2014年9月27日土曜日
秘かに進む平成天皇墳墓造成
小仏峠から高尾山あたりを歩いてみようと、高尾駅で降りたが前日からの膝痛で脚の調子が悪い。 山登りの原則は「無理をしない」。 高尾山も山だから登るのは諦めて、駅の近所を散歩することにした。
駅北口から国道20号線を渡って歩いているうちに、広大な天皇墓地に出た。 大正天皇、その妻、昭和天皇、その妻という四つの巨大な墳墓がある。 古代の古墳と見紛う規模だ。
その日(2014年9月26日)は、玉砂利の表参道は工事のため通行止めになっていた。 説明の掲示がないから、なんの工事かはわからない。 鬱蒼とした森林公園風の敷地を散歩するために来ただけだから、まあ、どうでもいいことだ。 舗装した北参道というのを歩いていくと、道は突き当り、右に折れると、聳え立つ大鳥居の先に昭和天皇とその妻の墳墓が見えた。
そこを引き返す途中、この墓地の管理担当者とすれ違った。 訪問者が少なかったので、その男と雑談をした。 人がいなくて静かだねえとか、この仕事何年やってるの? とか。
このとき、何気なく「平成天皇の墓はどこに造るの?」と訊いたら、「もう工事が始まっている」という。 これはちょっとした驚きだった。天皇の墳墓が生きているうちに造られるとは知らなかったからだ。 場所は大正天皇の墓の隣りだというので行ってみた。
入口から歩いてきた北参道を左手に見ながらまっすぐ行くと、右側に大正天皇夫妻の墓があり、その先にネットが張り巡らされ、向こう側では、かなりの敷地が削られ、ブルドーザーが活発に動いていた。 通行止めになった表参道の行き着く場所は、ここだった。
ただ、現場に来ても工事の説明はなかった。 「工事中 関係者以外 立ち入り禁止 (株)大林組」。 実にそっけない掲示があるだけだった。 なぜ、「平成天皇夫妻墳墓造成現場」と明記しないのか。 日本中、どこの建設現場でも、何を造っているか明記することは法律で定められているはずだ。
まさか、隠しているわけではあるまい。 高尾に住む知人によれば、造成工事について地元の人は誰でも知っているという。 しかし、「確かに、ニュースで見た記憶はないなあ」。
ウエブ検索すると、平成天皇夫妻の葬儀に関しては2013年11月14日付けのニュース記事があった。 天皇制を強く支持する右翼紙・産経新聞を引用する。
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宮内庁は14日、天皇、皇后両陛下のご意向で検討していた陵のあり方と葬送方法の変更を、概要にまとめて公表した。江戸時代前期から行われてきた天皇と皇后の土葬を改め、火葬とすることなどが盛り込まれた。天皇陵と皇后陵を同一にする合葬(がっそう)は見送られた。同じ敷地にそれぞれの墳丘を造り、敷地規模をこれまでより小さくすることで、両陛下が望まれる簡素化を図る。検討内容はすでに内閣に報告されており、約350年ぶりに土葬の伝統が変わることになった。
宮内庁は「本検討は将来にわたって基準となり得る」としており、皇太子さま以降もこれに沿うこととなる。変更の背景には、東日本大震災などで経済的に疲弊する国内情勢を踏まえられた両陛下の「極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましい」とのご意向がある。
宮内庁の検討結果では、火葬は昭和天皇、香淳皇后、大正天皇、貞明皇后の4陵がある武蔵陵墓地(東京都八王子市)に、その都度設置する専用の施設で行われる。
天皇、皇后両陛下の陵は大正天皇陵の西側を予定している。 天皇陵と皇后陵は4陵と同様に、それぞれ別々の墳丘とするが、これまでとは異なり、同じ敷地内で一体的になるよう建造される。墳丘の形状は4陵と同様に上円下方(じょうえんかほう)(上段が円形で下段が四角形)で、敷地は昭和天皇陵と香淳皇后の陵が合わせて4300平方メートルだったのに対し、8割程度の約3500平方メートルとする。
合葬を見送った理由を、宮内庁は「皇后さまが畏れ多く感じられている」などとしている。今回の変更は「陵を簡素にし、火葬にすることが望ましい」とする両陛下のご意向で宮内庁が昨年4月26日に検討を表明、1年半をかけて作業を進めてきた。
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平成天皇夫妻の意向で簡素化するというが、昭和天皇夫妻の敷地4300平方メートルに対し、8割程度の3500平方メートルというのが、果たして簡素化かどうか。 3500平方メートルという広さは、依然として大時代的巨大墳墓のサイズではないか。 宮内庁が定義する「簡素」とは、一般社会とはまったく異なる尺度で測られるに違いない。
もしかしたら、宮内庁は、こういった下世話なひがみ根性を刺激したくなくて平成天皇墳墓造成を世間に晒したくないのかもしれない。あるいは、なにか隠された深い政治的意味があるのか。 どうしても勘ぐりたくなる。
2014年9月20日土曜日
ハワイの楽しいお葬式
(ガーデン・パーティみたいなお葬式) |
(故人の思い出写真がずらりと並ぶ) |
ハワイ最大の島、Big Islandハワイ島。 クルマにシーカヤックを積み、フロリダ生まれのハワイ娘の案内で、われわれは、島の西側、キャプテン・クックが死んだ場所として知られるケアラケクア湾に向かった。 イルカとシュノーケリングを楽しむためだ。
群れて戯れるイルカたちに会えて、とても収穫の多いツアーだった。 だが、想定外の収穫もあった。 ハワイのお葬式に遭遇したことだ。
昼ごろ、カヤックを海に降ろすために着いた小さな集落は、狭いいなか道が場違いな混みかたをしていた。 路上駐車でぎっしり埋まっていたのが原因だ。 地元の人に訊くと葬式をやっているという。 そのときは、「あっそう」と思っただけだったが、午後4時ごろ戻ってきたときも、葬式はまだ続いていた。
日本で、こんなに長い葬式は知らない。 たまたま、通りかかったポリネシア系の、日本人の基準からすれば、かなり太っているが、ハワイでは普通の女性に訊ねてみたら、「私の叔母の葬式をやっている。 誰にでもオープンだから行ってごらん、歓迎しますよ」と、とても快活な返事。
なんだか戸惑うばかり。 叔母といえば、ごく近い親類なのに、この女性は派手な花柄のムームーを着て、式場にも行かず、道路をうろうろして、見知らぬ外国人と雑談をする。 それに誰でも歓迎する葬式って、いったい何だ。
とにかく、「すぐそこ」という式場へ向かって歩いた。 すると、人通りがだんだん多くなる。 それに、エレキギターの派手な演奏の音も聞こえてくる。
やがて、広い公園のような場所に出た。 そこでは、たくさんの人が食事をしたり、ビールを飲みながら談笑していた。 それは、大規模なオープンエアー・パーティだった。 だが、これがハワイの葬式だったのだ。 すぐそばで、子どもたちはボール遊びに興じている。
われわれの葬式でお馴染みの黒い喪服、うつむき黙った人々、哀惜の涙、そういった全てが醸し出す悲しみの雰囲気が、微塵もない。 その代り、ほのぼのとした暖かい空気が流れていた。 そこは、故人との楽しかった思い出を語り合う場なのだ。
日本人には、逆転的発想の葬式。 自分の葬式もこんなのがいいな、と思った。 もう少し、ハワイ式葬儀について知りたくなってウェブで検索したら、以下のような説明が出てきた。 日本人向け葬儀社の広告かもしれないが、この通りなら悪くない。 ただし、これを日本でやってみたい。
(なお、あとで理解したことだが、最初にお葬式を教えてくれた女性は「私の叔母の・・」と言ったが、どうやらハワイの伝統的コミュニティでは、近所の母親世代の女性はみんな叔母、男性は叔父、同世代は兄弟姉妹になるらしい。 つまり、コミュニティ=家族なのだ。)
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『ハワイでは、アメリカの中でも特別なお葬式が執り行われています。 ハワイでは、お葬式は、生きてきたことを記念する意味を持つセレモニーです。 悲しみを表すだけのものではなくて、故人の新たな旅立ちをお祝いしたり、 故人を想い、共に泣いたり笑ったりする儀式です。
お葬式では、唄やフラダンス、スライド、ビデオショーなどが行われます。 式は、どんちゃん騒ぎではなく、静かに進行されますが、 色々な趣向を凝らして死者を讃え、生涯を記念する行事になります。
参列する人々は、日本のように黒いフォーマルを着る人はほとんどいません。 葬式で黒い服を着るという習慣はありません。強いて言えば、男性はアロハシャツ、女性はムームー(ハワイでの女性の伝統的な正装、ワンピース)が多いようです。 色は、黄色でも赤色でも何でもOKで、カラフルな服装を着て参列します。
ハワイでは、陸から3マイル以上離れた場所、かつ特別な禁止域以外では散骨(海洋自然葬)が州法で認められています。 数多くのカヌーで海にこぎだして散骨したり、船上から散骨したり、セスナにて上空より散骨することができます。
自然から生まれて自然に還るという散骨は、ハワイの先住民族も遺骨を海や土に還すという風習もあったことから、ハワイではごく自然に行われてきた葬法でした。 遺灰を撒いて、良い香りのする色とりどりのレイを海へ捧げ、また会いましょう!という意味の「A HUI HOU(ア フイ ホウ)」と明るく陽気に言い、故人はたくさんの人に見送られます。』
2014年9月4日木曜日
老人よ
日課にしている多摩川河川敷のwalk & jog を暑い夏のあいだは、涼しい早朝にやっていた。 5時半か6時ごろ。 ジョギングや自転車の若者たちも少なくはない。 だが、やはり、そこは早起きの老人たちの世界だ。
6時半になるとラジオ体操が始まる。 誰かが持ってきた大きなラジカセのスイッチを入れ、あの聞き慣れたリズムとメロディが流れると、三々五々集まってきた老人たちが、固くなったからだをよたよたと動かす。
肩を中心に腕を大きく回す運動をやっているつもりでも、動いているのは肘から先の腕だけ。 あや取りをやっているようにしか見えない。 腰と背中を伸ばして後ろに反るべきところでは、ほとんど直立状態で顔だけが空を見上げている。
率直に言って無様な動きだが、毎朝眺めているうちに、当たり前のことに気がついた。 自分のそう遠くない将来の姿だと。 それ以来、老人たちのラジオ体操を意識して観察するようになった。
年齢を重ねると固くなるからだの部分がよくわかるのだ。 今のうちから、そういう部分を意識してストレッチしておこう、という気になった。 老人たちの悪い手本はとても役に立ちそう。 ありがとう。
夏の初めごろ、樹木の下のベンチに、いつも老夫婦が座って、仲睦まじげに会話していた。 大柄な夫と痩せて小さな妻。 だが、夏の盛りのころから、ベンチにいるのは夫だけになった。 一人になったが、毎朝座っている。 いったい、どうしたのだろう。
そういえば、何年か前、腰が90度近く曲がった老人が、毎日かなりの速度で懸命に歩いていた。 そのうち、曲がった腰がだんだん伸びてきた。 きっと歩いた効果が出たのだろう。 すれ違うときに目が合うと軽く会釈をしてくれた。 あの人の姿も見なくなった。 腰はもっと伸びたのだろうか。
土手の上で自転車のサドルに跨ったまま、いつまでもじっと高校生の野球練習を見ていた老人も消えた。
老人というのは消えるものなのだ、きっと。
知らない人なのに、ドラマを感じさせる年寄りたち。 その背後に、若者たちにはない生と死のなまなましい近さがあるのは確かだ。 でも、それは言わなくていい。
9月には「老人の日」の休日があるなあと思ってカレンダーを見たら、「敬老の日」となっていた。 ずっと「老人の日」だと思い込んでいた。 「老い」の証拠だろう。
2014年9月1日月曜日
次は関東大震災の朝鮮人虐殺
「従軍慰安婦」に続き、日本の右翼たちは、1923年の関東大震災直後に発生したとされる「朝鮮人虐殺」をやり玉に挙げている。
混乱の中で、在日朝鮮人たちが井戸に毒を投げ入れたなどの流言が飛び交い、自警団が朝鮮人とみると襲い、多数を殺害したとされる騒動のことだ。
その実態は、いまだによくわかっていないようだ。 犠牲者数は、当時の政府調査で233人、大正時代を代表する政治学者・思想家の吉野作蔵による調査で2613人、大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6661人としている。
最近では、フリージャーナリスト加藤直樹著「9月、東京の路上で 1923年関東大震災/ジェノサイドの残響」が出版され、なかなかの売れ行きらしい。
だが、Amazonに掲載されている、この本のカスタマーレビューを見ると、怒り狂ったネット右翼たちがボロクソにけなしている。 「悪かったのは朝鮮人だ」「自虐史観だ」と。
8月31日付け新聞に掲載された右翼出版社「WAC ワック出版局」の広告では、「関東大震災 朝鮮人虐殺はなかった!」(加藤康男著)という本の宣伝が掲載されていた。
「いずれの方角から調査しても、関東大震災時に日本人が『朝鮮人虐殺』をしたという痕跡はない。あったのは、朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛による死者のみである」とする著者の言葉を紹介、「悲劇の真相を糾明した衝撃のノンフィクション」とうたっている。
何が真実かは知らない。 だが、ここでも問題の核心をすり替えようとしている気配がある。 日本の朝鮮併合を正義だったと歴史を書き換えようとする怪しげな意図だ。
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