2016年10月30日日曜日

”オモテナシ”は余計なお世話ではないか


 初めての外国体験はインドネシアだった。 1979年。 ずいぶん古い話だ。 到着した翌日、首都ジャカルタの中心部にある独立記念広場を散歩していたとき、インドネシア人の男が話しかけてきた。 追憶の中では、最初の見知らぬ外国人との会話らしい会話だ。

 優しい表情に悪意は感じられなかったので応じたが、到着したばかりでチンプンカンプンのインドネシア語だったので、まったく理解できない。 彼はそうとわかると、上手ではないが英語に切り替えた。 

 そのとき、いろいろなことを取りとめもなく話したと思うが、鮮明に記憶に残っている彼の言葉がある。  「インドネシアにいるのに、どうしてインドネシア語を話さないのか」と彼は言ったのだ。

 これは、ちょっとした驚きだった。 日本人が東京の街で初対面の外国人と会話しようとするとき、たいていは、日本語ができないだろうと思って、下手な英語を使おうとするのではないか。 だが、インドネシア人の彼は、インドネシア語で話しかけ、初対面の外国人にインドネシア語を勉強することを勧めたのだ。 

 以来、いろいろな国に行ったが、たいていの国の人たちは、外国人であろうと自分たちの言語で話しかける。 こちらが理解できないとわかると、「困ったヤツだな、こいつ」という顔をする。 こっちは「申し訳ない」という気分になる。 そのあと、運が良ければ、世界の共通語、英語に切り替わる。 だが、そんな幸運にはなかなか巡りあわず、トンチンカンな会話が進行する。

 だが、それでも、なぜか簡単なコミュニケーションは成立する。 「食事をしたい」、「トイレに行きたい」、「バス停はどこ?」、「ホテルを探している」・・・。 訪れた国の人たちとの、ほんのささやかな交流。 その積み重ねが旅の味わいになる。  

 今でも、毎年、何回かアジアの国々を中心に、行き当たりばったりのバックパッカー旅行をする。 言葉も通じない見知らぬ人々との様々な接触が面白い。

 今まで経験したことはないが、どこかの国で通りを歩いているときに、「外国人ですか? なにか困っていたら助けてあげますよ」と、英語や日本語で話しかけられたら、どう感じるだろうか。

 おそらく、まず警戒して、何が狙いか疑うだろう。  どこの国でも外国人観光客に話しかけてくるのは物売り、客引と相場が決まっている。 善意とわかっても、きっと「余計なお世話」と思うだろう。 オレの旅に口出しするな、と。

 旅の醍醐味は、言葉が通じなかったり、道に迷う不便さだ。 それがスリルに満ちた冒険なのだ。

  2020年の東京五輪が決まって以来、テレビを見ていると、日本では”オモテナシ”のキャンペーンが大展開されていることがわかる。 道路標識などに英語などの外国語を加えて、外国人に”優しい”街にするとか、商店街のオバチャンたちが外国人観光客のために英会話の勉強に励むなどというのが、はやりの話題として報じられている。

 ボランティアたちは通りかかった外国人に、緊張した表情で Can I help you? と話しかけて2020年へ向けての練習を開始している。

  もし自分が外国人で日本を観光で訪れたとしたら、この”オモテナシ”は鬱陶しくて堪らないと思うだろう。 相手に悪意がないから、うるさいと感じても追い払うのが難しい。 実に困った存在になるだろう。

 外国に行ったら、言葉が通じないのは当然で、わからないことだらけに決まっている。 だからこそ新しい発見ができる。 そして、それが旅なのだ。 

日本で、外国人と偶然に会話する機会が生まれたとき、例えば、東京のバーのカウンターや北海道のスキー場のリフトで隣りあわせになったとき、初めて会ったインドネシア人が教えてくれた接し方をすることにしている。 最初は日本語で話してみるのだ。 多くの外国人が片言の日本語で懸命に応じようとする。 日本語で頑張った末に、もうこれが限界だとばかりに「ごめんなさい」と謝って、英語に切り替える人もいる。 

 多くの外国人が、日本にいるなら日本語を話したいと思っている印象がある。 東京・麻布の金持ちや外交官向けのスーパー National で日々の買い物をし、日本の生活を知ろうとも馴染もうともしない外国人は、日本語にも関心がないだろう。 だが、そんなスノビッシュな外国人は、ほんの一握りの数であろう。

 外国人は日本語を理解できないと決め込むのは、ある種のracismかもしれない。


 下手な英語で近寄ってくる”オモテナシ”が、外国人にとってわずらわしい日本人の過剰サービスという意味にならなければいいが。

2016年10月25日火曜日

サクラの紅葉はどこへ行った?



 サクラは、見ごたえがあるのは花だけではない。 秋、赤く染まった葉も美しい。

 今秋、東京・下丸子のサクラの名所、多摩川土手では異変が起きている。 サクラ並木が紅葉する前に、まだ緑だった葉を落としてしまったのだ。

 専門家ではないので、原因はわからない。 だが、素晴らしい紅葉を今年は見られないということはよくわかる。 

 狂い咲きは毎年ちらほら見られる。 今年も目につく。 例年より多いのか、例年と狂い咲き時季は同じなのか。 こんなことまではわからない。 

 緑の葉が散って早くも冬の佇まいになったサクラの木の枝に近付いて観察してみると、蕾がずいぶん膨らんでいる。 確信は持てないが、こんなに膨らむのは例年なら年明け1月以降ではなかったか。 

蕾が今から膨らんだら、真冬に満開になってしまうのではないか。 あるいは開花する前に枯れてしまうのか。

 なにかの悪い予兆ではないことを祈りたい。 

2016年10月20日木曜日

生前退位―天皇制を考えてみよう

天皇制廃止論(Wikipedia)

自由民権運動期

日本において最初に君主制の廃止を論じたものは自由民権運動における「共和主義」的な主張である。ただし、後世の天皇制廃止論と違うのは幕藩体制に代わる専制的な権威に対する否定を目的とした主張であったこと、当時はまだ天皇を中心とした国家観が完成されておらず、未だ流動的な時期におけるものであったことである(したがって、「天皇制」という言葉がまだ存在していなかった時期に相当する)。
中江兆民の『三酔人経論問答』では、洋学紳士なる人物に、立憲制より民主制(共和制)の方が優れており、立憲制は君主の専制から脱出するための(途中駅の)「駅舎」に過ぎないといわしめた。ただし、兆民は「君民同治の社会」において、天皇と民権論とは矛盾しないとした。また、植木枝盛馬場辰猪なども国家は君主制から立憲制を経て共和制に向かうとする説を唱えている。小田為綱によるとされる私擬憲法『憲法草稿評林』は国民投票によって皇帝(天皇)は廃立出来るとした。
天皇を「統治権総攬者」と位置づけた大日本帝国憲法の制定以後に大逆事件が起きる。この事件は社会主義共産主義勢力を一掃しようとする当時の軍閥と検察(平沼騏一郎山県有朋ら)によるフレームアップであったが、宮下太吉明治天皇暗殺計画については、計画に関わった四人は認めている。宮下らの暗殺計画によれば、天皇が死ぬということで、天皇は神でなく人間であるということ(現人神観否定)を目指したものだった[1]。なお宮下らの思想的指導者であった幸徳秋水は計画には関与していなかったが、かつて兆民とともに天皇制については否定してはいなかった。のち無政府主義から共産主義に到る思想を独自に再構成するなかで、天皇制廃止論に傾いていった。
大逆事件以降、天皇制そのものの是非を語ることは次第に禁忌となっていったが、坂野潤治尾崎行雄共和演説事件を自由民権運動時代の頃の共和制論議の時のように安易に共和制について触れたことが政治問題化したと唱えている[2]

第一次世界大戦後

戦前、特に第一次世界大戦後における天皇制廃止論の原点というべきものは、日本共産党講座派による二段階革命論である。これは天皇制ロシア絶対君主制ツァーリズムになぞらえ、封建勢力である寄生地主とブルジョアジーの結合が天皇制を形作っているとし、ブルジョア革命の後に社会主義革命を起こすという理論であった。
しかし、当時大日本帝国憲法下では、天皇制廃止論を主張することは不敬罪治安維持法違反等に該当することがあり、死刑になることもあったため、戦前には公然と議論することすらできない状態が続いていた。
たとえば、特別高等警察を管掌する内務省警保局は日本反帝同盟[3]の「天皇制に対する反対運動」として「警察的軍事的天皇制反対」「朝鮮、台湾に於ける天皇制テロル反対」「天皇主義的ファシスト反対」などのスローガンがたことを調査し[4]、また、1933年2月4日の『反帝新聞』を「戦争飢餓テロ天皇制ファシズムに反対せよ」という記事によって発禁にしている [5]

連合国占領期

戦後1945年10月4日、GHQ日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書(いわゆる「自由の指令」)を発した。この覚書は主要命題のひとつとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃、特別高等警察の廃止、また天皇制批判者を共産主義者と断じ処罰を明言した山崎巌内務大臣罷免[6]などを指令している。
10月20日、トルーマン米国大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」[7]と発言すると、日本国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。なお、この問題について当時の『朝日新聞』の報道姿勢は中立、『読売新聞』は左派、『毎日新聞』は右派 であった[8]
日本国内の大手新聞による天皇制論議は1946年1、2月を境に「天皇制の是非」から「天皇について」へと変化し、それすらも同年6月をもって後退していった。
一方、終戦直後、日本に対する諸外国の視線は厳しく、オーストラリアアメリカ国民世論が天皇制廃止を支持していたほか、中国蒋介石孫科孫文の息子)、イギリスのチャーチルソ連なども天皇制廃止を求めていた。
第二次世界大戦中からアメリカ国内では「天皇戦犯論」が高揚した。1945年6月初旬に実施されたギャラップ社の世論調査では、「戦後、日本国天皇をどうすべきであると考えるか?」との問いに対し、殺害・苦痛を強い餓死36%、処罰・国外追放24%、裁判に付し有罪ならば処罰10%、戦争犯罪人として処遇7%、不問・上級軍事指導者に責任有り4%、傀儡として利用3%、その他4%、意見無し12%との結果が出た(山極晃・中村政則編集『資料日本占領1 天皇制』大月書店)。1945年9月には上院で「天皇を戦争裁判にかけよ」と決議されるに至った。
これに対し、アメリカ政府は天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をした方がアメリカの国益に適うと判断したため、天皇制はGHQによって存置された[9]昭和天皇の国内巡幸が大歓迎を受けたことも影響している)。ただし、天皇制に関して民主化を行う必要はあると判断し、皇室財産の凍結、不敬罪の廃止などを日本政府に求めたほか、新憲法によって天皇から統治権を剥奪し、天皇の権限を大幅に縮小することを求めた。

連合国占領終結後

戦後、日本国憲法によって思想・良心の自由言論の自由が保障されているため、言論によって天皇制廃止論を主張することが罪に問われることはなくなった。
用語面としては、廃止論者は天皇、皇族の実名を名指しして呼ぶ他(目上のを避ける習慣である「避諱」は当然否定されることになるため。また皇族には姓がない)、実名をカタカナ表記する傾向が目に付く(「明仁」を「アキヒト」など)。
天皇皇族の国内での行幸啓など訪問があった場合、訪問先の周辺で反天皇制的な集会(公道でのデモなど)が差し止めになることがある、天皇関連の本を持っていただけで職務質問されたなど、過剰警備による言論・表現集会などの自由権が制限され、憲法に違反しているなどとされることがある。[要出典]

天皇廃止論について

憲法上の議論

天皇について規定した日本国憲法第1章法の下の平等を定めた日本国憲法第14条が相反するとの主張がある一方で、憲法は天皇を明確に14条の例外として規定しているとの論が存在する。また、逆に「皇室にうまれてしまった」偶然により大幅な権利制限がなされる。当然市民に認められる権利が認められないのは14条の「門地」による差別ということができる[10]

共産主義と「天皇制」

谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉はごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られていなかった。この言葉は日本製ではなく1923年(大正12年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党(コミンテルン日本支部)にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語である。戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知った。これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生した[11]という。
また中西輝政によれば、ソ連が天皇制廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても天皇制廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになる[12]という。

部落解放運動

京都部落問題研究資料センター所長であった灘本昌久が公表した「部落解放に反天皇制は無用」論に対し、前身の京都部落史研究所所長であった師岡佑行は「徹頭徹尾間違っており日本共産党が綱領から『君主制の廃止』をはずすのと同じく時流におもねるものである。貴族あれば賤族あり[13]である。また天皇制の裏構造としての『救済幻想構造』があり、日本帝国主義のメカニズムの中では、辺境にあったり、疎外されていた人ほど、いったん信じると、天皇にたいする忠誠心や、天皇の下で我々も平等に扱われたいという、一体化願望を強くもつようになる。底辺にいるたとえば被差別部落民の中にも、熱狂的な天皇主義者が多かった」と批判した[14]

廃止論の種類

進歩派の観点からの廃止論

戦後の一時期、丸山真男らいわゆる戦後の進歩派は、ヨーロッパ市民革命思想への共感から、当面は天皇の政治的権能を縮小し、将来はフランス共和制(ここでは第四共和制を指す)の議会制民主主義による象徴大統領制を実現すべきだと主張した。
また、高野岩三郎は天皇制を封建制の遺物であるとし、日本共和国憲法私案要綱を作成するなどした。

昭和天皇の戦争責任の追及

大日本帝国憲法において、天皇は「陸海軍を統帥す」と規定されていたことから、天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行すべきとするものがある。
ただし、この種の意見は天皇制に対する批判と昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまうことが多く、必ずしも天皇制廃止論に結びつくものではない。そのため、1989年に昭和天皇が崩御し明仁親王が天皇に即位すると、昭和天皇の戦争責任追及とそれを根拠とした天皇制廃止論とが分離し、戦争責任論からの廃止論は下火になった。
また、朝鮮半島中国においてはかつての日本の植民地支配や戦争が天皇大権によって遂行されたことから、天皇制が存続していることに反発する動きもある。

法の下の平等および人権との矛盾

天皇および皇族は、職業選択の自由居住移転の自由言論の自由信教の自由など自己決定権にかかわる多くの人権を制限されており[15]、また、プライバシーを侵害されることもあることから、これら非自然人的立場から解放するためにも天皇制そのものを廃止すべきだと主張する立場(この思想は天皇解放論とも呼ばれる)。
天皇・皇族はマスコミに追い回されて仮に嫌な思いをしても常に笑顔でいることが求められる(「アルカイック・スマイル」と表する)[独自研究?]イギリス王室では王子はスパルタ教育ボーディングスクール、長じてはサンドハースト王立陸軍士官学校に入れられ、戦争の際は戦線に出ることが求められる。また、エリザベス女王は王位継承権第1位に決まったとき、人前で感情を露わにすること(声を出して笑ったり泣いたり)が禁じられたなどである(『世界ふしぎ発見』で扱われた)。

封建制・身分制の名残への反発

制度をもって特定の家系および個人を敬意の対象とすることは個人崇拝の制度化である。大日本帝国憲法下での臣民とさほど変わらぬ位置に置くのと等しく、時にはそのために批判が行いにくい状況が発生する。また、皇室の家族制度のあり方は旧民法家制度に象徴される家父長男系主義であり、伝統とはいえ両性の法的平等の理念になじまない。
日本国憲法において天皇の地位は「日本国及び国民統合の象徴」(第1条)であると規定されているが、この地位の継承に世襲を前提としている点は第14条と明確に矛盾している。ここから「天皇」という身分が世襲によって受け継がれることを疑問とする意見もある。部落解放同盟の指導者松本治一郎は「貴族あれば賤族あり。人間神をつくるために人間獣がつくられる」と主張した。

平等性の観点

国民就職に苦労し、常に失業給与削減の危険に脅かされているのに比べ、天皇皇族が生まれながらにして一定の職務と生活水準とを保障されているのは不平等であり(極端な形の世襲の“国家公務員”)、また、皇室のためのみに存在する宮内庁公務員の地位について定めた日本国憲法第15条違反であると批判する立場。

歳費の観点

毎年、皇族の生活資金や公務費、約1000人存在する宮内庁の職員(特に、天皇家固有の宗教儀式に携わる内廷関係者)の人件費、また皇居の維持補修費などに巨額の税金が投入されており、その点を税金の活用方法として有効でない・無駄であると批判する立場。

宗教上の観点

天皇は日本神話神道儀礼と不可分一体の関係にあることから、天皇を国家体制の一部とすることは日本国憲法で保障された政教分離信教の自由に違反すると批判する立場。ちなみに、天皇という呼称は神道では「スメラノミコト」、「スメラギノミコト」とも呼び、「スメラ=統べる」、「ミコト=カミ」、つまり「統べるカミ=統治、君臨するカミ」、という意味である。以下、主要宗教毎の事例を記す。
仏教
仏教を開祖釈迦シャカ族の王子として生まれたが、厳格な身分制度に嘆き出家して覚りを開いてカースト制度を否定したことで知られる。そのことから、仏教徒の一部には天皇制に反対する者がいる。
しかし、仏教国で君主制が続いている国も多く存在することや、仏教の僧侶が自分の子に住職の跡継ぎを期待する風潮、さらには、日本への仏教伝来時から天皇、皇族、朝廷の長らく且つ多大な信仰、神仏習合の慣例により日本仏教が興隆しているので、その矛盾は否めない。[独自研究?]
公明党の支持基盤の創価学会の創立者・牧口常三郎戦前治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕され、取り調べで「国家隣組その他それぞれの機関或いは機会に於いて国民全体に奉斉せよと勧めております処の伊勢大廟から出される天照皇太神大麻を始め明治神宮靖国神社香取鹿島神宮等その他各地の神宮・神社の神札、守札やそれ等を祭ってある例えば荒神様とか稲荷様、不動様という祠等一切のものを取払い、焼却破棄しています。(中略)もちろんこれ等の神宮神社仏寺等への祈願の為参拝することも謗法でありますから、参拝しない様に、謗法の罰は重いから、それを犯さないように指導しているのであります。」と述べた。
キリスト教
弓削達(元フェリス女学院大学学長)、福田歓一キリスト教徒の学識者によって天皇制廃止論が唱えられた。
1927年創立のWatch Tower(日本燈台社:現在のものみの塔)の日本支部員の3名が1939年に召集され、「天皇は元来宇宙の創造主ヱホバに依り造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪導下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、天皇に忠誠を誓う等の意思は毛頭なき」ことなどを述べ、不敬罪に問われた[16]
神道
大本の「十二段返しの歌」という七五調の宣伝歌の四段目を右から左に読むと「綾部に天子を隠せり」、八段目を左から右に読むと「畏多くも、今の天子偽者なり」とあった。出口王仁三郎は不敬罪・治安維持法違反で起訴され、裁判では出口は関与を否定したが不敬罪で有罪となった。
教団の綾部亀岡の聖地はダイナマイトで破壊された。逮捕された信者のうち16名が拷問で死亡した。大本事件参照。
イスラム教
イスラーム教国、特にアラビア半島にはカリフスルタン首長などと呼ばれる君主のもとで、いまだに選挙制度が導入されず、伝統的な専制君主制が続いている国が多い。しかしながら、昭和初期の日本天皇との関連では、天皇は現人神とされたため、伝統的なスンナシーア派の教義に抵触していた。正統イスラームでは神が人間に具現化すると考えるのは異端であり冒涜的であると考えられており、個人を神に例えるのは罪の一つと考えられている[17]戦中、日本がオランダ領東インドと英領マラヤ(大半がイスラム教徒)を占領していた頃、皇居の方角へ向かって拝む「東方遥拝」を強制したため、現地人の反発を招いた。

法律上の問題

天皇皇族は憲法や法律上、国民とはやや異なった立場にある。
天皇が国民と比較して制限されているものとして憲法の基本的人権の規定の適用が考えられる。憲法の人権規定については制限されているといってよい。ただし、多くの場合、具体的に法律で制限されているわけではない。
天皇が国民であるかどうかについては憲法上の論争があるが、個人としての天皇について憲法は明文の規定を置いていない。したがって天皇の法的位置は解釈による。個人としての天皇の人権に法律上特例が認められることを憲法上理由付けるものの1つは天皇が象徴という特殊地位につくことであり、2つは皇位が世襲であることであり、3は個人としての天皇が象徴としての天皇と不可分だということである。一方で、個人としての天皇が国民と異ならないと解する見解もあり、この見解によれば憲法のいう国民の人権と自由を原則として享有する主体である。ただ、象徴担荷者または世襲制に伴う制約を受けることになる[18]。なお、住民登録は例外ではなく、千代田区民や港区民(赤坂御用地内の場合)として為されている。
天皇の「特権的」なものとしてまず考えられるのは生活と住居の保障が考えられる。現行憲法に規定された象徴担荷者としての名誉に相応しい額の歳費国庫から支出されており、これは憲法上の規定から世襲的なものである。なお、天皇は納税の義務を免ぜられているというのは誤りである。不時の支出に備えて保有する資産や若干の貯金に対する利子や出版物の印税など個人資産の収入については所得税住民税を納める。固定資産についてはいずれも国有財産である皇室財産であるので課税されない[19]昭和天皇の崩御に際して明仁親王(今上)は4億2,000万円の相続税を納めている[20]
皇室典範21条の類推により訴追を受けないと解されている[21]。これによっては天皇の側から訴追する権利は失われない。

世論調査

日本国憲法公布・施行前の1946年5月27日毎日新聞朝刊に結果が載った世論調査では、象徴天皇制への支持が85%であり[22]、終戦直後でも多くの国民が皇室の存続に賛成していた。
その後、メディア各社が行った世論調査の推移を見ると、1990年では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人の割合は73%だったとされ[23]、2000年には象徴天皇制を支持したのが8割とされ[24]、2002年には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる[25]
NHKが2009年10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇に政治的権限を与える」が6%であり、「天皇制は廃止する」は8%となっている[26]

脚注

  1. ^ 神崎清『革命伝説』芳賀書店
  2. ^ 石井孝 『明治維新と自由民権』 有隣堂(原著1993年)。ISBN 4896601157
  3. ^ 「反帝」は「反帝国主義」の略。共産党系の組織。後に弾圧されて解散。
  4. ^ 『昭和八年中に於ける社会運動の状況』 警保局、内務省(原著1934年)。「天皇制に対する反対運動」の項。
  5. ^ 小田切秀雄 『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』中巻、明治文献資料刊行会(原著1981年)、p. 485。
  6. ^ 山崎は前日の3日に「これからも天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と発言した。
  7. ^ この発言は日本国憲法第1条に取り入れられた
  8. ^ 産経新聞』の創刊は1958年のことである。「産経時事」から改題した。
  9. ^ 小室直樹によれば、アメリカは天皇の権威を20個師団に相当すると見ていたという
  10. ^ 中井多賀宏「ポケット図解最新憲法がよーくわかる本」秀和システム、P158
  11. ^ 谷沢『「天皇制」という呼称』(鷲田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所P617)
  12. ^ 中西『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』PHP研究所、P.181-182
  13. ^ 日本社会党委員長で部落解放運動に功績のあった松本治一郎の言葉。
  14. ^ 「反天皇制は部落解放の核心である」師岡佑行(京都部落問題研究資料センター通信Memento2003.7.25)[1]P.13その他
  15. ^ 皇后美智子ミッション系大学である聖心女子大学の卒業生という事で物議を醸した事もある。なお、ほとんどの宗教系学校は入学の際の入信を義務付けておらず、また信徒が入学するからといって優遇される事もない
  16. ^ 同調した信者53名は治安維持法起訴され、同支部は宗教団体法により結社を禁止された。主幹者明石順三は懲役12年。蔵田雅彦「日本統治下朝鮮における灯台社の活動と弾圧」、『国際文化論集』第1巻、桃山学院大学、1990年3月、 pp. 109-122、 ISSN 09170219、2009年2月12日閲覧。および法政大学大原社会問題研究所「第四章 宗教運動」、『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動』、法政大学、1965年10月、2009年2月12日閲覧。を参照。
  17. ^ Philips, Abu Ameenah Bilal. The Fundamentals of Tawheed (Islamic Monotheism). Al-Hidaayah. ISBN 1898649405.
  18. ^ 「天皇の“おことば”について」浦田賢治(早稲田法学1963-5-15)[2] (PDF) P.31[3]
  19. ^ 国会議事録第114回参議院内閣委員会4号平成元年6月20日 宮尾盤宮内庁次長 発言番号251、253
  20. ^ 皇室の相続税課税については相続税法12条の非課税財産のうち第1号「皇室経済法第7条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物」すなわち「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」については非課税となっている。ただ、したがってその他の財産、例えば有価証券や預金などは一般私人の財産と同等の性質を持つものとして課税対象になる。これは天皇が皇室(宮家)の財産を相続する場合も同様で、昭和天皇についても、過去に貞明皇后あるいは秩父宮の相続に際して相続税の納税申告を行った。(国会議事録第114回衆議院法務委員会4号平成元年6月14日 野村興児大蔵省主税局税制第三課長 発言番号311)
  21. ^ 過去に政府委員による国会答弁として「…天皇につきましては訴追を受けないというようなことは、特別の規定はございませんが、皇室典範の摂政の二十一条「摂政は、その在任中、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。」というのがございまして、天皇の場合は、当然そういうことから考えても訴追はされないという解釈でございます」(瓜生順良宮内庁次長)がある。第46回参議院内閣委員会29号(昭和39年5月7日)発言者番号21
  22. ^ “毎日新聞1946:新憲法の政府草案を歓迎 改憲論争、50年代に原形”. 毎日新聞. (2016年2月8日2016年5月3日閲覧。
  23. ^ 読売新聞1990年01月06日朝刊
  24. ^ 毎日新聞2000年9月。
  25. ^ 全国面接方式の世論調査。朝日新聞2002年12月22日。
  26. ^ “平成の皇室観”. NHK. 2012年5月20日閲覧。

関連項目

文献情報

  • 竹田昭子 「アメリカの占領期メディア政策と放送 ―天皇制論議解禁―」『学苑』666号、1995年。
  • 竹田昭子 「「天皇制論議」解禁とマスメディア ―新聞の天皇制論議―」『学苑』673号、1996年。
  • 『教科書・日本国憲法』 一橋出版、2004年。教科書・日本国憲法 新訂版2007年 ISBN 4834833011
  • 「制憲前後の天皇像――象徴天皇制の解釈における“連続性”と“断絶性”序説」横田耕一(『法政研究』第45巻第1号 1978年)[4]※横田喜三郎の法論について記述あり。

外部リンク[ソースを編集]

  • 憲法に関するアンケート調査 調査報告書 (インターネット・アーカイブによる。以前自民党サイト内に掲載されていたもの)
  • 「投書に現れた天皇制の批判」(十月分)朝日新聞研究室、1945年12月24日。
  • 日本共産党綱領案 天皇制への共産党の基本的態度