2009年12月31日木曜日

9日間の日本人


 家の中にたまった埃を払い落とすと、いいかげんな人生をおくるうちに自らの内面にこびりついた後ろめたさまで洗い流した気になれる大掃除。

 除夜の鐘が聞こえ始めるころ、寒さを禊と思って近所の神社に初詣する。ポケットでじゃらじゃらする1円玉、5円玉、10円玉をかき集め賽銭箱に放り込む(50円玉や100円玉は巧妙に手触りで残しておく)。そして、神社の振る舞い酒は図々しく2杯目をもらう。

 1年に1度、いいかげんであろうと我が身を清めたくなる年末年始。からだに滲みつくものは本来、穢れかもしれない。だが、「清め」という日本人のDNAが滲みついている自分を感じる期間。その期間とは、正確には、クリスマスの翌日・12月26日から正月3が日の最後・1月3日までの9日間。

 9日間の日本人。残りの356日間は、いったい何者?

2009年12月24日木曜日

電車の中の巨大モンスター


 昔々、赤子を載せる(乗せる?)手押し車は「乳母車」と呼ばれていた。 なぜ、「乳母車」と言ったのだろう。 押しているのは、たいてい母親だろうに。 ただ、「乳母」という言葉には、日本人が共同体の中で生きていた、遠く離れた時代の懐かしいかおりがする。 青っ洟をたらした赤ん坊の乳臭さだけでなく、囲炉裏でなにかが煮えるにおい、七輪の火、その上で焼かれる秋刀魚、台所から漂う糠みそ…。 赤ん坊は、母親ばかりでなく、近所のおばさんやお姉さんたちの手も借りて育っていた。

 「乳母車」の名称が「ベビーカー」という和製英語に変わって久しい。 それにつれ、母親たちは、単に母親であるだけでなく、女であることの自覚を強めてきた。 きっと、それは良いことなのだ。 女であることばかりでなく、一個人として社会で、男と対等にわたりあう姿も、今では珍しくない。新しい女の美のかたちである。

 今、ベビーカーを押す若い母親たちははつらつとしている。 着ているファッションもセクシーで攻撃的ですらある。 まるで、子連れでナンパしているのではないかと疑いたくなる魅力的すぎるオンナだっている。 何をしようがアタシの勝手と主張している。

 こういうオンナが近ごろ、巨大化、モンスター化したベビーカーを押して、混んだ電車に突入してくる。 なぜ、あんなに大きくなったのだろう。電車の中では、1台で立っている乗客6,7人分のスペースを取る。 ほんの一昔前の母親は、小さくてきゃしゃなベビーカーを雨傘2,3本分のサイズに折りたたんで赤ん坊を重そうに抱きかかえていた。 乗客はその姿を見て座席を譲ったものだ。

 ごく最近、巨大モンスターの中でも最たるものが目に付くようになった。 「jogging stroller」という米国生まれの”乳母車”だ(写真参考)。 「stroller」(ストローラー)とは、和製ではなく米製英語の「乳母車」。 ジョギング・ストローラーとは、文字通り、赤ん坊を載せてジョギングするためのもので、車輪が大きくスピードがでる。 その分、安全性を高めるために頑丈にできている。 このため、とにかくデカイ。 米国の広々とした公園で使用するには、実によくできたマシンだと思う。 多摩川土手のサイクリング・コースで、外国人がこれを押してジョギングしているのを何度か見たことがある。

 おそらく、セクシー・ママたちはファッションと勘違いして、ジョギングではなく電車のおでかけ用に、巨大モンスターを使っているのだ。

 えらい迷惑だ。 だが、そのことは言わない。 言いたいことは、あの巨大モンスターを電車に運び込んでいいなら、自転車の持ち込みも認めるべきだという点だ。 現在の規則では、折りたたんだり、分解して小さくするだけでは認められない。さらに、それをバッグなどでカバーしないと改札口を通してもらえないのだ。

 心優しいサイクリストたちよ。 ベビーカーの後塵を拝していていいのか。 ママたちは、あっという間にモンスター持ち込みの既成事実化に成功してしまった。 見事と言うしかない。 君たちも、あの戦術を採用すべきではなかったのだろうか。

2009年11月26日木曜日

2012年地球は滅亡する!?

 日本で西暦2012年と言えば、団塊世代が60歳になって定年退職を迎えた2007年に続いて、退職年齢が5年延長され、まだ働いていた残りの人々が65歳になって、どっと退職する年だ。そのとき何が起きるのか。これが2012年問題だ。

 だが、この年、地球が滅亡するという説が、ネットを通じて、まことしやかに世界中に流れている。そうなれば、65歳まで仕事を続ける働き者に退職後の楽しみは存在しない。

 近く公開されるアメリカ映画の悪ノリ宣伝を含めて、この地球滅亡説を面白がって言いふらしているのがいる一方、まともに信じて残り3年間に全財産を使い尽くす算段をしているやからもいるそうだ。

 信じるもいい、信じないのもいい。ただ、アメリカのNASAは、2012年地球滅亡説を頭から否定している。
 以下、NASAのホームページから。
2012: Beginning of the End or Why the World Won't End?
11.06.09
Scenes from the upcoming film 2012. Courtesy Columbia Pictures.
              (Scenes from the motion picture "2012." Courtesy Columbia Pictures)


Remember the Y2K scare? It came and went without much of a whimper because of adequate planning and analysis of the situation. Impressive movie special effects aside, Dec. 21, 2012, won't be the end of the world as we know. It will, however, be another winter solstice.

Much like Y2K, 2012 has been analyzed and the science of the end of the Earth thoroughly studied. Contrary to some of the common beliefs out there, the science behind the end of the world quickly unravels when pinned down to the 2012 timeline. Below, NASA Scientists answer several questions that we're frequently asked regarding 2012.

Question (Q): Are there any threats to the Earth in 2012? Many Internet websites say the world will end in December 2012.
Answer (A): Nothing bad will happen to the Earth in 2012. Our planet has been getting along just fine for more than 4 billion years, and credible scientists worldwide know of no threat associated with 2012.

Q: What is the origin of the prediction that the world will end in 2012?
A: The story started with claims that Nibiru, a supposed planet discovered by the Sumerians, is headed toward Earth. This catastrophe was initially predicted for May 2003, but when nothing happened the doomsday date was moved forward to December 2012. Then these two fables were linked to the end of one of the cycles in the ancient Mayan calendar at the winter solstice in 2012 -- hence the predicted doomsday date of December 21, 2012.

Q: Does the Mayan calendar end in December 2012?
A: Just as the calendar you have on your kitchen wall does not cease to exist after December 31, the Mayan calendar does not cease to exist on December 21, 2012. This date is the end of the Mayan long-count period but then -- just as your calendar begins again on January 1 -- another long-count period begins for the Mayan calendar.

Q: Could a phenomena occur where planets align in a way that impacts Earth?
A: There are no planetary alignments in the next few decades, Earth will not cross the galactic plane in 2012, and even if these alignments were to occur, their effects on the Earth would be negligible. Each December the Earth and sun align with the approximate center of the Milky Way Galaxy but that is an annual event of no consequence.

"There apparently is a great deal of interest in celestial bodies, and their locations and trajectories at the end of the calendar year 2012. Now, I for one love a good book or movie as much as the next guy. But the stuff flying around through cyberspace, TV and the movies is not based on science. There is even a fake NASA news release out there..."
- Don Yeomans, NASA senior research scientist

Q: Is there a planet or brown dwarf called Nibiru or Planet X or Eris that is approaching the Earth and threatening our planet with widespread destruction?
A: Nibiru and other stories about wayward planets are an Internet hoax. There is no factual basis for these claims. If Nibiru or Planet X were real and headed for an encounter with the Earth in 2012, astronomers would have been tracking it for at least the past decade, and it would be visible by now to the naked eye. Obviously, it does not exist. Eris is real, but it is a dwarf planet similar to Pluto that will remain in the outer solar system; the closest it can come to Earth is about 4 billion miles.

Q: What is the polar shift theory? Is it true that the earth’s crust does a 180-degree rotation around the core in a matter of days if not hours?
A: A reversal in the rotation of Earth is impossible. There are slow movements of the continents (for example Antarctica was near the equator hundreds of millions of years ago), but that is irrelevant to claims of reversal of the rotational poles. However, many of the disaster websites pull a bait-and-shift to fool people. They claim a relationship between the rotation and the magnetic polarity of Earth, which does change irregularly, with a magnetic reversal taking place every 400,000 years on average. As far as we know, such a magnetic reversal doesn’t cause any harm to life on Earth. A magnetic reversal is very unlikely to happen in the next few millennia, anyway.

The Blue Marble: Next Generation
 Earth, as seen in the Blue Marble: Next Generation collection of images, showing the color of the planet's surface in high resolution. This image shows South America from September 2004.

Q: Is the Earth in danger of being hit by a meteor in 2012?
A: The Earth has always been subject to impacts by comets and asteroids, although big hits are very rare. The last big impact was 65 million years ago, and that led to the extinction of the dinosaurs. Today NASA astronomers are carrying out a survey called the Spaceguard Survey to find any large near-Earth asteroids long before they hit. We have already determined that there are no threatening asteroids as large as the one that killed the dinosaurs. All this work is done openly with the discoveries posted every day on the NASA NEO Program Office website, so you can see for yourself that nothing is predicted to hit in 2012.

Q: How do NASA scientists feel about claims of pending doomsday?
A: For any claims of disaster or dramatic changes in 2012, where is the science? Where is the evidence? There is none, and for all the fictional assertions, whether they are made in books, movies, documentaries or over the Internet, we cannot change that simple fact. There is no credible evidence for any of the assertions made in support of unusual events taking place in December 2012.

Q: Is there a danger from giant solar storms predicted for 2012?
A: Solar activity has a regular cycle, with peaks approximately every 11 years. Near these activity peaks, solar flares can cause some interruption of satellite communications, although engineers are learning how to build electronics that are protected against most solar storms. But there is no special risk associated with 2012. The next solar maximum will occur in the 2012-2014 time frame and is predicted to be an average solar cycle, no different than previous cycles throughout history.

Addition information concerning 2012 is available on the Web, at:

2009年11月23日月曜日

高層マンションの幸せ


 黒いスーツをきちんと着た男が、大きな箱を載せたカートを押しながら、マンションの玄関から出て行った。

 その後ろから、くたびれたラクダ色のカーディガン、膝の抜けた茶色いコーデュロイのズボンの中年男が、ぼさぼさの髪で、サンダルを履いてついていく。 同じような年頃、しわだらけのスカート、憔悴した表情の女が寄り添っていた。

 箱は、おもてに停めてあったワゴン車に移され、スーツの男が深々とお辞儀をし車を運転して去っていった。

 そのとき、やっと気が付いた。 人が死んだのだ。

 葬儀屋が遺体を引き取り、家族と思われる夫婦が見送っていたのだ。 どんよりと曇った寒い晩秋の午後の光景。

 東京の大規模マンションの住民は、自分の頭の上の階で人が生まれても死んでも気付かない。マンションの入り口には「忌中」の張り紙もなく、葬儀はどこか遠くの”セレモニーホール”で行われる。

 われわれ都会人は、「希薄な人間関係」という幸せを数千万円かけて手に入れているのだ。

2009年11月5日木曜日

冬が秋を襲う



 北の国では、冬が秋に襲いかかるようにやって来る。

 10月31日夜、北海道の大雪山系のふところに位置する層雲峡。風雪が紅葉の名残りがある山々の秋にとどめを刺すように襲来した。瞬く間に秋は死に、冬が世界を支配し真っ白になった。

 こんな劇的な季節の変化を見たことはない。季節は、たった一晩で交代するのだ。

 夏の入道雲と冬の霜柱が稀になった東京では、退屈きわまりない都会生活のように季節はだらだらとうつろうだけだ。

 東京から層雲峡温泉4泊5日飛行機代込み1日3食付き¥29,800。 うそのようなバカ安ツアーで遭遇した儲けモノの大自然のドラマ。都会人には非日常が日常の北の国。

 だが、秋が終わろうとしていたとき、この土地で、都会人も負けずにドラマを作っていた。

 層雲峡から大雪山系の黒岳頂上へはロープウエイとリフトを乗り継いで容易に登ることができる。山歩きには心もとない靴を履いた観光客には長靴を貸す親切なサービスもある。

 9月下旬、夕方、ロープウエイを止める時間になっても、男物のビジネスシューズが1足残っていた。長靴を借りて登った男が1人帰っていないことを意味する。ロープウエイの従業員たちが急きょ、周辺の山道を探したがみつからず、翌朝あらためて捜索を開始した。

 まもなく男は発見された。憔悴し、リフト乗り場に向かって降りてくるところだった。

 事情をきくと、クマに出あって殺されるのではないかと怖くなって戻ってきたという。この時期、クマは冬眠に備え活発に動いているから、地元の人たちはありうることだと思った。だが、山に登った理由をきいて呆れた。

 自殺しようと思ったが、クマに殺されるのはいやだったというのだ。自殺者はどんな死に方でもいいというわけではないらしい。

 男は死にそこなった。いや、クマが男の命を助けたのかもしれない。

 これが、層雲峡で、この秋一番の話題になった。

2009年10月9日金曜日

日本は南北朝鮮統一を支持しているのか?


 1990年代に日本で翻訳出版された韓国の近未来小説「北朝鮮崩壊」(鄭乙炳著・文芸春秋社)は、北朝鮮のクーデターで金正日独裁体制が倒れ、南との経済協力で破綻国家を建て直そうとする柔軟な思考の一派が実権を握る結末になっている。北朝鮮国内の混乱もなく、いわばハッピーエンドの小説といえる。

 敵対する南北朝鮮だが、将来の国家目標は、形態は異なるにせよ南北統一である点では同じだ。そして、南の韓国が思い描く統一の前提となる理想的状態が、おそらく、この小説の結末であろう。

 韓国大統領・李明博が9月の国連総会出席のため、ニューヨークを訪問した。この機会に開かれた外交フォーラム(9月21日)で、李明博は「北朝鮮経済が良くなってこそ、統一を考えることができる」と述べた(9月24日付け読売新聞)。

 李明博は「南北統一の大前提は、北の経済発展である」とする韓国の国家戦略を明言したのだ。

 北の政治体制には言及していないが、抑圧的独裁を望んでいるわけはない。小説「北朝鮮崩壊」のように、穏健な体制の登場を期待しているに決まっている。

 穏健な政治体制のもとで経済発展を成し遂げた北との統一。この理想実現のために何を為すべきか。

 韓国という国家の行動原理はここに集約されている。

 現在、見事な経済発展を遂げた韓国と経済が破綻したも同然の北朝鮮では、その所得の差は比べようもない。

 今年8月27日付け聨合ニュースは、韓国租税研究所による分析結果を報じた。それによると、1990年代初めの段階では、韓国の1人当たり所得は北朝鮮の6~8倍だったが、2007年段階では17倍に広がった。

 これに基づいて、現時点で統一し、韓国側の国民基礎生活保障制度、つまり低所得者援助などが適用されれば、ほとんどの北朝鮮住民が対象となると推計する。そのための莫大な財政支出は、北朝鮮国内総生産の300%に達するとしている。

 数年前に米国のランド研究所が米政府の依頼でまとめ公表した報告書は、南北統一の費用を具体的数字で示している。


 同研究所は「統一費用」を「統一から4年~5年内に北朝鮮の国内総生産(GDP)を2倍に増大させるための費用」と定義し、現在の北朝鮮の経済規模を、韓国の25~27分の1と推定、統一後の制度改革、軍縮など、数多くの要素をまとめて分析した。その結果、少なくとも500億ドル(03年米ドル基準)から最大6700億ドルがかかると予測した。

 報告書はまた、南北朝鮮の経済格差が東西ドイツよりはるかに大きく、人口でも東ドイツが西ドイツの4分の1だったのに対し、北朝鮮は韓国の半分、このため統一費用はドイツの場合よりはるかに大きくなるとみている。

 つまり、現時点での統一は、巨大な経済負担のほとんどを韓国が背負うことになり、その重みで韓国自体が押し潰されかねないということだ。統一による混乱は、北朝鮮の経済が発展すればするほど穏やかに押さえることができる。

 金正日体制の突然の崩壊、新たな権力の奪取を目指す様々な集団の衝突、混乱から逃れて隣接する韓国や中国、ロシア、あるいは日本にまで津波のように押し寄せる難民の群れ。

 この最悪事態を回避するには、当面は、顔をそむけたくなるような醜悪そのものの金正日を支える以外に、選択肢があまり見当たらない。腹立たしくても、これが現実だ。

 そして、支えながら変革の方向へと仕向けていく。

 南北朝鮮の様々な会議、米朝の直接接触、核問題をめぐる6か国協議、中朝政府関係者の往来etc。利害関係国は、北朝鮮と接触する場をとらえ、長期戦略目標の実現を目に見えないアジェンダにしている。

 そのテーブルで北朝鮮に対して切れるカードをどう使うか。

 このゲームへの非常に奇妙な参加者は日本だ。日本の手持ちカードをみんなが知っている。切り札が1枚もないのも知っている。これではゲームにならないが、テーブルに座っている。

 日本は拉致問題が解決しなければ、北朝鮮に対し何もしないと主張して自らの手足を縛ってしまっている。それによって、北朝鮮に対する長期戦略も描けなくなった。日本は北朝鮮をどうしたいのか。それがまったく見えない。

 日本は、金正日体制は直ちに打倒したいのか、北の変革を推進することに貢献したいのか、南北統一を実現したいのか、東アジアの秩序をどうしたいのか。

 だが、解釈のしようによっては、拉致問題を思考停止の口実にしていると勘ぐることもできる。

 世界的金融グループ「ゴールドマンサックス」は最近、南北統一朝鮮が実現すれば、2050年には、国内総生産(GDP)がフランス、ドイツ、日本などの現経済大国を上回る可能性があるとの報告書を明らかにした。従来からある悲観的な統一未来像とは、かなり趣きを異にしている。

 それによると、統一が実現すれば、ドル換算GDPが30~40年後、米国を除いたG7と同じ水準か、それ以上になりうるとし、2050年の実質GDPは6兆560億ドルで、昨年の韓国GDP(8630億ドル)の7倍に達する。

その要因として、北朝鮮の成長潜在力が南韓の技術・資金力と結合するシナジー効果、北朝鮮の豊かな人的資源と大規模な鉱物資源などを挙げている。

 非常に楽観的な未来予測のようにも見える。だが、もし、この通りになれば、日本は、スポーツだけでなく国力でも、中国と統一朝鮮の下に埋没してまう。古代東アジア地政図の再来にも思える。

 21世紀は、日本没落の暗い時代だと予感させるではないか。

 だから、日本は、朝鮮の復興となる南北統一の実現を快く思っておらず、実は、拉致問題にしがみつくのも、統一を少しでも遅らせようとする戦術かもしれない。

 あまりに稚拙な日本の対北朝鮮外交戦術をみていると、何か裏があるのではないかと探りたくなる。

 探っても、何もない空っぽだったら、寂しくもあるのだが…。

2009年10月6日火曜日

トキが放鳥された


 西暦29xx年、人口減少で絶滅危惧種に指定されていた日本人最後の1人が死亡し、ついに、日本列島から日本人が完全に消滅した。

 そこで、絶滅危惧人種の復活を手がけてきた「ヒト保護センター」は、世界各地にわずかに残っているとみられる純血種日本人探しを開始した。

 その結果、生殖能力のある男女20人をやっと発見し、東京の「保護センター」に収容した。生活意欲を喪失していた彼らに、日本人再生のための性教育から職業訓練に至るまで、様々なプログラムを用意した。

 センターでの全課程を修了し、人種のるつぼと化した日本列島の実社会に復帰したとき、彼ら同士で恋をし結婚し、新たな日本人の生命が誕生するよう綿密に組まれたプロジェクトである。

 そして、最後の日、20人は、期待に胸をふくらませるセンター職員たちへ向かって元気に手を振り、笑顔で街へ出て行った。

 だが街角を曲がって、センターが見えなくなると、20人の表情から、すっと笑顔が消え、互いに挨拶もせずバラバラの方向へ散っていった。

 誰もがぶつぶつ言っていた。「あいつらといるのは、もうウンザリだ」、「アタシのタイプの男は1人もいないじゃないの」云々…。

2009年10月2日金曜日

今度はパダンで地震!!


 南太平洋サモアに続いて、9月30日、今度はインドネシア・スマトラ島のパダンで大地震が起きた。まるで地球が壊れてしまったみたいだ。

 パダンと言えば、文化人類学的にはミナンカバウ人の伝統的母系社会が知られている。そして、何よりも「パダン料理」が有名だ。インドネシア料理を代表する一つで、アメリカ大陸より広い5000キロ以上に及ぶ群島国家のどこに行っても食べられる。村の小さな食堂から外国人観光客向けの高級レストランまで様々だが、味の違いは料金の違いほどないと思う。

 客が座るや否や、テーブルにところ狭しと料理の載った小皿が並べられ、さらには、ピラミッド状に積み重ねられる。肉や魚など香辛料を効かせて調理したものがほとんど。客の好みなど訊かない。まるで押し売りのように目の前に、有無を言わせず出す。

 だが、心配することはない。客は食べた分だけ払えばいいのだ。日本の回転すしのシステムに似ているかもしれない。いや、もっと合理的だ。例えば、1枚の小皿の魚2尾のうち1尾だけ取れば料金は1尾分だけ。回転すし屋で、皿に載った2貫のにぎりのうち1貫だけ取るというわけにはいかない。

 パダンで地震と聞いたとき、真っ先に思い浮かんだイメージは、積み重ねられたパダン料理の沢山の小皿が飛び散る光景だった。

 ミナンカバウの人々は、インドネシアで特異な存在かもしれない。人口の60%を占める支配民族ジャワ人の文化は、白黒を明確にしない。曖昧さを大切にする。イエス、ノーをはっきり表明せず、相手の気持を読む、以心伝心、阿吽の呼吸といったものを大切にする。日本文化に共通するもののようにも思える。

 これに対し、ミナンカバウ人は歯切れがいい。物事を明瞭に表現する。反骨精神も強い。外国人には話していて理解しやすい人々だ。インドネシアの作家、ジャーナリスト、詩人にミナンカバウ人が多いのは、なんとなく納得できる。ようするに、歯ごたえがあって、面白いヤツが多いのだ。

 今すぐ彼らを助けに行きたい、などと偽善的なことは言わない。彼らとパダン料理を食べながら、バカ話をしたくなった。

2009年9月30日水曜日

「サモア津波」の報じられ方


 南太平洋のサモア諸島沖で日本時間9月30日午前2時48分、M8.0という強い地震が起き、サモアを襲った津波で100人が死亡した恐れがあると報じられた。

 この日の読売新聞夕刊が1面トップでこのニュースを伝えたのを見て、ほんの少し時代が変わってきたのかな、と思った。

 日本の新聞は伝統的に、人の命の値段で一番高いのは日本人と設定し、続いて米国や欧州の先進国の人々、そのあとに発展途上国、経済発展が遅れている国ほど命は安くなる。

 どこかの国で大災害があれば、真っ先に注目するのは日本人犠牲者だ。さらに、例えば、米国のカリフォルニアで山火事が起き10人も死ねば大ニュースとして報じるが、バングラデシュのサイクロンで1000人死んでも、日本人が関わっていなければ社会面の片隅に置かれればいい方で、ニュースとして無視されることだってある。

 欧米を崇拝し、非欧米の第3世界を卑下するという「近代化日本」のメンタリティは報道にも反映していた。

 だが、サモア津波の報じ方は、日本の新聞の伝統的ニュース価値判断尺度には適合しなかった。①日本人犠牲者がいない②”遅れた国”の出来事で、死者は”たったの100人”―これだけで、大きなニュースにならない条件が整ったはずだ。

 なぜ変化が起きているのか。

 おそらく、日本人および日本社会、それを取り巻く環境の変化を反映しているのだろう。

 かつての東南アジア観光は、スケベ男たちの買春ツアーで占められていたのに、今では「アジア趣味」を満たそうとする若い女たちが殺到している。「エスニック料理」は日本の辺鄙な温泉街にまで進出している。団塊世代以上の年齢の日本人なら、ガイジン=白人、白人=アメリカ人という予断と偏見がしみついていたはずだ。だが、今では、様々な人種の人間が街を歩いている。職場の同僚がインド人でも、誰もビックリしなくなった。

 グローバル化は、人と人との垣根を取り払い、日本人の悪しき偏見をも薄めているように思える。これは良いことだと思う。

 とは言え、NHKのニュースは朝から、サモア地震による日本への津波到来の可能性ばかりを繰り返していた。無論、危険性はほとんどないにしても警戒は必要だが、多数の犠牲者が出たサモアの様子そのものを伝えるニュースは昼近くまで皆無だった。

 同じころ、オーストラリアのABCテレビのウェブページを開くと、サモア取材の経験があるGillian Bradford という女記者がこんなコメントを載せていた。

 We hear so much in Australia about early warning systems and the lessons learnt from the Asian Boxing Day tsunami.But how do we spread this technology to some of the most isolated spots on the globe where a phone or a television is considered a luxury?There are so many islands in the Pacific that may have been touched.
 <電話やテレビすら贅沢品の太平洋の島々に、津波の早期警戒システムなどというテクノロジーをどうやって普及させるというのだ>

 ジャーナリズムとしての人間への関心の深さが違う。読売新聞もNHKも、この津波をサモア人の目線で捉えようとするところまでは至っていない。

(写真は、サモアの”普通の波”)

2009年9月17日木曜日

民主党政権の誕生


 9月16日、民主党政権が正式に発足した。この歴史的な日をテレビは1日中、ニュースと特集で伝えていた。だが、世間の普通の人たちは、とくに興奮している様子もなく、まだ強い日差しの残る初秋の日は淡々と過ぎていった。

 前日の読売新聞夕刊に出ていた記事「特派員が見た『日本のチェンジ』」に登場したAFP通信東京特派員パトリス・ノボトニーの感想は、まさに、この点に触れていて興味を引いた。

 「衆院選で大勝した時、民主党の幹部たちが見せた笑顔は、すぐに思い出せないほど印象が薄い。国民も冷静で、(オバマ・フィーバーが起きた)米国のように、数万人の支持者が夜通し勝利を祝うような光景に出会うことはなかった。母国フランスでも1995年、社会党から政権を奪還したシラク大統領の支持者が、パリでの勝利宣言を歓喜の渦で迎えた姿が今も記憶に刻まれている。なぜ日本人はお祭り騒ぎにならないのか」

 フランス人記者の疑問には、色々な答えが可能だろうが、お祭り騒ぎにならなかったのは、決して日本的慎み深さのためではなかったとは断言できるだろう。

 今回の総選挙が、55年体制と呼ばれる自民党長期支配を終焉させる歴史を作ったのは事実だ。だが、それは国民が幸福感を共有するような出来事ではなかった。そういう興奮で言えば、民主党政権発足2日前にイチローが達成した大リーグ9年連続200本安打の新記録の方が、はるかに国民の共感を呼び起こした。

 1986年2月、フィリピンのマルコス独裁政権が崩壊した直後の首都マニラの雰囲気を思い出す。人々は解放感に浸り、誰もが愛国者になったように見えた。レストランやバーでは見知らぬ客同士がフィリピン国歌を唱和し、乾杯を繰り返していた。あの幸福感、euphoriaは、敢えて例えれば、阪神タイガーズが優勝した夜(何年前のことか知らないが)の道頓堀みたいなものかもしれない。

 フランス人記者がそれを期待したのだとしたら、日本の今の政治的、社会的雰囲気を読み違えていたのであって、東京特派員失格と言えなくもない。

 今回の選挙は、長期政権の打倒ではあったが、マルコスやスハルト、あるいはサダム・フセインといった独裁者の追放や革命ではなかった。とは言え、ノボトニーが言うように、日本人は確かに、選挙結果に本当に静かだった。実際のところ、街に繰り出して祝いたいなどとたいていの人は思いもしなかったろう。

 なぜだろう。

 おそらく、起きるのが遅すぎた出来事だったからだ。冷戦時代を支えた古臭い支配体制が、日本では冷戦が終わってから30年も続いた。他の国では様々な変化や変革が起きたのに、日本では鼻をつまみたくなるような強烈な加齢臭をまき散らす醜悪な老人たちとその子飼いたちがずっと居座っていた。

 今、日本人たちは、ほっとしているというところだと思う。やっと終わったと。

 1988年7月18日、イラン政府はイラクとの戦争終結を求める国連安保理決議598号を受諾すると発表した。これによって、8年にわたる不毛な殺し合い、イラン・イラク戦争がやっと終わった。双方が消耗し尽くし、誰もがうんざりしていた。

 その夜、テヘランではこの季節には珍しい雨が降った。街を歩いてみたが、終戦を喜ぶ市民の姿はなく、人気はほとんどなかった。老婆がひとり、ぶつぶつ言いながら歩いていた。

 「ジャンギ タマムショッ」「ジャンギ タマムショッ」

 「戦争が終わった」「戦争が終わった」と繰り返し、呟いていたのだ。それが喜びの声だとは到底思えなかった。空しく過ぎ去った日々と死んだ100万人の若者に涙しているように聞こえた。

 今度の日本の選挙結果とイラン・イラク戦争の終結を並べるのは、いくらなんでも…とは思う。

2009年9月14日月曜日

時空瞬間移動の旅


 フィリピンのセブ島に行ってきた。

 日本から外国を訪れる場合、東京からであれば、成田か羽田で飛行機に乗り、ある国の首都あるいは首都に準ずる大都市近郊にある空港に降り立つ。空港からは、タクシー、バス、鉄道などの交通機関を利用して市内に入り、ホテルにチェックインする。

 その後の旅行は大抵、到着した大都市が拠点となる。交通の流れがそうなっている。とりあえず大都市に到着すれば、まあまあ快適なベッド、そこそこの食事は保証されるし、旅行のための情報収集、交通手段の確保も容易だ。無駄のない合理的な旅行計画が立てられるというものだ。

 それはそれで良いのだが、初めての国の短期訪問、なおかつ大都市だけとなると、往々にして、その国の素顔や実像を見る機会を逸してしまう。「そんなこたあ、どうでもええ」とばかりに、どこの国に行っても日本食レストランでしか食事をしないようなヤカラには、まさに、どうでもいいことだ。だが、人間というものに関心のあるデリカシーを持ち合わせる人々には、物足りない旅になってしまう。

 とくに、発展途上国は大都会の表通りだけでは見られない様々な顔、想像もできないような面を隠し持っている。

 それは、近代化=西欧化が届いていない伝統社会の文化や風習だったり、とんでもない貧富の格差だったりする。目をそむけたくなるような惨めな極貧生活がある一方で、竜宮城のような大邸宅に住む富豪の贅沢三昧生活も存在するのだ。

 だが、貧しいとされる途上国の玄関口である空港からタクシーに乗ってホテルに向かうハイウェイの車窓から、汚れた貧民街の光景などほとんど見えない。観光で外貨を稼ぎたい国の当局者たちは、姑息にもハイウエイ沿いに塀を作って貧民街が外国人の目に入らないようにするのだ。

 ’そんなことはない、空港からタクシーに乗っただけで不潔な臭いが漂ってくることもあるし、交差点で止まれば乞食や物売りにまとわりつかれることがある’という反論があるかもしれない。だが、そういう国では、目に見えない裏口は、もっと、もっとひどいのだ。

 大都会はどこの国でも、多かれ少なかれ人間関係が相対的に希薄で、強盗、引ったくり、こそ泥といった犯罪の温床になりがちだ。伝統社会の紐帯から離れてやって来た地方出身者にも、そこは外国みたいなものだ。

 日本人でも、東京はあくまでも東京で、心の中にある日本とはどこか違うと感じる人は多いと思う。

 セブ島は、日本人にすっかり馴染みになっている観光地だ。ダイビング、ショッピング、エステ、それにナイトライフも充実しているし、拳銃だとか麻薬だとかのいけないモノも比較的容易に手に入るようだ。

 セブには日本から直行便が頻繁に飛んでいる。4時間余りのフライト。

 このセブ旅行には、人の家に玄関口ではなく裏口からいきなり入るような面白さがあった。


 セブの国際空港は、本島ではなく、本島中央部の東側の小さな島・マクタン島にある。そして、セブ・リゾートと言われるビーチの多くもマクタン島にある。
 

 夜、空港からバスでマクタン島南端のリゾートホテルに向かう。このわずか30分ほどのツアーが、まるで、東南アジアの劇的な経済発展が始まる1985年以前の世界への時空瞬間移動なのだ。


 空港から出ると、バスは直ぐに、バイクにサイドカーを付けたバタバタと呼ばれる三輪車の群れに捉まり、身動きできなくなる。道路の両側は、ハロハロという小汚いミニ・ショップ、不潔そうだがうまそうな焼き鳥屋、下手くそな化粧をした女たちが顔を見せている怪しげなマッサージ屋などがぎっしり並ぶ。穴だらけの歩道を埋め尽くす暇そうな人々の顔、顔、顔。

 奇跡の発展を遂げた現在の東南アジア諸国の玄関口で、こんな光景をいきなり目の当たりにすることは、もはやない。だが、セブにはそれがあった。飾らないフィリピン人の率直さのなせる技かもしれない。東南アジアの経済発展が地方までは決して及んでいないという現実があからさまに広がっていたのだ。

 世界有数の清潔な都市・東京から4時間余りで飛びこんだ古き良き猥雑なアジア。

 翌朝、刑務所のように高い塀で外部世界から隔離されたリゾートホテルから一歩出ると、そこは、ただの貧しい村だった。痩せた犬と鶏が走り回り、ヤギの一団が狭い道をふさぐ。すれ違う村人たちが人懐こく笑いかける。人の温もりに欠けた東京との心地良い落差。塀の中の人工的リゾートではない素朴な本物のリゾート。

 それにしても、外国人にやさしいマクタン島の人々を見ていると、500年の歴史を感じてしまう。

 この島は、あのマゼランが世界一周の途上、1521年に上陸し、イスラム教徒の王ラプラプとの戦闘で死んだ土地なのだ。ラプラプは以来、フィリピン人抵抗運動の象徴になっていた。

 今、この島の人々は、日本人だろうが、韓国人だろうが、あるいはヨーロッパ人だろうが、外国人であれば誰でも大歓迎する。外国人は、かつてフィリピンを支配したスペイン人やアメリカ人、日本人のような侵略者ではありえない。訪問者をもてなすことが、彼らの生業になっている。

 近ごろは、日本でも西欧中心史観に基づいて、「マゼランがフィリピンを発見した」とは言わなくなった。「発見」ではなく「到達」と表現するようになった。だが、マゼランが「発見」し、「フィリピン」と名付けられなければ、この多島海が「フィリピン」と呼ばれることはなかったし、「フィリピン」というナショナル・アイデンティティも存在しなかったろう。

 マクタン島の人々が今、「発見」だとか「到達」にこだわっているとは思わない。現実の生活が目の前にある。

 リゾートホテルのウエイトレスは月給6000ペソ、日本円でわずか1万2000円程度だが、良い給料で「幸せ」と言って微笑んだ。

2009年8月25日火曜日

マナーを守ろう


  うちのワンちゃん、食べられちゃったのかしら? 50万円もしたのに。リードを付けとけばよかった。

2009年8月24日月曜日

まいったなあ


社会勉強になると思って、ホームレスのコンペに来たけど、ここでクラブ振るのはやべえよお!

2009年8月18日火曜日

怪物が生まれたジャマイカ



 日本で高級コーヒーの代名詞になっているブルーマウンテンは値段が高過ぎて、普通の人々が買い物をするスーパーにはほとんど置いていない。「ブルーマウンテン・ブレンド」というのはあるが、これは30%ほど混ぜたもので、これでもかなりの値段だ。

 今や、1キロ数万円もするブルーマウンテンを飲むのは世界で日本人だけだという。このコーヒーを栽培しているのは、ジャマイカの首都キングストン近郊に位置するブルーマウンテン山脈の標高800-1200メートル一帯に限られている。ここで収穫される超高級コーヒーの90%が日本に輸出されている。

 ベルリンの世界陸上男子100メートルで9・58秒という驚異の世界記録を出した怪物Usain Boltは、この山々を眺めるトラックでトレーニングを重ねていた。

 日本では「ウサイン」と発音表記されているが、正しくは「ユーセイン」だ。日本のメディアは、そろそろ訂正した方がいいと思う。

 ボルツの母国ジャマイカは、ある意味、とてもドラマティックな国だ。その民族的精神土壌があったからこそ怪物が誕生したのかもしれない。

 ジャマイカの高級リゾートホテルには、all inclusive というシステムがある。日本語にすれば「すべて込み」ということになるが、1泊2食税込みなどというものではない。食事ばかりか、バーの飲み物、テニス、ゴルフ、水上スキー、スキューバダイビング、ウインドサーフィンなど、あらゆるサービスが込みになっている。ホテルの敷地から1歩も外に出る必要がない。

 「至れり尽くせり」ではあるが、実は有料隔離収容施設でもある。この国は外を出歩くには危険すぎると思う人々をゲストにしているだ。

 実際、ジャマイカの10万人当たり殺人発生率(国連統計)34人というのは、南アフリカ、コロンビアに次ぐ世界第3位だ。治安の危険度をやや誇張する癖のある日本大使館の公表する情報を信じれば、観光に来ても町に出てはいけない。

 ギャングの抗争、麻薬密貿易の中継、マネー洗浄、日常茶飯事の強盗…。生き馬の目を抜くような無法社会を泳いでいくには、度胸とすばしこさが求められるだろう。ボルツのふてぶてしさからアウトローの臭いがするのは、社会の反映と言っては言い過ぎだろうか。

 カリブ海の小さな島国の男で世界の注目を集めたのは、ボルツだけではない。ジャマイカと言えばレゲエ、レゲエと言えば、そう、ボブ・マーリーだ。

 100メートルを41歩で疾走するボルツのBGMには、Exodusの歯切れ良いメロディとリズムがぴったりではないか。そもそも、あの走り方は、レゲエの早回しなのだ。

 ジャマイカ出身者には、他にも、とんでもない大物がいる。米国で黒人として初の国務長官になったコリン・パウエルだ。パウエルはニューヨークのハーレムで、ジャマイカ移民の子として生まれた。

 彼こそは、コロンブスが「発見」して以来のジャマイカの歴史を象徴している。西アフリカの黒人たちは、この島のサトウキビ農園で働かせる奴隷として連れてこられた。奴隷解放後は新天地を求め、宗主国・英国を経由して、世界に広がる大英帝国へ散っていった。そして、過去数10年は、主たる渡航先は米国となった。

 ジャマイカの人口は270万あまりだが、世界には祖国を離れた100万人以上のジャマイカ人が住んでいる。かつてのユダヤ人の離散=Diasporaにならって、Jamaican Diasporaと呼ばれる。

 ボルツの「9・58秒」は、こうしたディアスポラの人々をも歓喜させた。

 1988年ソウル五輪100メートルでカール・ルイスに勝ちながら薬物使用で金メダルを剥奪されたベン・ジョンソンも、カナダに移住したジャマイカ人だった。

 今、ジャマイカ人たちは、あの屈辱だけは2度と味わいたくないと思っている。
 
Jamaican in New York
http://www.youtube.com/watch?v=K05pCpxmEX4&feature=related

2009年8月16日日曜日

8月15日の桃太郎


 日本の侵略戦争が無残に終わったと天皇が発表した1945年8月15日水曜日から64年たった蒸し暑い土曜日。テレビをつけると、政府主催の全国戦没者追悼式で、政治生命が尽きようとしている不人気の総理大臣が挨拶原稿を棒読みしていた。

 午後、寝転がって、退屈きわまりない内容で放っておいた新書をなにげなく手にとった。「桃太郎と邪馬台国」(前田晴人著・講談社現代新書)。偶然開いたページを読んでみたくなったのは、8月15日のせいだろう。

 「桃太郎は無上の宝物の獲得を目的として鬼退治にでかけるわけであり、大方の読者は昔から桃太郎が鬼退治をすることは当然とみなしてこの話に接してきたであろう。いわば鬼はわれわれにとって悪辣な存在だという固定観念が根底にあり、桃太郎が鬼から宝物をせしめることには何の疑いも後ろめたさも持たなかったのだ」

 「しかし話の筋を鬼の立場からみた場合、鬼にとって桃太郎は鬼が島という彼ら独自の秩序世界の外部からの唐突なる侵略者にほかならず、桃太郎こそは彼らにとってはそれこそ鬼のような存在なのではないだろうか」

 「桃太郎の鬼退治には善と悪の両極のファクターが常につきまとっており、桃太郎は悪を懲らしめる勇敢な英雄であると同時に、悪の懲らしめという行為そのものが常に略奪と暴力の性格を帯びているという、両義性を同時に内在させた存在なのである」

 あの戦争の思想に見事に適合するおとぎ話「桃太郎」は、軍国主義日本のプロパガンダにおおいに利用された。その点を集約した文章である(芥川龍之介の小編「桃太郎」は、もっと辛辣だ)。今や物珍しくもない指摘だが、8月15日に読んだせいか、インドネシア人の友人の話をふと思い出した。

 それは、彼の母親が語ったという体験談だ。スマトラ島の田舎にインドネシアを占領した日本の兵隊が初めて姿をみせたとき、結婚前の乙女だった母親は、残酷な日本人に凌辱され殺されると思った。戸口に兵隊がやって来たときには、便壺の中に身を潜め、去るのをひたすら待ったという。

 母親にとって、まさしく日本人は「鬼のような存在」だったのだ。友人は、「お前は、それほど悪くはないなあ」と、やさしく言ってくれた。

 日本は、オランダの植民地支配からインドネシアを解放し、独立の達成に貢献したと強調する人々がいるが、それは都合の良い一面にすぎない。「桃太郎=日本の鬼退治には善と悪の両極のファクターが常につきまとっていたのだ」。

 2006年に81歳で逝ったインドネシアの大作家プラムディア・アナンタトゥールに生前会ったとき、日本政府に是非伝えてほしいことがあると語った。

 彼は1979年まで10年以上、政治犯として流刑の島ブル島に収容されていた。送り込まれた当時、この島は現代文明が届かない土地で、住民はジャングルで原始的生活を営む未開人ばかりだった。

 プラムディアはここで、偶然、ジャワの名家出身の女性に会った。未開人同様、木の皮でからだを覆っているだけの姿が不憫だった。

 聞けば、ジャカルタで、無理やり日本兵の相手をさせられているうち、日本の敗戦が確実になった。急遽インドネシアを脱出する日本兵を収容した船に強制的に乗せられたが、足手まといにされ、ブル島で何人かの女性とともに置き去りにされた。そのうちのたった一人の生き残りが彼女だった。

 日本軍はインドネシアで玩んだ女性たちを、生き残れるかどうかもわからない孤島に捨て去ってしまったのだ。まさに鬼の仕業。

 今、夏の高校野球真っ盛り。

 スポーツという擬似戦争に没頭する子どもたちよ、祖父に問うてみよ。

 本物の戦争のとき、あなたは鬼ではなかったのかと。

2009年8月11日火曜日

親日トルコで夏休みを


 夏休み。海外旅行のシーズン。自分たちが行こうとしている国はどんなところ? そんな興味と関心のひとつに「親日かどうか」というのがある。
 実にナンセンスな問いかけだと思う。親日だと何か得することがあるのだろうか。どこの国に行っても、観光客は騙され、ぼられる宿命にあるのだ。親日国でタクシーに乗れば料金をまけてくれるわけでもない。
 日本に住んでいてもわかると思う。いい奴もいれば悪い奴もいる。それが人間社会というもので、世界中同じなのだ。観光客は国賓ではない。親日もへったくれもない。
 それでも日本人は親日かどうかが、とても気になるようだ。「親日」について、代表的「親日国」とされるトルコを素材にして考えてみようか。

 *   *   *   *   *   *
 

 トルコ政府は、イスラム教の国で民主主義が最も根付いているのはトルコであると自負する。そう主張するトルコ政府が最も嫌がるのは、自国の少数民族クルド人への人権抑圧を外国人に指摘されることだ。だが、欧州の政治指導者たちは、トルコの神経を逆撫でしようが意に介さず、クルド問題をずけずけと批判する。

 トルコ駐在の日本のある特命全権大使は、欧州人とはまったく異なる思考経路の持ち主だった。日本の外務大臣がトルコを訪問し、政府首脳と会談する際、クルド問題を絶対に持ち出さないよう画策したのだ。

 「親日国」トルコの気分を害したくないというのが理由だった。人間として生きる基本的権利を否定されているクルドの悲劇への考慮など、この大使にはかけらもなかったと言っていいと思う。

 「親日国」というと、トルコの名前が必ず挙がる。このイメージを傷付けない、それだけが、この日本大使が在任中気にかけたことだった。過去のイメージを守る、つまり、何もしないことで勤務を全うしたのだ。

 だが、今や広く行き渡っているイメージ「親日トルコ」は、作られた幻想と言って、ほぼ間違いないだろう。

 作ったのは、この幻想を懸命に守っている日本外務省とその周辺の専門家たち。

 彼らが「親日トルコ」の最大の論拠にしているのは、「エルトゥールル号事件」である。

 1890年(明治23年)、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本を訪問した帰途、和歌山県沖で遭難して沈没し587人が死亡した。だが、地元・串本町住民の献身的救援活動で69人が救助された。

 「親日トルコ」論者たちは、この事件が日本ートルコ友好の礎となり、今もたいていのトルコ人が「エルトゥールル号事件」を知っているというのだ。

 この説の正否は世論調査でもすれば結果がたちどころに出るだろう。そこまで綿密に調べなくとも、経験的には非常に疑わしい。イスタンブールで身近なトルコ人たち、学歴は大学卒以上に、この事件のことを訊いて、知っているという答えに出会ったことがないからだ。

 もうひとつの論拠は、1905年(明治38年)日露戦争での日本の勝利だ。当時、オスマン帝国はロシアからの強い政治的・軍事的圧迫を受けていた。そのロシアを遠く離れた極東の国が破ってくれた。イスタンブール市民は歓喜で湧き上がったという。

 だが、トルコが日露戦争で親日になったと言うなら、当時、欧州列強の植民地だったアジア、アフリカの国のほとんどを「親日国」と呼ばねばならないだろう。

 有色人種の小さな国が白人の大国に初めて勝利した歴史的事件は、帝国主義支配の下で搾取されていた世界中の人々を驚かせ、将来への希望をもたらしたからだ。

 途上国を訪れる日本人観光客に取り入ろうとするヤカラは、「ホンダ」「トヨタ」「ソニー」など、日本を代表する有名な会社や商品名を挙げて「親日」ぶりをアピールする。日露戦争は、そういう彼らの数少ない日本知識のひとつにもなっている。

 この程度の「親日」で喜んでしまうのは、よほどウブな観光客か、単細胞の似非愛国者だろう。だが、「親日トルコ」論では「日露戦争」は欠くことのできない要素になっている。
 
 さらには、オスマン帝国崩壊のあと生まれたトルコ共和国の「建国の父」、ケマル・アタチュルクは、明治維新を手本にしたとする説を、戦前の駐トルコ日本大使が文芸春秋に書いている。これには出典も証拠も証言もなく、想像の産物としか言いようがない。

 それでも、トルコは親日ではないとは言えない。一般のトルコ人は、日本人に親近感を持って接してくれるように思える。非欧州の文化的、歴史的共通性がどこかにあるからかもしれない。

 別の視点からすると、トルコという国を考えるときの重要な要素として、国境で接するすべての隣国、歴史的に長く接している国との関係が常にぎくしゃくしていることを無視できない。

 具体的には、国境を接する7つの国ーブルガリア、ギリシャ、シリア、イラク、イラン、アルメニア、グルジアとの仲は決して良くない。なんらかの問題を抱えている。そして、オスマン帝国以来、敵として友として、複雑な感情を持たざるをえない欧州。

 トルコ人には、イスラム世界で共通する、ある種の中華思想がある。世界は陰謀が渦巻き、強いトルコの出現を拒もうとする動きに満ち溢れている、欧州がクルド人問題を突き付けるのも陰謀の一環だ、というものだ。

 この猜疑心が近隣諸国との友好関係発展を阻害しているように思える。

 その一方、遠く離れ、”陰謀”に関わっていない国に悪感情は湧かない。それが、まさに日本だ。しかも、東洋の礼節をもってトルコに接し、人権問題を露骨に突き付けることなどしない。観光客はおとなしく、しかもカネをたくさん落していってくれる。嫌う理由などあるわけがない。

 かくて、イスタンブールの観光名所ブルーモスク周辺の客引きたちは、日本の女の子たちに精一杯やさしく接し、巻き上げられるものは何でも、カネでもからだでも巻き上げてしまう。そこには、小さいながらも”民間外交”による確固たる「親日コミュニティ」ができあがっていると言えなくもない。
 

2009年8月7日金曜日

とりあえずビール


 「『とりあえずビール』という言葉は、弊社から発信したものではございませんので、残念ながら私どもではわかりかねます」


 「『とりあえずビール』に関しまして、弊社では、残念ながら知見を持ち合わせておりません。折角お問い合わせをいただきましたのに、お役に立てず申し訳ございません」


 「一般的にビールの泡のもとになります炭酸ガスは、消化促進作用があり、胃腸の働きを活発にし、胃酸の分泌を促すものではございますので、はじめにお召しあがりいただく飲み物としてお選びいただくお客様が多くいらっしゃることも考えられますが、弊社で意図的に作った言葉ではございません。したがいまして、誠に恐れ入りますが弊社ではわかりかねます」


 「お調べを致しましたが、あいにく資料が無く分かりませんでした。おそらく、戦後、ビールが贅沢品から一般的なお酒として親しまれるにつれて発生した習慣と考えられます。ご期待にそうお答が出来ずに申し訳ございません」

      *   *   *   *
 
 酔っ払ったときの愚にもつかない会話で、「とりあえずビール」という習慣が話題にのぼった。飲み会の顔ぶれが揃うと、誰かが「とりあえずビールでいいかな?」と全員に声をかける。このことだ。

 飲み屋によっては、「お得な『とりあえずビールセット』」なんてメニューがあって、中ナマと枝豆と何かがセットになっている。

 で、話題とは、この習慣の起源はなんだ、いつから始まったのだ、俺は最初から焼酎だから関係ねえ、だいたい押し付けがましいのが気に入らねえ、云々。

 おそらく日本だけの習慣だろうが、日本全国、津々浦々、あらゆる酒場で連日連夜、男たちや女たちが「とりあえずビール」から始まる悲喜こもごものドラマを展開している。

 われわれ4人は、最初からチューハイ、冷酒、芋焼酎のロック、芋焼酎のお湯割りとばらばらで、そもそも、みんな一緒はいやだというひねくれ者揃いだから、「とりあえずビール」など他人事でしかない。とはいえ、この習慣の事始めがわからないのは、落ち着かない。

 そういうわけで、そんなことは俺が調べてやると、日本の主要ビール会社にメールで問い合わせてみた。冒頭に紹介したのが、その答えである。どの社も、問い合わせの答えをもらう条件に、一部または全部の引用をしないこととしている。したがって、ここでは回答の会社名は挙げていない。

 だが、ご覧のように、どの社の回答にも引用すべき中身はかけらもない。「そんなこと考えたこともないし、調べたこともないし、関心もない」というのを勿体ぶって遠回しに説明しただけだ。

 「弊社から発信したものではございませんので」、「弊社で意図的に作った言葉ではございません」という「わからない理由」説明には、なにか責任逃れの臭いまで感じさせるが、なぜだろう。担当者は消費者の方を向かず、上司の顔色を窺うのに汲々としているのかもしれない。

 ただ、おかげで、文化への関心が欠如した日本のビール会社の知性は透けて見えた。このレベルからすると、「Guinness」というビール会社は本当にすごい。まあ、日本のビールの味も悪くはないんだが…。

2009年8月4日火曜日

清潔信仰

 アジア、中東、アフリカなどの第3世界に、のべ14年も生活したMが病気に罹ったという話をきいたことがない。

 インドネシア・スラウェシ島の山奥で、住民の80%がマラリア患者という集落に一晩泊まったときは、蚊がブンブン飛んでいて、さすがに観念したという。だが、Mは無事だった。

 パキスタンのイスラマバードで、日本人2人とともに小さな食堂に入り、チキン・マサラを食べたあと、2人は下痢をしパラチフスに罹ったが、Mだけはなんともなかった。

 バンコクでは、名物だが外国人が口にするのを怖がる生ガキが好物だ。どこの国でも必ず生水を口にし、病気を覚悟で、その国の味を試すとうそぶく。

 単なる無謀な蛮行を続けているだけで、Mはやがて大病で野垂れ死にするかもしれない。それはそれでいい。まさに自己責任なのだから。

 彼の生活ぶりは、潔癖症の日本人の対極にある。それゆえに、なにか示唆的である。

 外国人の感覚では汚れに対する病的とも言える日本人の恐怖感は、日本文化の一部であろう。とくに日本的清潔さと縁のない異文化の世界に日本人が置かれると身の回りのすべてが汚れているという強迫観念にとらわれることがある。

 誰もというわけではないが、皮肉なことに、そういう人にかぎってストレスで下痢を引き起こし病気になる。いつもは、ミネラルウォーターで、レタスを洗い、歯磨きのあとのうがいをし、氷を作っている。それなのに、なぜ? その疑問は、たいてい、自分が住んでいる国への嫌悪感へと転化する。

 こうして、第3世界の国々に駐在する企業の奥様方の多くが、その国を嫌いになり帰国するときは逃げるように出国する。

 8月3日の読売新聞に奇妙な社説が掲載されていた。「海外の感染症にかからぬよう十分に注意しよう」と呼びかける社説とも言えない社説だ。

 おそらく、夏休みの海外旅行シーズンに合わせた注意喚起なのだろう。食べ物・飲み水に気を付け、虫に刺されないようにしようと注意事項を挙げている。読者を、遠足に行く前の小学生程度に見下している態度が見え隠れしていると言えなくもない。

 それはいいとして、この注意喚起が想定もしていないのは、「病気になりたくないなら汚いものを恐れるな」という重要な点だ。

 Mのような乱暴をすることはない。普段の生活でも、床に落としたお菓子くらいは拾って食べる習慣が汚れにたいする精神的強靭さを養う。肉体的にも多少の汚れに負けない免疫力を向上させることができると言う医師もいる。

 日本の神道とは、「清潔信仰」だと思う。穢れを清める行為が重要な要素になっている。古代から日本人は清潔さを尊んでいたという。戦国時代に日本にやって来た西欧人は、女性の性的奔放さとともに、実に清潔に維持管理された家屋に驚いたという。(性的奔放さと清潔信仰の関連性は知らない)

 だから、「汚いものを恐れるな」と日本人に言えば、日本文化への挑戦、悪意に取られれば、日本文化の破壊者とみられるかもしれない。

 だが、汚れに満ちた地球村で、日本人だけ無菌状態の隔離を維持することは不可能だ。新型インフルエンザのパンデミックがせまっている。ウィルスから逃げ回っているだけでは、西暦3000年までには人口減少で消え失せるとされる絶滅危惧種「日本人」は、その前にストレスでへとへとになってしまうだろう。

2009年8月3日月曜日

コラソン・アキノの23年間


 8月1日、コラソン・アキノが死んだ。
 そう、あれから23年もたったのだ。新聞の死亡記事に添えられた写真の彼女は、すっかり老けてしまっていた。76歳というのだから、年相応ではあるのだが。

 フィリピンという国に馴染んでいる人にはよく理解できると思うが、あの国に住んでいる人たちは、貧乏人も金持ちもみんなエンタテイナーだ。誰もが自分に求められる役を演じて、人を喜ばせる。悪人は悪人らしく、善人は善人らしく。

 1986年2月のクライマックスに達するまで続いたフィリピン人全員参加の「ピープル革命」というドラマは、やや安っぽい大衆演劇の範疇に入るのかもしれない。だが、わかりやすい筋書き故に、誰もが楽しむことができた。

 主な登場人物は、極悪人の独裁大統領フェルディナンド・マルコスとその妻で彼に負けず劣らずの悪女イメルダ・マルコス、大統領の幼馴染で独裁体制を支えてきた国軍参謀総長ファビアン・ベール。

 そして、悲劇の女主人公が、マルコスとベールの陰謀で夫を暗殺されたコラソン・アキノという役回りだった。

 この他に、反マルコス側に寝返った国軍参謀次長フィデル・ラモス、国防相ファン・ポンセ・エンリレも、ドラマの最後を盛り上げた100万人デモ動員には大きな役割を演じた。

 それにしても、あのドラマを成り立たせるには、極悪人たちが最後まで極悪人である必要があり、その意味で、マルコス夫婦とベールは見事に、憎々しげな役をこなした。

 さらに印象的だったのは、世間知らずの普通の清楚な主婦の繊細さと戸惑いぶりで人々の心に訴えたコラソンの名演技だ。

 聴衆を前にしたコラソンの演説は、あまりに下手で、それが人々の「助けてやらなければ」という同情心をかきたてた。とにかく、緊張で声は震え、原稿を棒読みしながら、つっかえてしまう。

 極悪人の独裁者に挑戦する普通の主婦。これが、このとき行われたフィリピン大統領選挙である。役者はそろった。こんな面白い見ものはそうはない。こうして、世界中のメディアがフィリピンに押し寄せた。

 結末は、ご存知のように、極悪人たちが大慌てで国外に逃亡し、主婦が大統領になるという夢物語の実現。あとで思い返してみれば、絵に描いたように見え透いたハッピーエンド。とても、本当に起きたこととは思えない。絶対に、フィリピンだから起きたのだと思う。

 こういうフィリピン的特殊性、話が面白すぎたことなどを抜きにして語ることはできないと思うが、この出来事はメディアにとっても、画期的だった。

 独裁体制が崩壊するプロセスが余すことなく、リアルタイムで世界中のテレビに流され、何憶もの人々が同時に歴史的事件を目撃したのだ。こんなことは史上初めてのことだった。

 実は、当時、フィリピンで、あの騒ぎのど真ん中にいて、そんなことは知る由もなかった。興奮も収まって2か月ぶりに東京に戻って知り、驚いた。

 久しぶりに、赤ちょうちんの飲み屋に入ったら、サラリーマン風の酔っ払いがフィリピンの将来について興奮して大議論をしていたのだ。

 聞けば、連日のテレビ報道で日本でもフィリピン通が、やたら増えたという。まさに、新しい歴史だ。それ以前に、縁もゆかりもない国の問題、つまり国際問題でニッポンの酔っ払いが言い合いをするようなことがあっただろうか。

 こののち、ベルリンの壁崩壊、天安門事件、湾岸戦争、ソ連解体、そして9・11事件など、世界中の普通の人々が歴史の目撃者になることが当たり前になっていく。

 コラソン・アキノの国際舞台への登場から死までの23年、世界は様変わりした。無論、その後に目撃された殺伐としたドラマに、フィリピンのあの底抜けの明るさは望むべくもなかった。

2009年7月29日水曜日

警察官を好きですか?



 警察官は大嫌いだ。彼らの勤務成績は基本的に犯罪者の検挙数で決まる。だから、世の中の人間すべてが犯罪者なら、砂糖つぼに入った蟻の恍惚気分になるに違いない。猜疑心に満ちた警察官の視線を浴びた経験をした人は少なくないだろう。そう、彼らは人を見るとき、まず、犯罪者かどうかを判断するように訓練されている。

 横浜市青葉区の路上で、真っ昼間、警察官2人に自転車泥棒の嫌疑をかけられたことがある。乗っていた自転車を止められ、警察官の1人はハンドルをしっかり押さえ、もう1人は前輪に跨る体勢で立ち、逃走を阻止する構えだった。

 彼らの抱いた疑いは実に単純だった。自転車の防犯登録が神奈川県警ではなく東京の警視庁だったというだけだ。

 ばかばかしくて、「東京で買った自転車を神奈川県で乗って、なにが悪い」と言って、その場を立ち去ろうとしたが、険しい表情の警察官は自転車を放さない。名前と住所を確認するまで、路上での監禁状態が続いた。

 成績の上がらない警察官が、自転車盗をお手軽な標的にするというのは本当だと思う。もう、ずいぶん前のことだが、未明の中原街道丸子橋は、終電を逃して路上の自転車を拝借して家路に向かう酔っ払いたちを、姑息な警察官たちがカモにする名所として知られていた。




 今朝、警察官のこれまでの悪いイメージが変わりそうな経験をした。

 ジョギングをしていると、消防車がサイレンを鳴らし、次々と近くにやって来た。何事かと思って消防車が集まったあたりに行ってみると、交差点で50がらみメタボ体形の警察官が交通整理をしていた。

 「なにが起きたんですか」と声をかけてみた。すると、メタボオヤジ警官は交通整理をうっちゃらかして、こっちに歩いてきた。

 「よくわからないが、火災報知機が誤作動してしまったらしいんですよ。たいしたことないね」

 なんだか、大都会東京で唐突に、どこか田舎の駐在さんに会ったみたいだった。ニコニコして、人懐こくて、よくぞ声を掛けてくれたという感じで、嬉しそう。「なんでもない!」と、つっけんどんに市民を追っ払う警察官独特の威圧的態度はかけらもない。

 あの体形では、かっぱらいを追いかける走力は絶対にない。だが、こういうのを「おまわりさん」というんだろうなと思った。

 どう見ても、出世コースからは、とうの昔に外れている。きっと、自転車盗検挙のばかばかしさも悟っているに違いない。勝手な想像だが…。

 彼の目を見たとき、誰かに似ていると思ったら、刑事コロンボの顔が浮かんだ。

 あの映画の良さは、コロンボが殺人者を相手にしても人間の眼差しを向けていることだ

 警視庁新葛飾署亀有公園前派出所の巡査長・両津勘吉が住民に愛されているのも、彼が警察官である前に人間だからだと思う。

2009年7月27日月曜日

狂気の自己陶酔


 「靖国神社に祀られている神さま方(御祭神)は、すべて天皇陛下の大御心のように、永遠の平和を心から願いながら、日本を守るためにその尊い生命を国にささげられたのです」

 「天皇陛下を中心に立派な日本をつくっていこうという大きな使命は、みなさんのご先祖さまのおかげでなしとげられました」

 「戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです。こういう事変や戦争(支那事変や大東亜戦争など)で尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖国神社の神さまとして祀られています」

 「戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に”戦争犯罪人”とせられ、むざんにも生命をたたれた千数十人の方… 靖国神社ではこれらの方々を『昭和殉教者』とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています」

 「靖国神社の神さまは、日本の独立と平和が永遠に続くように、そしてご先祖さまが残された日本のすばらしい伝統と歴史がいつまでも続くように、と願って、戦いに尊い生命をささげてくださいました」

 (靖国神社社務所発行「やすくに大百科」(私たちの靖国神社)より)

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 近ごろ、ネオ・ナチに似た日本のネオ・ナショナリズムになびく方々は、「靖国”史観”」を拒否する論を「自虐史観」と呼ぶ。

 だが、中国や朝鮮、東南アジアなどで莫大な数の人間を死なせた日本による戦争を美化することは、「他虐史観」に他ならない。そして、あの戦争における日本人の死すべてを美化することは、背筋をぞくぞくさせるような狂気の自己陶酔だ。

とっても楽しく遊べる多摩川!?





2009年7月23日木曜日

個人的日蝕ツアー


 ふと思い立って、ぶらりとでかける旅。当てが外れることもあるけれど、行き当たりばったり、それはそれで楽しいものだ。

 7月23日、皆既日蝕の日の朝、東京は重い雲がたれこめ、雨がしとしと降っていた。本州はどこも皆既日蝕の範囲外だが、晴れていれば部分日蝕は見られる。

 テレビを点けると、NHKの天気予報が言った。「関東地方は雲に覆われているが、北関東では雲が切れて日蝕を見られる可能性もある」 Yahooの「雲の動き予想」の動画を見ると、確かに、群馬県高崎市あたりは日蝕が続いている午前11時から正午ごろにかけて、雲が切れる。

 なんだか急に日蝕を見たくなった。

 とりあえず渋谷に行って、高崎行きの電車に乗った。雲の切れ目から太陽が姿を出したところで降りることにした。

 大宮を過ぎても、どんよりと曇っていたし雨がぱらついていた。

 近くの座席に、母親に連れられた小学生くらいの男の子と女の子がいた。彼らも日蝕を求めて高崎線に乗ったらしい。”日蝕グラス”をしっかりと手に持っていた。だが、曇り空に退屈したらしく、男の子は母親の二の腕のどろりと弛んだ肉を指ではじいて遊び始めた。

 扉のそばに立っている年金生活者とおぼしきジーンズ、ジョギングシューズ姿のオヤジは、律儀に駅に停車するたびにホームに半分身を乗り出し、太陽があるとおぼしき方向の曇り空を見上げていた。

 旅行社のぼったくりトカラ列島ツアーなどで散財せず、高崎線の部分日蝕個人ツアーでお茶を濁す賢い人たちは、かなりいたようだ。

 希望が出てきたのは桶川駅あたりだった。曇ってはいるが空が明るくなり、車窓の外には空を見上げる人の姿もあった。

 だが、晴れ間が現れるには至らない。もう少し電車に乗り続けてみよう。とは言え、日食は12時すぎまでだ。もう11時、いつまでも乗っているわけにはいかない。

 というわけで、曇っていたが、高崎の二つ手前、新町で電車を降りた。

 そして、ホームのはずれで、ほぼ真上を見上げれば雲を通して太陽が見えるではないか。だが、太陽の光線が強すぎて、とても肉眼で直視できない。思いつきで飛びだしてきたので、もちろん”日蝕グラス”などない。

 運良く、日蝕グラスを貸してくれそうな子供が通りかかるなどということもなかった。それどころか、電車が行った直後でホームに人気はまったくない。

 太陽が見えるのに、日蝕を見られない! なんというドジ!

 そのうち、空がまた暗くなり始めた。もうダメと思い、空を見上げて驚いた。

 日蝕が見えた。太陽が三分の一か四分の一、はっきりと黒く欠けているのが肉眼で見えたのだ。

 厚くなった雲がうまい具合に光のフィルターになったからだ。

 こうして、行き当たりばったりの日蝕ツアーは大成功となった。

 成功に酔って、高崎に住む友人Kを携帯で呼び昼飯に誘った。だが、残念ながら仕事で出られないというので、ホームの自動販売機でウーロン茶を買っただけで、上り電車に乗って東京へ向かった。

 そのうち、電車の中で気づいた。渋谷でパスモを使って乗って、新町ではホームにいただけで改札を出ていない。このまま戻って渋谷で降りるとどうなるのだろう。

 こういうことに知恵が回りそうなKにあらためてメールできくと、「『入ってからの時間が長すぎる』と言われるかもしれないので『新宿で改札出ずに人に会っていた』と言えば160円」というアドバイスが返って来た。

 そうか、なるほど、さすがK。

 しかし、ホントかなあ? 新宿ー渋谷は160円じゃなくて150円だから10円分は”遅れ賃”なのか? そもそも、駅員がこちらの話を信じてくれたにしても往復分を取るんじゃないか? あっ、新町の駅でパスモを使ってウーロン茶を買った! あれがパスモに記録されていて、新町まで行ったことがばれちゃうかもしれない。

 なんだか帰路は犯罪者の気分になってきた。

 さて、どうしたものか。

 結局、どうなるかわからなかったが、中途半端に池袋で降り、意を決してパスモを改札にかざしてみた。すると、駅員が飛んできたりせず、なんと、たった160円、渋谷ー池袋間の通常料金で通過できたではないか。

 あとで料金を調べてみると、渋谷ー新町間は1620円、往復で3000円以上をタダ乗りしてしまったことになる。これが合法か非合法かわからない。

 日蝕を見られて、3000円も儲かって、とても良い1日だと思った。

 ところが、夕方のテレビニュースでは、東京で部分日蝕が見えたと報じているではないか。なんだ、遠くまで行かずに、東京にいりゃ見られたんだ。

 なんだか、儲かったような、バカバカしかったような妙な1日でもあった。

 まあ、これが、行き当たりばったりで旅をする醍醐味と言えば、言えるかもしれない。

2009年7月21日火曜日

天空の茶畑



 静岡県を流れる安倍川の源流域・梅が島、険しい山の斜面にへばりつく茶畑に、人に誘われ酔っ払った勢いで行ってしまった。ふだん飲むのはコーヒー、緑茶はほとんど飲まず、お茶なら紅茶で、アールグレイのミルクティー。日本茶などに関心はまったくないのに、標高1,000メートル、「天空の茶畑」と称する日本一高いところにある茶畑に立った。

 そこからの遠景はすばらしかった。日本第2の高峰・北岳に繋がる南アルプスの南端に位置し、山々は深くて急峻だ。安倍川をはるか下界に見降ろす。その高さにはスリルすら覚える。友人Aは斜面で四つん這いになり立てなくなって高所恐怖症がばれてしまった。

 人が住めるとは思えないような急斜面に小さな集落が点在していた。その光景を目にしたとき、ふと既視感を覚えた。どこだっけ?

 フィリピンかインドネシアの棚田か。いや、鬱蒼とした緑は同じだが、こちらの景色の雄大さは桁が違う。

 そうだ。イエメンだ。人も気候も文化も静岡とはまったく異なる遠いアラビア半島の国が目の前に現れた。

 イエメンの険しい岩山では、緑ははるかに少ない。人々は、高い山の頂上や、いかにも不安定な尾根の上に石と泥で作った家に住んでいる。静岡では茶を作るため、イエメンでは外敵の侵入を防ぐために山に住み始めた。目的は違う。

 が、「なぜ、あんなところに人が!」という驚きの第一印象が同じだったのだ。

 連想のもうひとつは、茶だ。

 イエメン人の一番の嗜好品と言えば「カート」だ。街の市場で葉の付いた枝を束にして売っている。人々は葉をちぎって、口の中でくちゃくちゃ噛み、唾液と混ざった汁を飲み込む。軽い幻覚作用があり、国際的には麻薬に分類されているというが、イエメンでは合法だ。

 実際、イエメン政府の閣僚たちとの会合に行ったら、狭い部屋に呼ばれ、胡坐をかいた車座の真ん中にカートが山積みにされた。大臣たちと”麻薬”を楽しむなどという経験はそうあるものではない。

 イエメンでは、このカートは茶の一種だと誰もが言っていた。山の斜面のカート畑は、梅が島の茶畑のようだった。

 だが、静岡から帰ってWikipediaを見てみると、カートの学名は「ニシキギ科アラビアチャノキ」で、「ツバキ科チャノキ」とは近縁ではないという。つまり、カートは茶ではなかったのだ。連想のおかげで雑学の知識がひとつ増えた。今度イエメン人に会う機会があったら、この知識を披歴してやろう。

 今回の小旅行の小さな収穫だ。見知らぬ土地なら、どこでも行ってみるものだ。

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 ところで、茶畑に行った目的だが、御多聞にもれず、ここでも、日本農業の深い問題である農村からの若者の流出で茶畑の存続が危うくなっている。その茶畑をボランティアたちが無農薬栽培などで守っていこうという運動を見にいったのだ。

 聞けば、そこで作る日本茶は100グラム2000円とか3000円。超高級品と言っていい値段だろう。しかも、日本では、こんな値段の日本茶がネット通販で売れているという。

 素敵な運動だし、これなら儲かれば、ボランティアというよりベンチャー・ビジネスとして成り立つではないか。

 日本というのは、本当に凄い国だ。日本茶100グラムの値段が、貧しい平均的イエメン人の半月分くらいの収入に相当するのだ。

2009年7月15日水曜日

灰色の狼


 イスタンブール中心の繁華街、古びたビルの暗い階段を昇り、ドアをノックすると、鋭い目つきの男たちが顔を出した。獰猛さを漂わせ、到底まともな人間には見えない。こういう連中に囲まれるのは、決して気持ちの良いものではない。

 そこは「灰色の狼」と呼ばれる組織の事務所だった。

 トルコの極右政党「民族主義者行動党」、通称MHP(”メーヘーペー”と発音する)の下部組織で、左翼や少数民族クルド人組織への過激な暴力的行動で知られている。権力者の手先となり、秘かな殺人にも関わるとされる。1981年に起きたローマ教皇暗殺未遂事件の犯人メフメト・アリ・アジャもメンバーだった。観光立国としては、外国人にあまり知られたくないトルコの暗部だ。

 MHPは、1997年に死去したカリスマ的指導者アルパルスラン・テュルケシの下で党勢を伸ばした。国会では小政党にとどまっているものの、その民族主義的主張は、トルコ人の心に訴えるものがある。

 トルコ人のルーツは、バイカル湖から西シベリアとモンゴルに跨るアルタイ山脈に至る一帯の遊牧民族とされる。古代中国では「突厥(とっけつ)」と呼ばれ、常に北方からの脅威であった。(突厥はトルコ語のトルコ人「テュルク」の漢字表記とされる)

 この民族は、中央アジアをはじめユーラシア大陸の各地へと大移動し、その流れのひとつが現在のトルコまで辿りついた。

 伝説によれば、トルコへ向かう集団が道に迷ったとき、どこからともなく「灰色の狼」が現れ、行くべき方向へ無事に案内をしてくれた。

 「灰色の狼」は、トルコ人の民族ロマンに欠くことのできない存在なのだ。現代トルコ建国の父ケマル・アタチュルクも「灰色の狼」と呼ばれていた。

 トルコ人は一般的に、強い民族・国家意識を持っている。例えば、サッカーの国際親善試合があれば、スタジアム周辺では大きなトルコ国旗が飛ぶように売れる。そういうトルコ人にとって、思想的に極右でなくとも、「灰色の狼」伝説には琴線に触れるものがある。

 その心情を政治的に表現すると、MHPが主張する「大トルコ主義」「汎トルコ主義」となる。トルコ系、トルコ語系民族の大同団結だ。

 つまり、灰色の狼が案内してくれた道を逆戻りして、大昔ちりじりに分かれた仲間を糾合しようというものだ。具体的には、ソ連崩壊後に独立した国々、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、カザフスタンとのトルコ連合ということになる。

 さらに、この連合には、東トルキスタンと呼ばれることもあるトルコ系民族ウイグル人が住む中国の新疆ウイグル自治区も含まれる。

 MHPの主張は、国際政治の現実からすれば荒唐無稽な夢想であろう。それでも、多くのトルコ人にとって、この夢想には気持ちをかき立てさせる何かがある。

 中国当局の新疆ウイグル自治区での民族弾圧に対し、トルコが過敏に反応した。首相のエルドアンは「大虐殺」とまで表現し、イスタンブールでは反中国デモが発生した。これは、まさしくトルコ人意識の発露だ。

 この事態に、世界はちょっと驚き、戸惑った。おそらく、トルコと新疆の地理的な遠さにもかかわらず、精神的には非常に近いということに気付かなかったからだろう。そして、世界史と世界地図の別の読み方を多少は教えられたようだ。

 それにしても、トルコ人がウイグル人にどれだけ同情しようと、ウイグル人が直面する現実を変えるのは絶望的だ。

 新疆ウイグル自治区と接するカザフスタンとキルギスは、同じトルコ系にもかかわらず、ウイグル人の反政府活動抑制を目的のひとつとする中国との準軍事同盟「上海協力機構」に加盟している。

 トルコ人の視点からすると、ウイグルは兄弟たちに裏切られて完全包囲され、身動きひとつできないのだ。

2009年7月1日水曜日

ふれあい

 C君、死んだYも、近ごろ日本中に氾濫している「ふれあい」という言葉を目にすると虫唾が走ると言っていたそうだね。確かに、君やYのように硬派の一匹狼を気取っている男たちに、「ふれあい」などという言葉が似合うはずない。とにかく、気色悪くなるのは僕も同じだ。で、今回は、「ふれあい」について、お勉強しようではないか。
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    ふれあいとは、主に地域社会内において、年代層や職業などが異なる人間が情緒的につながった関係を形成することを指す。

     言語的定義

    「ふれあい」という単語が「触れる」(touch / contact)と「あい」(合い、相互関係を示す依存名詞)との合成語であることはすぐにわかることだろう。それら構成語の意味から単純に類推すると、「ふれあい」は相互接触(mutual touch / contact)を意味すると考えられるが、日本語話者であればこの単語がそのような原義を超えて使用されていることは直感的に誰もが知っている。少なくても、以下のような用法は一般的なものとは言えないだろう。

    一方、以下のような用法に対しては、違和感はあまり感じられない。

    このように考えると、ふれあいという単語は以下の範囲で適用されるといえる。

    • 基本的に社会的に善と考えられる範囲(福祉・教育・環境保護など)でのみ使用
    • 情緒的なつながりを重視し、理知的な知識の交換や政治的・経済的利害の調整などという意味での接触は含まれない
    • インターネットや携帯電話など情報機器を通じたものではなく、あくまでも人間同士(あるいは人間と動物など)が直接接触することが必要

    社会的背景

    パオロ・マッツァリーノによると、「ふれあい」という単語の初出は1956年の朝日新聞にまで遡るが、メディアなどでの使用頻度が増したのは1970年代から、また社会一般で広く使われるようになったのは1980年代からである(リンク)。このことから、日本語の長い歴史の中でも「ふれあい」は比較的最近登場した概念であることがわかる。

    1970年代から1980年代にかけて、「ふれあい」という単語が日本社会の中で受け入れられてきた背景には、それ以前に存在していた伝統的な地域社会(参照: 共同体の崩壊が挙げられる。すなわち、高度成長期以前の日本では全国各地に農林水産業を主要産業とする農村共同体が確固として存在しており、大家族制の中で幼児から高齢者が一堂に集まって生活を行うスタイルが一般的だったが、高度成長期以降核家族が一般的になり、核家族の中でも個人主義的な行動パターンが広まったため、特に高齢者がこういった社会風潮から取り残され、疎外感に苛まれるようになった。また、核家族になることによって伝統的な育児法の伝承も廃れ、それにより青少年の荒廃も進んだ。これらの問題を情緒的交流を通じて解決する目的で、「ふれあい」という概念が日本社会で強調されるようになったと言える。

    連帯との違い

    また、「ふれあい」に比較的似た概念として「連帯」(solidarity)という単語があるが、これも日本語の「ふれあい」とは異なるものであるといえる。「連帯」は、そもそも学生と労働者、主婦と高齢者など、社会的に違う立場の人たちが同じ目標に向かって団結してゆくことを指す。それに対し、「ふれあい」ではそのような目標は不要であり、あくまでも情緒的接触を行うことで対象者を満足させることを目的とする。たとえば喉の渇きを訴える人に対して飲料水を与えることでその人を満足させるように、情緒的交流の不足に苦しむ人に対して共感示し、情緒的つながりを形成することで対象者を心理的に満足させることが、「ふれあい」の目的であるといえるだろう。

    「ふれあい」を冠した団体名・施設名など

    また、「ふれあい」という単語に込められた以上のニュアンスから、団体名や施設名などにこの単語が使われることが少なくない。


    (出典・Wikipedia)

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     まあ、要するに、時代が「ふれあい」をいたるところに溢れさせたということかな。

     つまり、薄暗いバーカウンターで安ウイスキーを一人であおる君たちの濃密な時代は去り、明るく楽しいカラオケ・ボックスの空疎な時代に支配されているというわけだ。
     
     それにしても、「ふれあい」の名が付く施設は官製のものが多いのが気にかかる。

     「ふれあい昆虫館」「ふれあい牧場」「ふれあい科学館」「ふれあいの里」「ふれあい広場」「ふれあいプラザ」「ふれあいの道」「ふれあいネット」「ふれあい公園」「ふれあいの村」‥。大阪のどこかの小学校は「ふれあい参観」というのをやっている。「えひめ青少年ふれあいセンター」なんてところは、いったい、なんの触れ合いをしているのだろう。数えたらきりがない。

     きっと、役人たちが世の中の殺伐さを一番理解しているか、さもなくば、そういう世の中を作ってしまったのは自分たちだと自覚し、なおかつ手の施しようがないのでネーミングで誤魔化し、罪悪感から逃れようとしているに違いない。

     笑わせてくれる「ふれあい」もある。「秋田ふれあい信用金庫」なんてところは、秋田県でどんな金融業を営んでいるのだろうか。 

    「介護用品・住宅改修・介護リフォームふれあい」「不妊の鍼灸と円形脱毛症の鍼灸の『ふれあい鍼灸院』」 なんてのは、笑っちゃいけないのかもしれない。

     日本で最も多い温泉は、「ふれあい温泉」かもしれない。「ふれあいの湯」というのもある。お風呂に入って、なにに触れようというのか。

     ソープ嬢のブログを、間違って偶然に(絶対に意図的ではないという意味)覗いたら、「お客様との『心のふれあい』」などというセリフがあって大笑いした。

     今では、ああいうところも、からだではなく心の「ふれあい」らしい。それにしても、彼女たちの騙しの手口と役人たちのネーミングには、どこか共通するところがありはしまいか。

2009年6月26日金曜日

不審な声かけ


 きのうの新聞(yesterday's paper)に、全国で今年4月以来の2か月で、女性やこどもに声をかけた168人が警察から警告を受けたという記事が出ていた(6月25日付け読売新聞夕刊)。

 おかしな人間による犯罪を未然防止しようとする警察の活動を伝える無批判なサツダネ記事の典型ではある。だが、ちょっと寂しい気分にさせられる内容だった。

 盛り場やビーチで若者たちがナンパする光景は、石原慎太郎が反抗的新世代の代表という幻想が共有されていた時代(つまり化石時代)から珍しくはない。近所のこどもに、おじさんやおばさんが「大きくなったね」と声をかけるのも、ごく当たり前の慣わしではなかったか。

 だが、記事によれば、こういう行為は、やがて最悪の事態、殺人に発展する可能性のある「犯罪の前兆」として、警察の注意を引くようになったらしい。

 この記事で紹介されている具体例―「埼玉県警は4月22日、上尾市内で小学生の女児たちに繰り返し、『かわいいね』『成長したね』と声をかけていた40歳代の男を割り出し、警告した」

 この男には、きっと不審者じみた行動と雰囲気があったのだろう。だが、「かわいいね」とか「成長したね」などという言葉を近所のこどもにかけるのは、ごく普通のことではないか。

 逆に、「声かけ運動」なんて看板を、どこかで見たような気がする。

 職場で恋愛をすればセクハラになり、満員電車の中で背中が痒くなってモゾモゾ動けば痴漢にされる時代。

 膨大な「してはいけないリスト」を頭に入れておかなければ、もはや、この国を歩くことはできない。 

2009年6月24日水曜日

イランのラップを知っているかい?


 ソローシュ・ラシュガリというイランの若者を知っているかい?今テヘランに住んでいる25歳。無論、知るわけがない。彼は「取るに足らない人間」なのだから。だが、彼はイランで最も有名な「取るに足らない人間」、ペルシャ語で「هیچکس(ヒッチカス)」なのだ。

 ソロ―シュはラップ・ミュージシャン、「ヒッチカス」の名で歌い、イランの若者たちから圧倒的支持を受けている。だが、CDを1枚もリリーズしたことがない。

 イスラム支配体制のイランで、西欧の退廃的音楽、とくに、その極みと言えるようなラップが公けに認められるわけがないのだ。それでも、ヒッチカスのラップは、ブログやYouTubeを通じてイランばかりでなく世界に広がっている。(ネットでは、Hich Kas)

 ヒッチカスは、イランに公的には存在しないが、都会の若者の世界には堂々と存在している。アンダーグラウンドというには、おおっぴら過ぎる。

 イスラム法に基づく支配とラップ・ミュージック。この訳のわからない取り合わせが、まさにイラン・イスラム共和国の現実だ。禁酒なのに容易に手に入る酒、黒いチャドルを脱ぐと現れる女たちのセクシーボディ。

 イランという国は外部世界が想像する以上に自由がきく。政治的にも、中東の独裁専制国家群の中では最も民主化が進んでいる。

 それでは、自由はどこまで許されるのか。これが問題なのだ。実は、ここが境界線だと誰も指し示すことができないからだ。

 例えば酒。コーランに基づいて絶対に飲むなというのではないようだ。飲むことはアラーの教えに反することだが、それは個人がアラーに負い目を感じることで、他人に迷惑をかけず自宅で飲むかぎり当局の咎めはないらしい。「らしい」というのは、明文化されていないからだ。

 かつて、司法省の最高幹部に、真正面から「イランで酒を飲んではいけないのか」「とくに、非イスラム教徒や外国人はどうなのか」と質問したことがある。彼はしつこく訊いても最後まで答えてくれなかった。

 どうやら、レストランのような公共の場所は明らかに禁酒だが、あとは適当に判断しろということのようだ。

 だが、このグレーゾーンが難しい。

 今、大統領選挙のあと広がっている体制批判の動きも同じだ。

 現状は、ホメイニが確立した理論「イスラム法学者による支配」の否定と取られかねない領域に踏み込まず、グレーゾーンにとどまっているようにみえる。だが、これもよくわからない。

 この騒ぎが拡大してから、ホメイニの後を継いだ最高指導者ハメネイへの批判が出始めている大統領選挙であまりに露骨に現職アハマディネジャド支持の姿勢を出したからだ。とくに、投票後の発言は、開票結果が公式に発表される前にアハマディネジャド勝利に言及したもので、イラン憲法に抵触するとの指摘もある。

 現在の批判が、ハメネイ個人への批判であれば、グレーゾーンにとどまっていると言えるかもしれない。だが、ホメイニ理論の象徴である「最高指導者」という制度への批判となれば明確に境界線を越えたことになるだろう。

 境界線などというものは、雑踏で人が押し合い圧し合いをしているときのように、誰も気が付かないうちに越えてしまうのかもしれない。

 そうなれば大量の血が流れるだろう。それが今のイランの怖さだ。

2009年6月20日土曜日

サヘル・ローズの謎


 イラン情勢が緊迫しているので、インターネットで「イラン」を検索しているうちに、あらぬ方向へ寄り道してしまった。

 日本で活動しているイラン人の若い女性タレント、サヘル・ローズの著書「戦場から女優へ」(文芸春秋)というのをみつけた。戦争で孤児になり、日本に来てからホームレス生活までしてタレントになったというので、ちょっと関心を持った。

 本の価格は1300円、高くはないがタレント本にこんな金は払いたくない。で、幸運にもブックオフに800円の中古があったので買ってしまった

 読んでみると、若いのに様々な苦労をした人生はなかなか興味深い。ただ、テーマのわりに軽い内容で、彼女のミーハー的ファンなら十分堪能できそうだという程度のものだった。本人が本当に書いたのかゴーストライターが書いたのか、この手の本では当然なのかもしれないが、そんな説明はない。

 それはそれでいいのだが、イランへの興味でこの本を読むと、肝心な点が、無視されているのか、ぼかされているのか、すべて欠落している。これは非常に気になる。

 著書によれば、1985年、イラン西部、イラク国境に面したクルディスタン近くの町で貧しい家庭に生まれた。1989年2月、4歳のとき、イラク軍の攻撃で倒壊した建物の瓦礫の下から奇跡的に助けられた

 イラン・イラク戦争は1988年8月22日に停戦の合意に達したが、イランとイラクはその後も空爆を続け、その犠牲になったとしている。

 意図的かどうかはわからないが、この決定的事件が起きた場所であり、故郷でもある地名を明らかにしていない。かなり不自然に思える。

 ただ、イラン・イラク戦争が終わったあと、イラク軍が継続していた攻撃の対象は自国内とイラン国境近くの少数民族クルド人居住地域だった。クルド人は両国の国境山岳地帯の両側に住んでいる。

 イランは戦争中、イラク国内のクルド人を軍事的に支援し撹乱に大いに利用した。民族自立のためにバグダッド政権と対立していたからだ。だが、停戦で支援を停止すると、イラクは後ろ盾を失ったクルド人を徹底的に叩いた。

 サヘルの町がイラクの攻撃を受けたとすれば、クルド人地域である可能性が非常に高い。そして、彼女自身もクルド人という可能性もある。だが、彼女はイラン人というだけで、人種については何も語っていない。

 イランは多民族国家だが、様々な社会的圧迫を受けてきたクルド人であるか否かは、個人の存在意義に関わる重要な問題だ。クルド人地域のクルド人なのか非クルド人なのか。普通のイラン人なら明確に表明するだろう。

 彼女のホームページによると、人種に関しては、さらに混乱させられる。彼女の使える言語にクルド語はなく、日本語のほかに、「ペルシャ語、ダリー語、タジク語」と記されている。

 ペルシャ語はイランの公用語、ダリー語はイランの隣国アフガニスタンの公用語、タジク語はアフガニスタンの主要民族のひとつタジク人の言語であり、またタジク人の国タジキスタンの公用語だ。

 ただ、この3つの言語はペルシャ語を同じルーツとし、多少の違いはあるが互いの意思疎通は十分にできる関係だ。いわば、東京弁と栃木弁と青森弁の違い程度で、同じ言語の方言ともいえる。普通のイラン人なら、ダリー語、タジク語がわかっても、ペルシャ語以外の言語として、あえて言及はしないと思う。

 それでは、サヘルはなぜ言及したのか。

 彼女は、タジク系のアフガン人なのかもしれない。あるいは、彼女を瓦礫から救った現在の養母がそうなのか。イランには、かなりの数のアフガン人も住んでいる。

 著書は、アフガニスタンとの関わりにまったく触れていない。これも訳がわからない。

 サヘル・ローズとは、実にミステリアスな人物に思えてくる。

 果たして、本当にミステリーがあるのか。あるいは、無能なゴーストライターの単なる欠陥原稿が、巧まずして作り出した謎なのか?
 

2009年6月17日水曜日

留置所から見たイラン


 イランが熱くなっている。

 保守派の現職大統領アハマディネジャドと改革派の元首相ムサビが大接戦を演じるとみられていたイラン大統領選挙が、予想に反してアハマディネジャドの圧勝になったためだ。ムサビ支持者たちは不正があったと叫び、街頭で激しい抗議行動を展開している。

 イランでの権力に対する公然たる大規模抗議行動は、1979年のイスラム革命以来であるのは間違いない。日本のメディアも大きなニュースとして報じている。もっとも、この騒ぎが新たな歴史を作る一歩となるかどうか、まだ見極めはつかないが。

 ニュースによれば、かなりの人数が身柄を拘束され、テヘランにある内務省の留置所に放り込まれているという。

 無論、この事態は憂慮すべきなのだが、内務省の留置所と聞いて、つい懐かしくなってしまった。

 イランの革命防衛隊というのは、イスラム革命の精神とそこから生まれた支配構造を頑なに守ろうとする組織で、現在ではアハマディネジャドを支える手足と言える存在だ。ここに属する若者たちの中にも、冗談を理解できる面白いのがいないとは言わないが、概して、頭が固く融通が利かない。

 イラン・イラク戦争が終わる前のことだ。革命防衛隊のメンバーとのつまらない誤解と口論で、身柄を拘束されてしまった。名目は、なんとスパイ容疑。

 スパイとなれば、泣く子も黙るエビン政治犯刑務所に収容され、拷問、そして、もしかしたら死刑。

 冗談じゃない、俺は頭の悪い防衛隊のガキと口喧嘩をしただけだぜ!

 とは言え、内務省留置所の独房に放り込まれてしまった。

 広さは、日本式に言うと四畳半くらい。気になったのは、壁に記された刻みだった。日本人は「正」の字を書いて、ものを数える。イラン人は、「1111」と「1」を4本書き、これに焼き鳥のように串を刺して5とする。

 壁のあちこちに、この刻みがある。ひとつの串刺しがまさか5時間ではあるまい。きっと5日に違いない。その串刺しがいくつも連なっているのだ。

 だが、これは考えても仕方ない、無視することにした。

 やがて、独房の扉が開き、食事が出された。バルバリとアブグシュト。バルバリとは、イラン風のパンであるナンの中では最も分厚く、腹をふくらませるにはいい。肉体労働者が好むとされる。アブグシュトはイランの家庭で最も一般的なトマト味のスープで、肉や豆が入りどろっとしている。

 この食事は、留置所での最初の少なからぬ驚きだった。アブグシュトが想像を超えてうまかったのだ。それまでイランで食べた中で一番だと思った。すぐに平らげ、お代わりをもらえないかと、ダメ元と思って、独房の鉄扉を拳でゴンゴン叩き、看守を呼んでみた。すると、直ぐにやってきた。

 第2の驚きは、看守が実に親切で、まるで客を接待するように微笑んでくれたことだ。そして、アブグシュトを深皿になみなみと足してくれた。

 食事を終えるとトイレに行きたくなり、再びゴンゴンと叩くと、またもや親切に場所を指し示してくれた。トイレには看守が同行するわけでなく、勝手に行って用を済ませた。

 独房に戻るとき、看守部屋にいた2人の看守と目が合った。「こっちに来い」と目配せするので、彼らの部屋に入り、勧められるままに座った。こうして、3人のペルシャ語と英語のたどたどしい会話が始まった。

 2人の看守によると、心配する必要はなく数時間で釈放されるという。たいした理由もないのに留置所に連れてこられる者は珍しくなく、そういう場合は、すぐに放免されるというのだ。

 釈放される前に、担当官が来て手続きをするから、それまで一緒にお茶でも飲んでいよう、独房には戻らなくていい―なんという嬉しい申し出。条件は、担当官が来たら独房に戻って、ずっと入っていたふりをすること。

 つまり、看守たちは内務省という政治的犯罪を取り締まる部署にいながら、その支配体制をまったく信用していなかったのだ。

 われわれ3人は、ついには、面白おかしく日本語会話教室まで始めていた。

 数時間後に釈放されたとき、親しくなった2人の看守とは目配せの挨拶しかできなかった。そばに担当官がいたからだ。なんだか、留置所を去りがたい気持ちになってしまった。

 ときに茶番劇じみたイスラム支配体制。

 あの留置所は、きっと今もそのままだと思う。