2013年4月23日火曜日

2人のタメルラン―英雄とテロリスト

タメルラン(ティムール)のリトグラフ(サマルカンドで25USドル)

 14世紀後半、日本では室町時代、足利政権が安定期に入ろうとしていた。 そのころ、ユーラシアのど真ん中、中央アジアの古都サマルカンドでは、チンギスハンが樹立したモンゴル帝国が消えたあとに、一人の英雄による新たな帝国が誕生していた。

 モンゴル人とこの地のトルコ系先住民族の血を引くティムール。 草原を馬で駆け巡る盗賊という出自だったが、その卓越した指導力で影響力を拡大し、ついにモンゴル帝国の後継とも言える広大な版図を支配することになった。 

 ティムールの廟は今もサマルカンドにあり、訪れる人が絶えない。 1941年6月21日午前6時、ソ連の世界的科学者ミハイル・ゲラシモフが、調査のためにティムールの墓を掘り起こした。 地元の人々は、崇拝する英雄の墓が暴かれれば、絶対に不吉なことが起きると調査を見守っていた。 そして、それは本当に起きた。 調査からまもなく、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦でソ連への侵攻を開始したのだ。

 ティムールは「タメルラン」とも呼ばれた。 ティムールは戦闘で負傷し、右足を引きずって歩いていた。 このため、「びっこのティムール」、ペルシャ語で「ティムーリ・ラン」、このペルシャ語がなまって「タメルラン」となった。

 2013年4月15日、ボストン・マラソンのゴール地点近くで起きた爆弾テロ。 犯人は、ロシア南部の民族チェチェン系の若い兄弟で、逃走中に射殺された兄の名前も、「タメルラン」だった。 

 おかげで新しいことを知った。 今に受け継がれる英雄にちなんだ「タメルラン」という名前は、西欧人にとっての「アレクサンダー」みたいな名前だったのだ。  

 それにしても、ソ連時代に、ティムールは残虐な抑圧者、古臭い封建社会の象徴とみなされ、英雄崇拝は否定されていた。 その時代、生まれた子どもに「タメルラン」と名付けることは、自分が反ソ連だと告白するようなものだったのではないのか。 危険すぎる命名ではなかったのか。

 中央アジアから来ている東京駐在外交官にきいてみた。 彼によると、「タメルラン」という名前は「ティムール」とともに、ソ連時代から珍しくない名前だったという。 確かに、殺されたボストンの「タメルラン」はソ連崩壊前の1986年生まれだった。 この年、ゴルバチョフがペレストロイカを提唱し、アフガニスタンからのソ連軍撤退を表明したが、ソ連はまだ堂々たる超大国だった。

 ソ連時代、中央アジアやカフカスの民族主義は徹底的に押さえ込まれた。 とくに、命知らずの抵抗を続けたチェチェン人は大量虐殺の標的にもなった。 それにもかかわらず、中央アジアという土地と文化を象徴する「タメルラン(=ティムール)」への崇拝の念を失わず、彼らはアイデンティティを頑なに守って生き続けた。 「タメルラン」という名前は、だから残った。 ソ連当局も名前の否定まではできなかったのだろう。

 ボストン・マラソンでのテロ行為は正気のさたではない。 同情の余地のない狂気の犯行だ。 だが、「タメルラン」という名前の背後にある歴史を無視することもできない。 チェチェン人たちは、ロシア革命から第2次世界大戦、そしてソ連崩壊後も、その頑固なまでの自立心ゆえに国家への忠誠を疑われて住む土地を追われ、流浪と離散の歴史をたどってきた。

 おそらく中央アジアのどこの国に行ってもチェチェン人に会うことができる。 彼らは旧ソ連の中だけではなく、中東のヨルダンやレバノン、トルコにも散っている。

 ボストンで犯行に及んだ兄弟に組織的な背後関係があろうがなかろうが、 彼らが生きる現実がチェチェンの若者を過激行動に引き寄せる。 アルカーイダに多くのチェチェン人が加わっているのは当然すぎることなのだ。


ボストン・テロ犯として殺害されたタメルラン・ツァルナエフ

2013年4月15日月曜日

男の料理<さくらもち>

(切り餅を2枚にする)
(塩漬けのさくらの葉を広げる)
(2枚の餅を適当な柔らかさになるまで焼いて葉にのせる)
(餅の上にたっぷりと餡をのせる)

(2枚の餅を合わせ、手作り<さくらもち>の完成)

  さくらが散って花見客の姿が消え、人の気配がなくなった葉桜の夜。 いよいよ収穫が始まる。 さくらの葉っぱを千切る輩など見たことはない。 それでも、花をむしるような罪悪感はないにしても、多少は犯罪者の気分になる。 良心との葛藤の結果、50枚ほどいただいて闇夜に消えた。

 さくらの葉は軽く水洗いし、鍋の熱湯で香りが湧き立つまで、ほんの束の間煮て引き揚げる。 湯は緑色になり香りが広がる。 この湯に塩を加え、底の浅い容器に並べた葉がひたひたになるくらい注ぐ。熱がさめたら冷蔵庫に入れて2,3日。

 さくらもちの作り方は、画像の通り。 さくらの葉っぱのあんころ餅サンドといったところだが、味は、ちゃんとしたさくらもち。 餡と餅は100円ショップで買ってきた。

 この塩漬けさくら葉、チーズに巻いて酒のつまみにするとか、握り飯に巻いて食べるとか、工夫次第で多様な味を楽しめる。 まだ試していないが、天ぷらもいいかもしれない。  


2013年4月5日金曜日

やはりイスタンブールがいい



 2020年オリンピック開催都市の最有力は、どうやら東京ではなくイスタンブールのようだ。 五輪招致オフィシャルパートナー読売新聞の記者で、日本のスポーツ・ジャーナリストとしては一流の結城和香子が4月5日付け解説面で、それを濃厚に臭わせる記事を書いているからだ。 読売が、勝ち目のない東京五輪開催というギャンブルからの撤退準備を始めたようにも受け取れる。

 <五輪が社会発展の触媒となれば、それは五輪開催の意義を証明し、さらに多くの都市の立候補を呼ぶ。 国民には、日本で1964年東京五輪が記憶されるように、世代を超えた印象や憧れを残すことにもつながるからだ。 イスタンブールは今回、戦略的な巧みさで、このIOCの「時の長さ」の視点を利用した。 ... (IOC視察)期間中には「ともに橋を懸けよう」というスローガンを公表。 欧州とアジア大陸での同時開催というテーマ性、イスラムを含む多様な文化・信条をつなぐ懸け橋となる意義を強調した。 ... (渋滞や効率やタクシー運転手のお行儀など)現在の課題については改善の能力と自信を誇示し、大会の主題としては未来に向けた変化そのものを掲げて見せた。 ... 翻って、東京はどうだろう。 「今」の質の高さと開催能力をアピールするあまり、「未来」へのテーマ性や可能性を示しきれていない>

 こんなことは今わかったわけではない。 東京でオリンピックを開催すれば、スムーズな運営で過不足ない大会になるだろう。 開会式や閉会式は、ハイテクを駆使した魅力的なショーになるに違いない。 しかし、だからどうだというのだ。 東京で日本人がオリンピックをやれば、こんなものだろうと、世界中が納得するだけの話ではないか。 意外性、時代を反映する歴史的意味は考えようもない。

 東京の退屈さと比べれば、イスタンブールは魅力に溢れている。 このブログが強く主張してきた点だ。(2013年2月12日付け「2020オリンピックはイスタンブールでhttp://theyesterdayspaper.blogspot.jp/2013/02/2020.html)

 国家主義者や右翼が目論む東京オリンピック開催の阻止までは、気を緩めることはできない。 だが、明るい兆候は見えている。 さあ、みんな、もう一息だ。 がんばって東京オリンピック開催に背を向けよう。

2013年4月4日木曜日

福本豊という生き方



 きのうの夜、久しぶりに読売新聞の記者たちとヤキトリ屋で飲んだとき話題にのぼったのは、長嶋茂雄と松井秀喜への国民栄誉賞授賞ニュースだった。

 ウエブ上では、「戦後プロ野球の大発展に貢献した長嶋の受賞はわかるが、松井には重みが足りない」といったコメントが飛び交っている。 さらには、「それにしても、なぜ、この時機に?」という疑問、「間近にせまった参院選での票稼ぎ」といった批判も目に付く。 ところが、新聞は、巨人軍の親会社・読売だけでなく朝日も毎日も、批判をまともに取り上げず、2人の受賞を喜んでご祝儀紙面を作っている。 大新聞は、安部・自民党政権と一心同体になっているかのようにすらみえる。 少しは距離を置き、今回の国民栄誉賞の意味を冷静に分析すべきではないか。

 国民栄誉賞授賞には、つねに、時の政権の政治的目論見がちらつく胡散臭さが漂う。 だから、こんな賞は受け取らないのが一番だ。 そう考えると、すぐに思い浮かぶのが、この男。 プロ野球・元阪急ブレーブスの盗塁王・福本豊。 飄々とした生き様を振り返ってみよう(以下、Wikipediaより)。

 福本は、地元大阪の大鉄高等学校時代、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて、球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き、内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回、福本が守るライトの前に落ちたポテンヒットによりサヨナラ負けを喫した。

 卒業後は社会人野球の松下電器に進む。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し、優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスに7位指名を受けた。南海ホークスも早くから福本の俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

 プロ入りのきっかけは、松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。スカウトが来ている試合で、本塁打を打ったり、好返球をしたりするプレーが認められた。更にスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」と、またも勘違いされ、これも指名される要因になった。

 本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝、会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことって、お前、指名されとるがな」と返され、初めて知った。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から、肉料理をご馳走され、「プロなったら、こんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに、何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

 入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ、職場を退職した。だが、福本の妻は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らず、福本も妻に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため妻は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知った。

 プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだった。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

 1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年にMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)を破るシーズン106盗塁の世界記録で日本プロ野球史上唯一の3桁を達成した。チームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」と固辞した。ただし、地元大阪の感動大阪大賞は受け取っている。

 1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。