がこの地を踏査し、夕張川流域に石炭鉱脈の存在が考えられると発表。1888年(明治21年)に北海道庁の技師で元ライマン調査隊隊員の坂市太郎(ばん いちたろう)が再調査により大露頭(鉱脈)を発見、入植者の募集と試掘に始まり多数の炭鉱が拓かれ、国内有数の産炭地として盛況を誇った。

 1960年(昭和35年)には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の三大鉱業所を中心に北炭機械工業(鉱山・産業機械製造)、北炭化成工業所(コークス・化成品製造)などの関連産業も発達し、116,908人の人口を抱える都市となった。

 しかし、昭和30年代後半以降エネルギー革命が進行、海外炭との競争、相次ぐ事故、国の石炭政策の後退に直面。鉱業者側も手をこまねいていたわけではなく、鉄鋼コークス用などの原料炭(高品位炭)など価格の高い炭種の供給に活路を見出すべく、大きな期待と成算を持って三菱南大夕張炭鉱、北炭夕張新炭鉱が開発された。

 だが、その後の鉄鋼不況により需要は伸びず、1973年(昭和48年)に大夕張鉱業所が閉鎖して以来閉山が相次ぎ、1981年(昭和56年)には市内屈指の規模を持ち基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生し、後に夕張新炭鉱を運営してきた北炭夕張炭鉱株式会社は倒産、石炭産業の衰退に拍車がかかった。

 石油ショックの克服を大義名分とした官・民の多岐にわたる国内資源振興策も決定打とはならず、その後の安価・良質の海外資源へのなだれ現象、そして政府の合理化政策の前に各炭鉱の経営はジリ貧となっていき、企業は国内の炭鉱から次々撤退。国内第一の規模・炭質を誇った夕張もその例外ではなかった。1990年(平成2年)に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山した。

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 夕張は元々炭鉱により開かれた町で、大規模な農業にも向かない地域だった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく働き手の若者が都市へ流出し、人口が激減。街には高齢者が残る結果となり、少子高齢化が進んだ。

 最盛期からの夕張市の人口減少率は、全国の自治体でもトップクラスとなり、現在では、歌志内市、三笠市に次いで、全国で3番目に人口が少ない市で、人口密度は全国の市で最も低い。

 これに加え1991年(平成3年)より北海道開発局によって夕張川に夕張シューパロダムの建設が計画され、これに伴い大夕張地区の住民188戸が移転した。2006年(平成18年)よりダムは本体工事を開始し2013年に完成する予定である。

 ダム完成による莫大な固定資産税収入や水源地域対策特別措置法による周辺地域整備のための国庫補助などで新たな観光拠点育成としての期待がある一方、世界的に稀有な橋梁形式である三弦橋の水没や公共事業依存への懸念が出ている。

 現在は気温の寒暖差を生かしたメロン栽培(夕張メロン)、花畑牧場、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭など観光の町として町おこしを進めているが、厳しい状況にある。

 かつて夕張は炭鉱の街として栄えたが、「石炭から石油へ」のエネルギー政策転換により、次々と炭鉱が閉山されていった。1990年(平成2年)には最後の三菱南大夕張炭鉱が閉山し夕張から炭鉱がなくなった。これにより、炭鉱会社が設置した鉱員向けのインフラを市が買収する。

 1982年(昭和57年)、北炭が所有していた夕張炭鉱病院を市立病院移管に対して夕張市は40億円を負担している。さらに北炭は、夕張新炭鉱での事故を理由に、鉱産税61億円を未払いのまま撤退(倒産で払えなくなったとも)。また、北炭・三菱は炭鉱住宅5000戸(市営住宅に転換)や上下水道設備などを夕張市に買収してもらい、額は151億円に達した。結果「炭鉱閉山処理対策費」は総額583億円に達した。

 また、こうした施設の建設に際して地元業者優先の随意契約が多く行われ、建設費も適正な価格に比べて相当高くついたケースも見られたほか、事業が観光客誘致よりも雇用確保に傾いたため、各施設が余剰人員を多く抱えていたことも観光関連施設の収支を悪化させる要因となった。

 市は、中田鉄治元市長時代に石炭産業の撤退と市勢の悪化に対し、「炭鉱から観光へ」とテーマパーク、スキー場の開設、映画祭などのイベントの開催、企業誘致により地域経済の再生、若年層を中心とする人口流出の抑止、雇用創生などを図ったものの、ことごとく振るわず、観光・レクリエーション投資における放漫経営が累積赤字として重くのしかかった結果、市の財政を圧迫していった。旧夕張ロボット大科学館は、観光開発に一貫性がなかったこともあり、すぐに陳腐化、閉館に追いやられた。閉館後、転用先が無かったロボット大科学館は2008年に取り壊された。

 2002年3月、市はマウントレースイスキー場を26億円で買収することを決め、市債を発行し資金調達しようとしたが、北海道庁は負担が重すぎるとして許可しなかった。そこで市は土地開発公社に買収させ、市が肩代わり返済する「ヤミ起債的行為」に手を染めた。

 産炭地域振興臨時措置法(以下、産炭法)が2001年(平成13年)に失効したことなどで、財政状況がさらに悪化、その後ほぼ破綻状態にあったことが表面化し、2006年(平成18年)6月20日に後藤健二前市長が定例市議会の冒頭で、財政再建団体の申請を総務省にする考えを表明した。

 一時借入金などの活用により表面上は財政黒字となる手法をとったため、負債がふくれあがっていった。一時借入金残高は12金融機関から292億円、企業会計を含む地方債残高が187億円、公営企業と第三セクターへの債務・損失補償が120億円とされ、夕張市の標準財政規模(44億円)を大きく上回っており、一般的に10年とされる再建期間での再建はほぼ不可能な状態であった。

 また、市長の表明後、「空知産炭地域総合発展基金」から14億円の借り入れをしていることが明らかになるなど、違法起債等の粉飾まがいの決算がここ何年も行われていた疑い表明した。北海道庁は同年8月1日に夕張市の財政状況の調査に関する「経過報告」を公表した。

 北海道庁は、再建期間短縮等の観点から、赤字額の360億円を年0.5%の低利で融資(市場金利との差額は道が負担)、国も地方交付税交付金などによる支援を打ち出した。これらの動きにより、再建期間は18年間の見込みとなった。

 財政再建団体指定は、1992年(平成4年)の福岡県赤池町(現福智町)以来、北海道では1972年(昭和47年)の福島町以来、市では1977年(昭和52年)の三重県上野市(現伊賀市)以来となる。
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<財政再建計画>

 市の第三セクターである株式会社石炭の歴史村観光(負債額74億8800万円)、夕張観光開発株式会社(負債額54億6000万円)、夕張木炭製造株式会社(負債額16億円)の3社は破産処理された。 「映画祭」は中止。

 職員給与削減は2006年(平成18年)9月から実施することとなり、市長は50%(月収862,000円→431,000円)、助役は40%、教育長は25%、一般職員も15%カットとなり、4億200万円の削減となる。2007年(平成19年)4月からは、さらに削減し、市長75%(月収259,000円、年収374万円)、助役70%(月収249,000円)、教育長66%(月収239,000円)、常勤監査委員も229,000円など、徹底した削減がなされ、市長の給与は全国最低となる。市議会議員の人数も18人から9人に半減、議員報酬も311,000円から180,000円に削減される。

 更には新規職員採用凍結や早期退職勧告により職員数も削減を予定している。早期退職希望者が130人を超え、定年と自己都合を合わせ、全職員の約半数の152人が2006年度末で退職した。これは当初の削減計画の人数にほぼ合致している一方、急な退職で市政の滞り等が心配されているが、市は、この早期退職により、人員削減計画の前倒しとするとしている。なお、早期退職者は、役職者が約7割を占め、部長・次長職は全員辞める。2007年度末の退職者の内訳は部長職12人全員、次長職11人全員、課長職は32人中29人、主幹職は12人中9人、係長・主査職は76人中45人、一般職が166人中46人となっている。

 また、市が保有する観光施設31施設の内29施設を運営委託、売却、廃止する方針も明らかになったが、道内観光大手の加森観光を中心に委託・売却先がほぼ決定した。

 市民負担も大きくなり、市民税が個人均等割3,000円から3,500円に、固定資産税が1.4%から1.45%に、軽自動車税が現行税率の1.5倍に増額、入湯税150円も新設される。また、ごみ処理は一律有料化、施設使用料も5割増、下水道使用料が10 m3あたり1,470円から2,440円に値上げ、保育料は3年間据え置くが、その後7年間で段階的に国の基準にまで引き上げる。敬老パスは廃止予定だったが、個人負担額を200円から300円に引き上げて存続されることとなった。この影響もあって転出者が相次ぎ、2006年・2007年の二年間で人口が1割近く減少した。

 公共施設に関しては、多くの施設が廃止されることになっていたが、世論の反発などもあり見直され、全廃予定だった7ヶ所の公衆トイレのうち清水沢と沼ノ沢を存続、南部コミュニティセンターは、使用料引き上げ、町内会などによる管理運営を条件に存続、スイミングセンターは夏季限定で営業する予定であったが、2008年(平成20年)3月に雪の重みにより屋根の一部が崩落し使用不能となり、修復も検討されたが取り壊された。図書館は、蔵書を保健福祉センターに移設し(貸し出しは継続)、廃止となる。

 財政再建計画はその時の状況に合わせて改定されているが、平成22年に議決された財政再建計画によれば、平成20年度までの3年間で約31億円分の赤字を解消済み。さらに再生振替特例債の借り入れなどを駆使して平成38年度までに322億円の償還を行う予定となっている。

 市長:鈴木直道(2011年4月24日就任 1期目) - 全国の市長で最年少(30歳)

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 かつては石炭の採掘が主要産業だった。現在はメロン栽培(夕張メロン)を中心とした農業と、精密機械や食品加工業、石炭の歴史や映画などをテーマにした観光産業からなるが、観光産業は市に巨額の負担を強いており、その上市財政の悪化が表面化。

 人口減少や著しい高齢化(2010年の時点で、65歳以上比率が市としては全国最高の44%)も相まって企業の進出が進まず、先行きは極めて厳しい。

 夕張ドキュメンタリーツアー : 破綻後の負の遺産をビジネスに生かし、破綻の原因となった箱物などを巡る異色のツアーで、民間会社の夕張リゾートが主催。反面教師として全国の同じ問題を抱える地方自治体などに人気がある。

 メロン熊という怪キャラクターグッズが販売されている(北海道物産センター夕張店)。

 石狩炭田は、現在も稼動中の露天掘りの炭鉱で、他(隣り)の町・村と一緒に稼動している。

(Wikipedia より)

2012年12月16日日曜日

Salmon Fishing in the Yemen って?



 イギリス映画「砂漠でサーモン・フィッシング」。 この馬鹿げた題名に引かれて、つい見にいってしまった。

 ストーリーも題名そのもの。 中東の砂漠で鮭を釣りたいというイエメンの首長ムハメッドのとんでもない夢を実現しようとするイギリス人学者と、このプロジェクトを持ち込んだ美人コンサルタントの恋、このプロジェクトを利用して、イギリス・アラブ関係改善で点数を稼ごうとする首相府の女広報官。 一見馬鹿げた計画をめぐってストーリーは展開する。

 基本線は恋物語。 だが、イギリス人好みの、こってりと政治風刺を効かせた映画でもある。 どちらも楽しめる。 かなり質の高い映画だ。

 だが、中東世界を多少覗いた者として、もっと期待したかったのは「砂漠」そのものの描写だった。 

 まずは、「砂漠」という言葉は、「沙漠」にしたかった。 文字通り、砂だけの”砂漠”もあるが、英語で「desert」と呼ばれる土地の多くは、”土漠”でもある。 「水の少ない広大な土地」。 だから「沙漠」のほうがしっくりする。 

 そこは、短い春には、水の少ない土地でも育つ、けなげな植物でうっすらと緑色に染まる。 様々な生き物もいる。 駱駝で旅する人々には、駱駝の尻尾の毛で作った蝿追いが欠かせない。 沙漠には蝿がうるさいほどいる。 そして、人間たちは、そこで飲み、踊り、生活する。 彼らには心が最も落ち着く故郷なのだ。 だから、アラブの石油成金たちも、酒瓶を持って沙漠へピクニックに行く。 禁酒国とされるサウジアラビアの沙漠でも、スコッチ・ウイスキーの空き瓶がごろごろ転がっている。

 そして、この映画の原題「Salmon Fishing in the Yemen」。 「イエメン」を「砂漠」と意訳したのは悪くはない。 が、中東アラブ世界で最も美しいイエメンの沙漠と山々が連なる風景を知っていれば、「砂漠」と意訳するには、かなり躊躇しただろう。 イエメンのままにしてほしかった。 実際、本物のイエメンの風景は、モロッコで撮影したという”贋物”のイエメンより、はるかに美しい。

 イエメンという国を知っている外国人は少ない。 だが、数少ないイエメンを知っている外国人の多くがイエメンにぞっこん惚れ込んでいる。 あの美しい景色、そして、乾燥した土地に棲む人々のしっとりとした湿っぽい人情。 準主人公のムハメッドに、その片鱗が見えた。 それを、映画の中で、もっと見たかった。 

 だが、そんなことを思うマイノリティのために、営利目的の映画は作れない。 この映画がすごいとしたら、”砂漠のサーモン・フィッシング”というテーマで、その不可能性を描き、しかも営利を得てしまったことだ。

2012年12月14日金曜日

ソバ屋にご用心



 運が悪い、ついていない、そんなことを駅の立ち食いソバ屋で味わうとは思ってもみなかった。

 JR品川駅を降りたとき、正午まで20分ほどあった。 まだ昼飯には早く、腹もさほど減ってはいなかった。 だが、電車のドアから出たホームの目の前に立ち食いソバ屋があり、とたんに、B級グルメとして愛してやまない掻き揚げソバを食いたくなって、入ってしまった。 これが第1の失敗。

 食券売り場の横の壁に「店内での写真撮影はご遠慮ください」と妙な張り紙があるのに気付いた。 近ごろは、注文した食事を携帯電話のカメラでバチバチ撮るのが普通なのに、うるさい店だと思った。そこで出て行かなかったのが第2の失敗。

 食券を買うとき、掻き揚げソバが520円とは高いなと思ったが、カネを入れてボタンを押した。 これが第3の失敗。 すぐに気付いたが、520円は「掻き揚げ温玉ソバ」で「掻き揚げソバ」は420円だった。面倒なので、店員に頼んで訂正はしなかった。 これが第4の失敗。

 出てきたドンブリのソバの上には、掻き揚げと半熟のゆで卵がのっていた。 これが「温玉」つまり温かい卵と思って口にしたら、冷蔵庫から出したばかりの冷たさだった。 これでは冷玉ではないか。
 
 そして、掻き揚げ。これを汁に溶かしてタヌキ蕎麦風にして食うのがオレ流。 だが、この店の掻き揚げは、箸でいくらつついても硬くてくずれない。 うどん粉を練ったかたまりに、野菜らしき切れ端がほんの少し混ぜてあるだけで、どっしりと重い。

 近ごろはレベルが上がっているとはいえ、駅ソバなど美味いわけがない。 だが、それを承知の上で、安い価格で許容範囲の不味さを楽しむのが駅ソバの醍醐味だ。 JR品川駅は、久しぶりに、おそらく前世紀以来の許し難い不味さを体験させてくれた。

 今、冷静になって振り返ってみると、ヘンだと感じたときに店を出るか、注文をやめるべきだった。 不運を自分で何度も呼び込んでいたことを実によく理解できる。 これから気を付けよう。

 まあ、今後の人生訓を学ぶ機会を得たと考えれば幸運だったのか。 それにしても、腹立たしいほど不味かった。 

2012年12月12日水曜日

日本人が知らない殺人台風



 今年2012年は台風の当たり年というが、日本にやって来なかった台風24号を知っている人は少ないだろう。 日本でほとんど報道されなかったからだ。 だが、とてつもない記録的キラー台風だった。

 12月4日、フィリピンのミンダナオ島を襲い、11日付けAFP通信によると、同日時点で、死者714人、行方不明890人。 昨年2011年フィリピン最悪1200人の犠牲者を出した21号の被害を超えるかもしれない。 全壊した家屋は11万5000戸、避難所には今も11万6,000人が滞在している。 不明者890人の中には、ミンダナオから出港したマグロ遠洋漁業船の313人も含まれている。 フィリピン大統領府は恒例のクリスマス・パーティを今年は中止すると発表した。

 台風には、国際的にはアジア太平洋諸国の言語による名前が付けられる。 台風24号は「ボーファ」、カンボジア語で「花」という意味だ。

 日本のマスコミに染み付いた悪弊は、アジアなど途上国の人間の命を軽んじることだ。 バングラデシュでモンスーンのために何千人が死のうが、日本では何も報じられない。 その一方、米国のハリケーン被害は克明に伝えられる。 

 機敏に反応するNGOを除けば、フィリピンへ日本から不明者捜索や物資の支援が向かったという話も聞かない。

 日本人は、日本を直撃したり、接近する台風には注目するが、日本から遠ざかっていくと、とたんに忘れてしまう。 だが、そういった危険な台風はどこへ行くのだ。 消えてしまうわけではない。 周辺の朝鮮半島や中国大陸へ向かい、深刻な被害をもたらす。 だが、自分たちが安全なら、もうどうでもいいのだ。 天気予報も、台風が日本から去れば予報を停止する。

 英語がわからなくても、天気予報くらいはCNNでも見よう。 地球規模の天気図を表示してくれるからだ。 日本を去った台風の行き先をちゃんと示してくれる。 

2012年12月7日金曜日

漂着したマネキン人形



 第一印象、海岸に流れ着いた女のマネキン人形。 だが、それは現役時代の山口百恵の水着姿だ。 この写真家は、いったい何を表現したかったのか。

 「篠山紀信展 写真力」がマスコミで宣伝されているので覘いてみた。

 山口百恵の写真は、タテ横数メートルの巨大なパネル。 だが、その画像の中の百恵は死んでいる。 だから、漂着したマネキンだった。 ただのゴミ。 物体。 人間が見えない。 生きている姿、その内面が無視されている。

 この写真が発表された当時評判になったとしたら、超人気歌手・山口百恵がセミヌード姿になったという下世話な話題以上のものではなかったはずだ。 なぜなら、この写真から、人間・山口百恵を表現しようとした気配が感じられないからだ。

 人気歌手を裸にした、この写真家はそれだけで得意満面だったに違いない。

 巨大なパネルに引き伸ばしたことが、この展示の売り物だが、明らかに、こけおどしだ。 人の生き様を描いていない退屈な写真をもっともらしく見せるための仕掛けにすぎない。

 こんな写真家を大物ぶらせていられるのは、日本のフォトアーティスト界の貧困さが成せるわざなのか。 哀しい実像なのだろうか。

2012年12月2日日曜日

映画「アルゴ」が実話とは笑止千万

   (CIAのアントニオ・J・メンデス(左)とメンデスを演じたベン・アフレック)

 1979年、世界を震撼させたイランのイスラム革命で出国した独裁者パーレビの身柄を引き受けた米国に対し、イラン国内では激しい反米運動が巻き起こった。 そして、その年11月4日、テヘランの米国大使館がホメイニ支持者らの群集に襲われ占拠された。 館内の大使館員ら52人は以来、81年1月20日に解放されるまで444日間にわたり、パーレビ引き渡し要求の人質となった。

 米国大使館が占拠されたとき、実は6人の大使館員が建物から逃げ出していた。 彼らは、カナダ大使公邸などに匿われ、翌年1980年1月28日、カナダ政府の全面的協力によるCIAの作戦でイランからの脱出に成功した。 その作戦とは、「Argo(アルゴ)」と題するSF映画を製作するためのカナダ撮影チームのメンバーに6人を仕立て上げ、身分を偽って出国するというものだった。

 52人の人質事件と比べれば、6人の脱出はサイドストーリーにすぎないと言えるかもしれないが、このエピソードが、手に汗握るスリリングな映画に仕立て上げられ、今年(2012年)10月公開された。 ハリウッド映画「アルゴ」だ。 米国でも日本でも、なかなかの評判だった。  

 「アルゴ」の公式サイトを見てみよう。

 「信じられなくて当然だ。だが、全てが実話なのだ。
アメリカが18年間封印した、最高機密情報!!
CIAが仕掛けた人質救出作戦は、〈映画製作〉だった──!?」

 「全世界を震撼させた、イランアメリカ大使館人質事件が起きたのは、1979年11月4日。だが、この事件にまつわる真相は、謎に包まれたままだった。事件発生から実に18年後、当時の大統領クリントンが機密扱いを解除し、前代未聞の人質救出作戦が、初めて世に明かされた。その全容を映画化したのが、『ザ・タウン』に続く監督・主演作となるベン・アフレックと、プロデューサーを務めるジョージ・クルーニー。それは、CIAが企画を持ち込んだ、ハリウッド史上最も危険な〈映画製作〉だった──!」
(以上、作品情報より)

 「全て事実です。ものすごく良く出来ている。
池上彰ジャーナリスト」

 「事実は「映画」より奇なり。重圧と恐怖に押しつぶされるような120分間。
浅賀佐和子Pen編集部」

 「実話なのによくできたフィクションのようで、感動もユーモアもサスペンスもある。
米崎明宏映画雑誌スクリーン・編集長」
(以上、著名人コメントより)

 この映画を見た日本の友人たちは、「凄い」「面白かった」と、一様に賞賛し、そして、「それにしても、本当に実話なんだろうか?」と、面白すぎるゆえの疑問を呈する。

 結論から言うと、「アルゴ」は娯楽映画としては実によくできているが、残念ながら、公式サイトは、誇張、誇大宣伝と呼ぶべきだろう。 

 そう判断せざるをえない点をいくつか指摘しよう。

 ①「前代未聞の『人質救出作戦』の全容を映画化」としているが、6人は人質ではない。 人質というのは大使館に捕らわれた52人を指す。 この52人の救出作戦といえば、通常は米特殊部隊による失敗した作戦のことだ。
 (これは、このサイトを作った人間だか、映画配給会社だか、宣伝会社だかの無知、不勉強、無神経さのせいかもしれない。 意図的に「人質救出作戦」としたとしたら、悪質だ)

 (以下は、CIA公式サイトに載っている主人公トニー・メンデスのモデルになったアントニオ・J・メンデス自身による作戦の一部始終と映画との比較である=https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/winter99-00/art1.html)

 ②映画では、CIA要員のトニー・メンデスが単身でテヘランに潜入するが、実際には2人で入った。

 ③映画で、メンデスはトルコ・イスタンブールのイラン領事館でビザを取得するが、実際にはドイツ・ボンのイラン大使館でビザを取得した。

 ④6人は全員、カナダ大使公邸に匿われていたことになっていたが、大使公邸と別の大使館員の家に分散して潜んでいた。

 ⑤6人は映画制作スタッフとして、テヘラン市内のバザールにロケハンに行く。そこで騒動に巻き込まれるが、からくも現場から立ち去ることができる。 だが、バザールへ行くような危険は冒していなかった。

 ⑥6人がテヘランから国外へ脱出する前夜、ホワイトハウスから急遽、作戦中止命令が出る。 予定していた大使館の人質52人の救出作戦への支障が出る恐れがあると判断されたためだ。 主人公メンデスはこの命令を無視して脱出作戦を実行する。 映画の大きな山場のひとつだ。 だが、ホワイトハウスから、こんな命令は出ていなかった。 ホワイトハウスからの中止命令があったのは事実だが、映画のようなドラマティックなタイミングではなく、メンデスがテヘランへ出発する前、しかも、その30分後には大統領カーターからOKが出た。

 ⑦ホワイトハウスからの中止命令で、主人公メンデスが作戦決行を決断すべきか迷ったために、6人が脱出するメヘラバード空港への出発が遅れ、映画の観客をハラハラさせる。 実際に多少の遅れが生じたのは事実だが、ホテルに泊まっていたメンデスが時計の目覚ましアラームを午前2時15分にセットしたが鳴らず、3時まで寝過ごしてしまったためだった。 本物のスパイは007と異なり間抜けでもある。

 ⑧映画のクライマックスは、空港に着いた6人とメンデスがイミグレーション、革命防衛隊の検問を通過し、スイス航空の機内に入り離陸するまでの息詰まるような時間との競争だ。 まず革命防衛隊が映画制作スタッフという身分に疑念を持つ。これはなんとかパスする。だが、彼らは最後の瞬間に偽装に気付く。 そして、滑走路を離陸しつつあるスイス航空機をクルマで追う。 だが、旅客機は追撃を逃れ、からくも離陸に成功、6人の脱出は見事に成功する。 
 これは全部フィクションだ。 6人はほとんど何も問題なく、空港を通過しイランを脱出するのに成功した。 不安を感じたのは、スイス航空機の出発が「メカニカル・プロブレム」で多少遅延するとアナウンスされたときだった。 フライトを変更することも検討したが、かえって目立つのではないかと当初予定を続行し、脱出成功につながった。 

 SF映画を制作するという奇抜なペテン作戦というCIAの独創性は、確かに傑作だ。 だが、実際の脱出作戦は淡々と進行し、映画のようなドラマはなかった。 現実とはそんなものだ。 
 
 「アルゴ」公式サイトの著名人コメントには、がっかりさせられる。 自分で検証もせず、映画の内容をすべて事実と信じてコメントする浅はかさ。 テレビにジャーナリストとして頻繁に登場する池上某などは、見事に馬脚を露わしてしまった。

 この映画に関する米国メディアの指摘を紹介しておこう。

 ひとつは、CIA中心のストーリーになり、CIA以上に重要な役割を演じたカナダ政府の存在を軽視しすぎているという指摘。 もうひとつは、モデルとなったアントニオ・J・メンデスは中南米系だが、映画では白人のベン・アフレックがメンデスを演じた。 これは米国社会の抜きがたい人種差別意識を反映しているという指摘。

 さらに、この映画が公開されたタイミングも言及されている。 現在、イランと米国の関係は、イランの核開発で最悪の状態にあり、米国によるイランへの軍事攻撃の可能性も否定されてはいない。 映画はイランを悪人に仕立てている。 実際のイランには現体制の批判者も多く、誰もがファナティックなわけではない。 だが、こうした映画によって、米国内の反イラン感情を煽り立てることはできる。 そこに政治的意図も見えなくはない。 

 難しいことは考えず、冒険物語と思って単純に楽しむことが、最も健全な「アルゴ」の鑑賞法かもしれない。