「覚えてますか?」「もちろん!」「変わらないですね、ぜんぜん年を取っていない!」
エジプトの首都カイロ中心部、ザマレク地区のコリアン・レストラン「ハナ」の韓国人経営者夫婦とエジプト人マネージャーとの20年ぶりの嬉しい再会。 無論、多少のお世辞を交し合って。
かつて3年間住んでいたカイロで、自宅アパートから近かった「ハナ」には週2,3回は顔を出していた。 ときには、ご主人が韓国から持ち込んだ焼酎「眞露」をそっとサービスしてくれたものだ。
同じザマレクの古くからあるピザ専門店「MAISON THOMAS」も20年前のまま、店内の窯で焼いたピザの芳ばしさも同じだった。
カイロという都会は不思議なほど変わらない。 20年という時の流れを感じさせない。 タイムマシンの旅というのは、きっと、こんなものなのだろう。
昔と同じデコボコの歩道、そこに乗り上げて停めてある埃だらけの車。 道端に捨てられたゴミ。 うろつく野良猫。 街中に絶え間なく鳴り響くクルマのクラクションのやかましい音。 エジプト人たちの大声の路上会話。 ザマレクに住む日本人が「丸ビル」と呼んでいた建設中の筒形の高層ビルもそのままだった。 20年たっても完成していなかったのだ。 まさに時間が止まっている。
渋滞の道路も同じだ。 少しでも前に進もうと割り込むクルマで、3車線は4車線に、4車線は5車線になる。 昔から、この割り込み術をマスターしないとカイロでは運転できなかった。
だが、変化も見えないわけではない。
かつて、カイロのタクシーのほとんどはフランス製のプジョーだった。 ベトナムで小型モーターバイクを「ホンダ」と呼ぶように、カイロではタクシーの別名は「プジョー」だった。 今、「プジョー」は死語になっている。 タクシーの多くが韓国の「ヒュンダイ」に取って代わったからだ。
「ハナ」のお客も以前とは違っていた。 かつては日本人客が最も多かったが、韓国企業の進出で韓国人客の方が多くなった。 中国人の姿もかなり目立つ。 エジプト自身の変化というより、韓国、中国の経済発展を反映しているのだろう。
かつて、ザマレクには、主として日本人相手の「Sunny Super」という貧相なスーパーマーケットがあった。 売られていた日本食品は、カイロから転勤していった日本大使館員が食べきれなかった食料を横流ししたものだという、まことしやかな噂があったが、真偽のほどはわからない。 ただ、賞味期限切れなど無視して店頭に並べていたのは本当だ。 アンモニア臭のする自家製納豆などもあった。
ところが20年ぶりに覗いてみると、高価な輸入食材が豊富に並ぶ高級スーパーに様変わりしていた。 東京なら、日本の事情をよく知らない金持ち外国人が高い買い物をする「ナショナル麻布」みたいな店だ。 安心、安全だが、こんな店でばかり買い物をして生活している外国人には、決して自分が住んでいる国の姿が見えないだろう。
普通の貧しいエジプト人が暮らしている裏町を歩いてみる。 外国人が入り込まない一帯をカメラを持ってうろついているから、目立ってしまうのは致し方ない。 物売り、道端にぼんやり座っている男たち、ケバブ屋のオヤジ‥。 次々と声をかけてくる。 陽気で人懐っこい笑顔。 みんな、写真を撮られるのが大好きだ。 若者たちは「撮ってくれ」とせがんでくる。
やはり、彼らは変わっていない。 20年前と同じ屈託のない表情。 貧しさは苦にならないのか。 イスラム主義の勃興は、貧富の格差を生む社会的・政治的不公平さへの不満の鬱積が原動力になったのではないのか。 そして、あの「アラブの春」は何だったのか。
2010年12月、チュニジアの路上で野菜売りをしていた失業中の貧しい若者が、無許可営業を理由に警察官に野菜を没収された。 若者はこれに抗議し、ガソリンをかぶって焼身自殺した。 これがきっかけで、中東の長期独裁政権を揺るがす「アラブの春」の民衆運動が拡散した。 エジプトでは2011年2月にムバラク独裁政権が崩壊し、翌2012年5月に大統領選挙が行われ、ムスリム同胞団のムハンマド・モルシが選出された。 だが、2013年の軍事クーデターで憲法が停止され、大統領権限を喪失した。
エジプト人は、独裁者を引きずり降ろして手にした自由をあっさりと失ってしまった。 そして、貧しい者たちは貧しいままだ。 彼らの変わらぬ笑顔は、変わらぬが故に、久しぶりの訪問者を悲しくさせる。
カイロの街のあちこちに巨大なコンクリート・ブロックが並べられている。いずれも政府機関の周辺、大きいものは厚さ1メートル、高さ3メートルはある。 非合法的に権力を奪取した軍事政権が身を守るのは手がかかる。
巨大ブロックは、外国からの訪問者が目にすることができる「アラブの春」の唯一の痕跡でもある。 それ以外は、カイロは何も変わっていない。 昔と同じ、汚くて、騒々しくて、貧しい街だ。