昼下がり、多摩川の川崎側、丸子橋付近のサイクリング・コースを自転車で散歩しているうちに、携帯電話を落してしまった。 電話会社に連絡すると、GPSの位置情報で、川崎市中原区小杉1丁目の半径1.5km以内にあると教えてくれたが、半径1.5km、つまり1.5×1.5×3.14(円周率)=7.065平方kmの範囲のいったい、どこを探せばいいのだ。
警察に遺失物届けをしたものの、発見はほとんど諦めていた。 ところが、みつかったのである。 夕方、自宅の固定電話にかかってきた男の声が、携帯を拾ったので渡したいというのだ。
男は、自分の居場所は河川敷のテントだと説明した。 どうやらホームレスらしい。 その日は暗くなっていたので、翌日行ってみた。
指定された場所には、想像していたブルーハウスではなく、小奇麗なコールマンの一人用テントがあり、外から声をかけると、50がらみのよく日に焼けた男が、ニコニコ笑いながら顔を出した。
テントの中には、小さなテーブルがあって、「白鶴まる」の200mlカップ酒、「KIRINのどごし<生>」の350ml缶がそれぞれ数本、空になって転がっていた。 奥の方には、4ℓのペットボトル焼酎「大番頭」も見えた。
「きのう、酒を買いに出かけたときに拾ったんだよ。持っていきな」。 あっさりと携帯を渡してくれた。
丁重にお礼を言って、どうやら酒が好きらしいので、テーブルの上のカップや缶の数から酒代を頭の中で計算して、ちょっと少ないかなと思いつつ千円札2枚を握らせた。
すると、男は「そんなつもりじゃねえ」と強い力でカネを突っ返してきた。 しばし押し問答をした末、結局、「今度、酒を持って遊びに来るよ」と言うと、相手はやっと満足してくれた。
ホームレスだって礼節はわきまえているんだというプライド、矜持と言ったら、優越感で男を見下したことになろう。 そうではない。 普通の人間の普通の行為だった。 なにしろ、ホームレスの男も携帯を持っていたのだから。
秋晴れの下、河川敷には野球に興じる子どもたちの声が響き渡っていた。 気持ちの良い、さわやかな1日だった。
多摩川の向こう側に見える河岸段丘のあたりは田園調布。 数年前のことを思い出す。 そのときは財布を落とした。 このときも運良く、田園調布警察署から「みつかった」と連絡があった。
拾い主は田園調布の住民だった。 まずはお礼を言おうと電話をした。 だが、相手の応答で、すっかり厭な気分にさせられた。
東京を代表する高級住宅地・田園調布の財力と知性、教養のある住民という先入観が大間違いだったのだ。 いきなり、「それ相応の謝礼を出すんだろうね」と露骨にカネを求めてきたのだ。 このときは本人に会って、皮肉を込め多過ぎる額の現金を渡し、あとで反省した。
多摩川の両岸。 河川敷と高級住宅地。 人間の品格には関係ない。