夏真っ盛り。 時の流れとともに風景は変わっても、神社や寺の境内、公園、広場で早朝に見られる光景は昔のままだ。 ラジオ体操。
親に叩き起こされたような寝ぼけ顔の小学生たちが、とても体操とは呼べないダラダラした動作を嫌々ながら続けている。 大音響のラジカセのわざとらしい元気な掛け声がなんとも空しい。 十年一日のごとく、こうして気だるい夏の一日は始まる。
ラジオ体操は、まじめにやれば、きっと本当に健康に良いのだろう。 だが、子どもたちはなぜか昔から、適当に体操をやっているふりをして帰っていく。 いやなら参加しなければいいのに、無意味な体操なら止めればいいのに、朝寝の誘惑を断ち切って出席する。
早起きが苦にならない老人たちには適度な運動になるらしく、彼らは夏だけではなく一年中、積極的に集まってラジオ体操をやっている。 彼らの動作がやる気のない小学生の動作に似ているのは興味深い。 老人たちは一生懸命やっているつもりでも、からだが硬くなっているので、さぼっている小学生程度にしか動けないのだ。
老人たちは別にして、たいていの子どもがやりたがらない夏休みラジオ体操なのに、それがえんえん続く。
ラジオ体操は、1925年、米国のメトロポリタン生命保険会社が宣伝のために放送したのが始まりだ。 当時、米国へ視察旅行した逓信省簡易保険局の猪熊某という人物が帰国後、日本でのラジオ体操実施を提案し、1928年11月1日午前7時、天皇の御大典事業の一環で放送されたのが、日本での事始めとなった。
NHKで放送を担当した軍人上がりのアナウンサー江木理一はマイクの前でパンツ1枚で体操をしていたという。 だが、照宮成子内親王もラジオ体操にご執心と聞くや、燕尾服の正装で臨むようになったという。 無論、当時テレビはなく、文字通りラジオ体操だったのだが。
夏休みのラジオ体操会は、1930年7月21日、東京・神田万世橋署の巡査・面高某が神田佐久間町の佐久間公園で「早起きラジオ体操会」を始めたのが起源とされる。
歴史は、ラジオ体操が昭和という時代に入り、官製の音頭取りで、日本が狂気の戦争へ突入するための助走を開始するとともに始まったことを教える。
「早起きラジオ体操会」が始まった翌年1931年7月「ラジオ体操の歌」発表、その2か月後の9月、日本は中国東北部への侵略を開始(満州事変)。
1932年7月、青壮年向けラジオ体操第2制定、「全国ラジオ体操の会」始まる(参加者延べ2,593万人)。 満州国独立。
1933年、日本が国際連盟を脱退。
1937年、日中戦争へ突入。
1938年、国家総動員法。
1941年、太平洋戦争。
ラジオ体操は、国民の一体感を醸成し、無謀な戦争遂行に欠かせなかった全体主義支配体制構築に貢献したのだ。 実際、太平洋戦争後の一時期、ラジオ体操は軍国主義的色彩を理由に禁止されたことがある。
それでは、なぜ戦後も夏休みのラジオ体操はだらだらと続いているのだろうか。 単なる惰性か。 まさか、全体主義国家復活のための地道な努力ではあるまい。 北朝鮮のマスゲームのように一糸乱れぬラジオ体操であれば、薄気味悪い。 むしろ、やる気のない、いいかげんな体操だから誰も文句を言わず、受け入れられているのかもしれない。
それだけではなく、文句を言わずに参加するところに意義があるのだと思う。 個人よりも集団の意思を尊重する日本社会の集団主義形成の基礎を学ぶ場になっているのだ。
どんなに疲労しても満員電車に揺られて出勤する父親たちのメンタリティを、小学生たちは早起きラジオ体操に、意思に反して参加することで学んでいる。
だが、もう、それは止めたほうがいいかもしれない。 我慢のメンタリティは、戦後日本の高度経済成長の土台になったが、従順なヒツジたちの時代は終わった。 今後の時代は、ラジオ体操参加の呼びかけを平然と無視する強い個性を持つ悪がきたちが、新しい未来を冒険的に創造していくにちがいない。
(ラジオ体操を提唱した逓信省簡易保険局とは現在の「かんぽ生命」で、今も学校などを通じて無料配布されるラジオ体操出席カードの主たるスポンサー)