(3・11付けスポーツ新聞のトップ記事は、坂上二郎の死去。 忘れられても仕方ない。=南相馬市のコンビニで撮影) |
それぞれの<3・11>、普通の人の<3・11>。 テレビや新聞で報じられたようなドラマはない。 けれど、たいていの人たちは淡々と生活しながら、<3・11>を記憶に記している。
以下、友人たちの<3・11>。
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今日であの震災から3年経ちました。盛岡を歩いていても震災の影響はどこにも見られませんが、街のアチコチに今でも「頑張ろう東北」の文字が見受けられます。
昨日は義母の96歳の誕生日で、お赤飯を持参して身内だけのささやかな昼食でお祝いしました。足腰と耳が遠くなりかけた以外は元気で、今でも軽い農作業をしています。 我が家の車庫も建ててもらいましたので、沢山恩返しをしなければいけないですね。
朝の散歩コースにウイットに富んだアパートが有りますので紹介します。左の棟が「Carl」、右の棟が「Lewis」です。大家さんは陸上競技が好きなのでしょうね。 私でしたら「マリリン」、「モンロー」にしたかもね。
震災の日、平和な盛岡です。
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2011年3月11日午後2時46分、ボクは大田区内のスーパーの横を歩いていました。 急にトタン屋根が強風でバタバタするような音が聞こえました。 安普請のスーパーの建物が揺れる音でした。 歩いているのに揺れを感じ、あわてて建物から離れると、スーパーの店内から何人もの買い物客が血相をかえて飛び出してきました。
友人の運送会社社長は、2時46分に「246」(国道246号線)をトラックで走っていました。 別の友人は昼間から新宿のションベン横町で飲んでいて、あわてて外に出て高層ビル群を見たら、ゆらゆら揺れていたので、飲みすぎて酔っ払ったと思ったとか。
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私の3.11は埼玉県の久喜市で起きました。地面が波うち、建物の大きなガラスが一瞬にして壊れ、駐車場の自動車が、あたかもカメレオンの動きのように前後に揺れている光景を見たときは、この世の終わりかと思いました。今でも鮮明に覚えています。
訪問していた企業から駅に送ってもらう途中では、屋根が崩壊した家が、一直線に並んでいる不思議な光景も見ました。後で分かったのですが、川を埋め立てて発達した久喜市は、そのとき液状化現象を起こしていたようです。結局その日は家には帰れず、やっと見つけた小さなホテルで一晩を過ごしたこと、その時に出された炊き出しに感激したこと、とにかく寒かったことなどなどを憶えています。
今日の午後2時46分は家で黙とうしました。
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今日、震災の起きた午後2時46分に職場で黙祷。もう三年・・まだ三年なのか、などいろいろ考えました。
3年前は農水省の6階で崩れる本棚を一生懸命押さえていました。その後、少し前に起きたニュージーランドでの地震で建物が倒壊してもエレベーター部分だけが残っている映像を思い出して、本館の真ん中にあるエレベーターホールに移動して、余震に備えていましたが、今考えると滑稽です。
結局、あの日は帰れず、当然、飲み屋も開いていないので、事務所でテレビを一晩中見ながら椅子をくっ付けてごろ寝。翌朝、建設中のスカイツリーの近くまで行き、やっと開いていた牛どん屋で20時間ぶりのメシを食べました。
腹が空いているはずなのにあまり食欲はなかったように記憶しています。 でも、牛どん屋に感謝!!
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三年前のこの日は駒場東大前の目黒区のテニスコートで、まさにテニスの真っ最中。
私は審判台に座っていたのでいち早く揺れを感じたのですが、プレー中の仲間は私が止めるまで気が付きませんでした。
コートを囲むフェンスや大木、隣の大学入学試験センターや体育館も大きく揺れ、建物の倒壊から逃れようとコートの中央に集まりました。治まるまでかなり長い時間に思えましたが、全員自転車だったので無事帰ることができました。 246号の三宿あたりでは余震で高速道路が揺れていたり、ヒヤリとする場面も。
我が家近辺は地盤が固いと言われていました。 後日リビングボードの中の人形が倒れているのに気が付いた程度でした。しかし母が自宅で病に伏せ酸素吸入器を使用していたので、計画停電も無かったのが幸いでした。
目黒区は東山地区に高級官僚が多く住んでいるので停電はあり得ないとのもっぱらの噂でした。
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