2013年7月19日金曜日

退屈すぎる日本の考古学


 ブライアン・フェイガンという米国の有名な考古学者がいる。 非常に多作の著述家で、日本でも翻訳が出版されている。 地球規模の気候変動を基軸に、200万年にわたる壮大な人類史を描く。

 根底にあるストーリーは、当たり前のことだが、常に定まっている。 人類史はひとつなのだから当然と言えば当然だ。 「The Long Summer  How Climate Changed Civilization」の日本語訳「古代文明と気候大変動 人類の運命を変えた二万年史」(河出書房新社)の訳者・東郷えりかがあとがきで、彼のストーリーをうまく要約しているので、そのまま引用してしまおう。

 「地球の気候が寒暖、乾湿を繰り返して大きく変化してきたあいだも、人類はどこかで生き抜いてきた。 その間ほぼずっと、気候が悪化すれば、住みやすい場所を求めて移動し、よい時代が戻って人口が増えれば、新たな場所を探し求めて移っていくという暮らしがつづいた。
 しかし、完新世になって気候が急速に温暖化しはじめると、環境の変化への対策として、人間はそれまでの狩猟生活から採集生活へ切り替え、やがて一つの土地に定住して農耕を始めた。 その後、灌漑設備や都市を築くようになり、気候が少しばかり悪化しても、乗り切れるようになった。
 こうして文明が始まったのだが、生物の宿命のように、あるとき増えつづけた人口がその土地の環境収容力を超える日がやってくる。 そこで気候が大きく変動すると、もはや対応しきれず、多くの人は死に絶え、生き残った者は各地へ離散していった。」

 これだけ読むと、当たり前すぎて、目新しさはない。 だが、フェイガンは著作の中で、数百万年、ときには数十億年という時間、全表面積5億994万9千km²の地球という空間を自由に飛びまわり、まるでジャーナリストのような人間観察ルポをする。

 われわれは、人類発祥の地アフリカから徐々に北上したホモ・サピエンスがネアンデルタール人を駆逐している姿を見る。 厚い毛皮で身を覆ったモンゴロイドの狩人たちが、シベリアからベーリング地峡を渡って、アメリカ大陸に初めて足を踏み入れた瞬間を目撃する。

 フェイガンの考古学は、化石の観察に留まらない。 生きている人間のダイナミックなドラマなのだ。 だから読者は長編小説を読むように、彼の描く世界へ惹きこまれていく。

 対照的に、日本の考古学書は退屈だ。 石ころや土くれ収集の域を越えていない。 ”旧石器時代”、”縄文時代”、”弥生時代”...。 この時代区分がいけないのかもしれない。 道具の発掘や分布の調査が考古学の最大の目的になってしまった。 本当の目的は、石器や土器ではなく、それを使っていた人間を知ることでなければならない。

 日本の考古学者たちは、ナウマン象を倒して喜々とする旧石器時代人、派手な火炎土器を完成して自慢する縄文時代人、泥臭い縄文女にちょっかいを出すイケメン弥生男たちと会話しようとしたことがあるのだろうか。

 試みに、フェイガンの翻訳を出版している河出書房新社が出している「列島の考古学シリーズ」から、「旧石器時代」(堤隆著)、「縄文時代」(能登健著)の2冊を読んでみた。 残念ながら退屈きわまりない。 考古学者である両著者とも、従来の日本考古学から脱皮しようとする意図はあるらしい。 だが、如何せん、器が小さい。 どうしてもストーリーの主流は石ころや土くれに行ってしまい、人間が見えてこない。

 地べたを這いずり回るのもいいけれど、そもそも彼らは、普通の人間のように恋愛をしたことがあるのだろうか? 酒を飲んで酔っ払ったことがあるのだろうか? こういう学者と居酒屋に行っても話題がなくて面白くないだろう。 
 
 2000年11月に旧石器捏造事件という日本考古学界の権威を根底からなぎ倒すスキャンダルが発覚した。 1980年代から、東北地方を中心に、後期旧石器時代以前の前期旧石器・中期旧石器時代が日本にも存在したという証拠が、藤村新一という人物によって、次々に”発見”された。従来の常識を覆し、日本の旧石器時代は約70万年前まで遡った。

 しかし、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、今では、前・中期旧石器時代の存在を裏付ける遺跡は日本には存在しないとされている。

 こんな馬鹿げた捏造事件が起きてしまうのは、日本考古学が石ころ、土くれ発掘にしか関心がなかったからだ。 視野が狭く、空を見上げないし、高みに登って遠くを見ようともしない。 

  「古代文明と気候大変動 人類の運命を変えた二万年史」でフェイガンが出した結論は、「現代」への警鐘だった。  


 「われわれが人間社会のなかのスーパータンカーになったのだとすれば、これは妙に不注意な船だ。 乗組員のうち、機関室に目を配っている者は一握りしかいない。 操船指令室にいる人は誰一人、海図も天気図ももっていず、それが必要だということすら賛成しない。 それどころか、彼らのなかで最も権力のある者は、嵐など存在しないという説に与している。 指揮権を握る者のうち、立ちこめる雲が自分たちの運命となにかしら関係があると考えたり、乗客10人につき1人分しか救命ボートがないことを案じたりする人はわずかしかいない。 そして、舵手の耳に、方向転換を考えたほうがいいとあえて耳打ちする人は誰もいない。」 

 人間を対象にする考古学は現代をも考察することができるのだ。 そんな考古学者は日本にはいない。 つまり、日本に真の考古学者はいないということか。

2013年7月9日火曜日

7800円でみつけた新時代


 街のディスカウント・ショップで、イタリア製の超高級エクストラ・ヴァージン・オリーヴ・オイルが半額になっているのをみつけ、大喜びで買ったついでのことだった。 同じ店の別の売り場にぶらぶらと入りこんだら、7インチのタブレットPCが目にとまった。 こちらは、見るからに超低級という感じの中国製。 値段はたったの7800円。 オリーヴ・オイルで気分が良かったし、使ったことのないタブレットのオモチャだと思えばいいやと、つい買ってしまった。 

 うちに帰って箱を開けてみると、電車の中で使っているのをみかけるタブレットと比べ、いかにも安っぽく、プラスティックの薄っぺらなケースという感じ。 それでも電源を入れるとインターネットにつながった。 だが、キーボードの文字が小さ過ぎて、言葉の入力にはえらく手間と時間がかかる。 これでは使い物にならん。 だが、ダウンロードできるアプリの一覧を見ていて、別のキーボードを入手できることがわかった。 そこで、とりあえず使い勝手の良さそうなのを選んでダウンロードしたら、まあまあ使えるようになった。 反応が遅く、多少ノロマではあるが、7800円で文句は言えないというレベルには達した。

 こうしてタブレットPCの初体験が始まった。 それまでデスクトップとノートブック型しか使ったことがなかったので、ソファに寝転がって雑誌でも読むように片手でPCを持って、画面をながめている感覚が新鮮だった。 

 だが、キーボード操作は従来型PCの正確さとスピードにとてもかなわない。 だから情報の発信には向かない。 こいつは情報の受信専用で、そこに特化すれば結構楽しめると解釈した。

 最初に目をつけたのは、無料の電子書籍だった。 無料のものは、基本的には著作権が消滅した古典ばかりだ。 退屈だと思ったが、タダの魅力というのは凄い。 日本文学の古典とされる小説をたちまちのうちに何冊も読破してしまった。 夏目漱石「坊ちゃん」、「吾輩は猫である」、芥川龍之介「藪の中」、「羅生門」、森鴎外「高瀬舟」、太宰治「人間失格」、小林多喜二「蟹工船」・・・。

 読んで見ると、タダだからというのではなく、いずれの作品もその力強さに惹きつけられた。 古さをまったく感じさせない。 骨太のストーリー、スピード感のある展開、切れ味の良さ。 「蟹工船」のリアルな描写には圧倒させられる。 あれだけの表現力を持った作家が現代にいるのだろうか。 日本の小説は、あの時代から、ちっとも進化していないのではないか。 昔読んだときには、こんな風に感じなかったのに。 

 今、自分の本棚を探せば、電子書籍で読んだうちの数冊はみつかるだろう。 開けばページは黴臭く黄ばんでいることだろう。 タブレットでは、まるで消毒されたように無味無臭になっている。 死人が生き返ったような気味悪い感覚でもあるが、古典がこんな風に再生しているのは、将来の文学史に記される出来事かもしれない。 

 ソファに寝転がったまま同じ画面で、古典小説を読んでいるだけではない。 新聞やテレビの電子版を見て、友人からの電子メールを受け取る。 税金の支払いも買い物もする。 

 タブレットPC画面に現われた「今」の光景を、20年前に巻き戻して翻訳して見よう。

 寝転がっていた男は起き上がって、読んでいた本を閉じ、テレビを付けて新聞を広げる。 それから郵便受けまで行って郵便物を取り出し封を開けて手紙を読む。 しばらくして着替え、近くの銀行へ税金を払いにでかける。 ついでにカネを下ろしてスーパーに立ち寄って買い物をする。

 同じことをしても心象風景は著しく異なるだろう。 7800円で新時代へようこそ。

2013年7月2日火曜日

同一性障害の政治的症候群


 性同一性障害の知人が身近にいないので、彼らの日常の心理を直接知る機会はない。 自分自身で感じる性と世の中や戸籍が認めている自分の性が合わず、つねにアイデンティティに違和感がある人生。 着たくもなかった着ぐるみを脱ごうとしても、そこから抜け出せないもどかしさ。 簡単に口先で、同情するなどと言えない苦悩があると思う。

 2013年6月24日朝、目を覚まして新聞を広げ、テレビのスイッチを入れたときの違和感は、性同一性障害者の感覚に似ていたのかもしれない。 そこは自分が住んでいる世界だが、そうではない。 日常生活の臭いも物音も見慣れた光景も同じ。 だが、この倒錯した感覚は何か。 前日は体調が悪くて、1日中ベッドに寝転び、「5万年前に人類に何が起きたか?」などという実生活から遠く離れたテーマの本を読んで、そのまま寝入ってしまった。 だが、それで頭がおかしくなったわけではない。

 肉体と精神の奇妙なズレ。 その原因はすぐにわかった。 新聞とテレビが大々的に伝えているニュースのせいだった。

 「自民全員当選 第1党」
 「自民に勢い鮮明」
 「自民満願『59』」
 「自公 笑顔満開」
 「全勝 歓声バンザイ」
 (いずれも読売新聞から)

 前日23日に行われた東京都議会選挙の結果だ。 国政与党の自民党と公明党が圧勝していた。 

 マスコミの事前予想通りではあるが、われわれ東京市民の皮膚感覚とは断じて違う。 自民党が圧倒的な第1党になったが、東京市民は絶対に自民党を大勝させようなどと思っていなかった。 この感覚のズレが同一性障害の症状として顕在化したのだ。 自民党が勝っていないのに、ニュースは「勝った」と繰り返し叫ぶ。 まるで「勝った」と思っていない人々の脳みそに、「勝った」を摺り込もうとするかのように。

 だが、結果はそうではない。 党派別得票率を見れば、あまりに明白だ。

 国政与党の得票率は、自民党36.03%、公明党14.10%、合計50.13%。 議席で過半数を大きく上回ったばかりでなく、得票率だけでも過半数に達した。 しかし、これを以って「自公勝利」とは言えない。 そんなことは、「勝った」と主張する自民党、公明党、新聞、テレビだって知っているはずだ。 

 この選挙の投票率は43.5%。 半分以上の56.5%は投票していない。 自公の得票率は、50.13%の43.5%、つまり、実際の支持率は21.8%でしかない。 自民党だけなら15.67%にすぎない。 

 そう、これが東京の実像だ。 既成政党を信頼できず、政治に興味と関心を失い棄権した56.5%が、巨大な第1党なのだ。 

 まさに、われわれの生活感覚。 こんな選挙で第1党になったからと言って「勝った、勝った」と大騒ぎしていたので、こちらの頭もおかしくなったのかと不安になってしまった。

 次は、7月21日の参議院選挙かあ。