あれから1年。 ドイツのテレビ局ZDFが制作したドキュメンタリー「フクシマのうそ」が、日本で関心を呼んでいる。 日本の原発政策を牛耳ってきた「原子力むら」に鋭く切り込んでいるからだ。 それを教えてくれたのは、日本の大新聞で記者をやっている友人だった。 無論、ドイツのテレビが放映したような「原子力むら」の実態については、日本のメディアも伝えている。 だが、このドキュメンタリーが目を引くのは、具体的証言でファクトを構築しているところだ。 友人が勤める大新聞は原発推進を社論としていたせいか、3・11で露呈した「原子力むら」の「悪」に、ほとんど言及していなかったように思える。 つまり、あの新聞の多数の読者は、この問題を目にしていないのかもしれない。 それなら、このドキュメンタリーを紹介しておく意味があるだろう。
以下は、「フクシマのうそ」のスクリプト(http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-546.htmlより)。映像は、http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-546.html。
* * * * * *
(我々は放射能から身を守り、警察から外人と見破られないよう防護服を着こんだ。汚染され、破壊した原発が立っているのは立ち入り禁止区域だ。そこに連れて行ってくれることになっている男性と落ち合った。なにが本当にそこで起きているか、彼に見せてもらうためだ。)
(ナカ・ユキテル氏は原子力分野のエンジニア会社の社長で、もう何十年間も原発サイトに出向いて働いてきた。フクシマでも、だ。)
(私たちは見破られず、無事チェックポイントを通過した。作業員たちが作業を終え、原発から戻ってきたところだった。)
(3月11日に起こったことは、これから日本が遭遇するかもしれぬことの前兆に過ぎないのかもしれないことが次第にわかってきた。そしてその危険を理解するには、過去を理解することが必要だ。)
(私たちは立ち入り禁止区域の中、事故の起きた原発から約7キロ離れたところにいる。ナカ氏はここで生活をし、福島第一と福島第二の間を股にかけて仕事をしてきた。ナカ氏と彼の部下は、何年も前から原発の安全性における重大な欠陥について注意を喚起してきた。しかし、誰も耳を貸そうとしなかった。)
<ナカ氏> 私の話を聞いてくれた人はほんのわずかな有識者だけでその人たちの言うことなど誰も本気にしません。日本ではその影響力の強いグループを呼ぶ名前があります。原子力むら、というのです。彼らの哲学は、経済性優先です。この原子力むらは東電、政府、そして大学の学者たちでできています。彼らが重要な決定をすべて下すのです。
(私たちは東京で菅直人と独占インタビューした。彼は事故当時首相で、第二次世界大戦以来初の危機に遭遇した日本をリードしなければならなかった。彼は唖然とするような内容を次々に語った、たとえば首相の彼にさえ事実を知らせなかったネットワークが存在することを。)
(マスメディアでは彼に対する嘘がばらまかれ彼は辞任に追い込まれた。彼が原子力むらに対抗しようとしたからである。)
<菅前首相> 最大の問題点は、3月11日が起こるずっと前にしておかなければいけないものがあったのに、何もしなかったことです。原発事故を起こした引き金は津波だったかもしれないが当然しておくべき対策をしなかったことが問題なのです。この過失は責任者にあります。つまり、必要であったことをしなかった、という責任です。
(では原発事故の原因は地震と津波ではなかったのか?原子力むらの足跡を辿っていくと、嘘、仲間意識と犯罪的エネルギーの網の目に遭遇する。調査は2つの大陸にまたがった。まずカリフォルニアに飛んだ。目的地はサン・フランシスコである。)
(私たちはある男性と話を聞く約束をしていた。彼は長年原子炉のメンテナンスの仕事でフクシマにも何度も来ておりかなり深刻なミスや事故を東電が隠蔽するのに遭遇した。フクシマの第1号原子炉は70年代初めにアメリカのジェネラルエレクトリック社が建設しそれ以来アメリカのエンジニアが点検を行ってきた。そしてフクシマでは何度も問題があった。)
<ハーノ記者> 東電は、点検後、何をあなたに求めたのですか?
<スガオカ氏> 亀裂を発見した後、彼らが私に言いたかったことは簡単です。つまり、黙れ、ですよ。何も話すな、黙ってろ、というわけです。
(問題があるなど許されない日本の原発に問題など想定されていない。アメリカのエンジニア、ケイ・スガオカ氏もそれを変えようとすることは許されなかった。)
<スガオカ氏> 1989年のことです、蒸気乾燥機でビデオ点検をしていて、そこで今まで見たこともないほど大きい亀裂を発見しました。
(スガオカ氏と同僚が発見したのは、それだけではない。)
<スガオカ氏> 原子炉を点検している同僚の目がみるみる大きくなったと思うと彼がこう言いました。蒸気乾燥機の向きが反対に取り付けられているぞ、と。
(もともとこの原発の中心部材には重大な欠陥があったのだ。スガオカ氏は点検の主任だったので正しく点検を行い処理をする責任があったのだが、彼の報告は、東電の気に入らなかった。)
<スガオカ氏> 私たちは点検で亀裂を発見しましたが、東電は私たちにビデオでその部分を消すよう注文しました。報告書も書くな、と言うのです。私はサインしかさせてもらえませんでした。私が報告書を書けば、180度反対に付けられている蒸気乾燥機のことも報告するに決まっていると知っていたからです。
<ハーノ記者> では、嘘の文書を書くよう求めたわけですか?
<スガオカ氏> そうです、彼らは我々に文書の改ざんを要求しました。
(スガオカ氏は仕事を失うのを怖れて、10年間黙秘した。GE社に解雇されて初めて彼は沈黙を破り日本の担当官庁に告発した。ところが不思議なことに、告発後何年間もなにも起こらなかった。日本の原発監督官庁は、それをもみ消そうとしたのだ。)
(2001年になってやっと、スガオカ氏は「同士」を見つけた。それも日本のフクシマで、である。18年間福島県知事を務めた佐藤栄佐久氏は、当時の日本の与党、保守的な自民党所属だ。佐藤氏は古典的政治家で皇太子夫妻の旅に随行したこともある。はじめは彼も、原発は住民になんの危険ももたらさないと確信していた。それから、その信頼をどんどん失っていった。)
<佐藤前知事> 福島県の原発で働く情報提供者から約20通ファックスが届きその中にはスガオカ氏の告発も入っていました。経産省は、その内部告発の内容を確かめずに、これら密告者の名を東電に明かしました。それからわかったことは、私もはじめは信じられませんでした。東電は、報告書を改ざんしていたというのです。それで私は新聞に記事を書きました。そんなことをしていると、この先必ず大事故が起きる、と。
(それでやっと官僚たちも、何もしないわけにはいかなくなり、17基の原発が一時停止に追い込まれた。調査委員会は、東電が何十年も前から重大な事故を隠蔽し、安全点検報告でデータを改ざんしてきたことを明らかにした。)
(それどころか、フクシマでは30年も臨界事故を隠してきたという。社長・幹部は辞任に追い込まれ、社員は懲戒を受けたが、皆新しいポストをもらい、誰も起訴されなかった。一番の責任者であった勝俣恒久氏は代表取締役に任命された。)
(彼らは、佐藤氏に報告書の改ざんを謝罪したが、佐藤氏は安心できず、原発がどんどん建設されることを懸念した。そこで佐藤氏は日本の原発政策という「暗黙のルール」に違反してしまった。2004年に復讐が始まった。)
<佐藤前知事> 12月に不正な土地取引の疑いがあるという記事が新聞に載りました。この記事を書いたのは本来は原発政策担当の記者でした。この疑惑は、完全にでっち上げでした。弟が逮捕され首相官邸担当の検察官が一時的に福島に送られて検事を務めていた。彼の名はノリモトという名で遅かれ早かれ、お前の兄の知事を抹殺してやる、と弟に言ったそうです。
事態は更に進み、県庁で働く200人の職員に圧力がかかり始めました。少し私の悪口を言うだけでいいから、と。中には2、3人、圧力に耐え切れずに自殺をする者さえ出ました。私の下で働いていたある部長は、いまだ意識不明のままです。
(それで、同僚や友人を守るため、佐藤氏は辞任した。裁判で彼の無罪は確定されるが、しかし沈黙を破ろうとした「邪魔者」はこうして消された。これが、日本の社会を牛耳る大きなグループの復讐だった。そして、これこそ、日本で原子力むらと呼ばれるグループである。)
<菅前首相> ここ10~20年の間、ことに原子力の危険を訴える人間に対するあらゆる形での圧力が非常に増えています。大学の研究者が、原発には危険が伴うなどとでも言おうものなら、出世のチャンスは絶対に回ってきません。政治家は、あらゆる援助を電力会社などから受けています。しかし、彼らが原発の危険性などを問題にすれば、そうした援助はすぐに受けられなくなります。反対に、原発を推進すれば、多額の献金が入り込みます。それは文化に関しても同じでスポーツやマスコミも含みます。
このように網の目が細かく張りめぐらされて、原発に対する批判がまったくなされない環境が作り上げられてしまいました。ですから原子力むらというのは決して小さい領域ではなくて国全体にはびこる問題なのです。誰もが、この原子力むらに閉じ込められているのです。
(東電から献金を受け取っている100人以上の議員に菅首相は立ち向かった。その中には前の首相もいる。やはり彼と同じ政党所属だ。ネットワークは思う以上に大きい。多くの官僚は定年退職すると、電事業関連の会社に再就職する。)
(1962年以来、東電の副社長のポストは、原発の監査を行うエネルギー庁のトップ官僚の指定席だ。これを日本では天下り、と呼んでいる。しかし反対の例もある。東電副社長だった加納時男氏は、当時与党だった自民党に入党し、12年間、日本のエネルギー政策を担当し、それからまた東電に戻った。)
(このネットワークについて、衆議院議員の河野太郎氏と話した。河野氏の家族は代々政治家で、彼の父も外相を務めた。彼は、第二次世界大戦後、日本を約60年間にわたり支配した自民党に所属している。原発をあれだけ政策として推進してきたのは自民党である。)
<河野議員> 誰も、日本で原発事故など起こるはずがない、と言い続けてきました。だから、万が一のことがあったらどうすべきか、という準備も一切してこなかったのです。それだけでなく、原発を立地する地方の行政にも、危険に対する情報をなにひとつ与えてこなかった。いつでも、お前たちはなにも心配しなくていい、万が一のことなど起こるはずがないのだから、と。彼らはずっとこの幻想をばらまき、事実を歪曲してきた。そして今やっと、すべて嘘だったことを認めざるを得なくなったのです。
(この雰囲気が2011年3月11日に壊れた。日本がこれまでに遭遇したことのない大事故が起きてからだ。14時46分に日本をこれまで最大規模の地震が襲った。マグニチュード9だった。しかし、地震は太平洋沖で始まったその後のホラーの引き金に過ぎなかった。時速数百キロという激しい波が津波となって日本の東部沿岸を襲った。津波は場所によっては30メートルの高さがあり、町や村をのみこみ消滅させてしまった。約2万人がこの津波で命を失った。)
(そして福島第一にも津波が押し寄せた。ここの防波堤は6メートルしかなかった。津波の警告を本気にせず、処置を取らなかった東電や、原発を監査する当局は警告を無視しただけでなく、立地場所すら変更していたのだ。)
<菅前首相> もともとは、原発は35mの高さに建てられる予定でした。しかし標高10mの位置で掘削整地し、そこに原発を建設したのです、低いところの方が冷却に必要な海水をくみ上げやすいという理由で。東電がはっきり、この方が経済的に効率が高いと書いています。
(巨大な津波が、地震で損傷を受けた福島第一を完全ノックアウトした。まず電源が切れ、それから非常用発電機が津波で流されてしまった。あまりに低い場所に置いてあったからである。電気がなければ原子炉冷却はできない。)
<菅前首相> 法律では、どの原発もオフサイトサンターを用意することが義務付けられています。福島第一ではその電源センターが原発から5キロ離れたところにあります。これは津波の後、1分と機能しなかった。それは職員が地震があったために、そこにすぐたどりつけなかったからです。それで電源は失われたままでした。こうして送電に必要な器具はすべて作動しませんでした。つまりオフサイトサンターは、本当の非常時に、なんの機能も果たさなかったということです。法律では原発事故と地震が同時に起こるということすら想定していなかったのです。
(菅直人はこの時、原発で起こりつつある非常事態について、ほとんど情報を得ていなかった。首相である彼は、テレビの報道で初めて、福島第一で爆発があったことを知ることになる。)
<菅前首相> 東電からは、その事故の報道があって1時間以上経っても、なにが原因でどういう爆発があったのかという説明が一切なかった。あの状況では確かに詳しく究明することは難しかったのかもしれないが、それでも東電は状況を判断し、それを説明しなければいけなかったはずです。しかし、それを彼らは充分に努力しませんでした。
(2011年3月15日、災害から4日経ってもまだ東電と保安院は事故の危険を過小評価し続けていた。しかし東電は菅首相に内密で会い、職員を福島第一から撤退させてもいいか打診した。今撤退させなければ、全員死ぬことになる、というのだ。)
<菅前首相> それで私はまず東電の社長に来てもらい、撤退は絶対認められない、と伝えた。誰もいなくなれば、メルトダウンが起きれば莫大な量の放射能が大気に出ることになってしまう。そうなってしまえば、広大な土地が住めない状態になってしまいます。
(菅は、はじめから東電を信用できず、自分の目で確かめるためヘリコプターで視察した。しかし首相である彼にも当時伝えられていなかったことは、フクシマの3つの原子炉ですでにメルトダウンが起きていたということだ。それも災害の起きた3月11日の夜にすでに。
<菅前首相> 東電の報告にも、東電を監査していた保安院の報告にも燃料棒が損傷しているとかメルトダウンに至ったなどということは一言も書かれていなかった。3月15日には、そのような状況にはまだ至っていないという報告が私に上がっていました。
(事故からほぼ1年が経った東京。世界中であらゆる専門家が予想していたメルトダウンの事実を東電が認めるまで、なぜ2ヶ月も要したのか、私たちは聞こうと思った。自然災害が起きてからすぐにこの原発の大事故は起きていたのである。)
<ハーノ記者> 原子炉1号機、2号機そして3号機でメルトダウンになったことを、東電はいつ知ったのですか。
<東電・松本氏> 私どもは目で見るわけにはいきませんが、上がってきましたデータをもとに事態を推定し、燃料棒が溶け、おそらく圧力容器の底に溜まっているだろうという認識に達したのは、5月の初めでした。
(膨大なデータに身を隠そうとする態度は今日も変わらない。東電は、毎日行う記者会見でこれらのデータを見せながら、事態はコントロール下にあると言い続けている。しかしこれらのデータの中には、本当に責任者たちはなにをしているのかわかっているか、疑いたくなるような情報がある。)
(例えば、スポークスマンは、ついでのことのように放射能で汚染された冷却水が「消えてしまった」と説明した。 理由は、原発施設ではびこる雑草でホースが穴だらけになっているという。)
<ハーノ記者> 放射能で汚染された水を運ぶホースが、雑草で穴が開くような材料でできているというのですか?
<東電・松本氏> 草地に配管するのは私たちも初めてのことですが穴があくなどのことについては知見が不十分だったと思っています。
(しかし原発の廃墟をさらに危険にしているのは雑草だけではない。私たちは富岡町に向かった。ゴーストタウンだ。原発廃墟の福島第一から7キロのところにある。私たちはナカ氏に便乗した。彼のような住民は、個人的なものを取りに行くために短時間だけ帰ることが許されている。彼は、地震に見舞われた状態のまま放り出された会社を見せてくれた。今では放射能のため、ここに暮らすことはできない。)
<ナカ氏> この木造の建物はとても快適でした。とても静かで、夏は涼しく、冬は暖かかった。私たちは皆ここで幸せに暮らしていました。
(80人の原発専門のエンジニアが、彼のもとで働いており、原発事故後も、事故をできるだけ早く収束しようと努力している。ナカ氏と彼の社員は、原発廃墟で今本当になにが起きているのか知っている。)
<ナカ氏> 私たちの最大の不安は、近い将来、廃墟の原発で働いてくれる専門家がいなくなってしまうことです。あそこで働く者は誰でも、大量の放射能を浴びています。どこから充分な数の専門家を集めればいいか、わかりません。
(しかし、まだ被爆していない原発の専門家を集めなければ事故を収束するのは不可能だ。例え、これから40年間、充分な専門家を集められたとしても日本も世界も変えてしまうことになるかもしれない一つの問題が残る)
<ハーノ記者> 今原発は安全なのですか?
<ナカ氏> そう東電と政府は言っていますが、働いている職員はそんなことは思っていません。とても危険な状態です。私が一番心配しているのは4号機です。この建物は地震でかなり損傷しているだけでなく、この4階にある使用済み燃料プールには、約1300の使用済み燃料が冷却されています。その上の階には新しい燃料棒が保管されていて、非常に重い機械類が置いてあります。なにもかもとても重いのです。もう一度大地震が来れば建物は崩壊してしまうはずです。そういうことになれば、また新たな臨界が起こるでしょう。
(このような臨界が青空の下で起これば、日本にとって致命的なものとなるだろう。放射能はすぐに致死量に達し、原発サイトで働くことは不可能となる。そうすれば高い確率で第1、2、3、 5、 6号機もすべてが抑制できなくなり、まさにこの世の終わりとなってしまうだろう。)
(東京で著名な地震学者の島村英紀氏に会った。2月に東大地震研が地震予知を発表したが、それによれば75%の確率で4年以内に首都を直下型地震が襲うと予測されている。)
<ハーノ記者> このような地震があった場合に原発が壊滅して確率はどのくらいだとお考えですか?
<島村教授> はい、とても確率は高いです。
<ハーノ記者> どうしてですか?
<島村教授> 計測している地震揺れ速度が、これまでの予測よりずっと速まってきています。私たちはここ数年、千以上の特別測定器を配置して調査してきましたが、それで想像以上に地震波が強まり、速度も増していることがわかったのです。
(これは、日本の建築物にとって大変な意味を持つだけでなく、原発にとっても重大な問題となることを島村氏は説明する。)
<島村教授> これが原発の設計計算です。将来、加速度300~450ガルの地震が来ることを想定しています。そして、高確率で発生しないだろう地震として、600ガルまでを想定していますが、この大きさに耐えられる設計は原子炉の格納容器だけで、原発のほかの構造はそれだけの耐震設計がされていないのです。しかし、私たちの調査では、最近の地震の加速度が、なんと4000ガルまで達したことがわかっています。想定されている値よりずっと高いのです。
<ハーノ記者> 電力会社は、それを知って増強をしなかったのですか?
<島村教授> 今のところ何もしていません、不十分であることは確かです。これだけの地震に耐えられるだけの設計をしようなどというのは、ほとんど不可能でしょう。
(ここは原発廃墟から60キロ離れた場所だ。フクシマ災害対策本部では東電、保安院、福島県庁が共同で原発の地獄の炎を鎮火するための闘いの調整をはかっている。私たちは東電の災害対策部責任者にインタビューした。ことに彼に訊きたいのは、どうやって今後これだけ損傷している原発を大地震から守るつもりなのか、ということだ。ことに、危ぶまれている4号機について訊いた。)
<東電・白井氏> 4号機の使用済み燃料プールには、夥しい量の使用済み燃料が入っています。これをすべて安全に保つためには、燃料プールの増強が必要です。燃料プールのある階の真下に、新しい梁をつけました。
<ハーノ記者> 原発はほとんど破壊されたといってもいいわけですが、原発が健在だった1年前ですら、大地震に耐えられなかった構造で、どうやって次の地震に備えるつもりなのでしょうか?
<東電・白井氏> 我々は耐震調査を4号機に限らず全体で行いました。その結果、問題ないという判断が出ています。
<ハーノ記者> でも、地震学者たちは4000ガルまでの地震加速度が測定されていて、これだけの地震に耐えられるだけの原発構造はないと言っています。半壊状態のフクシマの原発の真下で、そのような地震が来ても全壊することはないと、なぜ確信がもてるのですか?
<東電・白井氏> その4000ガルという計算は別の調査ではないでしょうか。それに関しては、私は何とも言いかねます。
<ハーノ記者> 原発を日本で稼動させるだけの心構えが、東電にできているとお考えですか?
<東電・白井氏> それは答えるのが難しいですね。
<ナカ氏> これがやってきたことの結果です。この結果を人類はちゃんと知るべきだと思います。
2012年3月28日水曜日
2012年3月20日火曜日
シリア宗派対立の重苦しい不安
シリアという国は、一体どうなってしまうのだろうか。 独裁政権を倒して、民主的手続きによる新政権を樹立すれば、シリアに平和が訪れるのだろうか。
アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、あるいは「アラブの春」にしても、政権を倒したあとに真の平和が実現しただろうか。
シリアに関しては、その歴史を垣間見るだけで絶望的になってしまう。 歴史を足場にして、シリアの現状を眺めると、アサド独裁政権 vs シリア民衆という図式に加え、イスラム教の異端とみなされる少数派のアラウィ派 vs 多数派のスンニ派という宗派対立にも目が行かざるをえないからだ。 実際、このところBBC、CNN、アルジャジーラの報道には、宗派対立拡大への懸念が少しづつ目につくようになってきた。
2011年に始まった「アラブの春」で、リビアのカダフィ独裁が潰れたとき、シリアの隣国レバノンがらみで、ちょっと注目されるニュースがあった。
1978年、当時レバノンのイスラム教シーア派最高権威でカリスマ的指導者だったムーサ・サドルがリビアを訪問し、カダフィと会ったあと行方不明になった。 以来、その消息はミステリーになっていたが、サドルの家族が独裁崩壊を機に調査を求め、歴史の過去に埋もれていた名前が久方ぶりに登場した。
この行方不明自体、カダフィに殺されたという見方もあり、興味津々だが、シリアに関しては、ムーサ・サドルは、多数派のスンニ派から怪しげな異端と目されていたアラウィ派を、イスラム教二大宗派のひとつ、シーア派の一派として公式に認定した人物として歴史に残る。
1970年、現大統領バシャール・アサドの父、ハフェズ・アサドがクーデターで権力を掌握し、翌71年には大統領に就任した。 人口の10%という少数派アラウィ派出身の初の最高指導者誕生である。 この政権が克服すべき最大の課題は、人口の75%を占める圧倒的多数のスンニ派国民の懐柔であった。
だが、1973年には、正統イスラム教徒の義務である1日5回の祈り、断食などの義務を持たないアラウィは不信心者だとして、反アサドの暴動が各地に広がった。 アサドは彼らに対し、アラウィもイスラムであり、自らが良きイスラム教徒であることを示さねばならなくなった。
一方、当時、隣国レバノンでは、ムーサ・サドルがシーア派の基盤強化・拡大を目指し、アラウィ派をも取り込もうとしていた。 こうして、ムーサ・サドルとハフェズ・アサドの利害が一致し、1973年7月、サドルはアラウィをシーア派と認めるファトワ(宗教上の布告)を発した。 宗教上は十分に説得力のあるファトワではなかったはずだが、アサドは正統性を獲得したのだ。
父子二代にわたるアサド独裁は、アラウィ派が手中にした権力をあらゆる手段で維持していこうする支配メカニズムとも言えるだろう。 それが顕著に示されたのは、1982年、首都ダマスカス北方200km、ハマで反乱を起こしたスンニ派原理主義組織「ムスリム同胞団」を軍を動員して総攻撃し、数万人を虐殺した事件だ。 以来、スンニ派は沈黙させられていた。
伝統的には、スンニ派が多数の社会で、アラウィ派住民は貧しく、最下層で虐げられていた。 だが、第1次世界大戦後のフランスによるシリア委任統治時代、さらには第2次大戦後の独立を通じ、次第に旧来の社会的枠組みが変化してきた。 そして、ついに、自分たちを見下していたスンニ派の上に立つアラウィ派政権が誕生した。
権力をいったん手放せば、再びスンニ派支配のもとで抑圧されるアラウィ派に舞い戻ってしまう。 凄惨な報復もあるだろう。 この恐怖感が独裁政権に頑固に固執させる。 おそらく、これは、あまりに単純すぎる見方だ。 アラウィ派の中でもアサド・ファミリーだけに権力が集中し、アラウィ派住民といえども多くが独裁支配に不満を持っているだろう。
それでも、最近シリア内部から流れてくる情報によれば、治安部隊の住民攻撃は、すべてが無差別ではなく、アラウィ派とスンニ派を選別しているケースもあるとされる。 これが本当であれば、権力維持のための、ある種の ethnic cleansing が始まっているのかもしれない。 つまり、現在の民主化運動とは、30年前のハマと同じスンニ派の反乱で、アラウィ派がそれを武力で殲滅しようとしているという図式だ。
この図式に基づくシナリオを描けば、対立は今後さらに宗教色が強まっていくだろう。 そうなれば、アラウィ派を邪教とみなすスンニ派の過激なイスラム主義集団が確実に影響力を拡大する。 この種の混乱状態が、アルカーイダ勢力伸張の温床になることは、隣国イラクで既に証明されている。
2011年12月から、情報機関をはじめとするシリア政府建物が、かなり洗練された爆弾テロの標的になっている。 ところが、反政府勢力を代表するシリア国民評議会、自由シリア軍は自分たちの攻撃ではなくアサド政権の自作自演だとテロを非難している。 このため、一連の爆弾テロの背景はミステリーでもある。 こうした状況を米国政府情報機関は分析し、テロ攻撃のプロ集団アルカーイダがシリアに既に浸透している可能性を指摘している。
だが、これも確証がない。 しかも、アルカーイダの登場や、一般住民を巻き込む恐れのある爆弾テロの頻発は、アサド政権にとっては、反政府勢力を一般国民から引き離す絶好の宣伝になる。 さらに、アルカーイダ゙の関与が現実になれば、反アサドの運動を支援しようとしている欧米諸国は、さらなる援助を躊躇するかもしれない。 とくに武器援助は、アルカーイダに流出する可能性を否定できなくなり慎重にならざるをえない。
アサド政権側からすれば、自らはアラウィ派権力維持のために節操のない宗派的行動をどれだけ取ろうが、アルカーイダの行動と爆弾テロが拡大すれば、国内外で、「アサド独裁は必要悪」とみなされ、消極的ではあるが受け入れられる余地が生まれる。 これは、政権側には悪くない状況だ。
「反独裁」「民主化」「民衆革命」といった奇麗事の言葉で、シリアの現状を語ることはできない。 チュニジアで始まった「アラブの春」から、あの明るい色彩は既に褪めてしまい、どす黒さと血生臭さが漂い始めている。
2012年3月12日月曜日
あれから1年
「1年」「復興」「がれき」「教訓」「被災地」「震災」「原発」「仮設住宅」「生活再建」「追悼」「希望」「明日」「放射線」「決意」「防波堤」「避難者」「きずな」「祈り」「涙」「再出発」「命」「津波」「トモダチ」「奇跡」「生還」「巨大地震」「遺体」「身元不明」「犠牲者」「黙祷」「警戒区域」「除染」「放射能」「汚染」「鎮魂」「中間貯蔵施設」「遺族」「追悼」「祈り」「いのち」「水没」「濁流」「被災者」「被災地」「広域処理」「埋め立て」「最終処分」「放射性物質」「死者」「不明」「国民」「水素爆発」「メルトダウン」「想定外」「放射性セシウム」「がんばろう」「忘れない」「支援」「電力」「東電」「賠償」「忘れ形見」「悲しみ」「尊い命」「笑顔」「恩返し」・・・・・。
2012年3月11日。 新聞から拾った「あれから1年」単語集。
この1年で、なんとなく記憶に残った言葉は、東北のどこかの津波被災地で消防署だか消防団のオジサンがテレビで口にした「自己責任」だった。
大津波が差し迫ってきたきたとき、避難の指示を待つよりも、自分のとっさの判断と気転で行動する方がいい場合がある、というような脈絡で話しているときに出てきた言葉だ。
被災地の女性が話していた。 鉄道の踏切遮断機が地震の影響で自動的に降りてしまった。 このため避難しようとする人たちの車が踏切を渡れず行列になった。 背後から津波が来るというのに、彼らは交通規則を守っている。 それを見ていた彼女は「遮断機に突っ込め、津波が来てるぞ!」と運転者に叫んだ。 助かった人のエピソードである。
「自己責任」とは、こういうことだ。 状況判断を自分でやって、取るべき行動を自分で決める。 だが、津波に飲み込まれようとしているのに交通法規を遵守しようとする日本人には苦手なことかもしれない。 日本人は、個人よりも集団の規範に従い、皆と同じことをするのが最も安全な生き方だと教え込まれて(飼い馴らされて?)きたからだ。
放牧中のヒツジの群れのリーダーは、ヒツジより少し頭の良いヤギだという。 頭の悪いヒツジたちは常にヤギの後を追う。 だから、ヤギが誤まって川に落ちてもヒツジたちはヤギに従って川に飛び込む。 そして、皆溺れ死んでしまう。 中央アジア・キルギスの遊牧民が教えてくれた。
消防のオジサンが口にした「自己責任」は、実は、日本人にはとてつもなく重い命題なのだ。 3月11日の新聞を隅から隅まで読んでみたけれど、「自己責任」という単語をみつけることはできなかった。
2012年3月2日金曜日
セピア色の東京オリンピック
TSUTAYAのキャンペーンで1ヶ月間に無料でDVDを8枚も借りられるというので申し込んだ。 8枚も見たいDVDがなかったので、苦し紛れに市川崑・監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」を最後の1枚に加えた。
ところが、これがなかなか興味深い映画だった。 1964年という時代風景の一端を見ることができたからだ。
近ごろは、街のヨタヨタしたジョガーですら、色とりどりのファッショナブルなウエアで身を固めている。 それと比べると、当時の国立競技場でウォーミングアップしている世界の一流アスリートたちの姿は、実にみすぼらしく見える。 彼らが着ているのは、スーパーの安売りコーナーで山積みになっているジャージー上下2枚組990円、寝巻き用のあれではないか!
どこかの国の女子選手の短パンの腿の部分にはゴムが入っていた。 そう言えば、パンツからゴムが消えたのはいつのことだろう。 ゴム紐の押し売りなんてもいたっけ。
体操女子のあのベラ・チャスラフスカは本当に美しかった。 東京での活躍で「オリンピックの花」と呼ばれたが、それは正しい。 最近の女子体操は、子どもの曲芸、中国の雑技団みたいだが、チャスラフスカは、あくまでも優美におとなの女を正統的に演じていた。 滲み出る知性は、4年後、1968年チェコスロバキア民主化運動「プラハの春」への参加につながる。
棒高跳びで、米国のハンセンとドイツのラインハルトが繰り広げた9時間7分に及ぶ死闘は、いまだに伝説になっている。 このとき破れたラインハルトは、引き揚げるとき、気取って櫛を取り出し、乱れた髪を丁寧に整えていた。 こんな身だしなみは、すでに地球上から消滅してしまった。 今なら、ゲイじみた仕草にみえるかもしれない。
マラソンは、現在の高速レースを見慣れていると、ひどくゆっくり走っているようにみえる。 レース展開もかなり違う。 今では、テレビで見る限り、有力選手たちのほとんどはスタート直後から先頭グループで固まり、 駆け引きを開始する。 だが、東京でオリンピック2連覇を果たしたアベベ・ビキラは、スタート直後からしばらくは、先頭から100m近く離れた最後尾あたりに位置していた。 それでも20kmあたりでトップになり、あとは後続を引き離しダントツの強さをみせつけた。
レース風景ものんびりしている。 給水所には大きなプラスティックのバケツがあり、立ち止まって柄杓で水をすくい、うまそうに飲んでいる選手の姿もあった。 途中棄権選手をピックアップするバスには「落伍収容」と大書きされていた。 こんな表現は、現代では「なんとかハラスメント」ではないか。
コースの甲州街道沿いに、大きなビルはまだ建っておらず、田園風景が広がっている。 遠い、遠い昔の出来事。 あれから半世紀。
どこかのキチガイたちが、わけのわからない怪しげな目論見で、もう一度、東京オリンピックをやろうとしているらしい。 そんなグロテスクなオリンピックだけは目にしたくない。
登録:
投稿 (Atom)