2013年3月28日木曜日

地下に潜った東横線渋谷駅



  2013年3月16日、東横線渋谷駅が地上から消え、地下5階へ引っ越した。 幼いときから渋谷に馴染んでいた団塊世代のオヤジが言った。 「今さら寂しいなんてことがあるわけがない。 オレの知っている渋谷なんて、とうの昔に消えてしまったよ」

 ダンス教室とボクシングジムは、どうして昔から駅の近くの電車の轟音が響くような線路際にあるんだろうね。 オレの記憶にあるのは、東横線の学芸大学駅そばにある笹崎ジムだよ。 「槍の笹崎」と呼ばれた名ボクサーが開いたジムで、のちのファイティング原田はここで育った。 東横線がまだ地上を走っていたころで、ちょうどジムの前あたりで線路の柵によじ登って電車が通るのを飽きることなく眺めていたものだ。

 小さいころの特別の楽しみは、なんと言っても、母親に連れられて渋谷に行って、東横百貨店最上階の食堂で食事をすることだったなあ。 何を食ったかは記憶にないが、たまの贅沢であったのは間違いない。 食事のあとは屋上に行って、下を通る長い貨物列車の台数を数えるのが楽しみだった。 冬の列車はどこか遠くから雪をたっぷりと屋根に積んできていた。 東京では雪はたまにしか降らない。 あんなに雪が降るのは、一体どこだろうかと想像をたくましくしたもんだよ。

 今の道玄坂横にある「109」のあたりは、戦後闇市の名残りが漂う、ちっぽけな店がひしめいていた。 中学に入るとき、母親は渋谷で学生服を買ってくれたが、東横百貨店ではなかった。 道玄坂の狭い路地を入ったあたりの店に行って、息子の前で懸命の値切り交渉をしていたのを憶えている。

 ヤクザの安藤組の名を耳にしたのは、いつのころだろうか。 インテリ・ヤクザで映画俳優にまでなった安藤昇が渋谷を根城に仕切っていた暴力団だ。 小学生のころは、友だちが、渋谷駅の構内で刃物を振り回して血まみれになって喧嘩する光景を見たという話をよく訊いた。 きっと、尾ひれを付けて面白がらせていたんだろうけど。

 そのころは、玉電沿線に住んでいたが、あれはひどい路面電車だった。いつも混んでいてノロノロ走る。 当時、「東急電鉄」の英語略称は「TKK」だった。 沿線のおとなたちは「とても」「込んで」「困る」の頭文字だと揶揄していたし、そのころのワンマン経営者・五島慶太は「ごとう」ではなく「強盗」と呼ばれていた。

 百軒店通りの淫靡な雰囲気も忘れがたい記憶だなあ。 子どもには入りづらかった。 テアトルSSなんていうストリップ劇場みたいのがあったし、あの通りの奥の方には怪しげなホテルもあって、子どもには何が悪いのかわからなかったけれど、とにかく行ってはいけないところという不文律みたいなものがあったと思う。

 インフルエンザというのは、昔、「流感」と言っていたのと同じかなあ。 中学時代は流感で臨時休校になると、渋谷へ映画を見に行った。 補導教師風のおとなに注意して、スリルを楽しみながら映画館にたどり着いたときの達成感はたまらなかった。

 大学のころは、新宿とか日比谷あたりの反日米安保、反ベトナム戦争のデモに行って、機動隊に追われたあと、渋谷まで逃げて、山手線沿いののんべえ横丁とか井の頭線下の安酒場で酒盛りをしたもんだ。 今になってみると、あの不味い合成酒の味と臭いが懐かしいねえ。

 無論、渋谷で恋も失恋もした。 渋谷周辺で生まれ育った団塊世代は、課外授業の多くを渋谷で受けて成長してきたんだと思う。 あの街で世の中の仕組みみたいなものを自然に学んできたんだろうね。 だが、今の渋谷は、あのころの渋谷とは別ものだ。 いつの間にか、われわれが親しんだ渋谷は消えてしまった。

 いったい、いつごろからだろう。 気が付いたら子ども向けの幼稚な人工的テーマパークみたいになっていた。  だから、オレたちは、とっくの昔に渋谷にサヨナラを言っていた。 東横線の駅が地下に潜って変わったという渋谷は、オレたちの言う渋谷でもなんでもない。 知らない国の知らない街の出来事なんだよ。

2013年3月19日火曜日

あれから2年

(2012年5月12日・福島県南相馬市鹿島区北海老で)


<2011年3月下旬 ニューヨーク・タイムズ東京支局長マーティン・ファクラー>

  南相馬市役所へは、事前のアポイントを取らずに向かった。 役所に着くなり、職員から「ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞ中へ」と大歓迎され、 桜井市長自らが「よく来てくれました」と迎え入れてくれた。 なぜ、こんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。 南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。

 南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。

 「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!」

 市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。 だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げていまったという。 もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。

 メディアを使って情報を発信する手段を失った桜井市長は、ユーチューブという新しいメディアを利用することにした。 記者やカメラマンの手を借りることなく、自らがニュースの発信者としてチャンネルを開いたのだ。

 ユーチューブの映像は世界を駆けめぐり、ニューヨーク・タイムズの記者である私が突然アポイントなしで取材に訪れた。 新メディアであるユーチューブの映像を追いかける形で、紙の新聞であるニューヨーク・タイムズが桜井市長の声を報じた。 

 その後、日本の新聞やテレビ局はユーチューブを引用する形で桜井市長の声を報道しだした。 記者クラブ詰めの記者がわれ先に逃げ出してしまったことには蓋をして、南相馬市のニュースを伝える報道機関の姿は、私には悪い冗談にしか思えなかった。

(「本当のこと」を伝えない日本の新聞<双葉社>より)

2013年3月2日土曜日

自由が丘のタイ料理屋で

(台北の屋台で)
  何年か前、日本外務省が、正統の日本料理を世界に普及させるために、調理基準を作って各国で指導しようという計画を作った。 日本料理が国際的になるにつれ、日本人の伝統的感覚からすれば奇妙きてれつな料理も登場してきたからだ。 当時、日本メディアはさしたる関心を示さず、事実だけを淡々と報じた。 だが、ヨーロッパや米国の東京特派員たちは、たっぷりと皮肉のスパイスで味付けした記事を書いた。

 彼らが外務省計画にカチンときたのは、「他人が食っているものに口出しするな、余計なお世話だ」というところにつきる。

 アメリカ人記者は、自分たちの味覚音痴は棚に上げて、外務省の上から目線の”規制”を”food police”と揶揄し、 サンドウィッチが誕生したイギリスの記者は、「外務省が決めた味付け以外は日本料理じゃないと言うなら、われわれはサンドウィッチにポテトサラダを挟むのを許さない」とコラムでからかった。 どうやら、日本では当たり前のポテトサラダ入りサンドウィッチがイギリス人には非常に奇異にみえるらしい。 こういった反発があったせいか、外務省計画はいつのまにか立ち消えになった。

 世界中に広まっている中国料理は、国によって味に大きな違いがある。 それぞれの国の伝統の味や食材と混じりあい、独自の中国料理へと「進化」していくためだ。 だから、美食の街パリであろうと、日本人が「chinese restaurant」の看板を見て入った店で、「これが中華かよ!」と顔をしかめてしまうことがあるのも当然なのだ。

 1991年2月、中東ヨルダンの首都アンマンのインターコンティネンタル・ホテル近くにある小さな中国レストランで奇妙なことが起きた。 日本人からすれば食えた代物ではなかった料理の味が、日々どんどん変化し、日本のラーメン屋で出てくる一品料理、野菜炒めとか麻婆豆腐などに非常に近い味になった。 

 「進化の突然変異」を実現したのは、煎じ詰めれば、ヨルダンの隣国イラクのあの独裁者サダム・フセインだった。 サダムのクウェート侵攻で米国を中心とする多国籍軍とイラクとの戦争が始まった。 外国人記者たちの報道拠点となったインターコンには多数の日本人記者も集結した。 日本人たちはホテル近くの中国料理屋で昼飯を食べるようになったが、味が物足りない。 そこで、誰もが料理人に一言注文をつけるようになった。 一人が一回一言でも、数十人いたから注文の蓄積は膨大だ。 中には調理場まで、ずかずかと入り込んで指導する猛者まで現れた。 「突然変異」は、こうして起きた。

 ただ、これも心優しいヨルダン人ゆえに可能になったのだと思う。 同じ中東でもパレスチナ人の土地を強引に奪い取ってイスラエル国家を作ってしまったユダヤ人では、こうはいかない。

 日本料理の世界的ブームはイスラエルにも到達し、エルサレムやテルアビブにも日本レストランが開店した。 だが、案の定、ひどい味だった。 友達の日本人は「ホンモノの日本料理とはちょっと違うなあ」とイスラエル人店主にコメントした。 これに対する反応は、周囲に敵を作ってでも生きていこうとするイスラエル人そのものだった。

 「われわれは、あんたたち日本人を相手に商売しているわけではない。 イスラエル人の客が喜ぶ味を出している。 日本人に合わなくてもイスラエル人が旨いと言えばいいんだ」

 正論ではあろう。 日本の街の食堂でカレーライスを注文したインド人が「これはインド料理ではない」と文句をつけても、日本人が味を変えないのと同じ理屈だ。 

 きのうの夜(2013年2月28日)、 東京・自由が丘で人気のタイ料理レストランへ数年ぶりに行った。 かつてタイに住んでいた経験からして、この店の味は限りなく本場の味に近いと思った。 ここで食事をしていると、バンコクにいるような気分になれた。 だが、いつも混んでいるのでテーブルをなかなか取ることができない。 それで何年も行きそこなってしまった。 昨晩は、わざわざ予約をして行ったのだ。

 この店は、若い女の客が90%以上を占め、みんな幸せそうに食事を楽しんでいる。 まずは、大好きなタイ風さつま揚げ「トートマン」を前菜替わりに注文した。 トートマンは、魚かエビのすり身に辛い味付けをし油で揚げたものだ。 この店ではエビを使っていた。 タイでは庶民的な食べ物で道端の屋台でも売っている。 

 われわれはワインを飲みながらトートマンが出てくるのを待っていた。 だが、ウエイトレスが持ってきた皿を見て驚かされた。 タイで誰もが知っているトートマンとは似ても似つかない食べ物が出てきたからだ。 それは、パン粉をつけて揚げたメンチカツみたいなものだった。 トートマンは素揚げが普通だ。 恐る恐る味見してみると、不味くはないが、辛みも独特の匂いもなく、本来のトートマンとは異なる別の食べ物だった。 日本に初めて来たインド人が日本のカレーライスをインド料理だと言われて食べた印象が、きっとこんなものだったに違いない。

 この店の以前の味を知っているだけに、あまりに見事な味の日本化に唖然とさせられた。 がっかりして、すぐに出ることにした。 ただ、若いウエイトレスは、とても率直だった。 シェフは前と同じようにタイ人だが、料理の味は客の好みに合わせて変えたそうだ。 「前の味の方が良かったですか? 上の人に言っておきますよ」。

 それにしても、タイ人料理人の環境への器用な適応ぶりは、なんとも凄い。 タイ料理ではないタイ料理を言われるままに、それなりの味にして作ってしまうのだから。

 いったい、旨い料理とは何だろう。 アメリカ人が発明したカリフォルニア巻きなどという寿司を日本人は小ばかにしていたが、いつのまにか日本の寿司屋の定番メニューになってしまった。 そのうち、バンコクでも、日本生まれのメンチカツみたいなトートマンをタイ人が喜んで食べるようになるかもしれない。

 きっと、どんなに不味い料理でも、にこにこして食べるのが、これからの真の国際人の正しいマナーなのだ。 そうやって、じっと我慢していると、味がまた変わってくる。 

 その例がアメリカにある。 メキシコ料理のタコスはアメリカに広まって典型的ジャンクフードになった。 しかも、ひどい不味さ。 メキシコ文化に対する侮辱以外のなにものでもない。 味覚音痴のアメリカ人は、料理の量は認識できても味はわからない。 ところが、近ごろ、アメリカのタコスが大きな変化を遂げ、食える代物になっている。 それどころか、本場にも負けない味の店も増えている。 その理由は、メキシコからの移民が急増したことだ。 彼らの味覚に対応するために、タコスは「メキシコ回帰」したのだ。

 が、それにしても、とりあえず、旨いトートマンを食える店を探さなければ。

2013年2月21日木曜日

警官がマージャンやって何が悪い!!



 最近、愛知県の交番で、警察官が勤務中に賭けマージャンをしていたというニュースが新聞やテレビで報じられた。 以下は、その内容(サンスポより)。

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 愛知県警関係者によると、同県警の巡査部長ら複数人が1月に豊田市美里にある豊田署御立(みたち)交番の一室で、現金を賭けてマージャン賭博をした疑いが持たれている。巡査部長らは「現金は賭けていない」と否認しているという。

 巡査部長らは全員が交代制の交番勤務員で、3日に1度、8時間の休憩を含めて24時間の勤務に就いていた。御立交番には通常2、3人しか常勤者はいないが、マージャンをする際には近隣の交番から、別の署員らが合流していたとみられている。いずれも勤務中で、制服を着たままだったという。1日当たりの賭け金は、数千円だったようだ。

 県警では、署員らが常習的に賭けマージャンを繰り返していた可能性もあるとみて、関わった人数や賭けた金額などについて調べるとともに、関係した署員らの処分を検討している。

 別の署に勤務する警察官が交番に立ち寄った際、署員らがマージャンをしているのを見つけて発覚した。

 御立交番は豊田署管内に18ある交番の中では中規模で、豊田市中心部にあるものの、豊田市駅前交番などに比べると取り扱う事件などの件数が少ないという。
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 ニュース・メディアの報道ぶりは、「警察官が賭けマージャンをやるとはけしからん、しかも勤務時間中に」というところに集約される。 愛知県警は、関係した警察官の処分を検討しているという。

 なんとも違和感のあるニュースだ。 警察官のどこがいけないのか、さっぱりわからないからだ。

 第1に、このニュースを報じた記者たちは、勤務中に賭けマージャンなどやらない清廉潔白な社会の木鐸でもなんでもない。 

 さすがに近ごろは見られない光景になったが、事件記者と呼ばれる連中は、警察署の記者クラブで、事件、事故の発生に備えて待機している間、朝から晩までジャラジャラと大きな音をたてて賭けマージャンをやっていたものだ。

 古き良き時代だった。 警察署を訪れる一般市民もロビーで、その音を耳にしていたが、なにも問題は起きなかった。 記者とはヤクザな連中で、いつも斜に構えて権力の悪を暴こうと窺っているのが本来の姿だった。 若い交番オマワリの賭けマージャンなど歯牙にもかけなかった。 事件記者がこんなニュースを報じるようになったのは、時代がどんどん退屈になっていることを象徴しているのだろう。

 だが、第2に、なぜ警察官が勤務中に賭けマージャンをやっては、いけないのか。 日本社会の常識では、普通のおとながカネを賭けないマージャンをやる姿など想像できない。 警察官が記者たちと同じように、ひまつぶしにマージャンをやっていけないわけがない。 そして、彼らもおとなだ。マージャンをやれば、給料が安くても多少のカネは賭ける。

 しかも、彼らは健気ではないか。 マージャンをやっているときも制服を着ていたのだから。 110番通報があれば、直ちに飛び出せる態勢を整えていたのだ。 報道の中には、「制服を着ていたのがけしからん」というのがあったが、交番の中で勤務中に私服に着替えていたら、もっとおかしいし、いざというとき直ちに出動することなどできるわけがない。

 市民生活を命懸けで守る警察官が多少の息抜きをするくらい許そうではないか。 そんな寛容さが失われていく社会の方が、はるかに恐くはないか。

2013年2月19日火曜日

なんのための防衛駐在官増員



 1994年、当時のアルジェリアは内戦真っ盛りだった。 自由選挙でイスラム政党が第1党に躍進したが、軍はこの選挙結果を拒否し、軍事クーデターによる政権を樹立した。 これに反発したイスラム勢力が軍政打倒を目指し武装闘争を開始した。 

 イスラム勢力は、軍政の国際的信用を失墜させるために、アルジェリア国内で外国人を標的にしたテロを活発化させ、外国人ジャーナリストも標的となった。 武器は銃かナイフ。 首都アルジェの街で頻繁に襲われた。 それでもジャーナリストたちは、歴史の目撃者となるために、危険な通りを命懸けで歩いた。

  おそらく、ひどくかっこ悪い取材ぶりだった。 なにしろ、どこからゲリラが襲ってくるかわからないので、常に目をキョロキョロさせ、道路の建物側にからだをくっつけるように身を寄せ、なかば横這いで歩いていた。 日本の通信社のF記者は、この姿を「アルジェのカニ歩き」と言って、自分自身をからかっていた。 「フクチャン」の愛称でみんなに好かれていた彼は、アルジェでは無事だったが、のちに赴任した平和なニューヨークでストレスが溜まって死んでしまった。

 このアルジェリア内戦のころ、駐アルジェ日本大使館はどんな活動をしていたのか。 見事に何もしていなかった。 危険を理由に外出せず、大使館内にこもっていた。 致し方なく外出するときは、米国製の防弾車に乗り、武装警備員を同行させた。 

 ”ここは地の果てアルジェリア~~”  そのころ、かの古典的歌謡曲「カスバの女」は、大使館内のカラオケでは、誰もが歌いあき、聴きあきてしまったそうだ。

 もちろん、大使館の最重要任務である情報収集などできるわけがない。 したがって駐在する意味はまたくなかった。 唯一の情報収集活動と言えるものは、他国の大使館と横並びで出国するために、こそこそと様子をうかがうことだった。 日本を遠く離れても、日本の役人は日本の役人なのだ。

 2013年1月16日アルジェリアの天然ガス精製プラントをイスラム武装勢力が襲い、アルジェリア軍が逆襲した。 この事件で、人質にされた日本人10人が死亡した。

 この事件以降、日本では、とくに、国会や首相官邸周辺で、軍事情報の収集を充実させるために、大使館の防衛駐在官を増強すべきだという主張が強まっている。

 この主張の論理はよくわからないが、どうやら、大使館に軍事情報の収集・分析を専門とする防衛省出身の防衛駐在官を増やせば、今回のような事件が起きた場合、より正確な情報をより速やかに入手できるという考え方のようだ。

 もし、そうだとしたら、単純すぎる素人考えか、何を目的にしたかわからないが、嘘八百だと思う。

 なぜなら、第1に、防衛駐在官といえども、大使館勤務中は外務省支配下にあり、1人の外交官という身分になる。 つまり、危険な事態になっても大使の命令に従って、大使館内に籠もり、情報収集のために勝手に外出などしてはいけない。 

 第2に、防衛駐在官の普段の情報収集活動というのは、他の外交官と同じで、新聞やテレビなどのマスメディアが流すニュースを丹念に拾うことで、スパイ映画のように独自の情報源から秘密情報が流れてくるようなドラマティックな場面はほとんどない。 したがって、情報収集量を増やしたいなら、防衛省よりも海外勤務に慣れた外務省の職員を増やした方がいいかもしれない。

 第3に、防衛駐在官の最も重要な仕事は、他国の駐在武官たちと親密に付き合うことで、駐在官が独自情報と称している情報のほとんどは、武官コミュニティの中を伝言ゲームのように、ぐるぐる回っているものがほとんど全てと言っていい。 彼ら、military attache たちは、なぜか、どこの国に行っても親密なコミュニティを形成し、胸に勲章をぶらさげたパーティを頻繁に開く。 おそらく、そうやって、自分たちのレゾン・デートルを確認しあっているのだと思う。 

 ただ、防衛駐在官を含め、武官と呼ばれる人たちは、なぜか皆、人が良くて、心根が真っ直ぐで、概して酒も好きなので、つきあっていて楽しい。 だから、ここで武官の悪口を言う気など毛頭ない。

 問題は、何か、わけのわからない彼らに対する買いかぶりが、意図的に進行しているように思えることだ。 

 いったい、それは何なのだ。 政治的なたくらみが臭わないか。

2013年2月12日火曜日

2020オリンピックはイスタンブールで



 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著作「歴史」は、当時のギリシャ世界を記述したものだが、地理的には、黒海とエーゲ海を結ぶボスポラス海峡一帯に、かなりの重点を置いて描いている。 古代ギリシャ世界とは、実は現代のトルコのほとんどを含んでいることがわかる。

 古代ギリシャ時代、海峡の西がヨーロッパ、東がアジアと呼ばれるようになり、以来、この細長い海峡がヨーロッパとアジアの境界線となった。 この美しい水の景観を見下ろす都市はコンスタンティノープルと名付けられた。 じっくりと醸成された歴史をそのままに、やがてイスラムの風味が加えられ、現在の蠱惑的な街イスタンブールへと豊潤に熟していった。

 ボスポラスに面したオープン・レストランは夏がいい。 水を加えると透明な液体が白く濁るアニス酒「ラクー」のグラスにアイスキューブをひとかけら入れる。 爽やかなラクーの香り、それに、海峡で獲れた小さなカタクチイワシのフライ「ハムシ・タヴァ」。 レモンを絞る。 地中海からの海風がスパイスになって、ボスポラスの味を醸し出す。 そこには、数千年の歴史が詰まっている。

 海峡には、自動車専用の2本の吊り橋が架かっている。 毎年、秋の1日、クルマの通行が止められ、市民参加の「ユーラシア・マラソン大会」が開かれる。 名称のスケールの大きさがいい。 アジア側をスタートし、ボスポラス海峡を渡って、ヨーロッパ側にゴールする。 アジアからヨーロッパへ、ボスポラス海峡を見下ろし、自らの足で渡る感動がたまらない。

 この土地は、日本などというクニが誕生するずっと前から、世界をつなぐ十字路だった。 そして、おそらく今もそうだ。 発展するイスラム世界を代表するからだ。 9・11以降、異なる宗教・文化・人間が、互いにぎこちなさを感じるようになった。 イスタンブールは、長い年月にわたり、そういう差異を受け入れないにしても、認めあい、折り合いをつける歴史をつむいできた。

 今年、2020年オリンピックの開催都市が決まる。 東京もイスタンブールも立候補している(もうひとつの都市はマドリッド)。 この時代の世界、東京でオリンピックを開催しなければならない理由は意味不明だが、初のイスラム都市での開催となるイスタンブールには大いなる意味がある。 日本外務省によれば、トルコは非常に親日的な国だそうだ。 日本人もトルコを大好きだという。 そうであれば、日本人は東京など見捨て、イスタンブールでのオリンピック開催を、そろって応援しようではないか。

2013年2月8日金曜日

女子柔道へエールを送ろう



 日本人のどれだけの人々が本当に驚いているのだろうか。 実は、誰もが身近で見聞きし、知りすぎるほど知っていた醜悪な光景だ。 われわれ日本人には当たり前すぎたことが、なぜ突然、大きなニュースになったのだろうか。

 全日本女子柔道や大阪・桜宮高校バスケットボール部で明らかになった選手に対する指導者による暴力のことだ。 従来見て見ぬふりをされていたことが問題視されるようになったのは、明らかに、時代が変わったからだろう。

 かつては、「かつて」というのはどこまで遡るのか、よくわからないが、学校生活の中で、体育会系部活の暴力は、日本で生まれ育った日本人なら、誰でも日常茶飯事のこととして知っていた。 よほど度が過ぎなければ、黙認されていた。

 体育会系が幅を利かせた国士舘大学の学生は、東京・世田谷の三軒茶屋を支配する暴力団みたいなものだった。 警察だって黙認していた。 普通の女子学生が入学して普通の大学に見えるようになったのは、20世紀も終ろうとするころだった。

 日本のスポーツ選手が、無論、例外はあるが、おおむねバカにみえるのは、長いあいだ温存されていた異常で特殊な暴力支配世界に生き、自由な思考をする訓練をしてこなかったからであろう。 種目によって、バカさ加減、暴力度はかなり異なるが、ここではそこまで言及しない(それに、知性と教養のあるアスリートだって、もちろん存在する)。

 女子柔道選手たちが、指導者の暴力、ハラスメントを告発したのは、日本のスポーツ史上、革命的な出来事と言っていいだろう。 おそらく、告発された側は、まだ罪の意識を十分感じていない。 内心、告発を憎々しく思っているはずだ。

 柔道以外のスポーツ種目の団体・組織も反応はにぶい。 これをきっかけに、積極的に自ら内部浄化に乗り出すべきなのに、彼らは知らんぷりを決め込んでいるようにみえる。

 スポーツ団体幹部というのは、おおむね政治的には単細胞の保守派だ。 保守系政治家からすれば、こんなに操りやすい連中はいない。 大いに利用して、オリンピックを招致すれば、大喜びで言うことをきいてくれる。 国会議員にでもしてやれば有頂天になる。

 東京オリンピックというのは、こういうシステムの中で推進されている。 バカものたちにカネを使わせ、スターに祭り上げる茶番劇。 それによってナショナリズムを煽り、反動的保守支配を固めようとする政治的陰謀。

 女子柔道選手たちは、単に暴力を嫌悪しただけだったのかもしれない。 だが、彼女たちの意図にかかわらず、日本の支配体制の暗部を暴くという禁じ手を仕掛けることになったのだ。 この技は、一端仕掛けてしまうと禁じ手ではなくなってしまう可能性がある。 しかも大津波に育つ危険性を秘めている。

 スポーツ新聞や週刊誌のスキャンダラスな報道に引きづられてはいけない。 本質的問題から目をそらそうとする姑息な手口なのだ。

 注意深くみつめ、目をそらせないでいよう。