2016年11月16日水曜日

多摩川でクルミを拾う

川辺のクルミ(多摩川ガス橋あたり)
アサリを採る人(多摩川河口・羽田空港)
  東京・多摩川の下流域で川っぷちを歩き回っていて、クルミの木がずいぶんあるのに気付いた。 場所によっては群生と言えるほど密集していた。

 枝にはたわわに実がなっていた。 足元には熟れた実が散らばっていた。  そうか、きっとクルミの実は川を流れて岸にたどりついて育っていたのだ。 川っぷちにクルミが群生していることがうなづけた。

 せっかくだからクルミを20個ほど拾って持ち帰った。 果肉をむしり取り、中から出てきた硬い殻をオーブントースターでしばらく熱したらヒビが入り、簡単に中身を取り出すことができた。 味見してみると旨い。 ビールのつまみにして全部食べてしまった。

 そして、ふと思い至った。 拾ったクルミを食べて、縄文時代人の生活を体験できたのかもしれないと。

 東京に住んでいては野生の木の実や果物をみつけて食べる機会はそうはない。 

 縄文時代の多摩川の様相は今とまったく違っていたらしい。 現在は高台になっている多摩川台公園あたりから大森あたりまでが、広大な三角州の縁だったようだ。 縄文人は、現在は高級住宅地になっている田園調布や山王にかけての川沿いを生活の場にし、ドングリやクリ、クルミを採取していたのだろう。 

 潮が引くと干潟になる三角州では貝を掘り出していた。 あの有名な大森貝塚から、我々はそれを知ることができる。  彼らが貝を採っていた光景は、今も羽田空港のすぐ横に展開されている。  シジミやアサリを掘る地元の人たちの姿は、おそらく縄文人たちと大きな違いはない。

 拾ったクルミを食べて縄文人になった気分で思った。 縄文人と我々は人間として、どれくらいの違いがあるのだろうかと。 彼らは遅れた原始人なのか。 我々は進んだ現代人なのか。 同じクルミを食べていると、2500年前に終わった縄文時代の人間と何が違うのかわからなくなってきた。

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