2013年3月16日、東横線渋谷駅が地上から消え、地下5階へ引っ越した。 幼いときから渋谷に馴染んでいた団塊世代のオヤジが言った。 「今さら寂しいなんてことがあるわけがない。 オレの知っている渋谷なんて、とうの昔に消えてしまったよ」
ダンス教室とボクシングジムは、どうして昔から駅の近くの電車の轟音が響くような線路際にあるんだろうね。 オレの記憶にあるのは、東横線の学芸大学駅そばにある笹崎ジムだよ。 「槍の笹崎」と呼ばれた名ボクサーが開いたジムで、のちのファイティング原田はここで育った。 東横線がまだ地上を走っていたころで、ちょうどジムの前あたりで線路の柵によじ登って電車が通るのを飽きることなく眺めていたものだ。
小さいころの特別の楽しみは、なんと言っても、母親に連れられて渋谷に行って、東横百貨店最上階の食堂で食事をすることだったなあ。 何を食ったかは記憶にないが、たまの贅沢であったのは間違いない。 食事のあとは屋上に行って、下を通る長い貨物列車の台数を数えるのが楽しみだった。 冬の列車はどこか遠くから雪をたっぷりと屋根に積んできていた。 東京では雪はたまにしか降らない。 あんなに雪が降るのは、一体どこだろうかと想像をたくましくしたもんだよ。
今の道玄坂横にある「109」のあたりは、戦後闇市の名残りが漂う、ちっぽけな店がひしめいていた。 中学に入るとき、母親は渋谷で学生服を買ってくれたが、東横百貨店ではなかった。 道玄坂の狭い路地を入ったあたりの店に行って、息子の前で懸命の値切り交渉をしていたのを憶えている。
ヤクザの安藤組の名を耳にしたのは、いつのころだろうか。 インテリ・ヤクザで映画俳優にまでなった安藤昇が渋谷を根城に仕切っていた暴力団だ。 小学生のころは、友だちが、渋谷駅の構内で刃物を振り回して血まみれになって喧嘩する光景を見たという話をよく訊いた。 きっと、尾ひれを付けて面白がらせていたんだろうけど。
そのころは、玉電沿線に住んでいたが、あれはひどい路面電車だった。いつも混んでいてノロノロ走る。 当時、「東急電鉄」の英語略称は「TKK」だった。 沿線のおとなたちは「とても」「込んで」「困る」の頭文字だと揶揄していたし、そのころのワンマン経営者・五島慶太は「ごとう」ではなく「強盗」と呼ばれていた。
百軒店通りの淫靡な雰囲気も忘れがたい記憶だなあ。 子どもには入りづらかった。 テアトルSSなんていうストリップ劇場みたいのがあったし、あの通りの奥の方には怪しげなホテルもあって、子どもには何が悪いのかわからなかったけれど、とにかく行ってはいけないところという不文律みたいなものがあったと思う。
インフルエンザというのは、昔、「流感」と言っていたのと同じかなあ。 中学時代は流感で臨時休校になると、渋谷へ映画を見に行った。 補導教師風のおとなに注意して、スリルを楽しみながら映画館にたどり着いたときの達成感はたまらなかった。
大学のころは、新宿とか日比谷あたりの反日米安保、反ベトナム戦争のデモに行って、機動隊に追われたあと、渋谷まで逃げて、山手線沿いののんべえ横丁とか井の頭線下の安酒場で酒盛りをしたもんだ。 今になってみると、あの不味い合成酒の味と臭いが懐かしいねえ。
無論、渋谷で恋も失恋もした。 渋谷周辺で生まれ育った団塊世代は、課外授業の多くを渋谷で受けて成長してきたんだと思う。 あの街で世の中の仕組みみたいなものを自然に学んできたんだろうね。 だが、今の渋谷は、あのころの渋谷とは別ものだ。 いつの間にか、われわれが親しんだ渋谷は消えてしまった。
いったい、いつごろからだろう。 気が付いたら子ども向けの幼稚な人工的テーマパークみたいになっていた。 だから、オレたちは、とっくの昔に渋谷にサヨナラを言っていた。 東横線の駅が地下に潜って変わったという渋谷は、オレたちの言う渋谷でもなんでもない。 知らない国の知らない街の出来事なんだよ。
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