2015年4月11日土曜日
寂しい老人
今住んでいるマンションでよく見かける老人がいる。 エレベーターの中、1階のロビー、周辺の道路でも、いつも一人。 顔を合わせても声を出して挨拶をすることはなく、軽く会釈するだけだ。
最近、エレベーターで上がるとき、その老人と乗り合わせた。 両手にスーパーのレジ袋をぶら下げていた。 二つとも中はいっぱいで大きくふくれていた。 なにげなく声をかけた。「重そうですね」と。
返ってきた言葉は、初めての挨拶には重すぎた。 「このマンションに引っ越してきて、3年前に女房を亡くして、一人暮らしなんです」
どう対応していいかわからないうちに、うまい具合に自分の階に着いて扉が開いた。 「どうも」と曖昧に口の中をもごもごさせてエレベーターから降りた。
なんとも複雑な気持ちになった。 彼が住んでいるのは数階上、同じ建物の中だから、うちからは直線で数十メートルの距離しかない。 こんな近いところで亡くなった人がいたことをずっと知らなかったなんて…。 人がひしめき合っているのに孤立している都会のいびつさ。
彼はいつも寂しそうな表情をしていた。 それは妻に先立たれて一人で暮らす老人の生身の姿だったのだ。 同じマンションの中で知り合いができて、世間話をしたり、食べ物のおすそ分けを互いにすることもある。 そんな気軽な近所つきあいがあれば、もう少し和んだ表情を作れるかもしれない。
エレベーターの中で乗り合わせる現役サラリーマンの男たちの多くは、ほんの一言の挨拶すらせず、路傍の石への視線を投げつける。 彼らは自分が住む身の回りの世界の人々には関心がない。 きっと勤務先の会社という宇宙に身も心も捧げているのだろう。
やがて子どもたちが巣立ち、自分も年金生活に入り、そして妻に先立たれる。 そのとき彼らはエレベーターの中で、どんな表情をするのだろうか。
2015年4月6日月曜日
カイロのテロ現場に立つ
(カイロの「5月15日橋」の事件現場) |
だが、この事件で中東で今拡散しているテロを身近に感ぜざるをえなかった。 発生場所が馴染み深いところだったからだ。
カイロ中心部を南北に流れるナイル川。 その中州であるゲジラ島。 中州とは言っても大きな島で、外国人が多く住むコンドミニアムや大使館、それに、エジプトのサッカー・プレミアム・リーグの強豪アル・ザマレクが本拠地とするスタジアムもある。
テロ事件が起きたのは、ゲジラ島に渡る「5月15日橋」の上だった。 20年も前のことになってしまうが、この近くのザマレク地区に3年間住んでいた。
この橋は散歩コースだったし、カイロの他の地域に行くときは車で必ず渡った。 そばには「トーマス」というピザ屋があった。 店内の窯で焼く店で、日本の宅配ピザとは比べ物にならない味だった。 今でもあるのだろうか。 冬には、ゲジラ島から橋を渡ったあたりに、石焼き芋の屋台が出ていた。 種子島の安納芋そっくりのねっとりした舌触りだった。
世の中の出来事を身近に感じるということは、距離の近さだけではない。知り合いが関わっているとか、自分に馴染みの場所とか、人それぞれ様々な理由がある。 これまでだって、友人が飛行機事故で死んだり、インタビューした政治指導者が暗殺されたり、一緒に酒を飲んだ芸術家が逮捕された。 だが、そういう直接的関わりだけではない。 インターネットやメディアの発達で、世界がどんどん狭くなり、身近になっていく。
今回のカイロの事件にしても、発生からさしたる時間を経ずに日本で報じられた。 パソコンを開くと、現場がピンポイントでわかり、生々しい写真や動画を見ることができた。
カイロを離れて20年という時間はどこへ行ってしまったのか。 桜が散り始めた長閑な東京で暮らしながら、テロの不安が広がるカイロの埃っぽい騒音の道路で火薬の臭いを嗅いでいる。 これは、現実なのかバーチャルなのか。
2015年4月2日木曜日
独裁者リークアンユーの死
シンガポールの元首相リークアンユーが3月23日、91歳で死んだ。 日本でずっと「淡路島程度の大きさ」と言われていた小さな熱帯の島に、着実な経済発展で近代的都市国家を作り上げた男だ。
東南アジア諸国の都会はいずれも、この30年ほどで大きな変化を遂げたが、シンガポールには敵わない。 ここでは、アジアの大都会ではどこでも見られるスラムが目に入らない。 しつこい物乞いにまとわりつかれることもない。 高層ビル群と小奇麗な街並み。 歩道は東京より清潔かもしれない。 外国人観光客は、安全に歩き回り、しゃれたレストランで食事をし、世界の一流品のショッピングを楽しめる。
これが、リークアンユーの作った国だ。
彼の死去のニュースとともに、メディアには、その偉業を称える論調が溢れた。 政治的安定の維持による経済発展の実現。 だが、その同じ理由で、この人物を好きになることはできない。
ベトナム戦争終結(1975年)以降、東南アジアの反共国家は共産主義のドミノに怯えた。 対抗手段は、経済発展実現による共産主義の浸透防止。 経済発展の基礎は政治的安定。 そのためには政府批判の口封じが必要だ。こうして、ASEAN型開発独裁が確立していった。
国民の不平不満を力で黙らせて、安定を作り、日本を筆頭とした外資を呼び込み、それを原動力に経済開発を進める。 この開発モデルの最優等生がシンガポールというわけだ。 いや、リークアンユーと言うべきだろう。 なぜなら、シンガポールという都市国家は、リーが植木バサミで丹念に剪定して形作った盆栽のようなものだからだ。
喫煙者が世の中でまだ後ろ指をさされなかった時代から、シンガポールでは路上喫煙が制限された。 横断歩道のないところを歩くことも禁止された。 政治活動ばかりでなく、だらしない日常生活も規制された。 いらない枝はちょん切られるのだ。
どんなに快適でも、権力に生活を管理されるのは息詰まる。 経済発展を成し遂げても、それは一体、何のための豊かさなのか。
シンガポール国家とジョージ・オーウェルの「1984年」に描かれた管理国家の恐怖が重なる。
あの経済的成功を実現したリークアンユーが卓越した政治家であるのは間違いない。 だが、彼が人間の尊厳、自由ということを理解していたかどうかは、わからない。
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