アルベール・カミュの名作「異邦人」(窪田啓作 訳、新潮文庫版)について、最近、文芸評論家・斉藤美奈子が読売新聞に面白いことを書いていた。
もし邦題が「異邦人」ではなく「はぐれ者」で、有名な書き出し「きょう、ママンが死んだ」が「きょう、オカンが死んだ」とかだったら、印象は全然ちがっただろう、というのだ。
この筆者の歯切れの良い評論も悪くはないが、それは置いといて、この文庫本をジーンズの尻ポケットに突っ込んで、小説の舞台であるアルジェに旅して読んだことを思い出した。
地中海に面したアルジェは、港の後ろに海沿いの大通りがあり、その背後にフランス植民地時代からの建物が並ぶ旧市街が広がる。 背景には緑の小高い丘が連なり、金持ちや外国人の住居、大使館などが点在する。
「異邦人」に描かれているのは、古くからある旧市街で昔からの街並みが今もほとんど変わっていない。 だから、衝動的な殺人を犯し死刑判決を受ける主人公ムルソーが住んでいたアパルトマン、勤務していた港近くの海運会社事務所、女友達マリイと出会った海水浴場などを、現実に存在するものとして見ることができる。
おそらく、それは錯覚ではない。 アルジェリアへのフランス人植民者の家に生まれたカミュがアルジェ大学に入学した1930年代に撮影されたセピア色の写真と現在の光景とは、さしたる違いがないのだ。 変貌が日常化した日本とは、歴史という縦糸と社会という横糸の紡ぎ方が根本的に異なるのだと思う。
「異邦人」とほぼ同時代に書かれた川端康成の「雪国」の舞台・越後湯沢の現在に、しっとりとした温泉街の雰囲気はもはやない。 巨大な新幹線駅舎とリゾートマンション群が支配する町で、駒子の面影をどうやって思い描けというのか。
「異邦人」は、実在する死刑囚ムルソー自らが綴った自伝ではないかと思わせるような、心象風景の詳細かつ繊細な描写が凄い。 だから、ムルソーが”生きていた”ころと変わらないアルジェの街でこの小説を読んでいると、自分がムルソーと同じアパルトマンに住む隣人であるような生々しさを感じるのだ。
小説というものは、「ママン」を「オカン」にするような姑息な言葉遊びなどではなく、異なる場所で読むことによって、内容がまるで違う印象を受けるし、理解の仕方も変化する。
イラクの首都バグダッド。 チグリス川を見下ろすラシド・ホテルで平凡社の東洋文庫「アラビアン・ナイト」を読む。 語り部シャハラザードの声が確かに聞こえる。
ジョン・スタインベックが愛犬とアメリカを旅行したエッセー「チャーリーとの旅」をアメリカの安モーテルのベッドで読む。 ノーベル賞作家が「アメリカは漠としすぎている」と耳元でぼやく。
太平洋の小さな島国の大統領の不思議な物語、池澤夏樹の「マシアス・ギリの失脚」。 パラオで読むと、美しい珊瑚礁の魚たちよりも地上の怠け者の人間たちにいとおしさを感じる。
旅とは本との出会いでもある。 エルサレムに行ったら、宗教心があろうがなかろうが、旧約聖書がお勧めだ。 文化人類学の書物だと思って読むと、パレスチナ人を追い出してイスラエル国家を作った目の前にいるユダヤ人たちの古代の生活にふつふつと興味が湧いてくる。 面白いものだ。
今、日本人が東京で読むとしたら、村上春樹の「1Q84」ではなくて、ジョージ・オーウェルの「1984年」だろう。 オーウェルが描いた暗い未来の管理社会と現実の管理社会を自虐的に比較できるからだ。