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2017年2月2日木曜日

少年ケニアのアフリカ

少年ケニア(山川惣治)
 まわりの友人や知り合いに、タンザニアに行ってきたと言うと、たいていはキョトンとする。 アフリカの国ということくらいは気付くが、イメージがまったく湧かないからだ。 いまだに、普通の日本人にとって、アフリカは「暗黒大陸」、「危険地帯」という印象のようだ。 だが、タンザニアはケニアの隣りで、言葉は同じスワヒリ語だから似たような国だと、かなり大雑把な説明をすると、少しはわかった気がしてホッとするようだ。

 どうやら、サハラ以南のブラック・アフリカに興味も知識もない日本人でも、ケニアにはほんの少しだが近さを感じるようだ。 その理由は、友人の一言でわかった気がした。 「アフリカと言えば『少年ケニア』だなあ」。

 きっと、「団塊の世代」以上の年齢の日本人には懐かしいだろう。
 
 Wikipedia によると、「少年ケニア」は、「アフリカケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語。1951年10月7日から1955年10月4日まで「産業経済新聞」(現:産経新聞)に連載されていた。『少年ケニヤ』は大人気となり、映画化、テレビドラマ化、漫画化、アニメ映画化なども行われた。その人気ぶりに『少年ケニヤ』は週1回の掲載から毎日の連載になり、「産業経済新聞」が一時は「ケニヤ新聞」と言われたほどだったという。1984年角川書店がアニメ映画化した際には1983年から角川文庫でリバイバルされて、全20巻が復刊された。」

 ストーリーは、「1941年12月、日本は真珠湾を攻撃。米英と交戦状態に入った。日本の商社マンとして英国植民地のケニヤに駐在している村上大介と10歳になる息子のワタルは捕まるのを恐れ自動車で奥地へと逃れた。」というところから始まる。 (どうでもいいことだが、現在の産経新聞には「村上大介」と同姓同名の知り合いの記者がいる)

 ケニアと比べると、タンザニアで日本人に思い浮かぶものは、ほとんど何もない。 ネットでタンザニア出身タレントを検索しても聞いた名前はない。 1人だけ、イーダ・ヤングビストという素晴らしくカッコいいセクシーなモデルがいた。 タンザニア人の母、スウェーデン人の父、現在アメリカ在住。 2009年に、アフリカ出身で初めての Playmate of the year に選ばれたとか。ただし、国籍はスウェーデン。
 タンザニアと日本をつなぐものは、まったくないわけではない。 明治から大正にかけて、東南アジアへ渡った「からゆきさん」は有名だ。 この中には、さらに遠くアフリカまで渡っていった女性たちもいた。 比較的知られているのは、歴史的な国際貿易港ザンジバルだ。 かつては奴隷売買の拠点でもあった。 ザンジバルはタンガニーカと合併しタンザニアとなった。 ここに日本人売春婦が最盛期には28人いたという。  彼女たちが働いていた店のあった建物は今でも残っており、日本人旅行者がときおり物珍しげに訪れているそうだ。

 実は、日本人とタンザニア人は第2次大戦中に敵対して戦ったこともある。 英国領だった東アフリカからは28万人が兵士として動員され、このうち87,000人がタンガニーカ(現タンザニア)出身だった。 彼らはアスカリと呼ばれ、東アフリカ戦線ではイタリア軍と闘ったが、ビルマ戦線では日本軍との戦いに加わった。 

 日本人とタンザニア人。 地理的に遠すぎて、お互いに相手のことについて何も知らないのに殺し合いをしていた。 これが現代の戦争なのだろう。
 タンザニア人だって、日本のことを知らない。 街を走るクルマのほとんどが日本製でも日本を知ることにはならない。 クルマは所詮クルマだ。
 
 タンザニアのアル―シャで、泊まっていた小さなコテージの調理場に入り込み、タンザニアのおいしい地鶏を使って日本風の唐揚げを作ってみた。 タンザニア人たちにふるまったら、大喜びしてくれた。 こんなに美味しいフライドチキンは初めてだと。

 せがまれて、和風唐揚げのレシピも置いてきた。 これでタンザニア人は日本のことをひとつだけ知ったかな。 ちょっとだけ自慢してみよう。

2017年1月28日土曜日

北海道からアフリカまで膝痛の脚を引きずる

(タンザニア・アル―シャのダウンタウンで)
北海道の夕張へ2泊3日でスキーに行って東京に戻ってきたのが12月19日。 その前に、スキーのために体の準備をしておこうと、膝痛があったのに1週間ほど頑張ってジョギングをしたのが失敗だった。 膝痛が悪化し、スキーをしてさらに痛くなった。 

 それから3日後の12月22日、以前から予定していた東アフリカのタンザニアへの旅行に出発した。 膝が痛いままだったので、登山用の折りたたみストックを突きながら、Ethihad 航空で25時間という気の遠くなるような長いエコノミークラスの旅だった。 なにしろ格安チケットなのだから仕方ない。 成田→アブダビ→ナイロビ →キリマンジャロというルートで、最終目的地はタンザニア北部、キリマンジャロ登山や野生動物サファリツアーの拠点として有名なアル―シャだ。

 近ごろ、飛行機に乗るには執拗なセキュリティ・チェックがあるから、登山用ストックを機内に持ち込めるか、ちょっと心配した。 ストックでも客室乗務員の頭を叩いてケガをさせるくらいはできる。 だが、ぜんぜん問題はなかった。 とにかくストックを持っていて良かった。 2度のトランジットで空港ターミナルの階段を昇り降りするとき、最後に到着したキリマンジャロ空港の急なタラップを降りるときも、とても助かった。

 とにかく、片足を引きずりながらアフリカに到着し、 夕方の空港から臨んだキリマンジャロの美しさに感動した。

 アル―シャは、日本や東南アジアの基準からすれば小さな田舎町だが、タンザニア独立の歴史が刻まれた由緒ある土地でもある。

 1964年に発足したタンガニーカとザンジバルによる2つの国家の連合が、同年「タンザニア連合共和国」になるのだが、この国家連合が宣言されたのはアル―シャだった。 その前に1961年、タンガニーカが宗主国イギリスからの独立を宣言したのもアル―シャだった。 そして1967年、初代大統領ジュリウス・ニエレレの社会主義化は「アル―シャ宣言」で始まった。

 人口約42万。 市の中心部には、ホテルやビジネスのビルが建っているが多くはない。 道路の交通量はそこそこにあるが、バンコクやジャカルタのようにクルマが身動きできなくなるような渋滞はない。 庶民の主たる交通機関は「ダラダラ」。 日本製の8人乗りワゴン車の座席を改造し、20人くらい詰め込む。 停留所はあるが、どこでも手を挙げれば止まってくれるし、降りたいところで降ろしてくれる。 1乗り400シリング、20-30円といったところ。 これは便利で、アル―シャ滞在中は毎日のように乗っていた。 

 道路を走っているクルマのほとんど、100%ではないが間違いなく95%以上は日本製で、かなりの数が日本から運ばれた中古車だ。 日本のどこかの介護老人ホームの名前と電話番号が車体に大く書かれたままのダラダラがとても目についた。

 ニエレレの社会主義化以来、中国との関係が深く、1人当たりGDPが1400ドル程度の貧しいタンザニアは、中国からかなりの経済支援を受けている。 キリマンジャロ空港とアル―シャを結ぶ主要道路はあちこちで大規模な改修工事が行われ、寸断されていた。 この工事も中国の支援によるもので、現場で大型重機を操縦しているのは中国人ばかりだった。 現状は、中国が日本車普及のために道路建設をしているようなものだ。

 アル―シャに道路交差点の交通信号は4か所しかない。 つまり、ないも同然。 歩行者はクルマの流れを見ながら、あいまを縫って道路を渡る。 これは日本を除けば、どこの国でも同じようなもので、とくに途上国では、クルマは歩行者がいようが止まってくれないので、渡るタイミングを習得しないと日常生活に支障をきたす。

 アル―シャに到着した翌日、早速、ダウンタウンの散歩にでかけた。 道路を歩いて渡るタイミングの計り方は、東南アジアや中東で習得し、お手のものだから困ることはない。 

 朝起きたら膝痛がかなり改善していたので、ストックは畳んでバッグにしまっていた。 だが、しばらくすると疲れのせいか、痛みが少しぶり返してきたので、ストックを出して使い始めた。 そのうちに、ふと気が付いた。 クルマがたくさん走っているのに、なんだか横断が簡単にできるようになったなあ、と。

 そう、ストックを突いて足を引きずっている歩行者を見て、たいていのクルマが徐行したり、停車してくれていたのだ。 途上国の弱肉強食の道路、「大きい」「高級」がクルマの中でも最強で、歩行者が最弱という交通ルールのもとで、おそらく初めての経験だった。

 歩行者を蹴散らすように走る高級車への反感がちょっと緩んできた。 金持ちだろうと優しい心は持っている、当たり前のことだが、新鮮な発見をした思い。

 そう言えば、アル―シャの街のデコボコの歩道を行く車いすのヨーロッパ人旅行者を見た。 不自由なからだでの旅行は苦労するに違いない。 だが、ハンディキャップがあっても健常者が想像する以上に、通りすがりの人々が助けてくれるのかもしれない。

 膝痛とストックでのほんのわずかな体験だけで、世の中をそこまで楽観的に見てはいけないのはわかっている。 だが、アル―シャの歩道より、もっと酷いカイロやバンコクでも、車いすの欧米人旅行者をみかけることはあった。 決して珍しくはない。

 からだの不自由さにおじけづかず行動する勇気、そういう彼らを見守る優しい人たち。 本当は、人間たちの心はとても美しい。 などと結論付けるほどロマンティストではない。 だが、埃っぽいアル―シャの通りを歩くのが、なんとなく気持ち良かった。