2010年3月28日日曜日

夜が明けたら


 敷・礼金なし!!
保証人・保険加入不要
全室個室・光熱費なし
1ヶ月¥40,000,¥55,000,¥58,000
1週間¥15,000~¥18,000
TV・布団・ベッド・レンタル有
シャワーは1日5分無料!!
住民登録可・初回のみ
家賃の分割相談
駒込駅から徒歩6分
ゲストハウス ×××
TEL 090-××××-××××

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 東京・池袋東口。 早朝、サンシャイン・ビル近くの飲食店街を歩いていたとき、電柱に貼られ、3月のまだ冷たい風にはためいている手書きのビラが目に留まった。

 これが、その内容だ。

 誰でも、保証人なしで1ヶ月、もっと短く1週間単位でも寝泊りできる、しかも敷金、礼金なし。手ぶらだったら、テレビも布団も貸すことができる、銭湯に行く金がないなら毎日5分間のシャワーならタダ。 
 
 家賃と言うべきか宿泊費と言うべきかわからないが、その金額は格別安くはない。 それより注目すべきは、「住民登録可」という項目だろう。

 この電柱ビラが相手にしようとしているのは、明らかに、都会のホームレス、しかも、住民登録をして、まともな職に就いてホームレスから脱しようとする人たちであろう。

 住民票のない根無し草を普通の企業が雇うことはありえない。

 この安っぽいビラを作った人物は、社会の底辺の澱みから這い出そうとしている人々を救おうとする人道主義者なのか、それとも彼らの一縷の望みを食い物にしようとするワルなのか、あるいは、お互いの利益になれば、なんでもいいという”人道主義的ワル”なのか。

 池袋、午前6時30分。 たなびくビラの横を、徹夜で歓楽街の自堕落な時間を過ごし、蒼ざめ虚ろな顔をした男や女が駅へ向かう。反対方向のバスターミナルへ歩いているのは、スノーボードを担ぎ、妙に明るい表情をした同年代の若者たち。

 連れ込みホテル前のゴミ置き場では、カラスの饗宴が続いていた。

2010年3月19日金曜日

”ドーハの喜劇”


 もう何年も前にタバコをやめた。 今、やめて良かったと思っている。 健康のことも考えないわけではないが、なによりも、気持ち良く煙を吹かせない時代になってしまったと感じるからだ。 嗜好品というものは、まわりに気遣いなどせず、心置きなく楽しむものだ。 喫煙の規制と非(and 反)喫煙主義が強まる環境でタバコを吸っても、心が和むどころか、逆にストレスがたまってしまうだろう。

 禁煙してみて最初に気づいたのは、嗅覚が非常に敏感になったことだ。 ときには、数十メートル離れてタバコを吸っている人の存在を臭いでみつけることがある。 タバコを憎悪する人々の気持ちもわからないではない。 だが、どんなに過激な禁煙運動グループでも、路上で喫煙者に襲いかかることはないだろう。

 日本の捕鯨船を攻撃するシーシェパードの行動は、路上喫煙者に石ころを投げつけるような行為と言えるかもしれない。 とても受け入れられない。 が、過激な運動の背後に広がる国際的な反捕鯨の気運に目を向けると、クジラを食っても旨くはない。 旨く感じない理由はタバコと同じだ。

 クジラ資源の枯渇、知能動物クジラへの同情などが世界で叫ばれても、日本は反論し、「捕鯨は文化だ」と主張する。 その通りかもしれない。 だが、 「文化」であれば永遠に持続するとはかぎらない。

 最近は日本でもリゾート地として人気が出ている南太平洋フィジーの人々のもてなしには、心温まるものがある。 彼らが19世紀に重要な伝統文化を捨てなかったら、現在の観光パラダイスは存在しなかった。 その文化とは「人食い」だ。 19世紀フィジーの国王だか大酋長は、生涯に90人の人間を食べた記録を持つ。 

 カンボジアで200万人の国民を虐殺したとされるポル・ポト派の兵士たちは、古い伝統に則り、戦闘で倒した敵兵の肝臓を抉り出して食べたという。

  「首斬り朝」の劇画でも知られる江戸時代日本の死刑執行人・山田浅右衛門家は、試し斬り用の罪人の死体から、肝臓や胆嚢などの内臓を取り、これらを原料に労咳の丸薬を作って売り、大きな収入源にしていたという。 この商売は明治初めまで続いたそうだ。

 日本人は、世界から(正否は別にしても)白い目で見られながら、クジラを食べ続ける必要があるのだろうか。 かつては小学校の給食でもクジラの竜田揚げが出た。それは贅沢ではなく、当時は一番安い肉だったからだ。 今、クジラ肉は高い。 たまに食べると、確かに旨いと感じる。 だが、飽食日本には、ほかにも旨いものは数え切れないほどある。 それに、「調査捕鯨」などというマヤカシが生み出す贅沢は不自然でもある。

 そして、クロマグロ。

 絶滅危惧種として国際取引が禁止される恐れが出てきたとマスコミが大騒ぎしている。 クロマグロは日本の食文化を代表する寿司に欠かせないそうだ。またもや「文化」だ。

 自らの食文化、じゃなかった食生活を振り返ってみると、クロマグロは最後にいつ食べたか思い出せないほど、遠い記憶のかなた。誰かにクロマグロのトロをご馳走してもらって、脂っこさに辟易したのは、いつのことだろうか。 

 普段は、キハダでもメジでもビンナガでもマグロと名の付くものは、ほとんど食べない。 いつも、サバ、アジ、イワシ、コハダの青モノに徹している。安くて精神的にも健康な気分になれるからだ。

 現在の平均的日本人が日々の生活で、超高額なクロマグロを口にすることは非常にまれであろう。 だから、禁輸になっても困ることはなにもない。つまり、どこの誰がクロマグロで大騒ぎしているのか、よく見えてこないのだ。

 それにしても、クジラもクロマグロも、日本政府と日本の利益団体とその取り巻きが主張するように、本当に資源枯渇の恐れはないのだろうか。 

 絶滅危惧種の国際取引禁止を決めるワシントン条約締結国のドーハ会議は、委員会段階で、幸か不幸か、モナコが提案したクロマグロ禁輸を否決した。 本会議での採択が難しくなるような大差の否決だった。

 事前の日本報道では、日本がいくら画策しても否決に持ち込むのは難しいと、かなり悲観的だった。ところが、蓋を開けてみると、「大逆転」も現実味を帯びてきた。 バンクーバー冬季五輪のメダル皮算用大外れとは逆の展開だ。

 このままドーハ会議が終わるとすれば、きっと、なにかの利権を巡って、誰かが得をし、誰かが損をするのだろう。それが政治というものだ。

 そして、「日本文化」の埒外にいるクロマグロと一般大衆日本人には何も残らないのか。 せめて、日本政府は、禁輸阻止祝賀大放出のクロマグロ無料配布券を全国民に配布すべきだ。

2010年3月13日土曜日

美しくも醜悪な…



 最近、久しぶりにカメラを買った。すっかり気に入って散歩やジョギングにも持ち歩き、手当たり次第にシャッターを押すようになった。


 そのうち、被写体として、日向ぼっこをしたり、散歩をしている老人たちが気に入ってしまった。


 動作はにぶくて、ぎこちない。表情は変化が乏しく、暗く沈んでいる。だが、撮影した画像を見ると、そこには、しっかりと生きている人間の姿がある。実はたいした生涯ではないのかもしれない。おそらく、街ですれ違うジジイ、ババアのほとんどは、馬齢を重ねてきただけに違いない。


 それでも、老人たちの姿には惹かれるものがある。一人の人間が生きてきた歴史を感じるからだ。

 だが、これが偽善的な老人賛歌であることを、たちまち思い知らされた。

 たまたま、特別養護老人ホームの近くを歩いていたとき、前から老夫婦とおぼしき二人連れがやって来た。夫の座った車椅子を妻が押していた。

 シャッターチャンスを逃すまいとカメラを構えようとしたとき、妻が手を離したせいか、車椅子があらぬ方向へ動きだし歩道からはみ出しそうになった。すると、妻はあわてて車椅子をひっつかみ、凄い剣幕で夫の後頭部を平手で何度も叩きながら、激しい罵りの言葉を浴びせかけた。

 醜悪そのもの。写真を撮る気は失せた。目の前に来た老妻に向かって、「そんなに叩かなくてもいいだろ!」と、どなってしまった。

 ところが、ババアは負けずに、こちらを睨み返して吐き捨てるように言い返した。

 「あんたなんかに、わかるわけないだろ!」

 そう、このクソババアは、彼らの疲れ果てた夫婦関係も、人生が醜くもあることも、お前なんかに「わかるわけないだろ!」と見透かしたのだ。