2010年3月19日金曜日

”ドーハの喜劇”


 もう何年も前にタバコをやめた。 今、やめて良かったと思っている。 健康のことも考えないわけではないが、なによりも、気持ち良く煙を吹かせない時代になってしまったと感じるからだ。 嗜好品というものは、まわりに気遣いなどせず、心置きなく楽しむものだ。 喫煙の規制と非(and 反)喫煙主義が強まる環境でタバコを吸っても、心が和むどころか、逆にストレスがたまってしまうだろう。

 禁煙してみて最初に気づいたのは、嗅覚が非常に敏感になったことだ。 ときには、数十メートル離れてタバコを吸っている人の存在を臭いでみつけることがある。 タバコを憎悪する人々の気持ちもわからないではない。 だが、どんなに過激な禁煙運動グループでも、路上で喫煙者に襲いかかることはないだろう。

 日本の捕鯨船を攻撃するシーシェパードの行動は、路上喫煙者に石ころを投げつけるような行為と言えるかもしれない。 とても受け入れられない。 が、過激な運動の背後に広がる国際的な反捕鯨の気運に目を向けると、クジラを食っても旨くはない。 旨く感じない理由はタバコと同じだ。

 クジラ資源の枯渇、知能動物クジラへの同情などが世界で叫ばれても、日本は反論し、「捕鯨は文化だ」と主張する。 その通りかもしれない。 だが、 「文化」であれば永遠に持続するとはかぎらない。

 最近は日本でもリゾート地として人気が出ている南太平洋フィジーの人々のもてなしには、心温まるものがある。 彼らが19世紀に重要な伝統文化を捨てなかったら、現在の観光パラダイスは存在しなかった。 その文化とは「人食い」だ。 19世紀フィジーの国王だか大酋長は、生涯に90人の人間を食べた記録を持つ。 

 カンボジアで200万人の国民を虐殺したとされるポル・ポト派の兵士たちは、古い伝統に則り、戦闘で倒した敵兵の肝臓を抉り出して食べたという。

  「首斬り朝」の劇画でも知られる江戸時代日本の死刑執行人・山田浅右衛門家は、試し斬り用の罪人の死体から、肝臓や胆嚢などの内臓を取り、これらを原料に労咳の丸薬を作って売り、大きな収入源にしていたという。 この商売は明治初めまで続いたそうだ。

 日本人は、世界から(正否は別にしても)白い目で見られながら、クジラを食べ続ける必要があるのだろうか。 かつては小学校の給食でもクジラの竜田揚げが出た。それは贅沢ではなく、当時は一番安い肉だったからだ。 今、クジラ肉は高い。 たまに食べると、確かに旨いと感じる。 だが、飽食日本には、ほかにも旨いものは数え切れないほどある。 それに、「調査捕鯨」などというマヤカシが生み出す贅沢は不自然でもある。

 そして、クロマグロ。

 絶滅危惧種として国際取引が禁止される恐れが出てきたとマスコミが大騒ぎしている。 クロマグロは日本の食文化を代表する寿司に欠かせないそうだ。またもや「文化」だ。

 自らの食文化、じゃなかった食生活を振り返ってみると、クロマグロは最後にいつ食べたか思い出せないほど、遠い記憶のかなた。誰かにクロマグロのトロをご馳走してもらって、脂っこさに辟易したのは、いつのことだろうか。 

 普段は、キハダでもメジでもビンナガでもマグロと名の付くものは、ほとんど食べない。 いつも、サバ、アジ、イワシ、コハダの青モノに徹している。安くて精神的にも健康な気分になれるからだ。

 現在の平均的日本人が日々の生活で、超高額なクロマグロを口にすることは非常にまれであろう。 だから、禁輸になっても困ることはなにもない。つまり、どこの誰がクロマグロで大騒ぎしているのか、よく見えてこないのだ。

 それにしても、クジラもクロマグロも、日本政府と日本の利益団体とその取り巻きが主張するように、本当に資源枯渇の恐れはないのだろうか。 

 絶滅危惧種の国際取引禁止を決めるワシントン条約締結国のドーハ会議は、委員会段階で、幸か不幸か、モナコが提案したクロマグロ禁輸を否決した。 本会議での採択が難しくなるような大差の否決だった。

 事前の日本報道では、日本がいくら画策しても否決に持ち込むのは難しいと、かなり悲観的だった。ところが、蓋を開けてみると、「大逆転」も現実味を帯びてきた。 バンクーバー冬季五輪のメダル皮算用大外れとは逆の展開だ。

 このままドーハ会議が終わるとすれば、きっと、なにかの利権を巡って、誰かが得をし、誰かが損をするのだろう。それが政治というものだ。

 そして、「日本文化」の埒外にいるクロマグロと一般大衆日本人には何も残らないのか。 せめて、日本政府は、禁輸阻止祝賀大放出のクロマグロ無料配布券を全国民に配布すべきだ。

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