2014年10月29日水曜日

ハロウィンって知っているかい?

(楽天市場で買えます)
西欧ゆかりの行事で日本人が最も馴染んでいるのは、毎年12月25日のクリスマスだろう。 年寄りでもたいていは知っている。 2月14日のバレンタインとなると、年寄りも知っているだろうが、ある年齢以下に限られるかもしれない。 それでは、10月31日のハロウィンはどうだろう。 

 言葉として知っていたにしても、この行事が何なのか、何をするのか、わかっている日本人はかなり限られているに違いない。 子どもたちが家々を回って、お菓子をもらうとか、カボチャをくり抜いたランタンを飾るとか、仮装パーティを開くとか、なにやら楽しい行事らしい。 せいぜい、こんな程度の知識だろう。

 だが、どうやら、クリスマス、バレンタインに続き、ハロウィンの商業化は急速に進んでいるらしい。 団塊の世代は、幼いころ、うちには煙突がないのにサンタはどこから入るのだろうと悩み、女の子にチョコレートをもらって胸ときめく経験のないまま、そういう世代を通り越してしまった。 彼らは今、孫たちの奇妙でわけのわからないハロウィン仮装衣装にとまどっている。

 団塊老人たちよ、そのくらいでオタオタしてはいけない。 若者たちは、より大胆に、どぎつく、わけもなくハロウィンを騒ぎ、楽しんでいるのだ。

 おじいちゃん、おばあちゃん。万が一、仮装パーティに招待されることがあったら、まずは、「楽天市場」で格安のコスチュームを検索してみるのはいかが。 顔を隠せば何でもできると居直れば、仮装パーティ参加には、かなりの回春効果があるに違いない。

 ハロウィンというのは、そういうバカ騒ぎと思えばいいらしい。 以下が、まじめな「バカ騒ぎ」の説明だ。 もっとも、クリスマスも日本では、ただのバカ騒ぎだが。

 <<ハロウィンとは、古代ケルト人が起源と考えられている祭り。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事だったが、現代では特にアメリカで民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていたが、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。これに因み、31日の夜、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン(Jack-o'-lantern)」を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. ご馳走をくれないと悪戯するよ)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい。カトリック教会では、10月31日のハロウィンは典礼暦(教会暦)にも入っておらず、教会の宗教行事・公式行事として行われることはない。カトリック教会を含めキリスト教の多くの教派・教会では、信徒が民間行事として楽しむことを容認しているが、キリスト教本来の習慣ではないのでプロテスタントでは多様な見解があり、いくつかの福音派は否定的である。(Wikipedia)>>

2014年9月27日土曜日

秘かに進む平成天皇墳墓造成


 小仏峠から高尾山あたりを歩いてみようと、高尾駅で降りたが前日からの膝痛で脚の調子が悪い。 山登りの原則は「無理をしない」。 高尾山も山だから登るのは諦めて、駅の近所を散歩することにした。

 駅北口から国道20号線を渡って歩いているうちに、広大な天皇墓地に出た。 大正天皇、その妻、昭和天皇、その妻という四つの巨大な墳墓がある。 古代の古墳と見紛う規模だ。

 その日(2014年9月26日)は、玉砂利の表参道は工事のため通行止めになっていた。 説明の掲示がないから、なんの工事かはわからない。 鬱蒼とした森林公園風の敷地を散歩するために来ただけだから、まあ、どうでもいいことだ。 舗装した北参道というのを歩いていくと、道は突き当り、右に折れると、聳え立つ大鳥居の先に昭和天皇とその妻の墳墓が見えた。

 そこを引き返す途中、この墓地の管理担当者とすれ違った。 訪問者が少なかったので、その男と雑談をした。 人がいなくて静かだねえとか、この仕事何年やってるの? とか。

 このとき、何気なく「平成天皇の墓はどこに造るの?」と訊いたら、「もう工事が始まっている」という。 これはちょっとした驚きだった。天皇の墳墓が生きているうちに造られるとは知らなかったからだ。 場所は大正天皇の墓の隣りだというので行ってみた。

 入口から歩いてきた北参道を左手に見ながらまっすぐ行くと、右側に大正天皇夫妻の墓があり、その先にネットが張り巡らされ、向こう側では、かなりの敷地が削られ、ブルドーザーが活発に動いていた。 通行止めになった表参道の行き着く場所は、ここだった。

 ただ、現場に来ても工事の説明はなかった。 「工事中 関係者以外 立ち入り禁止 (株)大林組」。 実にそっけない掲示があるだけだった。 なぜ、「平成天皇夫妻墳墓造成現場」と明記しないのか。 日本中、どこの建設現場でも、何を造っているか明記することは法律で定められているはずだ。

 まさか、隠しているわけではあるまい。 高尾に住む知人によれば、造成工事について地元の人は誰でも知っているという。 しかし、「確かに、ニュースで見た記憶はないなあ」。

 ウエブ検索すると、平成天皇夫妻の葬儀に関しては2013年11月14日付けのニュース記事があった。 天皇制を強く支持する右翼紙・産経新聞を引用する。

・・・・・・・・・・・・・・・ 
 宮内庁は14日、天皇、皇后両陛下のご意向で検討していた陵のあり方と葬送方法の変更を、概要にまとめて公表した。江戸時代前期から行われてきた天皇と皇后の土葬を改め、火葬とすることなどが盛り込まれた。天皇陵と皇后陵を同一にする合葬(がっそう)は見送られた。同じ敷地にそれぞれの墳丘を造り、敷地規模をこれまでより小さくすることで、両陛下が望まれる簡素化を図る。検討内容はすでに内閣に報告されており、約350年ぶりに土葬の伝統が変わることになった。

 宮内庁は「本検討は将来にわたって基準となり得る」としており、皇太子さま以降もこれに沿うこととなる。変更の背景には、東日本大震災などで経済的に疲弊する国内情勢を踏まえられた両陛下の「極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましい」とのご意向がある。

 宮内庁の検討結果では、火葬は昭和天皇、香淳皇后、大正天皇、貞明皇后の4陵がある武蔵陵墓地(東京都八王子市)に、その都度設置する専用の施設で行われる。

 天皇、皇后両陛下の陵は大正天皇陵の西側を予定している。 天皇陵と皇后陵は4陵と同様に、それぞれ別々の墳丘とするが、これまでとは異なり、同じ敷地内で一体的になるよう建造される。墳丘の形状は4陵と同様に上円下方(じょうえんかほう)(上段が円形で下段が四角形)で、敷地は昭和天皇陵と香淳皇后の陵が合わせて4300平方メートルだったのに対し、8割程度の約3500平方メートルとする。

 合葬を見送った理由を、宮内庁は「皇后さまが畏れ多く感じられている」などとしている。今回の変更は「陵を簡素にし、火葬にすることが望ましい」とする両陛下のご意向で宮内庁が昨年4月26日に検討を表明、1年半をかけて作業を進めてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 平成天皇夫妻の意向で簡素化するというが、昭和天皇夫妻の敷地4300平方メートルに対し、8割程度の3500平方メートルというのが、果たして簡素化かどうか。 3500平方メートルという広さは、依然として大時代的巨大墳墓のサイズではないか。 宮内庁が定義する「簡素」とは、一般社会とはまったく異なる尺度で測られるに違いない。

 もしかしたら、宮内庁は、こういった下世話なひがみ根性を刺激したくなくて平成天皇墳墓造成を世間に晒したくないのかもしれない。あるいは、なにか隠された深い政治的意味があるのか。 どうしても勘ぐりたくなる。

2014年9月20日土曜日

ハワイの楽しいお葬式

(ガーデン・パーティみたいなお葬式)

(故人の思い出写真がずらりと並ぶ)

 ハワイ最大の島、Big Islandハワイ島。 クルマにシーカヤックを積み、フロリダ生まれのハワイ娘の案内で、われわれは、島の西側、キャプテン・クックが死んだ場所として知られるケアラケクア湾に向かった。 イルカとシュノーケリングを楽しむためだ。

 群れて戯れるイルカたちに会えて、とても収穫の多いツアーだった。 だが、想定外の収穫もあった。 ハワイのお葬式に遭遇したことだ。

 昼ごろ、カヤックを海に降ろすために着いた小さな集落は、狭いいなか道が場違いな混みかたをしていた。 路上駐車でぎっしり埋まっていたのが原因だ。 地元の人に訊くと葬式をやっているという。 そのときは、「あっそう」と思っただけだったが、午後4時ごろ戻ってきたときも、葬式はまだ続いていた。
 
 日本で、こんなに長い葬式は知らない。 たまたま、通りかかったポリネシア系の、日本人の基準からすれば、かなり太っているが、ハワイでは普通の女性に訊ねてみたら、「私の叔母の葬式をやっている。 誰にでもオープンだから行ってごらん、歓迎しますよ」と、とても快活な返事。

 なんだか戸惑うばかり。 叔母といえば、ごく近い親類なのに、この女性は派手な花柄のムームーを着て、式場にも行かず、道路をうろうろして、見知らぬ外国人と雑談をする。 それに誰でも歓迎する葬式って、いったい何だ。

 とにかく、「すぐそこ」という式場へ向かって歩いた。 すると、人通りがだんだん多くなる。 それに、エレキギターの派手な演奏の音も聞こえてくる。 

 やがて、広い公園のような場所に出た。 そこでは、たくさんの人が食事をしたり、ビールを飲みながら談笑していた。 それは、大規模なオープンエアー・パーティだった。 だが、これがハワイの葬式だったのだ。 すぐそばで、子どもたちはボール遊びに興じている。
 
 われわれの葬式でお馴染みの黒い喪服、うつむき黙った人々、哀惜の涙、そういった全てが醸し出す悲しみの雰囲気が、微塵もない。 その代り、ほのぼのとした暖かい空気が流れていた。 そこは、故人との楽しかった思い出を語り合う場なのだ。

 日本人には、逆転的発想の葬式。 自分の葬式もこんなのがいいな、と思った。 もう少し、ハワイ式葬儀について知りたくなってウェブで検索したら、以下のような説明が出てきた。 日本人向け葬儀社の広告かもしれないが、この通りなら悪くない。 ただし、これを日本でやってみたい。

 (なお、あとで理解したことだが、最初にお葬式を教えてくれた女性は「私の叔母の・・」と言ったが、どうやらハワイの伝統的コミュニティでは、近所の母親世代の女性はみんな叔母、男性は叔父、同世代は兄弟姉妹になるらしい。 つまり、コミュニティ=家族なのだ。)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 『ハワイでは、アメリカの中でも特別なお葬式が執り行われています。 ハワイでは、お葬式は、生きてきたことを記念する意味を持つセレモニーです。 悲しみを表すだけのものではなくて、故人の新たな旅立ちをお祝いしたり、 故人を想い、共に泣いたり笑ったりする儀式です。

 お葬式では、唄やフラダンス、スライド、ビデオショーなどが行われます。  式は、どんちゃん騒ぎではなく、静かに進行されますが、 色々な趣向を凝らして死者を讃え、生涯を記念する行事になります。

 参列する人々は、日本のように黒いフォーマルを着る人はほとんどいません。  葬式で黒い服を着るという習慣はありません。強いて言えば、男性はアロハシャツ、女性はムームー(ハワイでの女性の伝統的な正装、ワンピース)が多いようです。 色は、黄色でも赤色でも何でもOKで、カラフルな服装を着て参列します。

 ハワイでは、陸から3マイル以上離れた場所、かつ特別な禁止域以外では散骨(海洋自然葬)が州法で認められています。 数多くのカヌーで海にこぎだして散骨したり、船上から散骨したり、セスナにて上空より散骨することができます。

自然から生まれて自然に還るという散骨は、ハワイの先住民族も遺骨を海や土に還すという風習もあったことから、ハワイではごく自然に行われてきた葬法でした。 遺灰を撒いて、良い香りのする色とりどりのレイを海へ捧げ、また会いましょう!という意味の「A HUI HOU(ア フイ ホウ)」と明るく陽気に言い、故人はたくさんの人に見送られます。』

2014年9月4日木曜日

老人よ


 日課にしている多摩川河川敷のwalk & jog を暑い夏のあいだは、涼しい早朝にやっていた。 5時半か6時ごろ。 ジョギングや自転車の若者たちも少なくはない。 だが、やはり、そこは早起きの老人たちの世界だ。

 6時半になるとラジオ体操が始まる。 誰かが持ってきた大きなラジカセのスイッチを入れ、あの聞き慣れたリズムとメロディが流れると、三々五々集まってきた老人たちが、固くなったからだをよたよたと動かす。

 肩を中心に腕を大きく回す運動をやっているつもりでも、動いているのは肘から先の腕だけ。 あや取りをやっているようにしか見えない。 腰と背中を伸ばして後ろに反るべきところでは、ほとんど直立状態で顔だけが空を見上げている。

 率直に言って無様な動きだが、毎朝眺めているうちに、当たり前のことに気がついた。 自分のそう遠くない将来の姿だと。 それ以来、老人たちのラジオ体操を意識して観察するようになった。

 年齢を重ねると固くなるからだの部分がよくわかるのだ。 今のうちから、そういう部分を意識してストレッチしておこう、という気になった。 老人たちの悪い手本はとても役に立ちそう。 ありがとう。

 夏の初めごろ、樹木の下のベンチに、いつも老夫婦が座って、仲睦まじげに会話していた。 大柄な夫と痩せて小さな妻。 だが、夏の盛りのころから、ベンチにいるのは夫だけになった。 一人になったが、毎朝座っている。 いったい、どうしたのだろう。

 そういえば、何年か前、腰が90度近く曲がった老人が、毎日かなりの速度で懸命に歩いていた。 そのうち、曲がった腰がだんだん伸びてきた。 きっと歩いた効果が出たのだろう。 すれ違うときに目が合うと軽く会釈をしてくれた。 あの人の姿も見なくなった。 腰はもっと伸びたのだろうか。

 土手の上で自転車のサドルに跨ったまま、いつまでもじっと高校生の野球練習を見ていた老人も消えた。

 老人というのは消えるものなのだ、きっと。

 知らない人なのに、ドラマを感じさせる年寄りたち。 その背後に、若者たちにはない生と死のなまなましい近さがあるのは確かだ。 でも、それは言わなくていい。

 9月には「老人の日」の休日があるなあと思ってカレンダーを見たら、「敬老の日」となっていた。 ずっと「老人の日」だと思い込んでいた。 「老い」の証拠だろう。 

2014年9月1日月曜日

次は関東大震災の朝鮮人虐殺


 「従軍慰安婦」に続き、日本の右翼たちは、1923年の関東大震災直後に発生したとされる「朝鮮人虐殺」をやり玉に挙げている。

 混乱の中で、在日朝鮮人たちが井戸に毒を投げ入れたなどの流言が飛び交い、自警団が朝鮮人とみると襲い、多数を殺害したとされる騒動のことだ。

 その実態は、いまだによくわかっていないようだ。 犠牲者数は、当時の政府調査で233人、大正時代を代表する政治学者・思想家の吉野作蔵による調査で2613人、大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6661人としている。

 
 最近では、フリージャーナリスト加藤直樹著「9月、東京の路上で 1923年関東大震災/ジェノサイドの残響」が出版され、なかなかの売れ行きらしい。

 だが、Amazonに掲載されている、この本のカスタマーレビューを見ると、怒り狂ったネット右翼たちがボロクソにけなしている。 「悪かったのは朝鮮人だ」「自虐史観だ」と。

 8月31日付け新聞に掲載された右翼出版社「WAC ワック出版局」の広告では、「関東大震災 朝鮮人虐殺はなかった!」(加藤康男著)という本の宣伝が掲載されていた。

 「いずれの方角から調査しても、関東大震災時に日本人が『朝鮮人虐殺』をしたという痕跡はない。あったのは、朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛による死者のみである」とする著者の言葉を紹介、「悲劇の真相を糾明した衝撃のノンフィクション」とうたっている。

 何が真実かは知らない。 だが、ここでも問題の核心をすり替えようとしている気配がある。 日本の朝鮮併合を正義だったと歴史を書き換えようとする怪しげな意図だ。

2014年8月30日土曜日

はしゃぐ右翼メディア


 日本の右翼メディアがはしゃぎまくっている。 朝日新聞が、朝鮮人女性を慰安婦にするため日本軍が強制連行したとする特報記事の重要証言を誤報と認めたためだ。 右翼が目の敵にしている”左翼”、朝日新聞(それほど左翼とは思えないが‥)が、右翼的国家プライドを傷つけていた”誹謗中傷”をついに取り下げたと勝利を祝っているかのようだ。

 朝日新聞の報道ぶりに問題があったのは確かだ。 朝日はよくできた質の高い新聞ではあるが、なんとなく上から目線で読者を説教するような態度がちらついて、どうも好きになれない。 そういう個人的好悪の感情があっても、近ごろの右翼メディアによる朝日バッシングの物凄さには、嫌悪感を覚える。

 右翼は単に朝日批判をしているのではない。 「従軍慰安婦の強制連行はなかった」という主張の次はなんだろうか。 「日本軍は悪いことをしていない」→「日本軍は正しい」→「朝鮮、中国、東南アジアの侵略は正しい」→「太平洋戦争は正義の戦争だった」→「平和憲法は間違っている」。 従軍慰安婦否定のあとに続く主張は、こんなところであろう。 あるいは、彼らは、この→とは逆に、「平和憲法は間違っている」を出発点に演繹的に「慰安婦否定」へと論理展開していたかもしれない。

 一新聞が誤報を認めたことを右翼の勝利と混同してはいけない。 あの悪魔的戦争へと突き進んでいった歴史を決して美化してはいけないのだ。  

2014年8月17日日曜日

23年ぶりホーチミン感傷旅行



(夕方のサイゴン川)
1986年、ソ連でゴルバチョフが始めたペレストロイカ開放政策に倣って、同じソ連陣営に属していたベトナムもそれを真似て、ドイモイ政策を開始した。 ペレストロイカで政治、経済両面の自由化が動きだし、東欧諸国はソ連支配の重圧から解き放され、社会主義体制が次々と崩壊していった。 だが、同じことは、ベトナムでは起こらなかった。

 東欧諸国の変動をじっとみつめていたベトナム共産党は、開放政策は導入したものの経済面に限定し、政治の自由化へは踏み込まなかった。 共産党支配維持への脅威になると判断したからだ。 1990年のことだ。

 当時のベトナムは世界の最貧国の範疇に入れられてもおかしくない、みすぼらしい経済状態だった。 下級公務員の月給は15ドル程度で、路上での物売りなどを副収入源にしないと生活が成り立たなかった。

 ドイモイ政策による経済開放、つまり資本主義的経営の導入が打ち出されても、多くの人はまだ何をしたらいいのかわからなかった。 

 当時、かつての南ベトナムの首都サイゴン、ホーチミン市は暗い街だった。 灯りが少ないだけではない、人々の心も、うらびれたホテルや商店、市場の雰囲気も暗かった。 ベトナム戦争最後のクライマックス、1975年のサイゴン陥落で、米軍や外国人、共産主義を嫌う多くのベトナム人がこの国から脱出した。 人が去ったあとの物寂しさが、十数年たっても街に漂い、朽ち果てた空き家のような都市だった。 

 外国人の姿を見ることは、ほとんどなかった。 サイゴン時代、外交官や外国人ジャーナリストの巣だった、サイゴン川に面したマジェスティック・ホテルはクーロン・ホテルと名前を変えていた。 かつて外国人で賑わっていたホテルのバーはがらんとしていた。 カウンターで隣り合わせたドイツ人外交官と、ウイスキーを飲みながら、この国はどうなるのだろうかと、ぼそぼそと会話したのを覚えている。

 この翌年、1991年にホーチミン市を訪れたとき、雰囲気がちょっと変化していた。 おそらくドイモイ政策が、ほんの少しだが機能し始めたのだろう。 小さいながらも小奇麗なバーやレストランが開店していて、日本料理屋もできていた。 それでも、古びてくすんだ街のごく一部の変化でしかなかった。

 あれから23年たった2014年8月1日。 すっかり変わってしまったホーチミン市を訪れた。 

 かつて入国ビザ取得に手間取ったのがウソのようだった。 今ではビザなしで入国できる。 薄汚れた空港建物はなくなり、近代的なターミナル・ビルになっていた。 以前は、税関の入国審査があって、到着時にもスーツケースを開けなければならなかった。 ベトナム人たちはスーツケースを開いたところに、良く見えるように5ドル紙幣を置いていた。 税関職員が黙って、それを取ってポケットに入れる。 お目こぼし料だ。 貧しい者同士の憐れな贈収賄だった。

 23年前に自転車があふれていた道路は今、バイクの大洪水になっていた。 この眺めはなかなか壮観だ。 しかも、かつて見たことがなかったヘルメットを必ず被っている。 タン・ソン・ニャット空港からホーチミン中心部までの道路は同じだったが、かつては渋滞などなかったのに、バイクとクルマが溢れかえっていた。 周辺の景色もまったく違っていた。 高いビルは皆無だったのに、新しい現代的なビルが並んでいた。

 だが、あの優雅なアオザイを着た女たちの姿を見ることはほとんどなかった。たまに見かけるのは、外国人向け高級レストランのウェイトレス、あるいはレンタルのアオザイを着た観光客の女たち。 通りを歩く若い女のファッションに東京との違いはない。 だが、彼女たちには笑顔があった。まちがいなく、23年前にはなかった明るさだ。

 中心部のドンコイ通りは、ホーチミンで最も洒落た通りになっていた。 23年前にも、そうなる兆候はあった。 だが、まだ素朴な食堂もあった。 「ハノイ」という名のフォー(ベトナムうどん)の店を覚えている。 フォーと言えばベトナム北部ハノイが有名だ。 日本だったら「讃岐」という名のうどん屋といったところだろう。 だが、そんな店は消えて、外国人や金持ちしか入らないようなレストラン、バー、ビアホール、土産物店が並び、夜も明るい歩道は別世界になっていた。

 定宿にしていたレックス・ホテルは以前のままだった。 だが、それはコロニアル風の外観だけで、ドアを開けて踏み込むと広々とした高級ホテルに様変わりしていた。 ホテルの近くにあった中古カメラ街も消えていた。 ベトナム戦争中にジャーナリストたちが戦場で使っていたと思われるライカやニコンが、とんでもない安値で並んでいたものだ。 今では小奇麗なカメラ屋になって、店頭に並んでいるのは最新のデジカメばかり。 それでもショウウィンドウの端に置いてある数台の古いフィルム・カメラを目にした。

 この街はすっかり変わってしまった。

 昔の友人に会えるかもしれないと訪ねた狭い通りは消滅し、広い通りとビルになっていた。 クーロン・ホテルは昔のマジェスティックに名前を戻していたが、ホテルのバーは店内の配置を変え、昔の雰囲気はなかった。 バーテンダーに、いつ変えたのかと訊いたら、4,5年前から働いているが、ずっと同じだという。 「でも、23年前は違っていた」と言うと、「そんな昔のことを知っている者はいない」と答えた。 まあ、それはそうだろう。

 スポーツジムのような建物の中から、激しいリズムの音楽と大きな歓声が聞こえたので入ってみると、若者たちがヒップホップ・ダンスのパフォーマンスに熱中していた。 盛り上がりぶりは、東京の若者たちと、なんら違いはない。 こんな光景を23年前は想像だにできなかった。 彼らの両親はベトナム戦争の戦火から逃げ惑い、祖父は米軍と戦った解放戦線のゲリラ世代なのだ。

 旅行者として歩いているかぎり、共産党支配の国という臭いを感じることはない。 たまに国旗と共産党旗を掲げている政府建物を見るくらいだ。 両方とも赤い旗だ。 今のホーチミンは、経済発展が軌道に乗る前の他のASEAN諸国の貧しさと繁栄と猥雑が混じり合った雰囲気に似ていた。 

 23年前、ベトナム政府の顧問をしている経済学者が内緒話で言った。 ベトナムの経済発展モデルは、ASEANの独裁国家だ。 政治的自由を抑制して安定を維持しながら経済発展を図る。 「開発独裁」モデルである。 想定していたのはインドネシアのスハルト体制だった。 確かに、共産党政権の人間として、こんなことを公に言えるわけがない。 

 だが、ベトナムはきっと、彼の言った通りの発展をしてきたのだろう。 つまり、普通の国、世界のどこの国ともさして変わりのない国になりつつある。 20世紀の記憶に残る壮絶なドラマ、ベトナム戦争は、遠い遠いかなた。

 
 朝、サイゴン川に面した公園。 若いとき、痩せて精悍な”ベトコン”兵士だったかもしれない60代とおぼしき腹の大きな男が、よたよたとジョギングをしていた。

 サイクリングの途中で休んでいた同じような世代の男は、ぴかぴかのロードバイクを公園の樹木に立てかけていた。 英語で、これいくら? と聞いたら、「高くはない。 だいたい1000ドル」と答えた。 23年前、月給15ドルだった公務員の6年半分の値段の自転車に、気軽に乗っているようだった。