2012年10月15日月曜日

シアヌーク劇場の終演



 カンボジアの前国王ノロドム・シアヌークが、10月15日、北京病院で、長い療養生活の末、89歳で死んだ。 浮き沈みの激しい人生を、自ら創作した劇の登場人物を演じたように生きた男だった。 

 言うことがころころ変わる。 彼の言葉は、どこまでが本心なのか判断しかねる。 とはいえ、ジャーナリストからすれば、つい報じてしまいたくなるツボを心得た発言をする。 国際政治を生き抜いた天才的詐欺師だったのかもしれない。 国際支援のカネを使って、大好きなパリで贅沢三昧の生活をしていたことは秘密でもなんでもない。 

 あるいは、プロの亡命政治家と呼ぶべきかもしれない。 世界の注目を常に引きつけ、カンボジアという小さな国の存在を忘れさせないためなら、なんでもやってきた。 そして、1993年、カンボジア和平の実現によって、名実ともに国王に復帰した。

 とにかくマスコミが大好きだった。 1989年、東京でカンボジア和平に関する会議があったときの光景は忘れられない。 会議場から出てきたシアヌークは警備の警察官にはさまれ、まわりを多くの新聞記者に囲まれながら歩いていた。

 とても近寄れないので、数メートル離れたところから大声で、「ミスター・シアヌーク!」と呼びかけた。 すると立ち止まったので、再び大声で会議の見通しを質問した。 すると、彼は大真面目に返答してくれた。 だが、警察官に背中を押されて前に無理やり進めさせられた。 仕方ないと思ったが、彼の背中に向かって、もうひとつ質問してみた。 なんと、彼は首をねじって、必死に顔だけこちらに向けて、またもや答えてくれたのだ。

 駐在していたバンコクでカンボジア問題を追っていたころのことだ。 シアヌークは、慣れない東京で知らない記者たちに囲まれ戸惑っていたに違いない。東南アジア諸国で頻繁に開かれる記者会見で見たような顔に会って、ほっとして、いつもの調子でしゃべってくれたのだと思う。 首を不自然にねじ曲げて懸命に声を出していたときの彼の表情を思い出すと、今でも吹き出したくなる。

 シアヌークの親族には、マスコミ大好きの役者が実に多かった。 バンコクの高級ホテルのロビーで、タイ人記者とともに、シアヌークの娘をみつけ、一緒にコーヒーを飲んだことがある。 ついでに夜はディスコに行こうと誘ったら大喜びした。 残念ながら、その夜はこちらの方が忙しくなってデートは実現しなかったが。

 シアヌークは若いころ、自ら映画を作ったことがある。 どうにもならない駄作だったらしい。 だが、ノロドム・シアヌークは、「国王ノロドム・シアヌーク」という役を十分に演じきり、その衣装を着たまま満足して死んでいったのだと思う。

2012年9月17日月曜日

オリンピック東京開催を阻止しよう


 今、ニッポンにオリンピックが必要なわけがない。力をあわせ、 莫大な馬鹿げた浪費を止めようではないか。東日本大震災からの復興、経済格差の是正、社会保障の充実・・・。 日本には、成すべき重要な課題が山積しているではないか。

 国家主義復活の夢に執着する石原慎太郎が私物化しようとするオリンピックを実現させるほど、日本人、東京都民は愚かではないはずだ。

 1年後に2020年オリンピック開催地が決定する。 われわれは残された1年を有効に使い、東京でのオリンピック開催をなんとか阻止しようではないか。

 ロンドン・オリンピックに人々がどれだけ感動しようが、そのことと東京開催には、なんら関連性はない。  ちかごろ目にするキャンペーン・ポスターは、なんとも幼稚な感情的悪乗りだ。 

 東京開催の推進者たちがスローガンに掲げるように、どうしても東日本大震災からの復興と関連付けたいなら、東京ではなく、福島と仙台での開催を主張しよう。 もっとも、東北の人たちは、そんなカネがあるなら、オレたちを直接支援してくれと言うだろうが。

2012年9月14日金曜日

橋下徹という男



 「大阪維新の会」の橋下徹という男には、なぜか胡散臭さを感じる。 

 既成の政治家、政党、彼らが牛耳る政治に対する不信感が世間に拡散する中で、単純明快な物言いで扇動するスタイルが大衆受けしている。 だが、あの男には、祭りの神社の境内でインチキの安物を口車で売りつけるテキヤの怪しさが漂う。

 そもそも、あんな風に、自信過剰でべらべらとしゃべりまくる男がそばにいたら鬱陶しい。 いっしょに酒を飲みたい相手ではない。

 2012年9月13日付けの読売新聞朝刊は、橋下が中心になって旗揚げした新政党「日本維新の会」を特集していた。 その中で、国家主義右翼の元外務官僚評論家・岡崎久彦が、橋下をおおいに持ち上げていた。 この論評自体が論評の体をなしておらず、岡崎は橋下の掲げる政治スローガンが自分の右翼的思考と同じという理由で、橋下を買っている。 

 例えば、外交について。 岡崎は言う。 「日米同盟を基軸とし、『豪、韓国との関係強化』を目指すとした基本方針は明快だ。 民主党や自民党の政策よりも、米国や自由主義国との連携を重視する姿勢を鮮明にしている。 言葉を換えれば、『中国包囲網の形成』ということだ」

 従軍慰安婦問題について。 「橋下氏は、『証拠はない』『もしあるなら、韓国の皆さんに出してもらいたい』と当然のことを指摘した。 歴史認識がしっかりしているということだろう」

 さらに、教育については、「かなりわかっており、玄人といえるのではないか。・・・・・・・・大阪府知事時代には、教職員に国歌斉唱時の起立を義務づけた」

 右翼・岡崎の礼賛ぶりからよくわかるのは、橋下も国家主義的右翼思考の持ち主だということだ。

 政治不信が蔓延する中で、日本の国力が下降線をたどり、その一方、近隣の中国や韓国が国力を高めている。 こういう状況があるからこそ、橋下のような人物が国民のナショナリズム的感情・欲求不満に訴え、人気を高めることができるのは明らかだ。

 読売の同じ特集記事の中で、京大教授・佐伯啓思は、この点をしっかりと押さえている。

 「橋下は、常に簡単に実現できない目標を設定し、敵を作りながら敵を倒す、という手法をとってきた。 デマゴーグ型の要素が非常に強いポピュリズムともいえる。・・・大衆の中にある鬱積感情のようなものをうまく引き出し、自分のエネルギーに変えてしまえるまれな政治家で、小泉元首相に近い。・・・・・しかし、既成政党がダメだからといって経験不足の素人に政治を任せるのはあまりにリスクが高い」

 現在の日本は、第1次世界大戦での敗北を契機にドイツ帝国が崩壊したあと生まれたワイマール共和国の時代となんらかの共通点があるのだろうか。

 当時、民主的なワイマール憲法が導入されたが、政党が乱立し、政治の不安定化を招いた。そういう中で、ゲルマン民族至上主義を叫び、大衆の国民感情に訴えるナチスが台頭し、ヒトラーという化け物が誕生した。

 橋下がヒトラーほどの大物とは到底思えない。 が、人は道に迷ったとき、とんでもない方角へ向かってしまう。 怖いことだ。

2012年8月22日水曜日

山本美香の死と日本のメディア



 日本人ジャーナリスト山本美香が、内戦のシリアで銃撃され、死んだ。 戦争取材の現場で、死はロシアン・ルーレットみたいなものだ。 いつか誰かが確実に当たる。 ジャーナリストたちはそれをわかっていながら前線へ向かう。 彼女は血を流し、死につつあるとき、自分の命運を受け入れたはずだ。 

 彼女の死を伝える朝日新聞2012年8月22日付け朝刊の1面コラム「天声人語」は、こう書いている。

 「戦争ジャーナリストは割に合わない仕事である。 殺し合いの愚かしさを伝えるために我が身まで狂気にさらすのだから。 しかし、男でも女でも誰かがやらないと、情報戦のウソで塗られた戦場の真実は見えてこない」

 2面の記事では、中東アフリカ総局長・石合力も書いている。 「危険を冒して取材するのはなぜか。 虐殺や人道被害では、現場で記者が取材することが真実にたどりつく限られた方法だからだ」と。

 だが、朝日新聞は、山本が殺されたアレッポのようなシリアの危険な現場に記者を派遣していない。 上記のふたつの記事は奇麗事を並べていても、「わが朝日新聞は真実を取材しておりません」と告白していると受け取れなくもない。 これについて、同紙はなにも説明していない。

 一方、同じ日付の毎日新聞朝刊は3面で、同紙のシリア取材について、興味深い説明をしている。

 「毎日新聞はこれまで、シリア政府発給のビザを取得した上で入国し、取材にあたっている。 記者や助手、協力者の安全に配慮しつつ、できる限り現場で起きている事象を詳細に把握、より多くの当事者の声を聞き、正確な報道に努めている」

 これを翻訳すると、以下のようになる。

 「毎日新聞は、虐殺や反人道的行為を続け、国際的に非難されているシリア独裁政権から正式の許しを得て入国し、取材している。 山本美香のように、反政府勢力の手引きで非合法に入国する危険な取材は行っていない。 現場に直接行って、命をかけるようなことをせずとも、安全に情報を収集し、正確な報道ができると信じている」

 日本の大手メディアは、朝日、毎日に限らず、NHKに代表されるテレビも含め、自社の記者を、今回のシリアだけでなく、戦争などの危険地帯に派遣していない。 その理由は、経営側の意向が働き、行き過ぎた取材競争の末、社員を出張で死なせて莫大な補償金を払ったり、その他もろもろのゴタゴタに巻き込まれるのを避けたいためだ。 1991年のイラク戦争のときに、大手各社が手を組んで、戦争取材に記者を派遣しないという横並びの協定を結んだ。

 それ以来、日本の大手メディアは去勢されている。 日本人記者から命がけの冒険談を聞けるとしたら、それ以前の時期に最前線にいた連中で、現在はほとんどが現役を引いている。

 真実を追い求めることを使命としている新聞やテレビは、今回のような事件が起きると実に悩ましい。 朝日新聞のように、自己矛盾を露呈したり、毎日新聞のように訳のわかったような、わからないような奇妙な言い訳をする。 山本美香からの映像、情報を買っていた日本テレビにいたっては、自分のところの記者に代わって彼女を死なせたと揶揄されかねない立場だ。

 もちろん、取材にあたる記者たちは、こういう現状を苦々しく思っている。 灯りに飛び込む夏の虫のように、どんなに危険であろうと現場に飛び込もうとするのが記者の本能だからだ。

 日本の報道はつまらなくなったと言われて久しい。 それは仕方のないことだ。 現場に記者がいないのだから。 今、彼らは何が楽しくて仕事をしているのだろう。 

2012年8月21日火曜日

理解できなくていいんだ



 一般的な日本人だったら、見に行く前に身構えてしまいたくなるような美術展が、東京・六本木の森美術館で開かれている。 「アラブ美術の今を知る」と謳った「アラブ・エクスプレス展」だ(2012年6月16日~10月28日)。

 そもそも平均的日本人は「アラブ」などという世界や人にまったく関心がない。 しかし、この美術展は宣伝文句からして、「知らなければならない」「知らなきゃ教えてやる」という高飛車な姿勢を感じさせる。 なんとも鬱陶しい。 それでも行ったのは、主催の読売新聞関係者からタダ券をもらったからだ。 それに、かつて、中東にのべ8年も住み、馴染みになったアラブの人々が今、地理的にも精神文化的にも遠く離れた東京で、何を見せようとするのか確かめたかったからだ。

 展示場に足を踏み入れて見て、いやー、ホントに驚いた。 嬉しかったのだ。 旧友に会って、「おまえ、なにも変わっていないなあ」というのと同じ感覚だった。

 展示された作品は、画像や動画を多用し、内容は非常に政治的訴えの色彩が濃い。 日本人のイメージからすると、新聞や雑誌に載っている風刺画という分野に近いかもしれない。

 レバノン人ゼーナ・エル・ハリールの「平和が惑星を導き 雪が星の舵をとる」(画像上)は、3人のヘビ使いが笛を吹き、コブラになぞらえた人物が踊らされている。 ヘビ使いは、左から、シリア大統領バシャール・アサド、パレスチナのイスラム政党ハマス指導者ハリード・マシャル、イラン大統領マフムード・アハマディネジャド。 踊っているヘビは、レバノンのイスラム政党ヒズボラの指導者ハサン・ナスララー。

 周辺諸国の利害が複雑にからみあい、あの手この手でレバノンに介入している政治状況をかなり露骨に描いた作品だ。 

 イラク人ハリーム・アル・カリームの「無題1(「都会の目撃者」シリーズより)」(画像下)は、口を封じられながら目だけは光っている女を描いている。 サダム・フセイン時代の過酷な言論弾圧を表現したものだ。

 そもそも、平均的日本人が複雑なレバノン情勢やサダムの残酷きわまる抑圧の実情を理解しているとは思えないが、もしかしたら、こんなものがアートか、と訝る日本人もいるかもしれない。 だが、アラブ人たちが「政治」をアートの題材に選ぶのは、ごく当たり前のことだと思う。 「政治」が彼らの日々の生活に直接関わっているからだ。

 それは、アラブ世界の悲劇的現状の反映とも言えるが、イスラム教の世界観とも関わっていると思う。 イスラムの世界では、宗教も政治も経済も社会も個人の家庭生活も不可分のものとして一体化している。 だから、人々は家族の問題を愚痴るように政治を批判する。 ただし権力者の耳に入らないところで。

 森羅万象は、神(アラー)という絶対的存在と神を信じるイスラム教徒の関係で決まる。 世の中がうまくいかないということは、神とイスラム教徒の関係に何か問題があるからで、政治は最大の批判対象になる。 その批判とは、彼らには神との関係を正常化するための「生きること」そのものなのだ。

 この世界に慣れ親しんだ者には、懐かしい香りのする展示会場だった。 信仰心の薄いアラブの友人は、イスラム教で禁じられている酒を飲みながら、この会場に溢れているような政治風刺を吹聴していたものだ。 

 おそらく、美術展としては失敗だった。 外部世界の人々の理解を促す抽象化、普遍化が不十分で、ある種の土地勘がないとわからない作品がほとんどだったからだ。 世界がインターネットでつながっても、異なる人間の相互理解など簡単にできることではない。 生身の人間のふれあいなしで、相互理解などありえない。 この美術展は、実は、こんなすばらしいことを教えてくれたのだ。

2012年8月19日日曜日

山へ行こう



 大病で入院生活をして体力は著しく落ちたし、この夏は暑くてたまらない。 しばらく山歩きは休まざるをえないが、全休はしゃくだ。

 で、ウエブをサーフィンしているうちに、今年3月に休刊となった「THE NIKKEI MAGAZINE」という月刊誌が、2008年5月に「東京10名山」という記事を掲載しているのを発見した。 東京23区内の山、かつて山だった土地を紹介したものだ。 定年退職後の退屈オヤジたちに手ごろなお散歩コースらしく、この記事を読んで、「10名山」を丁寧にたどった”山行記”ブログもいくつかあった。 以下は、そのひとつから丸写ししたものだ。

<愛宕山>  地下鉄日比谷線神谷町駅下車
標高25.7m(三等三角点)
講談 曲垣平九郎でお馴染みの男坂(86段)別名「出世の石段」が有名
また、1925年の日本初のラジオ放送の送信地。

<おとめ山> JR目白駅
おとめは乙女ではなくお留め(立ち入り禁止の将軍家狩猟場)
都民のヒーリングスポットになっている公園。

<飛鳥山> JR王子駅
北区は国土地理院に飛鳥山を山として表記するように要望している。
標高 25.3m 東京で一番低い山としてイベントを企画。

<<道潅山> JR西日暮里駅
京浜東北線からの切通し以外は山の面影はないらしいが・・・

<箱根山> JR高田馬場駅
山手線内最高峰 標高44.6m (戸山公園内)

<西郷山> 東横線代官山駅
西郷隆盛の弟の別宅として知られ、東京ラブストーリーで脚光

<志村城山> 都営三田線志村3丁目駅
江戸の交通の要所

<島津山> 
清泉女子大学近くに石段として残る

<池田山>
正田邸跡地は区立公園「ねむの木の庭」となっている。

<御殿山>
高級住宅地、名前のみを留める

 確かに、手軽な東京散歩にはいいだろう。 だが、他人の二番煎じというのが面白くない。 それに舗装道路の照り返しで熱中症になりそうだ。

 それで、昼の熱気が薄らいでくる午後遅く、気持ち良い思いのできるユニークな東京山歩きを計画した。 「~山」という23区内の地名にある食堂や飲み屋を1か所でも訪れたら登頂成功とする。登山開始は午後5時以降。 とりあえず、候補の「山」を駅名と町名からピックアップした。 見逃しがあるかもしれないが、リストを作ってみた。 

①大山(板橋区・東武東上線駅名、町名)
②飛鳥山(北区・都電荒川線駅名)
③御嶽山(大田区・池上線駅名)
④大岡山(大田区・東急目黒線&大井町線駅名、目黒区町名)
⑤西小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑥武蔵小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑦小山(品川区町名)
⑧代官山(渋谷区・東急東横線駅名、町名)
⑨円山(渋谷区町名)
⑩鉢山(渋谷区町名)
⑪東山(目黒区町名)
⑫烏山(世田谷区町名)
⑬千歳烏山(世田谷区・京王線駅名)
⑭八幡山(杉並区・京王線駅名、世田谷区町名)
⑮久我山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)
⑯浜田山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)

 きっと、東京ローカルと呼べそうな雰囲気をみつけられると思う。 さて、どこから挑戦しようか。 ヒマラヤへの道もここから始まるのだ。 壮大な夢を抱いて、いざ、赤提灯へ。

2012年8月11日土曜日

「おんな」のロンドン・オリンピック





  ロンドン・オリンピックで日本の女子選手たちが活躍しているのをテレビで見て、”にわか愛国者”たちは大興奮している。 彼らの興味の対象からは大きく外れているだろうが、このオリンピックは、実は、女性の視点からは、とてつもない「歴史的出来事」なのだ。

 8月3日、女子柔道78kg超級1回戦で、プエルトリコのメリッサ・モヒカは試合開始1分22秒で簡単に1本勝ちした。 相手はサウジアラビアのワジュダン・シャヘルカニ、16歳。

 5日後の8月8日、陸上競技女子800m予選では、同じサウジアラビア代表のサラ・アッタル、19歳が、他選手から30秒以上も離され、ダントツのビリでゴールした。

 メダルには程遠い実力。 ワジュダンは黒帯すら取っていなかった。 サラの記録は、日本の中学生にもかなわない2分44秒95だった。 だが、歴史を作ったのは彼女たちだった。 この2人とともに、ブルネイとカタールの女性選手たちも、この栄誉を共有する。 栄誉というのは、オリンピック全参加国による女性選手派遣を史上初めて実現させたことだ。

 いずれも保守的なイスラム国。 他人の男の前で、髪の毛を見せ、あられもない姿でスポーツをすることなど宗教的戒律に則って許されない。 したがって、オリンピックに女性を派遣することなど決してなかった。 他のイスラム諸国にも同様の伝統があったが、時代は徐々に変わってきた。 前回2008年北京大会では、女性選手を派遣しなかったのは、サウジアラビア、ブルネイ、カタールの3か国だけになっていた。

 オリンピック憲章は、性差別を明確に禁じている。 憲章に反する国を除名することもできる。 国際オリンピック委員会は人権団体などからの突き上げもあり、3か国に対し女性を参加させるよう強い圧力をかけた。 確かに、オリンピックからのの除名は、国として拭いがたい汚点になる。 こうして、ロンドン大会開始直前の7月12日、3か国の女性派遣がなんとか実現にこぎつけた。 
 
 1896年第1回アテネ大会以来の近代オリンピックの歴史で、全参加国が女性を派遣したことはなかった。 そればかりではない。 ロンドン大会から女子ボクシングが始まり、これによってオリンピック全26競技のすべてで女子種目が実施されることになった。 ロンドンは、女性参加の記念碑的大会になったのだ。

 近代オリンピックの父クーベルタンですら、女性の参加に関しては「非現実的」「面白くもない」「美的でない」「間違っている」などと、けんもほろろの態度を取っていたとされる。 以来、1900年にテニスとゴルフの女性参加が実現し、1912年水泳、1928年陸上で女性が登場した。 それにしても、全競技、全加盟国による女性派遣までは、120年を要した。

 ワジュダンは試合後、BBCのインタビューにアラビア語で答えた。 「残念ながらメダルは取れなかったけれど、オリンピックに参加できて幸せです」  言葉だけなら負けた日本人選手と同じかもしれない。 だが、その重みはまったく違う。 彼女たちにとっては、まさに「参加することに意義がある」だったのだ。