2013年4月15日月曜日

男の料理<さくらもち>

(切り餅を2枚にする)
(塩漬けのさくらの葉を広げる)
(2枚の餅を適当な柔らかさになるまで焼いて葉にのせる)
(餅の上にたっぷりと餡をのせる)

(2枚の餅を合わせ、手作り<さくらもち>の完成)

  さくらが散って花見客の姿が消え、人の気配がなくなった葉桜の夜。 いよいよ収穫が始まる。 さくらの葉っぱを千切る輩など見たことはない。 それでも、花をむしるような罪悪感はないにしても、多少は犯罪者の気分になる。 良心との葛藤の結果、50枚ほどいただいて闇夜に消えた。

 さくらの葉は軽く水洗いし、鍋の熱湯で香りが湧き立つまで、ほんの束の間煮て引き揚げる。 湯は緑色になり香りが広がる。 この湯に塩を加え、底の浅い容器に並べた葉がひたひたになるくらい注ぐ。熱がさめたら冷蔵庫に入れて2,3日。

 さくらもちの作り方は、画像の通り。 さくらの葉っぱのあんころ餅サンドといったところだが、味は、ちゃんとしたさくらもち。 餡と餅は100円ショップで買ってきた。

 この塩漬けさくら葉、チーズに巻いて酒のつまみにするとか、握り飯に巻いて食べるとか、工夫次第で多様な味を楽しめる。 まだ試していないが、天ぷらもいいかもしれない。  


2013年4月5日金曜日

やはりイスタンブールがいい



 2020年オリンピック開催都市の最有力は、どうやら東京ではなくイスタンブールのようだ。 五輪招致オフィシャルパートナー読売新聞の記者で、日本のスポーツ・ジャーナリストとしては一流の結城和香子が4月5日付け解説面で、それを濃厚に臭わせる記事を書いているからだ。 読売が、勝ち目のない東京五輪開催というギャンブルからの撤退準備を始めたようにも受け取れる。

 <五輪が社会発展の触媒となれば、それは五輪開催の意義を証明し、さらに多くの都市の立候補を呼ぶ。 国民には、日本で1964年東京五輪が記憶されるように、世代を超えた印象や憧れを残すことにもつながるからだ。 イスタンブールは今回、戦略的な巧みさで、このIOCの「時の長さ」の視点を利用した。 ... (IOC視察)期間中には「ともに橋を懸けよう」というスローガンを公表。 欧州とアジア大陸での同時開催というテーマ性、イスラムを含む多様な文化・信条をつなぐ懸け橋となる意義を強調した。 ... (渋滞や効率やタクシー運転手のお行儀など)現在の課題については改善の能力と自信を誇示し、大会の主題としては未来に向けた変化そのものを掲げて見せた。 ... 翻って、東京はどうだろう。 「今」の質の高さと開催能力をアピールするあまり、「未来」へのテーマ性や可能性を示しきれていない>

 こんなことは今わかったわけではない。 東京でオリンピックを開催すれば、スムーズな運営で過不足ない大会になるだろう。 開会式や閉会式は、ハイテクを駆使した魅力的なショーになるに違いない。 しかし、だからどうだというのだ。 東京で日本人がオリンピックをやれば、こんなものだろうと、世界中が納得するだけの話ではないか。 意外性、時代を反映する歴史的意味は考えようもない。

 東京の退屈さと比べれば、イスタンブールは魅力に溢れている。 このブログが強く主張してきた点だ。(2013年2月12日付け「2020オリンピックはイスタンブールでhttp://theyesterdayspaper.blogspot.jp/2013/02/2020.html)

 国家主義者や右翼が目論む東京オリンピック開催の阻止までは、気を緩めることはできない。 だが、明るい兆候は見えている。 さあ、みんな、もう一息だ。 がんばって東京オリンピック開催に背を向けよう。

2013年4月4日木曜日

福本豊という生き方



 きのうの夜、久しぶりに読売新聞の記者たちとヤキトリ屋で飲んだとき話題にのぼったのは、長嶋茂雄と松井秀喜への国民栄誉賞授賞ニュースだった。

 ウエブ上では、「戦後プロ野球の大発展に貢献した長嶋の受賞はわかるが、松井には重みが足りない」といったコメントが飛び交っている。 さらには、「それにしても、なぜ、この時機に?」という疑問、「間近にせまった参院選での票稼ぎ」といった批判も目に付く。 ところが、新聞は、巨人軍の親会社・読売だけでなく朝日も毎日も、批判をまともに取り上げず、2人の受賞を喜んでご祝儀紙面を作っている。 大新聞は、安部・自民党政権と一心同体になっているかのようにすらみえる。 少しは距離を置き、今回の国民栄誉賞の意味を冷静に分析すべきではないか。

 国民栄誉賞授賞には、つねに、時の政権の政治的目論見がちらつく胡散臭さが漂う。 だから、こんな賞は受け取らないのが一番だ。 そう考えると、すぐに思い浮かぶのが、この男。 プロ野球・元阪急ブレーブスの盗塁王・福本豊。 飄々とした生き様を振り返ってみよう(以下、Wikipediaより)。

 福本は、地元大阪の大鉄高等学校時代、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて、球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き、内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回、福本が守るライトの前に落ちたポテンヒットによりサヨナラ負けを喫した。

 卒業後は社会人野球の松下電器に進む。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し、優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスに7位指名を受けた。南海ホークスも早くから福本の俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

 プロ入りのきっかけは、松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。スカウトが来ている試合で、本塁打を打ったり、好返球をしたりするプレーが認められた。更にスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」と、またも勘違いされ、これも指名される要因になった。

 本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝、会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことって、お前、指名されとるがな」と返され、初めて知った。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から、肉料理をご馳走され、「プロなったら、こんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに、何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

 入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ、職場を退職した。だが、福本の妻は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らず、福本も妻に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため妻は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知った。

 プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだった。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

 1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年にMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)を破るシーズン106盗塁の世界記録で日本プロ野球史上唯一の3桁を達成した。チームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」と固辞した。ただし、地元大阪の感動大阪大賞は受け取っている。

 1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。

2013年3月28日木曜日

地下に潜った東横線渋谷駅



  2013年3月16日、東横線渋谷駅が地上から消え、地下5階へ引っ越した。 幼いときから渋谷に馴染んでいた団塊世代のオヤジが言った。 「今さら寂しいなんてことがあるわけがない。 オレの知っている渋谷なんて、とうの昔に消えてしまったよ」

 ダンス教室とボクシングジムは、どうして昔から駅の近くの電車の轟音が響くような線路際にあるんだろうね。 オレの記憶にあるのは、東横線の学芸大学駅そばにある笹崎ジムだよ。 「槍の笹崎」と呼ばれた名ボクサーが開いたジムで、のちのファイティング原田はここで育った。 東横線がまだ地上を走っていたころで、ちょうどジムの前あたりで線路の柵によじ登って電車が通るのを飽きることなく眺めていたものだ。

 小さいころの特別の楽しみは、なんと言っても、母親に連れられて渋谷に行って、東横百貨店最上階の食堂で食事をすることだったなあ。 何を食ったかは記憶にないが、たまの贅沢であったのは間違いない。 食事のあとは屋上に行って、下を通る長い貨物列車の台数を数えるのが楽しみだった。 冬の列車はどこか遠くから雪をたっぷりと屋根に積んできていた。 東京では雪はたまにしか降らない。 あんなに雪が降るのは、一体どこだろうかと想像をたくましくしたもんだよ。

 今の道玄坂横にある「109」のあたりは、戦後闇市の名残りが漂う、ちっぽけな店がひしめいていた。 中学に入るとき、母親は渋谷で学生服を買ってくれたが、東横百貨店ではなかった。 道玄坂の狭い路地を入ったあたりの店に行って、息子の前で懸命の値切り交渉をしていたのを憶えている。

 ヤクザの安藤組の名を耳にしたのは、いつのころだろうか。 インテリ・ヤクザで映画俳優にまでなった安藤昇が渋谷を根城に仕切っていた暴力団だ。 小学生のころは、友だちが、渋谷駅の構内で刃物を振り回して血まみれになって喧嘩する光景を見たという話をよく訊いた。 きっと、尾ひれを付けて面白がらせていたんだろうけど。

 そのころは、玉電沿線に住んでいたが、あれはひどい路面電車だった。いつも混んでいてノロノロ走る。 当時、「東急電鉄」の英語略称は「TKK」だった。 沿線のおとなたちは「とても」「込んで」「困る」の頭文字だと揶揄していたし、そのころのワンマン経営者・五島慶太は「ごとう」ではなく「強盗」と呼ばれていた。

 百軒店通りの淫靡な雰囲気も忘れがたい記憶だなあ。 子どもには入りづらかった。 テアトルSSなんていうストリップ劇場みたいのがあったし、あの通りの奥の方には怪しげなホテルもあって、子どもには何が悪いのかわからなかったけれど、とにかく行ってはいけないところという不文律みたいなものがあったと思う。

 インフルエンザというのは、昔、「流感」と言っていたのと同じかなあ。 中学時代は流感で臨時休校になると、渋谷へ映画を見に行った。 補導教師風のおとなに注意して、スリルを楽しみながら映画館にたどり着いたときの達成感はたまらなかった。

 大学のころは、新宿とか日比谷あたりの反日米安保、反ベトナム戦争のデモに行って、機動隊に追われたあと、渋谷まで逃げて、山手線沿いののんべえ横丁とか井の頭線下の安酒場で酒盛りをしたもんだ。 今になってみると、あの不味い合成酒の味と臭いが懐かしいねえ。

 無論、渋谷で恋も失恋もした。 渋谷周辺で生まれ育った団塊世代は、課外授業の多くを渋谷で受けて成長してきたんだと思う。 あの街で世の中の仕組みみたいなものを自然に学んできたんだろうね。 だが、今の渋谷は、あのころの渋谷とは別ものだ。 いつの間にか、われわれが親しんだ渋谷は消えてしまった。

 いったい、いつごろからだろう。 気が付いたら子ども向けの幼稚な人工的テーマパークみたいになっていた。  だから、オレたちは、とっくの昔に渋谷にサヨナラを言っていた。 東横線の駅が地下に潜って変わったという渋谷は、オレたちの言う渋谷でもなんでもない。 知らない国の知らない街の出来事なんだよ。

2013年3月19日火曜日

あれから2年

(2012年5月12日・福島県南相馬市鹿島区北海老で)


<2011年3月下旬 ニューヨーク・タイムズ東京支局長マーティン・ファクラー>

  南相馬市役所へは、事前のアポイントを取らずに向かった。 役所に着くなり、職員から「ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞ中へ」と大歓迎され、 桜井市長自らが「よく来てくれました」と迎え入れてくれた。 なぜ、こんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。 南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。

 南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。

 「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!」

 市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。 だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げていまったという。 もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。

 メディアを使って情報を発信する手段を失った桜井市長は、ユーチューブという新しいメディアを利用することにした。 記者やカメラマンの手を借りることなく、自らがニュースの発信者としてチャンネルを開いたのだ。

 ユーチューブの映像は世界を駆けめぐり、ニューヨーク・タイムズの記者である私が突然アポイントなしで取材に訪れた。 新メディアであるユーチューブの映像を追いかける形で、紙の新聞であるニューヨーク・タイムズが桜井市長の声を報じた。 

 その後、日本の新聞やテレビ局はユーチューブを引用する形で桜井市長の声を報道しだした。 記者クラブ詰めの記者がわれ先に逃げ出してしまったことには蓋をして、南相馬市のニュースを伝える報道機関の姿は、私には悪い冗談にしか思えなかった。

(「本当のこと」を伝えない日本の新聞<双葉社>より)

2013年3月2日土曜日

自由が丘のタイ料理屋で

(台北の屋台で)
  何年か前、日本外務省が、正統の日本料理を世界に普及させるために、調理基準を作って各国で指導しようという計画を作った。 日本料理が国際的になるにつれ、日本人の伝統的感覚からすれば奇妙きてれつな料理も登場してきたからだ。 当時、日本メディアはさしたる関心を示さず、事実だけを淡々と報じた。 だが、ヨーロッパや米国の東京特派員たちは、たっぷりと皮肉のスパイスで味付けした記事を書いた。

 彼らが外務省計画にカチンときたのは、「他人が食っているものに口出しするな、余計なお世話だ」というところにつきる。

 アメリカ人記者は、自分たちの味覚音痴は棚に上げて、外務省の上から目線の”規制”を”food police”と揶揄し、 サンドウィッチが誕生したイギリスの記者は、「外務省が決めた味付け以外は日本料理じゃないと言うなら、われわれはサンドウィッチにポテトサラダを挟むのを許さない」とコラムでからかった。 どうやら、日本では当たり前のポテトサラダ入りサンドウィッチがイギリス人には非常に奇異にみえるらしい。 こういった反発があったせいか、外務省計画はいつのまにか立ち消えになった。

 世界中に広まっている中国料理は、国によって味に大きな違いがある。 それぞれの国の伝統の味や食材と混じりあい、独自の中国料理へと「進化」していくためだ。 だから、美食の街パリであろうと、日本人が「chinese restaurant」の看板を見て入った店で、「これが中華かよ!」と顔をしかめてしまうことがあるのも当然なのだ。

 1991年2月、中東ヨルダンの首都アンマンのインターコンティネンタル・ホテル近くにある小さな中国レストランで奇妙なことが起きた。 日本人からすれば食えた代物ではなかった料理の味が、日々どんどん変化し、日本のラーメン屋で出てくる一品料理、野菜炒めとか麻婆豆腐などに非常に近い味になった。 

 「進化の突然変異」を実現したのは、煎じ詰めれば、ヨルダンの隣国イラクのあの独裁者サダム・フセインだった。 サダムのクウェート侵攻で米国を中心とする多国籍軍とイラクとの戦争が始まった。 外国人記者たちの報道拠点となったインターコンには多数の日本人記者も集結した。 日本人たちはホテル近くの中国料理屋で昼飯を食べるようになったが、味が物足りない。 そこで、誰もが料理人に一言注文をつけるようになった。 一人が一回一言でも、数十人いたから注文の蓄積は膨大だ。 中には調理場まで、ずかずかと入り込んで指導する猛者まで現れた。 「突然変異」は、こうして起きた。

 ただ、これも心優しいヨルダン人ゆえに可能になったのだと思う。 同じ中東でもパレスチナ人の土地を強引に奪い取ってイスラエル国家を作ってしまったユダヤ人では、こうはいかない。

 日本料理の世界的ブームはイスラエルにも到達し、エルサレムやテルアビブにも日本レストランが開店した。 だが、案の定、ひどい味だった。 友達の日本人は「ホンモノの日本料理とはちょっと違うなあ」とイスラエル人店主にコメントした。 これに対する反応は、周囲に敵を作ってでも生きていこうとするイスラエル人そのものだった。

 「われわれは、あんたたち日本人を相手に商売しているわけではない。 イスラエル人の客が喜ぶ味を出している。 日本人に合わなくてもイスラエル人が旨いと言えばいいんだ」

 正論ではあろう。 日本の街の食堂でカレーライスを注文したインド人が「これはインド料理ではない」と文句をつけても、日本人が味を変えないのと同じ理屈だ。 

 きのうの夜(2013年2月28日)、 東京・自由が丘で人気のタイ料理レストランへ数年ぶりに行った。 かつてタイに住んでいた経験からして、この店の味は限りなく本場の味に近いと思った。 ここで食事をしていると、バンコクにいるような気分になれた。 だが、いつも混んでいるのでテーブルをなかなか取ることができない。 それで何年も行きそこなってしまった。 昨晩は、わざわざ予約をして行ったのだ。

 この店は、若い女の客が90%以上を占め、みんな幸せそうに食事を楽しんでいる。 まずは、大好きなタイ風さつま揚げ「トートマン」を前菜替わりに注文した。 トートマンは、魚かエビのすり身に辛い味付けをし油で揚げたものだ。 この店ではエビを使っていた。 タイでは庶民的な食べ物で道端の屋台でも売っている。 

 われわれはワインを飲みながらトートマンが出てくるのを待っていた。 だが、ウエイトレスが持ってきた皿を見て驚かされた。 タイで誰もが知っているトートマンとは似ても似つかない食べ物が出てきたからだ。 それは、パン粉をつけて揚げたメンチカツみたいなものだった。 トートマンは素揚げが普通だ。 恐る恐る味見してみると、不味くはないが、辛みも独特の匂いもなく、本来のトートマンとは異なる別の食べ物だった。 日本に初めて来たインド人が日本のカレーライスをインド料理だと言われて食べた印象が、きっとこんなものだったに違いない。

 この店の以前の味を知っているだけに、あまりに見事な味の日本化に唖然とさせられた。 がっかりして、すぐに出ることにした。 ただ、若いウエイトレスは、とても率直だった。 シェフは前と同じようにタイ人だが、料理の味は客の好みに合わせて変えたそうだ。 「前の味の方が良かったですか? 上の人に言っておきますよ」。

 それにしても、タイ人料理人の環境への器用な適応ぶりは、なんとも凄い。 タイ料理ではないタイ料理を言われるままに、それなりの味にして作ってしまうのだから。

 いったい、旨い料理とは何だろう。 アメリカ人が発明したカリフォルニア巻きなどという寿司を日本人は小ばかにしていたが、いつのまにか日本の寿司屋の定番メニューになってしまった。 そのうち、バンコクでも、日本生まれのメンチカツみたいなトートマンをタイ人が喜んで食べるようになるかもしれない。

 きっと、どんなに不味い料理でも、にこにこして食べるのが、これからの真の国際人の正しいマナーなのだ。 そうやって、じっと我慢していると、味がまた変わってくる。 

 その例がアメリカにある。 メキシコ料理のタコスはアメリカに広まって典型的ジャンクフードになった。 しかも、ひどい不味さ。 メキシコ文化に対する侮辱以外のなにものでもない。 味覚音痴のアメリカ人は、料理の量は認識できても味はわからない。 ところが、近ごろ、アメリカのタコスが大きな変化を遂げ、食える代物になっている。 それどころか、本場にも負けない味の店も増えている。 その理由は、メキシコからの移民が急増したことだ。 彼らの味覚に対応するために、タコスは「メキシコ回帰」したのだ。

 が、それにしても、とりあえず、旨いトートマンを食える店を探さなければ。

2013年2月21日木曜日

警官がマージャンやって何が悪い!!



 最近、愛知県の交番で、警察官が勤務中に賭けマージャンをしていたというニュースが新聞やテレビで報じられた。 以下は、その内容(サンスポより)。

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 愛知県警関係者によると、同県警の巡査部長ら複数人が1月に豊田市美里にある豊田署御立(みたち)交番の一室で、現金を賭けてマージャン賭博をした疑いが持たれている。巡査部長らは「現金は賭けていない」と否認しているという。

 巡査部長らは全員が交代制の交番勤務員で、3日に1度、8時間の休憩を含めて24時間の勤務に就いていた。御立交番には通常2、3人しか常勤者はいないが、マージャンをする際には近隣の交番から、別の署員らが合流していたとみられている。いずれも勤務中で、制服を着たままだったという。1日当たりの賭け金は、数千円だったようだ。

 県警では、署員らが常習的に賭けマージャンを繰り返していた可能性もあるとみて、関わった人数や賭けた金額などについて調べるとともに、関係した署員らの処分を検討している。

 別の署に勤務する警察官が交番に立ち寄った際、署員らがマージャンをしているのを見つけて発覚した。

 御立交番は豊田署管内に18ある交番の中では中規模で、豊田市中心部にあるものの、豊田市駅前交番などに比べると取り扱う事件などの件数が少ないという。
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 ニュース・メディアの報道ぶりは、「警察官が賭けマージャンをやるとはけしからん、しかも勤務時間中に」というところに集約される。 愛知県警は、関係した警察官の処分を検討しているという。

 なんとも違和感のあるニュースだ。 警察官のどこがいけないのか、さっぱりわからないからだ。

 第1に、このニュースを報じた記者たちは、勤務中に賭けマージャンなどやらない清廉潔白な社会の木鐸でもなんでもない。 

 さすがに近ごろは見られない光景になったが、事件記者と呼ばれる連中は、警察署の記者クラブで、事件、事故の発生に備えて待機している間、朝から晩までジャラジャラと大きな音をたてて賭けマージャンをやっていたものだ。

 古き良き時代だった。 警察署を訪れる一般市民もロビーで、その音を耳にしていたが、なにも問題は起きなかった。 記者とはヤクザな連中で、いつも斜に構えて権力の悪を暴こうと窺っているのが本来の姿だった。 若い交番オマワリの賭けマージャンなど歯牙にもかけなかった。 事件記者がこんなニュースを報じるようになったのは、時代がどんどん退屈になっていることを象徴しているのだろう。

 だが、第2に、なぜ警察官が勤務中に賭けマージャンをやっては、いけないのか。 日本社会の常識では、普通のおとながカネを賭けないマージャンをやる姿など想像できない。 警察官が記者たちと同じように、ひまつぶしにマージャンをやっていけないわけがない。 そして、彼らもおとなだ。マージャンをやれば、給料が安くても多少のカネは賭ける。

 しかも、彼らは健気ではないか。 マージャンをやっているときも制服を着ていたのだから。 110番通報があれば、直ちに飛び出せる態勢を整えていたのだ。 報道の中には、「制服を着ていたのがけしからん」というのがあったが、交番の中で勤務中に私服に着替えていたら、もっとおかしいし、いざというとき直ちに出動することなどできるわけがない。

 市民生活を命懸けで守る警察官が多少の息抜きをするくらい許そうではないか。 そんな寛容さが失われていく社会の方が、はるかに恐くはないか。