2013年3月28日木曜日

地下に潜った東横線渋谷駅



  2013年3月16日、東横線渋谷駅が地上から消え、地下5階へ引っ越した。 幼いときから渋谷に馴染んでいた団塊世代のオヤジが言った。 「今さら寂しいなんてことがあるわけがない。 オレの知っている渋谷なんて、とうの昔に消えてしまったよ」

 ダンス教室とボクシングジムは、どうして昔から駅の近くの電車の轟音が響くような線路際にあるんだろうね。 オレの記憶にあるのは、東横線の学芸大学駅そばにある笹崎ジムだよ。 「槍の笹崎」と呼ばれた名ボクサーが開いたジムで、のちのファイティング原田はここで育った。 東横線がまだ地上を走っていたころで、ちょうどジムの前あたりで線路の柵によじ登って電車が通るのを飽きることなく眺めていたものだ。

 小さいころの特別の楽しみは、なんと言っても、母親に連れられて渋谷に行って、東横百貨店最上階の食堂で食事をすることだったなあ。 何を食ったかは記憶にないが、たまの贅沢であったのは間違いない。 食事のあとは屋上に行って、下を通る長い貨物列車の台数を数えるのが楽しみだった。 冬の列車はどこか遠くから雪をたっぷりと屋根に積んできていた。 東京では雪はたまにしか降らない。 あんなに雪が降るのは、一体どこだろうかと想像をたくましくしたもんだよ。

 今の道玄坂横にある「109」のあたりは、戦後闇市の名残りが漂う、ちっぽけな店がひしめいていた。 中学に入るとき、母親は渋谷で学生服を買ってくれたが、東横百貨店ではなかった。 道玄坂の狭い路地を入ったあたりの店に行って、息子の前で懸命の値切り交渉をしていたのを憶えている。

 ヤクザの安藤組の名を耳にしたのは、いつのころだろうか。 インテリ・ヤクザで映画俳優にまでなった安藤昇が渋谷を根城に仕切っていた暴力団だ。 小学生のころは、友だちが、渋谷駅の構内で刃物を振り回して血まみれになって喧嘩する光景を見たという話をよく訊いた。 きっと、尾ひれを付けて面白がらせていたんだろうけど。

 そのころは、玉電沿線に住んでいたが、あれはひどい路面電車だった。いつも混んでいてノロノロ走る。 当時、「東急電鉄」の英語略称は「TKK」だった。 沿線のおとなたちは「とても」「込んで」「困る」の頭文字だと揶揄していたし、そのころのワンマン経営者・五島慶太は「ごとう」ではなく「強盗」と呼ばれていた。

 百軒店通りの淫靡な雰囲気も忘れがたい記憶だなあ。 子どもには入りづらかった。 テアトルSSなんていうストリップ劇場みたいのがあったし、あの通りの奥の方には怪しげなホテルもあって、子どもには何が悪いのかわからなかったけれど、とにかく行ってはいけないところという不文律みたいなものがあったと思う。

 インフルエンザというのは、昔、「流感」と言っていたのと同じかなあ。 中学時代は流感で臨時休校になると、渋谷へ映画を見に行った。 補導教師風のおとなに注意して、スリルを楽しみながら映画館にたどり着いたときの達成感はたまらなかった。

 大学のころは、新宿とか日比谷あたりの反日米安保、反ベトナム戦争のデモに行って、機動隊に追われたあと、渋谷まで逃げて、山手線沿いののんべえ横丁とか井の頭線下の安酒場で酒盛りをしたもんだ。 今になってみると、あの不味い合成酒の味と臭いが懐かしいねえ。

 無論、渋谷で恋も失恋もした。 渋谷周辺で生まれ育った団塊世代は、課外授業の多くを渋谷で受けて成長してきたんだと思う。 あの街で世の中の仕組みみたいなものを自然に学んできたんだろうね。 だが、今の渋谷は、あのころの渋谷とは別ものだ。 いつの間にか、われわれが親しんだ渋谷は消えてしまった。

 いったい、いつごろからだろう。 気が付いたら子ども向けの幼稚な人工的テーマパークみたいになっていた。  だから、オレたちは、とっくの昔に渋谷にサヨナラを言っていた。 東横線の駅が地下に潜って変わったという渋谷は、オレたちの言う渋谷でもなんでもない。 知らない国の知らない街の出来事なんだよ。

2013年3月19日火曜日

あれから2年

(2012年5月12日・福島県南相馬市鹿島区北海老で)


<2011年3月下旬 ニューヨーク・タイムズ東京支局長マーティン・ファクラー>

  南相馬市役所へは、事前のアポイントを取らずに向かった。 役所に着くなり、職員から「ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞ中へ」と大歓迎され、 桜井市長自らが「よく来てくれました」と迎え入れてくれた。 なぜ、こんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。 南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。

 南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。

 「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!」

 市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。 だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げていまったという。 もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。

 メディアを使って情報を発信する手段を失った桜井市長は、ユーチューブという新しいメディアを利用することにした。 記者やカメラマンの手を借りることなく、自らがニュースの発信者としてチャンネルを開いたのだ。

 ユーチューブの映像は世界を駆けめぐり、ニューヨーク・タイムズの記者である私が突然アポイントなしで取材に訪れた。 新メディアであるユーチューブの映像を追いかける形で、紙の新聞であるニューヨーク・タイムズが桜井市長の声を報じた。 

 その後、日本の新聞やテレビ局はユーチューブを引用する形で桜井市長の声を報道しだした。 記者クラブ詰めの記者がわれ先に逃げ出してしまったことには蓋をして、南相馬市のニュースを伝える報道機関の姿は、私には悪い冗談にしか思えなかった。

(「本当のこと」を伝えない日本の新聞<双葉社>より)

2013年3月2日土曜日

自由が丘のタイ料理屋で

(台北の屋台で)
  何年か前、日本外務省が、正統の日本料理を世界に普及させるために、調理基準を作って各国で指導しようという計画を作った。 日本料理が国際的になるにつれ、日本人の伝統的感覚からすれば奇妙きてれつな料理も登場してきたからだ。 当時、日本メディアはさしたる関心を示さず、事実だけを淡々と報じた。 だが、ヨーロッパや米国の東京特派員たちは、たっぷりと皮肉のスパイスで味付けした記事を書いた。

 彼らが外務省計画にカチンときたのは、「他人が食っているものに口出しするな、余計なお世話だ」というところにつきる。

 アメリカ人記者は、自分たちの味覚音痴は棚に上げて、外務省の上から目線の”規制”を”food police”と揶揄し、 サンドウィッチが誕生したイギリスの記者は、「外務省が決めた味付け以外は日本料理じゃないと言うなら、われわれはサンドウィッチにポテトサラダを挟むのを許さない」とコラムでからかった。 どうやら、日本では当たり前のポテトサラダ入りサンドウィッチがイギリス人には非常に奇異にみえるらしい。 こういった反発があったせいか、外務省計画はいつのまにか立ち消えになった。

 世界中に広まっている中国料理は、国によって味に大きな違いがある。 それぞれの国の伝統の味や食材と混じりあい、独自の中国料理へと「進化」していくためだ。 だから、美食の街パリであろうと、日本人が「chinese restaurant」の看板を見て入った店で、「これが中華かよ!」と顔をしかめてしまうことがあるのも当然なのだ。

 1991年2月、中東ヨルダンの首都アンマンのインターコンティネンタル・ホテル近くにある小さな中国レストランで奇妙なことが起きた。 日本人からすれば食えた代物ではなかった料理の味が、日々どんどん変化し、日本のラーメン屋で出てくる一品料理、野菜炒めとか麻婆豆腐などに非常に近い味になった。 

 「進化の突然変異」を実現したのは、煎じ詰めれば、ヨルダンの隣国イラクのあの独裁者サダム・フセインだった。 サダムのクウェート侵攻で米国を中心とする多国籍軍とイラクとの戦争が始まった。 外国人記者たちの報道拠点となったインターコンには多数の日本人記者も集結した。 日本人たちはホテル近くの中国料理屋で昼飯を食べるようになったが、味が物足りない。 そこで、誰もが料理人に一言注文をつけるようになった。 一人が一回一言でも、数十人いたから注文の蓄積は膨大だ。 中には調理場まで、ずかずかと入り込んで指導する猛者まで現れた。 「突然変異」は、こうして起きた。

 ただ、これも心優しいヨルダン人ゆえに可能になったのだと思う。 同じ中東でもパレスチナ人の土地を強引に奪い取ってイスラエル国家を作ってしまったユダヤ人では、こうはいかない。

 日本料理の世界的ブームはイスラエルにも到達し、エルサレムやテルアビブにも日本レストランが開店した。 だが、案の定、ひどい味だった。 友達の日本人は「ホンモノの日本料理とはちょっと違うなあ」とイスラエル人店主にコメントした。 これに対する反応は、周囲に敵を作ってでも生きていこうとするイスラエル人そのものだった。

 「われわれは、あんたたち日本人を相手に商売しているわけではない。 イスラエル人の客が喜ぶ味を出している。 日本人に合わなくてもイスラエル人が旨いと言えばいいんだ」

 正論ではあろう。 日本の街の食堂でカレーライスを注文したインド人が「これはインド料理ではない」と文句をつけても、日本人が味を変えないのと同じ理屈だ。 

 きのうの夜(2013年2月28日)、 東京・自由が丘で人気のタイ料理レストランへ数年ぶりに行った。 かつてタイに住んでいた経験からして、この店の味は限りなく本場の味に近いと思った。 ここで食事をしていると、バンコクにいるような気分になれた。 だが、いつも混んでいるのでテーブルをなかなか取ることができない。 それで何年も行きそこなってしまった。 昨晩は、わざわざ予約をして行ったのだ。

 この店は、若い女の客が90%以上を占め、みんな幸せそうに食事を楽しんでいる。 まずは、大好きなタイ風さつま揚げ「トートマン」を前菜替わりに注文した。 トートマンは、魚かエビのすり身に辛い味付けをし油で揚げたものだ。 この店ではエビを使っていた。 タイでは庶民的な食べ物で道端の屋台でも売っている。 

 われわれはワインを飲みながらトートマンが出てくるのを待っていた。 だが、ウエイトレスが持ってきた皿を見て驚かされた。 タイで誰もが知っているトートマンとは似ても似つかない食べ物が出てきたからだ。 それは、パン粉をつけて揚げたメンチカツみたいなものだった。 トートマンは素揚げが普通だ。 恐る恐る味見してみると、不味くはないが、辛みも独特の匂いもなく、本来のトートマンとは異なる別の食べ物だった。 日本に初めて来たインド人が日本のカレーライスをインド料理だと言われて食べた印象が、きっとこんなものだったに違いない。

 この店の以前の味を知っているだけに、あまりに見事な味の日本化に唖然とさせられた。 がっかりして、すぐに出ることにした。 ただ、若いウエイトレスは、とても率直だった。 シェフは前と同じようにタイ人だが、料理の味は客の好みに合わせて変えたそうだ。 「前の味の方が良かったですか? 上の人に言っておきますよ」。

 それにしても、タイ人料理人の環境への器用な適応ぶりは、なんとも凄い。 タイ料理ではないタイ料理を言われるままに、それなりの味にして作ってしまうのだから。

 いったい、旨い料理とは何だろう。 アメリカ人が発明したカリフォルニア巻きなどという寿司を日本人は小ばかにしていたが、いつのまにか日本の寿司屋の定番メニューになってしまった。 そのうち、バンコクでも、日本生まれのメンチカツみたいなトートマンをタイ人が喜んで食べるようになるかもしれない。

 きっと、どんなに不味い料理でも、にこにこして食べるのが、これからの真の国際人の正しいマナーなのだ。 そうやって、じっと我慢していると、味がまた変わってくる。 

 その例がアメリカにある。 メキシコ料理のタコスはアメリカに広まって典型的ジャンクフードになった。 しかも、ひどい不味さ。 メキシコ文化に対する侮辱以外のなにものでもない。 味覚音痴のアメリカ人は、料理の量は認識できても味はわからない。 ところが、近ごろ、アメリカのタコスが大きな変化を遂げ、食える代物になっている。 それどころか、本場にも負けない味の店も増えている。 その理由は、メキシコからの移民が急増したことだ。 彼らの味覚に対応するために、タコスは「メキシコ回帰」したのだ。

 が、それにしても、とりあえず、旨いトートマンを食える店を探さなければ。