台湾総統・蔡英文が2016年8月1日、台湾原住民(先住民)に対する400年にわたる漢民族による迫害、差別を台湾政府として初めて謝罪した。 台湾史の歴史に刻まれる出来事だ。
その夜、台湾中部、嘉義県の観光地で有名な阿里山近くの山里、達邦というところにいた。 原住民族のひとつ、ツォウ族が住むところだ。 そこにいたのは偶然だった。 行き当たりばったりのバックパッカー旅行中だったのだから。
小さな集落の食堂には、地元ツォウ族住民の経営者や従業員、近所の人たちが集まって、楽しそうに雑談をしていた。 おそらく毎晩の光景なのだろう。
入っていくと、中国語のできない日本人とわかり、片言の日本語と英語で応対してくれた。 明るい笑顔、一般的な中国人や日本人と比べると褐色が強い肌、すっきりとした鼻筋、豊かな表情の瞳。 言葉など気にしないで話しかけてくる人懐こさ。
そうだ。 人々のこういう雰囲気には馴染みがあった。 かつて、のべ7年間住み、歩き回っていた東南アジア世界と同じなのだ。 彼らは民族的に東南アジアと密接な関わりがあるとされる。 それは、科学的に検証しなくても肌で感じることができる。
ここは、中国ではない。 共産党の中華人民共和国でも、国民党の中華民国でもない。 1つの中国でも、2つの中国でもない。 台湾なのだ。 他のなにものでもない。 この山里では、そう感じるしかない。
この日の「原住民族テレビ」は一日中、蔡英文の謝罪表明のニュースを流していた。 だが、達邦の食堂で会ったツォウ族の人々がそれを話題にしている風はなかった。 言葉はわからなかったが、彼らの笑い声や表情は普段の屈託のない世間話だったと思う。 だが、本当の気持ちは、もっと長く深いつきあいを確立しなければわかるわけがない。
だが、彼らを見ていればわかる。 ここは、「台湾共和国」なのだ。
蔡英文の政治的立場は、大陸中国と距離を置く。 彼女の謝罪は、将来の民族を越えた台湾人アイデンティティの確率を目指す最初のステップであろう。 だとすれば、その遠い先に見えるのは、台湾独立という理想以外はありえないように思える。
南シナ海における新たな独立国家の誕生。 ちょっと新鮮な未来像だ。 そんなことが現実になったら日本はどうなるのだろう。
達邦の食堂のトタン屋根が雨でバタバタと音をたて始めた。 海抜1000mの山中の夜は、涼しくて気持ちいい。 薪の直火で焼いた豚肉、竹筒に入れて炊いたモチ米のごはんが美味い。 アルコール度数が58度もある高粱酒で、すっかり酔ってしまった。 酔ったのは、元首狩り族のおもてなしが楽しかったせいもあったろう。
・・・・・・・
蔡英文の謝罪表明は、どう捉えるべきなのだろうか。 台湾の過去の歴史、現在の政治状況、双方の複雑さを読み解かねばならないのは明らかだ。 とっかかりは、原住民にしよう。
(以下、Wikipedia より)
台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾の先住民族の呼称。台湾政府(中華民国)の定める中華民国憲法により、「原住民族(拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」の存在が謳われている。現在、彼らは自らのことを台湾に昔から住んでいたという意味で、「原住民」と呼んでいる。漢語で「先住民」と表記すると、「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この表記は台湾では用いられていない。しかし日本語では「原住民」が差別的な意味合いを含むとして、積極的に「先住民」「先住民族」を使ったほうが良いとする考え方もあり、日本のマスコミでは基本的に「原住」を「先住」と言い換えている。ただし「現地の呼称や少数民族の意見を尊重」するため、と注釈を付けたうえで「原住民(族)」を使う例もある。
1996年(
民国85年)に原住民族を所管とする省庁である
原住民族委員会が設置されたのを皮切りに、
民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、
2005年(民国94年)1月「原住民族基本法」が制定され、国営の
原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしている。さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。
2008年(民国97年)に、台湾政府は
セデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。
2008年(民国97年)6月末高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占める。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高い。台湾では現在、
平地原住民と
山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。現在は台湾東部に多く住み、
アミ族が最も多く、約18万人である。
タイヤル族(泰雅族)と
パイワン族(排湾族)の約8万人がこれに次ぐ。このほか、
花蓮県に9万人(18.3%)、
台東県に7万9,000人(16.1%)、
屏東県に5万6,000人(11.4%)の原住民が住む。
日本の台湾領有後、山地原住民は「
生蕃」と呼ばれ、領台40年後の
1935年(
昭和10年)に
秩父宮雍仁親王の要請において公式に
高砂族(たかさごぞく)と改称された。
太平洋戦争(
大東亜戦争)中には高砂族を中心にした
高砂義勇隊が結成され、
日本軍の指揮下で戦った。戦後、
日本政府は
台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも一部の人が弔慰金を受け取ったのみで、未払い賃金の問題がある。しかし日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない。
台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた
1603年(
明:
万暦31年)に著された『
東蕃記』では、台湾原住民は一括して「
東蕃」と呼ばれていた。
漢民族人口が増加してきた
18世紀から
19世紀頃に至って、台湾島の平地に住み
漢化が進んだ原住民族を「
平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族は「
熟番」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民族を「
生番」または「
高山番」と呼ぶようになった。
1871年(
日:
明治4年 /
清:
同治10年)に
宮古・
八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害される事件が発生した(
宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に厳重に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事され放置されたため、日本政府は
台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。
1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は当初、清国の分類と名称を引き継いだ(ただし、番は蕃と書くことが多くなった)。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高山族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。領台から40年後の
1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「
平埔族(へいほぞく)」、「
生蕃(せいばん)」を「
高砂族(たかさごぞく)」と公式に呼称を改めた(「戸口調査規定」)。
1903年(明治36年)、
大阪で
博覧会が開かれた際、民族を紹介する学術人類館に台湾原住民の女性が展示された(
人類館事件)。領有当初の
1907年(明治40年)には、抗日事件の
北埔事件が起きた。
1930年(昭和5年)には
霧社事件が起こり、多くの死傷者を出した。
日本統治が確立されると、台湾原住民も漢民族同様に台湾社会に組み込まれていった。学校では
公用語として日本語が教えられ、言語が異なる部族間の
共通語としても機能した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は高砂義勇隊として多くの若者が日本軍に志願し、
南太平洋に広がる密林戦において大きな貢献を果たした。
第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した
中華民国政府は、先住民族のうち、日本人によって「
高砂族」に分類された諸民族を「
高山族」または「
山地同胞」「
山地人」と呼称して
同化政策を進めた。しかし
1980年代以降の
民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、
中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。
政府認定16民族と人口
- 各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、セデック族統計無し。
- アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
- パイワン族(排湾族) 84,446人
- タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
- タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
- ブヌン族(布農族) 49,529人
- プユマ族(卑南族) 11,100人
- ルカイ族(魯凱族) 11,509人
- ツォウ族(鄒族) 6,517人
- サイシャット族(賽夏族) 5,623人
- タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
- クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
- サオ族(邵族) 637人
- サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
- セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
- カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
- サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
- その他 265人
- 申告なし 32,859人
これらの民族のうち、サキザヤ、クバラン、サオを除く10民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた(サキザヤは以前は認定されず、クバランとサオは一般的には平埔族に分類された)。「高山族」は、
蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
2001年(民国90年)10月にサオ族が10番目の台湾原住民族として承認、
2002年(民国91年)12月にはクバラン族の原住民籍保有者が11番目の台湾原住民族に認定された。
2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の
立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
2007年(民国96年)
1月17日にはそれまでアミ族に含められていたサキザヤ族が独立した民族と認められた。
2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。
2014年(民国103年)
6月26日にはそれまでツォウ族(南鄒)に含められていたカナカナブ族、サアロア族が独立した民族と認められた。
その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
一方、政府から未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
も歴史的には平埔族に分類されていた。
「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。
平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
台湾原住民族の言語
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともと
インドネシア・
フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、
太平洋各地に拡散したとする説が有力である。
大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似
[5]やアメリカインデアン語、南米先住民の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている
部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられることもある。
台湾原住民の遺伝子
台湾原住民族の風習
入れ墨
台湾原住民族にとって、
入れ墨は
通過儀礼の一つである。顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。
出草(首狩り)
台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の
首を狩る風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。ただしこの習慣は、他にも
マレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アーミー・サイセットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤーミー族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。
日清戦争後の
乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、
台湾総督府による
理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に
霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。
1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の
1915年(
大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押收によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを基にした説によると、
1896年(明治29年)から
1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
出草を巡る
阿里山原住民に関する
呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
出草の動機
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。
・・・・・
蔡英文という人物をみてみよう。 この人には原住民の血が4分の1流れているそうだ。
蔡英文
蔡英文の父・
蔡潔生は枋
山郷出身の豪商。『商業周刊』の報道によれば、蔡潔生は四人の女性と家庭を持ち、蔡英文の母は張金鳳。子供は合わせて十一人で蔡英文は末子。ジャーナリストで政治評論家の周玉蔻は、著書で蔡潔生は五人の女性がいて、蔡英文は五人目の女性が生んだと主張しているが、この説は蔡潔生の家族の確認を得られてはいない。父親について蔡英文は「とても凄い」と自嘲していた。
蔡潔生は18歳の時に
日本軍による南洋作戦への徴用を避けるために中国大陸に渡り、
満州国の満州機械学校で飛行機修理を学んだ
[5]。
太平洋戦争で日本が降伏した後に台湾に戻り、自分で事業を起こし、貨物運送所を開設。後に台北市に移って
自動車整備工場を開設して輸入車整備業務に参入し、駐台米軍と外国人顧問の相手を専門にして事業を営み、60歳近くになって不動産業、建築業及びホテルビジネスに参入。中山区の
中山北路と
新生北路一帯に少なくない不動産を購入して富を得た。2011年12月下旬の
中央選挙委員会の財産申請資料によれば、蔡英文は土地4ヶ所、建物2ヶ所、
台湾ドルで1805万元の預金、担保等を所有していた。
蔡英文のパイワン族名は「
Tjuku」で、頭目の娘という意味である。
家系図によれば本来は「蔡瀛文」と命名されるはずであったが、父親の蔡潔生は「瀛」は画数が多過ぎるので、名前を「蔡英文」へと変更した。
政治的立場は穏健独立派とみられているが、2008年11月の中国
海峡両岸関係協会の
陳雲林会長の訪台をめぐって「訪台を歓迎しない」「台湾史上、最も暗い1週間」と踏み込んだ発言を行い、急速な対中接近を図る馬英九政権を強く牽制した。2010年4月25日には馬英九と共にテレビ討論会に出席し、
両岸経済協力枠組協議について「安価な中国製品が大量に輸入され台湾の産業が圧迫された結果、独立性を失い中国の寄生虫になる」として馬を批判し、
世界貿易機関の下で中国と交渉するべきと主張した。
国歌斉唱について
2015年
10月10日に行われた国慶日祝賀大会では、ライバル政党で与党の中国国民党の党歌であり、中華民国の国歌でもある
中華民国国歌の歌詞のうち「吾党」(元々は「
中国国民党」を指す意味)の部分だけ、歌うのを拒否した。
しかし、
2016年5月20日に
中華民国総統に就任した際には、中華民国国歌の「吾党」を唱和した。中華民国のメディアでは「吾党」を歌うのかが、注目の的となった。
・・・・・・
蔡英文の謝罪表明は、日本のメディアは小さなニュースとして報じただけだが、日本語の中国情報サイト”Record China”は、蔡英文の謝罪全文の日本語訳を掲載した。 引用しよう。
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22年前の今日、私たちは憲法は追加補正条文の「山胞(山地同胞)」の正式呼称を「原住民」としました。この正式名称は、長期にわたり用いられてきた差別的呼称を除去し、さらに台湾の「もともとの主人」である原住民族の地位を、さらにはっきりと示すものでした。
この基盤の上に立ち、私たちは本日、さらに1歩、踏み出します。私は政府を代表し、原住民族全体に対し、われわれの心の底からのお詫びを申し上げます。過去400年来、皆様が受けてきた苦痛と不公平な待遇に対して、私は政府を代表して、ひとりひとりにお詫びいたします。
今になって、私たちがこうして生活しているのに、お詫びは必要ないと思う人もいるでしょう。しかしこのことこそが、私が政府を代表してお詫びせねばならない、最も重要な原因なのです。
「過去のさまざまな差別視は当然のことだった」、あるいは「過去の自分が所属する以外のエスニック・グループ(民族、部族)の苦痛は、人類の発展の必然の結果」――これら(の考えが存在すること)が、私が今日ここで、変化させ転換させたいと意図する、第1番目の観念です。
簡単な言い方で、なぜ、原住民族にお詫びせねばならないかを説明しましょう。台湾というこの土地は、400年前にすでに住んでいた人がいました。これらの人々はもともと自らの生活を営み、自らの言語、文化、習俗、生活領域を持っていました。そして、彼らの同意なくして、この土地に別のエスニック・グループがやってきたのです。
歴史の経緯を見れば、後から来た人々が、最初にいたグループの人たちから、すべてを奪ったのです。彼らを自分の最も親しんだ土地で流浪させ、土地を失わせ、異邦人にして、非主流・辺縁にしたのです。
1つのエスニック・グループの成功は、他のその他のエスニック・グループの苦難の上に打ち立てられる場合が多いでしょう。しかし、私たちが自らを公正で正義ある国家と言うのなら、過去の歴史を正視して、真相を話さねばなりません。そして最も重要なことは、政府は必ずや、この過去の歴史を心から反省せねばなりません。それが、私が今日、ここに立っている理由なのです。
「台湾通史」と題する本があります。その序言には冒頭部分で「台湾にはもともと歴史がなかった。オランダ人が開拓し、鄭氏(鄭成功)が築き、清代に営まれるようになった」と言及しています。これは、典型的な漢人史観です。原住民族は数千年前からこの土地で、豊富な文化と知恵を育み、代々伝えてきたのです。しなしながら、私たちは勢力の強いエスニック・グループの視座から、歴史を書いてきました。だから私は政府を代表して、原住民族にお詫びするのです。
オランダと鄭成功政権は(平野部に住んでいた原住民族である)平埔族を虐殺し、経済面で搾取しました。清代には大規模な流血衝突と鎮圧がありました。日本統治時代には理蕃政策(武力制圧と威嚇で帰順させ、帰順した部族は優遇)が続き、戦後の中華民国政府は「山地の平地化政策(山間部に多い原住民族に対して、固有言語を放棄させるなどを含め、平地と同様の『中国化』を強要)」を施行しました。
400年にわたり、歴代台湾政権はいずれも、武力制圧や土地略奪を通じて、原住民族の既存の権利をはなはだしく侵害してきたのです。だから私は政府を代表して、先住民族にお詫びするのです。
原住民族は伝統的習慣により部族間の秩序を維持し、さらに伝統的な知恵により自然とのバランスを維持していました。しかし現代的な国家が体制を構築する過程で、原住民族は自らの問題を自ら決定したり、自治をする権利を失いました。伝統的な社会組織は崩壊し、民族という集団の権利も認められなくなりました。だから私は政府を代表して、原住民族にお詫びするのです。
原住民族はもともと、自らの母語を持っていたのですが、日本統治時代には同化と皇民化政策に遭遇し、1945年以降には、政府が民族の言語を禁止しました。その結果、原住民族の言語は深刻な消失に遭遇しました。
平埔族の言語はすでに、ほとんど消え去ってしまいました。歴代政府は原住民族の伝統文化を保護することに積極的ではありませんでした。だから私は政府を代表して、原住民族にお詫びするのです。
私はここに、宣言いたします。総統府は「原住民族歴史の正義と移行期の正義委員会」を設置いたします。私は国家元首の身分をもって、自らが招集人となり、各民族の代表とともに、歴史の正義を追求します。さらに対等の立場でこの国の今後の政策方針を協議します。
私は総統府の委員会が最も重視するのは、国家と原住民族の対等な関係だと強調します。各民族の代表を代表選びは、平埔族を含めて各民族と集落の共通認識を土台にします。このメカニズムは、それぞれの原住民族の集団自決権のメカニズムであり、その民族の人の心の声を正しく伝えることのできるものです。
その他、私は行政院(台湾政府)に対して、「原住民族基本法推進会」を定期的に招集することを要求します。委員会において形成された政策についての共通認識により、今後の政府は各レベルにおいて、関連する実務をすりあわせ、処理することになります。この実務は歴史の記憶を追い求め、原住民族の自治の推進、経済の公平な発展、教育と文化の伝承、健康の保障、さらに都市部に住むエスニック・グループの権益保護などを含みます。
現代の法体系と原住民族の伝統文化に齟齬(そご)がある点に対しては、私たちは文化に対して鋭敏に対応する「原住民族法律サービスセンター」を設立し、制度を確立することで、原住民族の伝統習慣と現行の国家の法的規範の間で増加しつつある衝突を緩和します。
私は政府関連部門に、原住民族が伝統的な習慣にもとづき、伝統的な範囲内において、基本的に商業取引以外の必要のために、保護対象になっていない動物の狩猟を行ったことを理由に発生した訴訟や判決については、即刻、整理に着手することを要求します。これらの案件について、解決のための方策を研究し討論いたします。
私は政府関連部門に、蘭嶼において放射性物質を保管することを決めた経緯について、真相を調査し報告することを要求します。放射性物質の最終処置を決める前に、ヤミ族の人には妥当な保障をせねばなりません。
同時に、平埔族のエスニック・グループの自己認識(解説参照)を尊重し、(民族としての)身分を承認するとの原則のもとで、9月30日までに関連法を検討し、平埔族としてふさわしい権利と地位を獲得させます。
今年の11月1日には、私たちは「原住民族伝統地」の区分けと公告を始めます。「集落公法人制度」については、私たちはすでに着手しました。将来は原住民族自治の理想を、一歩一歩実現しています。原住民族が最も重視する「原住民族自治法」、「原住民族土地および海域法」、「原住民族言語発展法」などの法案作成の作業を加速し、立法院(国会)に送り審議させます。
本日午後、私たちは全国原住民行政会議を招集します。同会議で、政府は多くの政策について説明いたします。今後は毎年8月1日に、行政院は全国人民に対して原住民族歴史の正義と移行期の正義の実行度についての報告をします。原住民族基本法の実現と原住民族歴史の正義と移行期の正義の達成、原住民族自治の基礎確立は、民族政策における政権の三大目標です。
私は、この場にいる、そしてテレビやインターネットの前にいる原住民族の友すべてに、証人になっていただきます。皆さんを監督人としてお招きするのです。押し付けるのではありません。皆さまのお力をもって、政府を鞭撻(べんたつ)し、指導し、政府が承諾したことを実現し、過去の誤りを正せるよう、お力をください。
私はすべての原住民族の友に感謝します。あなた方は、この国のすべての人、踏みしめる大地、そして古い伝統にはかけがえのない価値があることを示してくれました。これらの価値に尊厳を持たせねばなりません。
私たちは将来、政策の推進を通じて、次世代の人々、さらにその先の世代の人々、そして台湾の土地に住むすべてのエスニック・グループの人々について、彼らが民族の言葉を失ったり、記憶を失ったり、自らの文化の伝統が疎外されたり、自らの土地で流浪したりする事態を発生させません。
私は社会全体に対して私たちの歴史を知り、私たちの土地を知り、私たちのさまざまなエスニック・グループの文化を知ろうと共に努力するよう要請します。和解に向け歩み、共存と共栄に向け歩み、台湾の新たな未来に向け歩むのです。
私は国民すべてに、本日という機会を通じて、ひとつの正義ある国家、ひとつの真に多元的かつ平等な国家を共に打ち建てる努力をすることを要請します。
本日はひとつの始まりにすぎません。和解ができるかどうかの責任は、原住民族および平埔族のエスニック・グループ側にあるのではありせん。政府にあるのです。口でお詫びを言うだけではだめだということは分かっています。政府は今から、原住民族のためにできる一切のことをいたします。これこそが、この国が真の若いができるかどうかの鍵になるのです。
ありがとうございました。
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以下、「台湾の歴史──オランダから日本植民統治まで」
(黄昭堂/台湾独立建国聯盟主席 原載『台湾』1巻8号)
台湾は澎湖諸島と台湾島の総称であり、緑に包まれた美しい島々である。
十五世紀頃台湾の近海を航海したポルトガル人は台湾の美しさにうたれ、“おお麗わしき島かな!”と讃えたが、十七世紀から始まったその歴史は悲惨なものであった。十七世紀から二十世紀にいたる台湾の約四世紀の歴史はそのまま植民地の歴史を綾なすものである。
一、オランダ植民地時代(一六二四~一六六二)
台湾はフィリピン群島と日本列島の間に位置して、東シナ海を扼し、地理的には要衝をしめているがその開発は遅れ、列強に注目されたのは十七世紀以降であり、それまでは和冠や海賊流匪の巣窟になっていた。その原住民は狩猟生活を営むポリネシア系人、俗に高砂族または高山族と呼ばれる人たちである。
他方、澎湖諸島は台湾島よりも先に大陸の王朝から注目された。十四世紀中葉に元朝がここに数年間巡検司をおいたが間もなく撤廃た。約二世紀後、明朝が再び巡検司を設けたされが、これも間のなく撤廃され、明末には澎湖島も諸国の海賊の巣窟になった。このように、元朝、明朝ともそれぞれごく短期間澎湖島を領有したが、明末にはこれを放棄したのであった。
明朝が澎湖島を放棄した後、対清、対日貿易の商船航路の途中に位置している澎湖島の重要性に着目したのはバタビアに本拠をおくオランダ東印度会社であった。一六二二年にオランダ艦隊は澎湖島を占領し要塞を構築した。これに対し明朝は澎湖からオランダ人が退去し、その代わり台湾島に移転し、そこに防衛工事を構築するよう希望した。だがオランダ側はこれを受けいれず、明朝軍との間に戦端が開かれた。一六二四年に至って、オランダ側は自らの軍事的不利をさとり、明朝側の要求通り澎湖を退いて台湾島に拠ることに同意し同年に締結された条約によって、オランダ人は明朝軍の援助のもとに台湾島にその根拠地を移転した。
かように台湾島によることはオランダ人の本意ではなかった。だが台湾島の貿易上の位置がよく、その上オランダ人が明朝より貿易上の特権を与えられたため、時すでにフィリピンを領有し明朝との貿易に従事していたスペインは自らの利益が損なわれたとした。オランダ人は安平にゼーランシャ城を、赤嵌にプロビンシャ城を築いて台湾経営に乗りだしたとはいえ、その支配地域は台湾南部の安平•台南一帯にすぎなかった。そこでスペインはオランダに対抗するため遠征軍を台湾島の北部に派遣し、一六二六年に基隆を占領し、サン•サルバドル城を築き、一六二九年には淡水にサン•ドミンゴ城を築いた。かくて台湾島の北部と南部のそれぞれの一郭がスペインとオランダの植民地になったのである。
スペインが台湾島を貿易中継地として利用したのみであったのに反し、オランダはそれにとどまらず、農地開拓にも着手した。オランダは台湾島で甘蔗を栽培せんと計り、大陸から漢人の移住を奨励した。これはジャワにおいて漢人移民を雇用した経験によるものであったといわれる。時あたかも大陸においては明朝の末期にあたり、あいつぐ兵乱と飢饉によって農村は著しく疲弊し、農民が南洋各地にその活路を求めていた時期であったため、台湾への移民も少なくなく、その数は婦女子を別として二万五千にのぼり、在台漢人の総数は十万に達した。ほぼ同時期における高砂族の人口も十万を算した。
在台漢人移民にせよ、ともにオランダ台湾政庁の支配であったことから、両者にとってオランダ人は共通の敵であった。
オランダ人は文字を持たない原住民を教化し、後世に与えた影響は大きい。だがその苛斂誅求はしばしば高砂族と漢人移民の反乱をよびおこした。ことに一六五二年に郭懐一の指導によっておこった反乱は規模が大きかった。この反乱は十四日間持続したが、オランダ台湾政庁の勝利に終わり、郭懐一は戦死し、事件後処刑された移民は一千人にのぼった。
これより前にオランダ台湾政庁は、北部にスペイン人が割拠することを不利として一六四二年に兵を北部に進め、これを降ろした。その結果スペイン人による台湾北部の支配は十六年間にして崩れさり、台湾島はオランダの獨壇場になった。だが在台オランダ人にも厄運が訪れつつあった。満州に崛起した清朝が入関し、明朝の主力を撃滅して大陸をほとんど席捲するに至り、明朝の知遇を得た鄭成功は華南一帯で奮戦し、明朝の復興に努めたが、清軍に追いつめられ、台湾にをの活路をみいだそうとしていたのである。
二、鄭氏王朝による植民地時代(一六六二~一六八三)
一六六一年四月鄭成功は兵二万五千を台湾に進めて澎湖を手中に入れ、ついでプロビンシャ城を陥しいれて同城内に承天府を開き、台湾を東部と改称した。つづいて一六六二年にはゼーランじゃ城に籠城していたオランダ軍を降し、かくて三十八年間にわたるオランダの台湾島統治は終焉を告げた。
鄭成功は台湾をその手中に入れたとはいえ、その志は台湾に蟄居するにあるのではなく、清朝を打倒して明朝を復興することにあった。鄭成功の母が九州平戸の出であることから、鄭は日本に支援を乞う一方、勢力の拡充を図るため呂宋攻略を計画したが雄図空しく渡台5ヶ月後に病没した。
鄭成功の跡を継いだのが当時厦門に残留して清軍と対峙していた長子鄭経であった。
この年(一六六二)台湾内部で王位をめぐる陰謀があったため、それを鎮めるため、鄭経は始めた渡台したが、翌年にはまた厦門に戻った。鄭経にしても鄭成功と同じく、台湾経営よりも清朝との拮抗を重視したのであった。だが鄭成功によって台湾島を追われたオランダ人はその怨恨から、また金門に対清貿易の拠点を取得する約束のもとに清軍と連合して鄭経軍と戦い、ついにこれを金門から追った。大陸における拠点を失った鄭経はやむを得ず、一六六三年に台湾に退去したが、その後も機に乗じて大陸に出兵した。鄭経はその在位の十九年間を専ら清朝との戦闘に明け暮れ、台湾経営に尽力したのは実にその部下陳永華であった。
陳永華は明朝への忠節を力説し、儒学による文官試験制度を確立して人材を登用した。また官制を整備し、土木を興し、開墾を奨励し、米作、製糖、製塩、煉瓦製造の産業も進めた。かくして鄭経統治下の台湾は清国に対しては一敵国たる脅威を与えた。
清朝は鄭軍の侵攻を恐れ、一時は遷海令を発し、華南沿岸の住民を内陸に移したがそのため、沿岸の住民は生活が苦しくなり、台湾に逃れるものが続出した。
鄭経が病没して三代目の鄭克の統治時代に入ると、鄭氏王朝内の権力闘争が激しくなり、他方清国からの政治的軍事的攻撃はいよいよ活発になった。すなわち一方に於ては鄭氏の文武官に対して誘引政策を進め、一方に於ては武力侵攻政策を推進した。武力侵攻政策の中心人物となったのは水師提督施であった。
さきに、清朝と鄭氏の間で平和交渉が行なわれたが条件がおりあわず、ついに施の武力侵攻策がとられ、一六八三年に清軍は台湾に猛攻を加えた。この時鄭王朝の苛斂誅求がたたり、台湾住民は戦意がなく、鄭軍は崩壊した。
鄭氏が清の軍門に降って、台湾の領土権は清朝に帰したが、清朝が台湾に軍を進めた目的は、専ら反清の根源である鄭王朝を打倒するにあったので、台湾を領有するためではなかった。それ故清朝内部では、鄭氏なき後の台湾に対しては、はじめから放棄論が有力であった。しかし水師提督施は独り強硬に台湾領有を主張した。それで清朝はようやく台湾の領有を決定したのである。
三、清朝植民地統治時代(一六六二~一八九五)
このように清朝の領台は消極的なものであったが、それはその後約二世紀にわたる台湾統治策にも現われ、台湾における清朝の建設はほとんでみるべきものがなかった。
一応台湾を領有することになった清朝は、台湾に“反清復明”の狼煙が再び燃えあがることを恐れ、厳重な渡航禁止令をしき、大陸より台湾への移民を禁止、または制限を加えた。この禁止令に数度の緩急を繰りかえし、それが完全に解かれたのは実に二世紀後、清国が台湾を日本に割譲する直前になってからである。それにもかかわらず、密航者はあとを絶たず、自然増加を含め、十九世紀末には、台湾の人口は二百六十万に達した。
これら移民は殆どが福建、広東の貧困な地域からきた人たちである。彼らは生活苦から台湾に新天地を求めたのであった。台湾海峡の波は荒く、簡陋な船舶で渡航することは命がけの冒険であった。しかも清朝当局の目をかすめての違法行為である。欧米諸国の海外移民が政府の奨励乃至は保護によるものであったのと比べると格段の相違がある。
これら台湾住民は完全に自らの力に頼って台湾を開拓していった。そこへ清朝の官吏が支配者然としてこれを統治し、苛酷な税をとりたてたため、清朝当局に対する台湾住民と反乱は跡を絶たなかった。清朝の台湾統治期間中、台湾住民の主要な反乱だけでも二十二回を算した。史家が清朝統治下の台湾を“三年一小叛、五年一大叛”といみじくも喝破しているのはそのためである。
在台清官の質の悪さも反乱を活発にした原因に挙げられる。
清朝は海外の地である台湾に赴任する官吏には数々の優遇措置をとったが、それでも「台湾瘴煙の地なる故…、いささか才智あるもの断じて渡台を肯んぜず」、そのため清の台湾兵備道徐宗幹をして「吏治の壌、台湾に至りて極まる」と慨嘆せしめたほどである。当然ながらこのように悪質な清官と台湾住民との間に堅い絆は生じない。守土護民の責を負うはずの官吏が、身に危険を感じると口実を設けて大陸に逃げ帰ることが度屡々であった。一八九五年(清朝が日本に台湾を割譲することになった年)頃に至ってもこの傾向が残っていた。たとえば当時台湾省巡撫であった邵友濂は南満における戦況の不利をみて、台湾にも兵禍が及ぶことを恐れ、大陸に逃げ帰った。
住民と官吏との連帯感の欠如は必然的に官吏をして苛酷な処罰を主張させる。「海外の謀反地にありては、国威を発揚せずんば弾圧し難し。奸徒をして畏怖忌憚せしめんものなくば、いかに乱を鎮めるや。仁慈による統治これ妥当ならず、……殺によりて殺を制するにしかず」と。しかし苛酷な刑罰をもってしても反乱は相ついでおこった。まさに「台民乱を喜ぶこと、あたかも灯火に向う蛾の如し。前にいくもの死すとも、身を投ずるもの跡をたたず」といわれたほどである。
このような傾向は清朝が台湾を日本に割譲する時まで続いた。台湾割譲の七年前に中部で施九段の乱がおこっている。このような状態であったから在台清官は、日本領台に抵抗する準備をおこなうにあたり、後顧の憂をなくすため、中西部に兵を派遣して“土匪”の駆逐に当った。これからも台湾の不安な状態、台湾住民に対する清官の不安感が推察できよう、このような不安感は“班兵制度”にも現れている。
“班兵制度”は一六八四年以来施行されてきたもので、台湾の防備に台湾住民を使わず、将兵は三年交替で大陸より派遣される定めであった。これは「台賊の多くは内より生じ、外より至るもの少なし」とする清朝官憲の認識に由来するものであり、清朝の台湾における防衛は対外よりも体内的要因が強いことがわかる。一八一〇年に至って台湾の班兵制度を廃止し、兵士に台湾住民を召募する意見がだされたが、「班兵を廃して召募せば、台民を以て台湾を守るに等し。これ即ち台湾を台民に与えるものなり……大いに憂慮すべきにして語るに及ばざるものあり」ということからこの制度は続行された。班兵制度がいみじくも象徴するように、清朝は台湾を特殊な地域とみなしていることがわかる。だからこそ、一八七四年に日本が台湾に出兵した際、清朝が台湾住民を“化外の民”として扱ったのであった。
清朝が台湾に注目するようになったのは実に一八八四年、清仏戦争に際して、フランスが台湾北部に上陸したということから、列強が台湾を重要視していることを認識してからであった。かくして清朝は台湾を省に昇格させ、劉銘伝を派遣したのであった。劉銘伝は台湾に電信、鉄道を設け、鋭意台湾経営に当ったが、その十年後、清朝は台湾を日本に割譲する破目になったのである。
四、日本•植民地時代(一八九五~一九四五)
日清戦争(一八九四~五年)に敗れた清朝が講和会議において台湾住民の知らないうちに台湾を日本に割譲したことは、台湾住民を憤激させた。戦争の追行に当っては台湾住民の犠牲と協力を要求しながら、台湾住民の意向を無視した仕打ちは、特に台湾士紳を激怒させた。そのため一部台湾士紳は清朝の意向に反し、台湾省巡撫唐景崧を脅迫して、台湾独立にふみきらせ、台湾民主国を建立した。だが独立に際しては台湾住民の意向を徴することなくこれを強行したため、住民の支援と支持が得られず、南進してきた日本の大軍によって、台湾民主国は五ヵ月で崩壊した。
日本の領台に対する台湾住民の抵抗運動は台湾民主国とは関わりなくおこなわれ、民主国が崩壊した後も続行された。これには日本の総督も手を焼き、“匪徒刑罰令”を発布して、冷酷な弾圧政策をとった。一八九八年から一九〇二年までの四年間のみを例にとってみれば、この間“匪徒”の烙印を押されて処刑された台湾住民は約二万人に達する。
このような苛酷な刑罰にもかかわらず、台湾住民の武力は綿々として一九一五年まで続いた。
さきに台湾の対日割譲が決定したとき、講和条約の規定によって台湾住民には国籍選択の自由が認められた。だが清国の国籍を選択したのは数千人にすぎず、二百六十万の台湾住民が台湾にとどまった。彼らは日本の統治を歓迎したのではなかった。台湾は彼らにとっては唯一の故郷であったのである。そして台湾を統治する外来支配者に対しては執拗に抵抗した。
日本は台湾に総督をおき、反日運動に対しては周到苛烈な弾圧政策を強行したが、一方においては台湾の建設に力をいれ、台湾の近代化を推進した。近代化科学技術を利用する鉄道、通信網は全島に普及し、病院はいたるところにできた。一九三九年になると、工業生産が農業生産を上回るようになった。また普通教育の普及によって、台湾人の知識水準も上がり、その識字率は日本についでアジアの二番目になった。
このような背景のもとに、日本の植民地統治に対する台湾人の抵抗は、武力抵抗から政治的抵抗へと変化した。
一九一四年の台湾同化会の結成は台湾人の抵抗運動とはいえないが、台湾人が初めて近代的なそして組織的な政治運動を始めたことでその意義は大きい。この組織は板垣退助によって唱導され、台湾人を日本人に同化することが目的であった。林献堂など一部の台湾人が積極的にこれに参加したが、その目的はむしろ同化の名にかくれて、台湾人の権利の伸張を狙うことにあった。台湾人の意図を察した日本の台湾総督は、翌年には台湾同化会を解散した。
一九一八年には、総督が台湾で施行する法律を制定できるという一八九六年に公布された法律第六三号を撤廃する運動、いわゆる“六・三法撤廃運動”が始められた。
第一次世界大戦の後期にウイルソンが提唱した民族自決の原則、また戦後に澎湃としておこった民族運動の世界的風潮は一九二〇年代の台湾にも押し寄せた。先ず一九二〇年は台湾の高度自治を要求する新民会が組織され、台湾住民によって選出された議員でもって構成される台湾議会の設置を要求した。一九二三年にはこの目的のため台湾議会設置規制同盟会が結成された。
なかんずく、一九二一年に成立した台湾文化協会は規模が大きく、台湾知識層を網羅した。台湾文化協会は、日華親善のかけ橋たらんことをうたったが、その後左右に分裂した。ここで誕生したのが台湾民衆党であるが、一九三一年に満州事変が勃発するや、日本当局によって解散させられた。一九二一年以来続行された台湾議会設置運動も一九三七年日華事変の勃発によって解散した。総じてみるに日本植民地時代の台湾人の政治運動は、日本官憲の圧力によって挫折を重ねたが、台湾人に対する日本当局の差別待遇は、逆に台湾をして台湾人としての共同意識を強固たらしめた。
このような台湾人意識は台湾と大陸の地理的隔絶、さらに近代化された台湾と依然として農村的社会にとどまっていた大陸との違いなどに由来して、台湾における民族運動は大陸の漢民族主義とは交差することなく独自な発展をとげたのであった。
だが台湾の民族運動は、日本の統治期間を通じて巨大なエネルギーに成長することがなかった。そのため、日本が第二次世界大戦に敗れたことが台湾民族運動の勝利とは結びつかず、台湾はアメリカの一存のままに、蒋介石の占領下におかれることになったのである。