2016年1月28日木曜日

イラク・シリア列車の旅

(ボスポラス海峡に面したハイダルパシャ駅)

 若いイギリス人女性が一人でバグダッドを列車で出発、キルクークで降り、さらに車でモスルへ。 ここで1泊。 翌日再び車でヌサイビンまで行って列車に乗り継ぎ、アレッポに到着した。

 ここ数年は、狂信的テロ組織”イスラム国(ISIS)”が浸透している危険きわまりない地域だ。 バグダッドを出てから3日。 列車はアレッポ駅に1晩停車し、朝7時に出発、翌日夜7時40分、ボスポラス海峡に面したイスタンブールのハイダルパシャ駅に無事到着した。 

 バグダッドから5日間の旅だった。 だが、それは危険に満ちた冒険ではなかった。 彼女の名前はメアリ・デブナム。 乗ってきた列車はタウルス急行。 終点ハイダルパシャで降りたメアリは、他の乗客とともに船で海峡を渡り、シルケジ駅で午後9時発のフランス・カリー行きのオリエント急行に乗り込んだ。

 そう、これは現代の話ではない。 1933年ごろのことだ。 ふたつの大戦間の比較的落ち着いた時代だった。 メアリは優雅な個室のコンパートメントで過ごしていた。

 メアリは、アガサ・クリスティーの代表作「オリエント急行の殺人」に出てくる登場人物の一人。 今読み直してみると、メアリの旅行ルートに驚くほどの時代の違いを感じさせられる。

 今年は、アガサ・クリスティ―没後50年。 それで、ふと昔買ったハヤカワ文庫版を引っぱりだして読んでみた。 めくるページは黄ばんでいたが、内容は今でも新鮮に感じる。

 彼女が「オリエント急行の殺人」を出したのは1934年。 イスタンブールの中心ベイヨール地区に今も博物館として残るぺラパラス・ホテルで執筆したとされる。 このホテルは誰でも泊まれ、アガサ・クリスティーの部屋も見ることができる。 このホテルのバーでトルコの地酒ラクを飲んでほろ酔い気分になると、古き良き時代へ時間移動できる。 

 小説の主人公・名探偵ポアロは、アレッポからメアリと同じ列車に乗り、イスタンブールにしばし滞在するつもりで「トカトリアン・ホテル」にチェックインする。 このホテルは間違いなくペラパラス・ホテルのことだ。 ポアロはここで電報を受け取り、急きょ予定を変更して再びメアリと同じ列車に乗り、殺人事件に巻き込まれる。

 イスタンブールは、とくに中心部から旧市街にかけては、街そのものが博物館のようだ。 

 ポアロやメアリがタウルス急行を降りたハイダルパシャ駅も、2010年に火災が起きたが昔のまま残っている。 ただ、かつて金持ちたちの長距離列車旅行の拠点となった優雅な雰囲気はない。 今は、むしろ、汚れた列車で田舎に向かう貧乏人たちの駅だ。 故郷に帰る家族と涙の別れをする光景がかもしだす雰囲気は昔の上野駅といったところか。

 今、タウルス急行が通った一帯は戦場と化している。 オリエント急行が雪で立ち往生し、殺人事件が起きたユーゴスラビア王国はその後ユーゴスラビア連邦人民共和国となったが、すでに地上から消滅している。

 時代は巡り巡って、どこへ行くのだろうか。 ムシュー・ポアロに訊いてみようか。

2016年1月26日火曜日

イラン革命防衛隊指揮官の3分の1はハゲ


 イランとサウジアラビアの関係が悪化し、緊張した中東情勢はますます複雑になってきた。 

 Newsweek日本版の2016・ 1・19号は、この「中東冷戦」を特集した。 その中に、目を引かれる大きな見開き写真があった。 イランの最高指導者アリ・ハメネイがイスラム体制を支える屋台骨とも言える革命防衛隊の指揮官たちに訓示を与えているという写真だ。

 注目したのは、ハメネイの前にずらりと並んだ指揮官たちの頭部だ。 光り輝くハゲ頭が非常に多いと感じたのだ。 上の写真(NY日本版に掲載された写真の一部)の中の頭で数えてみると、約3分の1がハゲ頭。 

 イランやアラブ諸国の中東での生活感覚では、確かに、日本と比べハゲ頭は多い。 だが、3人に1人もいただろうか。 一般社会の平均より多いのではないか。

 多いとすれば、それは何を意味するのだろうか。 イスラム体制の中核であり続けようとすれば強いストレスに晒され、頭髪が抜けてしまうのだろうか。 ストレスが原因とすれば、宗教心の強い彼らには宗教的戒律を守ろうとするストイックな日常生活も関わっているかもしれない。 いずれも、根拠のない憶測の域を出ないが。

 中東の人々は欧米人と同じで、日本人ほどハゲを気にしない。 とは言え、中東地域の政治的安定に隠然たる影響力を持つイラン革命防衛隊に関わることなら、ハゲの分析がどこかで平和構築につながる可能性だって否定できない。
  

 

2016年1月20日水曜日

ISISはイスラムか?


 これまでインドネシア、イラン、エジプト、トルコという4つのイスラム国に住んできた。 いろいろなムスリムと友だちになったり、酒を飲んだり、神について語り合ったり、けんかもしてきた。 日本だろうとどこの国だろうと、いいヤツも悪いヤツもいる。 ムスリムだって同じだ。

 生活感覚で接しながら観察してきたイスラム教と、強烈なテロで世界に不安を広げている「イスラム国(ISIS)」の残虐さがどうしても結びつかない。 イスラム教の専門家の中には、あの残虐さはイスラム教の根源に潜んでいたものだという主張があるかもしれない。 それが正しい主張であるかどうかは、わからない。 だが、イスラム世界で十数年生活して、一緒に過ごしたムスリムたちとISISの行動は明らかに異なる。 身近にいたムスリムたちには優しさがあった。 他者に対するいたわりの心があった。 だから、無神論者の日本人ともつきあってくれたのだと思う。

 ISISは本当にイスラム教を信じる集団なのだろうか。 この疑問がどうしても消えない。

 ISISに直接言及したものではないが、同じ疑問を持つ専門家の存在を、野崎歓というフランス文学者(?)が読売新聞に書いたコラムで紹介していた(2016年1月18日文化面「シャルリー・エブド事件から1年」)。

 昨年11月13日金曜日に起きたパリ連続多発テロのあとに、ル・モンド紙に出た記事のようだ。

 「国際的イスラム学者オリヴィエ・ロワはル・モンド紙上で、”文明の衝突”説をきっぱりと退け、これはイスラムの過激化ではなく、過激派のイスラム化なのだとし、一部の若者たちのニヒリズムと暴力衝動に問題の根源を見た」

 ここで指摘されている過激派と、ヨーロッパからシリアに渡ってISISに加わった若者は共通基盤を持っているに違いない。 ISISは、まさに過激派のイスラム化なのかもしれない。 

 もちろん、ISISメンバーの多数はアラブ諸国出身のアラブ人であろうが、こういう新たな要素を加えないと、彼らの行動を理解できない。

 それでは、ロワの言う「過激派のイスラム化」「若者たちのニヒリズムと暴力衝動」を生んだものは何か。 おそらく、地球規模で拡大する格差社会の闇を覘かねばなるまい。

 

2016年1月16日土曜日

小さな記事


 2016年1月16日付け読売新聞朝刊の社会面に出た小さな記事に感慨を覚えた老記者や元記者は多かったのではないか。

 NHKさいたま放送局の記者数人が業務用のタクシーチケットを不適切利用したというのが記事の内容だ。 おそらく、記者たちは、浦和あたりの繁華街にタクシーで飲みに行って、チケットを使ったのだろう。 視聴料がこんな風に使われるのは確かに悪いことだが、日本の会社員が正直に白状すれば、たいていの人が多かれ少なかれ経験している”ワル”であろう。

 つまり、どうでもいい話が、なぜニュースになったのかわからないのだ。 どこの大手新聞の記者たちだって、この程度の”不正”には手を染めているはずだ。 と思ったところで、いや、もしかしたら最近は新聞の発行部数も落ち、社内の締め付けが厳しくなって、状況が変わったのかもしれないという気がしてきた。 だからこそ、記事にしたのではないか。 自分たちも同じことをやっていたら記事にはできない。

 かつては、政治部や社会部の記者たちが、夜な夜な会社のクルマやタクシーを使って深夜の東京を飲み歩いていた。 新聞記者は、なぜかライバル新聞の記者たちとも仲良く酒を飲む。 某新聞の記者と飲んだとき、最終電車を逃した。 そのときは彼の会社の業務用タクシー・チケットをもらって自宅に帰った。 
 
 古き良き時代、記者たちはよく飲んだ。 仲間とも取材相手とも。 そういう時間の中で、ものを考え、情報を集めた。 ぐだぐだに酔っ払って、人間の生きざまを学んだ。 仕事と私生活の境い目があいまい、というより、境い目などないのだ。 タクシーの個人利用もこんな生活の一部だった。 だから、「私用に使ったのか」と訊かれれば、その通りだし、「仕事か」と訊かれても同じだ。 良く言えば、記者たちは仕事に全人格を投入していた。 まあ、会社のクルマを使い過ぎたのは明らかだが。 この点を突かれると弱い。

 では、今、記者たちの生活はどうなっているのだろう。 「仕事」と「私用」をどうやって区分しているのだろう。 一個の人格を分解したり組み立てたりできるなら、ロボットのようだ。 いや、もしかしたら、彼らはロボットなのかもしれない。 だとすると、誰がロボットを操っているのか。
 

2016年1月13日水曜日

西オーストラリア・パースの旅

(パース中心地ヘイ・ストリート)
 東南アジアの国々は、かつて何年も住んでいたので気軽な気持ちで年に何回か訪ねる。 だが、先進国には長いこと行っていなかった。

 昨年末、オーストラリアに行った。 訪ねたのは、日本から最も遠いインド洋に面した西海岸のパース。 「世界で一番美しい都市」とされているそうだ。 到着してからもらった観光パンフレットの書き出しは、「Welcome to the most beautiful city in the world」だった。 

 東京・羽田を朝出発して、シンガポール経由でパースに着いたのは15時間後の午後11時半。 地理不案内の土地の初訪問では避けたい時間帯の深夜到着だった。

 空港のレンタカーをThriftyで予約しておいたが、まずは、こんな時間にレンタカーのカウンターが開いているのかという不安。

 カウンターが開いていて、女性スタッフが座っているのを見たときはほっとした。 ここで最安値のスモール・カー、トヨタのYaris(日本名ヴィッツ)のキーを受け取って、駐車場に向かう。 空港ターミナルから外に出ても、アジアの空港みたいに、客を捕まえようと群がってくるタクシー運転手たちの姿はない。 暗く静まっている。 

 ここまでは順調だ。 だが、自分のYarisをみつけ乗ろうとして、フロントのワイパーが外れて地べたに落ちているのに気付いた。 ジョイント部が壊れていた。 あわててThriftyのカウンターへ走って戻った。 自分が最後の客でカウンターの女性が帰り支度をしていたのを横目で見ていたからだ。 日本と季節が逆で初冬のパースで雨が降らないのはわかっていたが、彼女がいなくなっていたら、あとでワイパー故障の責任をとらされ修理代を請求されかねない。

 走り戻る途中、運良く帰途の彼女とばったり会った。 事情を説明すると手早く別のYarisのキーを渡してくれた。 これが東南アジアだったら、複雑なペーパーワークがあって、翌朝まで待てなどと言われかねない。

 このとき、やっと気付いた。 ここは効率的に生活できる先進国だと。 もちろん、オーストラリアは何回か来ていたし、先進国だと承知していた。 だが、羽田を飛び立ち、フィリピンをかすめシンガポールで乗り換えジャカルタ上空を通過し、えんえんと東南アジアを旅してくると、到着したところに先進国があるという感覚はどこかに吹っ飛んでしまっていた。 (以前の訪問は、東京からの直行でキャンベラないしシドニーに飛んだ)

 こうして、東京に住んでいながら、普段は肌で感じることのない先進国を体験する旅が始まった。

 空港からパース中心部へ向かう深夜の道路は、クルマがほとんど走っていなかった。 初めての道で行先の方向すら確信を持てなかったので、制限速度70キロ以下でゆっくりと走った。 たまに追い越していくクルマもおとなしい運転だ。 暴走しているクルマなどない。 荷物を積み過ぎて車体を傾けて飛ばしているトラックもいない。 ここでは、法律がきちんと守られているようだ。 バレなければ何でもできるアジアや中東の国とは、どうも勝手が違う。 

 最初の2泊を予約していたホテルは、パースの中心、観光客も多いヘイ・ストリートの近く。 午前2時すぎ。 昼は繁華街だが、この時間に人通りはない。 カーナビなど付いていないレンタカーなので、おおざっぱな地図を頼りに通りを行ったり来たりして、なんとかホテルをみつけた。

 問題はクルマの駐車だ。 路上駐車が当たり前のアジアでは、道路はクルマでぎっしり埋まり、スペースをみつけるのに難儀する。 駐車違反などという”法律”は存在しない。 路上駐車を牛耳っているのは、地元のゴロツキどもだ。 だが、これはとても便利だ。 連中の手先の”駐車係”に声をかければ、すぐにスペースをみつけてくれるし、一晩停めても100円か200円。

 ところが、パースの中心街では路上駐車のクルマなど1台もない。 明らかに、ここでは交通警察官の目が行き届いている。 観光客としては警察沙汰は避けたい。 選択の余地はなく、ホテル近くの有料駐車場のビルにクルマを入れた。 法治国家の観光は苦労する。 

 翌朝、クリスマス・イブ。 目が覚めてカーテンを開けると真っ青な空。 早速、街を散策する。 気温は25度くらい、湿度が低いので快適。 翌日のクリスマスは、ほとんどの商店やレストランが閉まるという。 そのせいか、早朝から買い物をする人が多い。

 きれいな街だ。 きれいというのは、古いヨーロッパ式の建物を生かし計算された街づくりだけではない。 道端にゴミが皆無なのだ。 生ゴミやわけのわからない料理やトイレの臭いもしない。 物乞いや路上生活者の姿は多少はあったが、目障りなほどではない。 胡散臭くて、しつこい客引きもいない。

 アジアでは、街は猥雑だ。 猥雑でなければ街ではない。 この基準からすると、パースは街ではない。 それでは、ここは何なのだ。 アジアとはまったく異なる文化と価値基準で形成されたヨーロッパの都市なのだ。

 東京は清潔で治安が良いとはいえ、明らかに典型的なアジアの街だと思う。 街づくりに哲学も計画性もなく、統一性のない様々な建物が雑然と並んでいる。 わけのわからない裏通り。 怪しげな歓楽街。  こういう無秩序の寄せ集めから熱気が沸き上がってくるのがアジアの街だ。 バンコクもマニラもジャカルタも、そういう街だ。  
 
 ここ何年も海外旅行先はアジアの国々だった。 どこも物価は日本より、はるかに安い。 だから、「海外旅行=安い物価」という思い込みができあがっていた。 そのせいか、パースでは、なんでも高く思えた。 コーヒーショップを覘いてメニューを見ると、コーヒーが日本円で500円くらい。 サンドウィッチは1000円。 日本のドトールみたいな店だが値段はまったく違う。 驚いて出てしまった。

 パースでも日本料理は浸透しているようで、ラーメンや寿司の店を何軒かみかけた。 ラーメンは1200円。 無論、食べなかった。 ベトナム料理屋のフォー(ベトナム麺)も1200円。 これは食べた。 動物園の入園料は3000円近く。 行くのはやめた。

 駐車場に入れたままにしていたクルマの駐車料金が心配になってきた。 2日たって出してみたら料金は、なんと6000円だった。 アジアなら、人間がまあまあのホテルに2日間泊まれる金額。

 街で日常の食料品を売るような個人商店を見かけることはなかった。 スーパーはいくつもあるが、やはり安くはない。 肉の値段は日本人には不可解だろう。 牛も豚もラムも鶏も、だいたい1キロ1000円から2000円の間くらいで値段に大きな違いがなかった。 これは高いのか安いのかわからなかった。 インド洋が近いのに、生の魚はまったく見なかった。 とは言え、たいていの食材は手に入る。 とても便利そうなところだ。

 この世界一美しい都市には、どんな人々が住んでいるのだろうか。 ヘイ・ストリートのベンチに座って人間観察をしたかぎりでは、ヨーロッパ出身の白人が最も多いが、北から南まで出身地は様々なようだ。 アフリカ系、アラブ系も珍しくない。 イスラム教徒のスカーフをかぶった女性もひんぱんに通る。 観光の訪問者とは思えないインド、インドネシア、フィリピン、中国、韓国、日本人も見た。 様々な人種が住んでいる。

 中心部から郊外へ数十キロドライブしたが、どの方向へ行っても端正な庭付き住宅が続く。 スラムのような貧民街は見なかった。 なにかの解説によれば、パース中心から南北に延びる一帯は「住宅ローン・ベルト」と呼ばれ、中流以下の住民が多く住み、中心からインド洋に向かって西に広がる地域は、富裕層が住む高級住宅地だという。

 だが、東京の狭苦しい住宅に住んでいる日本人には、どこも豊かな生活を営んでいるようにみえる。 緑に囲まれた公園のような住宅街で暮らし、ジョギング、自転車、ヨット、サーフィン、バーベキュー、ピクニックといった自然と親しむ遊びに興じる。

 こういうのを先進国の都市というのだろう。 とても住み心地の良さそうな土地だ。 それでは住んでみようか? スーパーに魚がなくても海が近いから手に入れるのは難しくないだろう。

 だが、なにか物足りなくはないか。 躊躇させる何かがある。 そう、パースは美しすぎるのだ。 ここにはないアジアの汚らしさ、猥雑さ。 あれは、ほかでもない我々人間の発する体臭なのだ。 

 ここに住むと、退屈で死んでしまうかもしれない。 
 
 (Wikipediaより)
 パースPerth)は、オーストラリア連邦西オーストラリア州の州都である。人口は2004年6月に150万人(都市圏人口。パース市の人口は約9000人)を超え、同州では最大、オーストラリアでは第四の都である。またオセアニア有数の世界都市である。街は大変美しく「世界で一番美しい都市」と言われることもある。
 パースはオーストラリア大陸西部でヨーロッパ人が建設した最初の大規模な入植地である。1826年、イギリス軍はフランスによる入植の兆しに先んずるため、西オーストラリア南海岸のキング・ジョージ・サウンド(現在のアルバニー)に基地を建設した。1829年になって自由移民の入植地であるスワン川入植地の首府としてパースが建設された。1850年には安価な労働力を手に入れたい農家や実業家の要求によって、パースを含む西オーストラリアは流刑植民地となった。
 西オーストラリア州は鉱物資源が豊富であるが、特に金、鉄鉱石、ニッケル、アルミナやダイヤモンドといった資源の度重なる発掘ラッシュによって都市は成長した。
 パースはスワン川沿いに位置する。スワン川という名前は原産のコクチョウ(ブラックスワン)にちなむ。
 パース郊外はインド洋に面して美しい砂浜が広がっている。都市の東の境界はダーリング崖と呼ばれる低い急斜面である。パースの大部分は、深い基岩と大量の砂の土壌によるゆるやかな起伏のある平らな土地の上にある。パース大都市圏には二種類の水源からの川が流れ、一つはスワン川とキャニング川、もう一つはマンジュラのピールエスチュアリーに流れるサーペンティン川とマレー川である。
 近年、異常気象により降水量が減少しており、30年間でダムへの流量が三分の二に減少している。さらに人口増加率が比較的高いため、パースが10年以内に「水切れ」になってしまうという懸念が生じている。西オーストラリア州政府は対策として家庭でのスプリンクラー使用を制限し、クイナナ(Kwinana)に淡水化プラントを建設し、2007年から稼動している。州政府はキンバリー(Kimberley)地域からの水の輸送や、州の南西部にあるヤラガディー(Yarragadee)帯水層からのくみ上げといった他の解決策も検討している。
 1950~60年代にヨーロッパから来た移住者を乗せた船が最初に上陸した場所がフリーマントルであったため、パースにはクロアチア、イギリス、イタリア、オランダやギリシャからの大量の移住者が流れ込んだ。この時期にやってきた大量の移住者の名前はマリタイムミュージアムの外にある板に並んでいる。最近、イギリスから飛行機で大量の移住が進んでいて、パースはオーストラリアの都市の中で一番イギリス生まれの住民が多くなっている。パースの南部にある郊外ではイギリス生まれの住民が20%に達している。
 さらに旧ユーゴスラビア・旧ソ連を含む東欧からの相当な移住が進んでいる。マレーシア、シンガポール、香港、インドネシア、中国、スリランカといった東南アジアや東アジアからの移民者のコミュニティーも相当数ある。インド人コミュニティーではムンバイから移住した大量のパールシーが住んでいる。南アフリカ共和国やジンバブエからの白人の移住者も住み着いている。

2016年1月10日日曜日

中国・内モンゴルの日本による沙漠緑化とは



 先月のニューズウィーク日本版(2015年12月22日号)のコラム「日本の100億円緑化事業が遊牧民の自然を破壊する」は、興味深い内容だった。

 筆者は、文化人類学者で静岡大学教授・楊海英(ヤン・ハイイン)、51歳。 中国内モンゴル自治区オルドス生まれ、モンゴル名オーノス・チョクト。 1989年日本に渡り、文化人類学を研究、2000年日本に帰化。 日本名・大野旭。 


 1966年から1976年にかけての文化大革命を幼少期の恐怖の記憶として持ち、モンゴル人数十万人が中国共産党政府によって粛清された内モンゴル人民革命党粛清事件についての研究で知られる。 2011年、「墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録」で司馬遼太郎賞を受賞した。

 ニューズウィークのコラムは、こういう経歴の人物だからこその視点に立ったものだ。

 コラムの内容は、日本政府が100億円を拠出して支援する団体「日中緑化交流基金」の内モンゴルにおける植林・緑化事業は、政治的にも科学的にも中止すべきだと、内モンゴルを中国共産党政府が支配する以前から、そこで生活していたモンゴル遊牧民の立場で主張している。

 「南モンゴル人権情報センター」のHP「Southern Mongolian」で、楊海英がより詳細に同じ趣旨の主張をしているので、それを転載しよう。
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モンゴル人からみた沙漠化
     
     今日、地球上の各地で沙漠化の問題がクローズアップされている。なかでも、中国・内モンゴル地域の沙漠化については、日本でも注目されている。では、沙漠化をもたらした原因は一体何であろうか。今後、人々は沙漠という存在といかに接するべきかをモンゴルの視点から考えてみたい。
1.沙漠化をもたらしたのは遊牧民ではなく、農耕民である
 モンゴルなど北・中央アジアの遊牧民はウマ、ウシ、ラクダ、ヒツジとヤギの五畜を放牧し、その乳と肉を生活・生産資源としてきた。彼らは季節ごとに異なる放牧地を有し、そのあいだの移動をくりかえす。元来、万里の長城以北の地域は降水量が少なく、農耕に適さぬだけでなく、ある一カ所での長期間放牧にも耐えられない環境であった。遊牧民の定期的な、規則正しい移動は、厳しい自然環境を合理的に利用するために発達してきた技術である。換言すれば、移動によって「過放牧」という破壊的な結末を避けることができたのである。

    「草原を天の賜物」とみなし、人間が土地を私有化したり、過度に加工したりする行為は忌み避けるべきだ、と遊牧民は考える。沙漠化の原因のひとつとして、植物の伐採があげられてきた。一般的に遊牧民は伐採をおこなわない。森林地帯の人々は枯れた枝しか拾わない。ゴビ草原の住民は家畜の糞を燃料とする。私の故郷オルドス地域は沙漠性草原で、そこには沙嵩(A.ordosica Krasch,A.sphaerocephalla Krasch。学名は「伊克昭盟的生物」による)という植物が生長する。冬のあいだ、大地が凍りついたときのみ、植生の濃密なところをえらんで、若干、枯れかけたものを切る。モンゴル人はこの作業を「植物に風を通す」と表現し、一種の園芸に近い行動である。実際、翌年の生長ぶりは前年よりも良くなる。

ここで歴史を回顧してみよう。

    オルドス地域は黄河の南に位置することから河套、河南地とも呼ばれていた。中国の漢族側からの名称である。戦略的に重要な場所であったため、有史以来、遊牧民と農耕民との争奪の地でありつづけた。漢族側がときどきこの地を占領すると、城池をきずき、屯田をすすめた。現在のオルドス地域には40を越える古城の跡が各地に残る。

興味深い現象がある。
 
歴代王朝の屯田地の中心地だった古城の周囲はほとんど例外なく塩田化している。灌漑によって地中の塩分が上昇し結晶した塩がさらに草原に散って利用できなくなっている。このような荒れはてた古城とその周囲をモンゴル人は「黒い廃墟」と呼ぶ。農耕民と対照的なのは、モンゴル人は早くから乾燥地での開墾がもたらす環境破壊に気づいていた。たとえば、清朝末期に政府がオルドス地域へ大規模な入植と開墾を押しすすめたとき、モンゴル族は抵抗運動を展開した。そのとき、農耕を受け入れられない理由のひとつに、開墾による塩田化をあげていた。その主張は古文書のかたちでヨーロッパの宣教師たちに収集されている(Serruys 1997,'Five documents regarding salt production in Ordos',Bulletin of the school of oriental and african studies)。

私自身の経験を紹介しよう。

     1966年から1976年までつづいた文化大革命期のことである。遊牧民はすべて定住を強制されていた。我が家は身分上「労働人民を搾取した悪い階級」と断定されたため、家畜放牧の権利を奪われ、農業労働を命じられていた。多数の農民が我が家の周辺に押しかけて草原を開墾しはじめたのは1970年のことである。灌漑はなく天水に頼る農業だった。最初の年だけ収穫があった。翌1971年からは収穫が減少し、ついに1974年には政府も我が家近辺での開墾を中止せざるをえなかった。

    一度開墾され、やがて捨てられた草原にはところどころハンホクという家畜も食べない毒草だけが生長したが、大半は何もない「本当の沙漠」に化していた。我が家の周囲にふたたび牧草が生えてきたのは、1990年に入ってからのことで、緑がもどるまで10年間以上待たなければならなかった。もっとも、我が家の周辺は偶然にも成功した方で、開墾されてから、二度と緑にもどれない地域の方が多い。
    以上、私自身の調査と経験からいえば、沙漠化をひきおこしたのは農耕民であって、本来の住民である遊牧民はむしろ環境に優しい生活を営んできたのである。
2.いままでの沙漠研究の問題点と緑化運動
    黄沙が飛来する日本にとって、沙漠化は決して他人事ではないようである。たとえば、鳥取大学乾燥地研究センターは早くからオルドス地域に研究所を設置し、研究活動をつづけてきた。今日、日本人研究者は内モンゴル全域に足をのばし、活動範囲を広げている。

    日本人研究者の成果は大いに評価すべきであろう。しかし、被調査者側のモンゴルからみれば、同時に懸念せざるをえない問題もある。いくつかの事例をあげよう。

    まず、研究姿勢である。現地に行って来た研究者は現地語を学ぼうとしなかった。その結果、調査地である内モンゴルの地名のモンゴル語表記は間違いだらけである。漢語を媒介に調査がおこなわれたため、現地語表記を無視した結果となっている。

    つぎに、現地の知識を吸収しようとしなかった。現地語の修得が欠けているだけではない。公開された論文のなかで、たとえば植物名は学名しかなく、現地語でなんと呼んでいるかに関心を示さなかったようである。モンゴルにかぎらず、世界のどの民族においても複雑な植物認識体系が確立されている。モンゴルの場合、たいていの植物には二通りの名称がある。モンゴル語名とチベット語名である。モンゴル語名称は牧草利用、草原利用と関係し、チベット語名は医薬用と連動する。いわば、植物の名称に自然認識の論理が内含されているのである。現地語の表現と現地名称を無視した研究は、まさに机上の空論にすぎない。

    第三、日本人の研究成果は現地に還元されていない。学名だけをならべた論文を専門外の人は読んでも分からないし、われわれがそれらを現地語に翻訳する際にも困難が大きい。研究成果を現地に還元し、現地の自然環境の保護に有益的に消化されるためには、研究者自身が謙虚になって、現地住民の環境認識と植物利用方法を学ぶ必要がある。

    第四、日本人研究者の研究成果は悪用される恐れがあり、研究は民族文化の保護と維持を意識しなければならない。日本人による沙漠研究は、緑化も目的のひとつであるようだ。ただし、沙漠地域での緑化はすなわち農産物の栽培をどのように促進するなど、緑化=農耕開墾を意味しているような印象が強い。というのは、いかに灌漑すれば作物が生長し、何本の木を植えれば防風林となって農耕地が保護できるか、という実験が多いのではなかろうか。沙漠化を防止するためには、農耕を中止し、定住から再度移動放牧に回帰しなければならない、という発送は毛頭ないのではないか。なぜ、北・中央アジアに歴史がはじまって以来ずっと遊牧文明が発達してきたか、ということも検討しないで、ひたすら農耕をすすめる考え方の背後には、「狩猟→遊牧→農耕→都市」という発展段階論的な思想が機能しているのではなかろうか。

    中国は有史以来遊牧民を脅威とみなしてきた。遊牧民を定住させ、農耕民に改造することは、国家維持のための政策である。場合によって、あるいは結果として日本人の研究成果は、モンゴル族を定住させ、中華に同化させるという政治的な行為に利用される危険性がある。研究成果がだれにいかなるかたちで利用されるかを意識しないできた人類は、すでに代価をはらっていることを忘却してはならない。

    水さえやれば作物や草が生長する、というシンプルな発想は捨てなければならない。乾燥地での灌漑は塩田化にもなることをみこんだうえで研究をつづけてほしい。内モンゴル地域を対象とした沙漠研究は、ある意味では科学の限界を示す典型的な例のひとつでもあろう。

    毎年春になると、日本各地から内モンゴルに緑化運動の団体が出かける。モンゴル文化に触れ、コミュニケーションが促進されることは大いに結構だが、文明論に立脚した緑化運動が展開されてほしい。厳しい自然環境を破壊せずに、何千年にもわたってその地に生活してきた人々の知恵、その地に成立してきた遊牧文明を無視し、自分の出身文化をおしつける方法は改めるべきである。
3.将来への展望
    清朝末期に政府が「移民実辺」政策をうちだしたとき、モンゴル族は塩田化を理由に反対したことはすでに述べた。しかし、モンゴル族の主張は一度も受け入れられなかった。清朝が崩壊し、中華民国に入ると、政府は漢族農民の入植を奨励し、軍隊による屯田もおこなった。この時期、内モンゴル東部と中部に勢力をはっていた日本軍政権も農業活動に従事するようにモンゴル人を勧誘した。

    社会主義中国が1949年に成立すると、政府は歴史上のどの王朝よりも徹底的に遊牧民の定住化をすすめた。組織的に漢族農民を移住させるのみならず、もとからの住民モンゴル人をも人民公社というコミュニティに編入し、定住化政策を強行した。異民族を自らの生活形態に改造し、次第に同化させるという点では、いまの中華人民共和国は歴代王朝よりも成功しているといえよう。

    沙漠化の拡大という環境破壊の面でも、現在の中華人民共和国の50年のあいだの変化は、歴代王朝の累積よりも激しいのではなかろうか。例をあげてみよう。現在70-80代の老人によると、かつてのオルドス地域には沙漠性草原のいたるところに無数の水溜まりや湖、小川があったという。1960年代まで、一般のモンゴル人は井戸を掘ることはしなかった。家畜も人間も湖や河の水でじゅうぶん足りていたからである。人民公社と文化大革命を経た現在、湖や河は姿を消し、普通の井戸よりも十数メートルも深く、電気ポンプ式井戸ではないと生活できないような地域も現れるようになった。地下水位の変化を物語っている。

    1960年代までのオルドス地域には、オオカミやガゼルなどの野生動物が生息し、子どもだった私がひとりで放牧にでかけるのが怖かったぐらいだった。1970年代に入ってから人口増加にともない次第に絶滅においこまれた。

    中華人民共和国が積極的に漢族農民の入植をすすめた結果、オルドス地域をはじめ、内モンゴル各地に無数の漢人村落が形成された。漢族はどこへ移動しても農業中心の生活を営む。乾燥地域での営農は環境を破壊しただけでなく、異なる生活を送ってきたモンゴル族とのあいだで、衝突も増えるようになった。

    遊牧民を定住させる為政者側には、農業=文明化という発想が根底にある。沙漠化など自然環境の変化を考えるならば、遊牧すなわち野蛮という偏見を放棄しないかぎり、根本的な改善策は導きだされないにちがいない。無視できないのは、日本人研究者も農業的な出自を有し、遊牧生活にほとんど関心をはらわなかったということである。農業国だった日本出身の研究者たちは、どこかで中国の漢族と同様な考え方をもっているのではないか。北・中央アジアの広大な、厳しい自然環境のなかで、遊牧という生活形態が人類の一部を養ってきたことを評価し、遊牧文明に対する再認識をしなければならない。

    内モンゴル地域での沙漠化が食い止められないもうひとつの人的原因は、政府の政策が安定しないことに原因があろう。内モンゴル自治区の指導者が替わるたび、政策も変化する。牧畜や植林を重視する指導者がたまに現れても、数年後には中止されたりして、成果が実らないのが現実である。いままでに何度もあったことである。

     歴史を鑑み、とくに20世紀後半50年をふりかえることにより、われわれは将来へ向けてひとつの結論を出したい。内モンゴルにおいて農業を中止し、牧畜に重点を置くであろう。牧畜でも定住放牧ではなく、移動遊牧という原点にもどらなければ、沙漠化を防止する方策はない。遊牧こそ、沙漠化問題を解決する唯一の道である。

2016年1月6日水曜日

顔 顔 顔 顔・・・

































富良野スキー場 ― 近未来の日本

(富良野スキー場のゴンドラに乗っていると、聞こえてくるのは中国語や英語ばかりということがよくある)

   北海道・富良野での12月のスキー初滑りは、すでに10数年続いている。 この間、スキー場には、ふたつの変化があった。

 ひとつは、かつて体験したマイナス20度という凄い寒さに出会うことがなくなり、次第に気温がやさしくなったのはいいが、夢の中で空中遊泳しているような気分になれる素晴らしいパウダースノウにめぐり会うチャンスもほとんどなくなったことだ。 地球温暖化がスキー場を蝕んでいる。

 もうひとつは、外国人が増えたことだ。 10年前も東南アジアや台湾から来たスキーヤーの姿を見ることはあった。  だが数は少なかった。 だから、ときたま日本語を理解できない人たちを見ると助けてあげることもあった。

 富良野スキー場というのは、北の峰と富良野の2ゾーンがある。 富良野ゾーンは西武グループが牛耳っていて、食事は高くて不味いプリンスホテル内のレストランを除けば、ラーメン食堂しかない。 だから、ここはいつも混んでいる。

 食券を自動販売機で買って、カウンターで従業員に渡し、ラーメンができると食券の番号が呼ばれてドンブリを受け取りにいく。 ところが、番号は日本語で呼ばれるので、外国人には理解できない。 こういう場面で出くわしたときは、いつも助けてやったものだ。

 だが、今回(2015年12月)行ってみると、食堂のおばちゃんがカタカナを読むようなたどたどしさではあったが、番号を英語で呼んでいた。 当然だろう。 食堂内を見渡すと、外国人が半分近くを占めていただろうか。

 なんとなくわかった国籍は、中国、台湾、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、オーストラリア・・・。 ヨーロッパ人、アメリカ人もいたと思う。 

 そこは、どこに行っても日本人しかいなかった前世紀の日本ではない。 おそらく、ラーメン食堂の中は、近未来の日本の光景なのだ。

 東京に住んでいても、外国人と接触しないで生活することは不可能に近くなった。 居酒屋のウェイトレスは日本語の上手な中国女性だし、多摩川の河川敷をジョギングしていて、インド人たちがクリケットに興じているのを見かけても驚かなくなった。

 2002年に、ホノルル・マラソンの自転車版センチュリー・ライドに参加した。 日本航空がスポンサーのせいか、日本人参加者数はアメリカ人より多かったかもしれない。 途中の休憩所で、アメリカ人参加者がカメラを出して、誰かに自分を撮ってもらおうとしたが日本人ばかりで、英語がわかる人を探して、うろうろしていた。 

 アメリカ人がアメリカで母国語をしゃべる人間を探すのに苦労する。 富良野で、日本人がそんな状況に遇っても、もはやおかしくない。

 日本の人口減と外国人の増加。 日本中がスキー場のラーメン食堂になるのも、そんな先のことではないかもしれない。