2012年8月22日水曜日

山本美香の死と日本のメディア



 日本人ジャーナリスト山本美香が、内戦のシリアで銃撃され、死んだ。 戦争取材の現場で、死はロシアン・ルーレットみたいなものだ。 いつか誰かが確実に当たる。 ジャーナリストたちはそれをわかっていながら前線へ向かう。 彼女は血を流し、死につつあるとき、自分の命運を受け入れたはずだ。 

 彼女の死を伝える朝日新聞2012年8月22日付け朝刊の1面コラム「天声人語」は、こう書いている。

 「戦争ジャーナリストは割に合わない仕事である。 殺し合いの愚かしさを伝えるために我が身まで狂気にさらすのだから。 しかし、男でも女でも誰かがやらないと、情報戦のウソで塗られた戦場の真実は見えてこない」

 2面の記事では、中東アフリカ総局長・石合力も書いている。 「危険を冒して取材するのはなぜか。 虐殺や人道被害では、現場で記者が取材することが真実にたどりつく限られた方法だからだ」と。

 だが、朝日新聞は、山本が殺されたアレッポのようなシリアの危険な現場に記者を派遣していない。 上記のふたつの記事は奇麗事を並べていても、「わが朝日新聞は真実を取材しておりません」と告白していると受け取れなくもない。 これについて、同紙はなにも説明していない。

 一方、同じ日付の毎日新聞朝刊は3面で、同紙のシリア取材について、興味深い説明をしている。

 「毎日新聞はこれまで、シリア政府発給のビザを取得した上で入国し、取材にあたっている。 記者や助手、協力者の安全に配慮しつつ、できる限り現場で起きている事象を詳細に把握、より多くの当事者の声を聞き、正確な報道に努めている」

 これを翻訳すると、以下のようになる。

 「毎日新聞は、虐殺や反人道的行為を続け、国際的に非難されているシリア独裁政権から正式の許しを得て入国し、取材している。 山本美香のように、反政府勢力の手引きで非合法に入国する危険な取材は行っていない。 現場に直接行って、命をかけるようなことをせずとも、安全に情報を収集し、正確な報道ができると信じている」

 日本の大手メディアは、朝日、毎日に限らず、NHKに代表されるテレビも含め、自社の記者を、今回のシリアだけでなく、戦争などの危険地帯に派遣していない。 その理由は、経営側の意向が働き、行き過ぎた取材競争の末、社員を出張で死なせて莫大な補償金を払ったり、その他もろもろのゴタゴタに巻き込まれるのを避けたいためだ。 1991年のイラク戦争のときに、大手各社が手を組んで、戦争取材に記者を派遣しないという横並びの協定を結んだ。

 それ以来、日本の大手メディアは去勢されている。 日本人記者から命がけの冒険談を聞けるとしたら、それ以前の時期に最前線にいた連中で、現在はほとんどが現役を引いている。

 真実を追い求めることを使命としている新聞やテレビは、今回のような事件が起きると実に悩ましい。 朝日新聞のように、自己矛盾を露呈したり、毎日新聞のように訳のわかったような、わからないような奇妙な言い訳をする。 山本美香からの映像、情報を買っていた日本テレビにいたっては、自分のところの記者に代わって彼女を死なせたと揶揄されかねない立場だ。

 もちろん、取材にあたる記者たちは、こういう現状を苦々しく思っている。 灯りに飛び込む夏の虫のように、どんなに危険であろうと現場に飛び込もうとするのが記者の本能だからだ。

 日本の報道はつまらなくなったと言われて久しい。 それは仕方のないことだ。 現場に記者がいないのだから。 今、彼らは何が楽しくて仕事をしているのだろう。 

2012年8月21日火曜日

理解できなくていいんだ



 一般的な日本人だったら、見に行く前に身構えてしまいたくなるような美術展が、東京・六本木の森美術館で開かれている。 「アラブ美術の今を知る」と謳った「アラブ・エクスプレス展」だ(2012年6月16日~10月28日)。

 そもそも平均的日本人は「アラブ」などという世界や人にまったく関心がない。 しかし、この美術展は宣伝文句からして、「知らなければならない」「知らなきゃ教えてやる」という高飛車な姿勢を感じさせる。 なんとも鬱陶しい。 それでも行ったのは、主催の読売新聞関係者からタダ券をもらったからだ。 それに、かつて、中東にのべ8年も住み、馴染みになったアラブの人々が今、地理的にも精神文化的にも遠く離れた東京で、何を見せようとするのか確かめたかったからだ。

 展示場に足を踏み入れて見て、いやー、ホントに驚いた。 嬉しかったのだ。 旧友に会って、「おまえ、なにも変わっていないなあ」というのと同じ感覚だった。

 展示された作品は、画像や動画を多用し、内容は非常に政治的訴えの色彩が濃い。 日本人のイメージからすると、新聞や雑誌に載っている風刺画という分野に近いかもしれない。

 レバノン人ゼーナ・エル・ハリールの「平和が惑星を導き 雪が星の舵をとる」(画像上)は、3人のヘビ使いが笛を吹き、コブラになぞらえた人物が踊らされている。 ヘビ使いは、左から、シリア大統領バシャール・アサド、パレスチナのイスラム政党ハマス指導者ハリード・マシャル、イラン大統領マフムード・アハマディネジャド。 踊っているヘビは、レバノンのイスラム政党ヒズボラの指導者ハサン・ナスララー。

 周辺諸国の利害が複雑にからみあい、あの手この手でレバノンに介入している政治状況をかなり露骨に描いた作品だ。 

 イラク人ハリーム・アル・カリームの「無題1(「都会の目撃者」シリーズより)」(画像下)は、口を封じられながら目だけは光っている女を描いている。 サダム・フセイン時代の過酷な言論弾圧を表現したものだ。

 そもそも、平均的日本人が複雑なレバノン情勢やサダムの残酷きわまる抑圧の実情を理解しているとは思えないが、もしかしたら、こんなものがアートか、と訝る日本人もいるかもしれない。 だが、アラブ人たちが「政治」をアートの題材に選ぶのは、ごく当たり前のことだと思う。 「政治」が彼らの日々の生活に直接関わっているからだ。

 それは、アラブ世界の悲劇的現状の反映とも言えるが、イスラム教の世界観とも関わっていると思う。 イスラムの世界では、宗教も政治も経済も社会も個人の家庭生活も不可分のものとして一体化している。 だから、人々は家族の問題を愚痴るように政治を批判する。 ただし権力者の耳に入らないところで。

 森羅万象は、神(アラー)という絶対的存在と神を信じるイスラム教徒の関係で決まる。 世の中がうまくいかないということは、神とイスラム教徒の関係に何か問題があるからで、政治は最大の批判対象になる。 その批判とは、彼らには神との関係を正常化するための「生きること」そのものなのだ。

 この世界に慣れ親しんだ者には、懐かしい香りのする展示会場だった。 信仰心の薄いアラブの友人は、イスラム教で禁じられている酒を飲みながら、この会場に溢れているような政治風刺を吹聴していたものだ。 

 おそらく、美術展としては失敗だった。 外部世界の人々の理解を促す抽象化、普遍化が不十分で、ある種の土地勘がないとわからない作品がほとんどだったからだ。 世界がインターネットでつながっても、異なる人間の相互理解など簡単にできることではない。 生身の人間のふれあいなしで、相互理解などありえない。 この美術展は、実は、こんなすばらしいことを教えてくれたのだ。

2012年8月19日日曜日

山へ行こう



 大病で入院生活をして体力は著しく落ちたし、この夏は暑くてたまらない。 しばらく山歩きは休まざるをえないが、全休はしゃくだ。

 で、ウエブをサーフィンしているうちに、今年3月に休刊となった「THE NIKKEI MAGAZINE」という月刊誌が、2008年5月に「東京10名山」という記事を掲載しているのを発見した。 東京23区内の山、かつて山だった土地を紹介したものだ。 定年退職後の退屈オヤジたちに手ごろなお散歩コースらしく、この記事を読んで、「10名山」を丁寧にたどった”山行記”ブログもいくつかあった。 以下は、そのひとつから丸写ししたものだ。

<愛宕山>  地下鉄日比谷線神谷町駅下車
標高25.7m(三等三角点)
講談 曲垣平九郎でお馴染みの男坂(86段)別名「出世の石段」が有名
また、1925年の日本初のラジオ放送の送信地。

<おとめ山> JR目白駅
おとめは乙女ではなくお留め(立ち入り禁止の将軍家狩猟場)
都民のヒーリングスポットになっている公園。

<飛鳥山> JR王子駅
北区は国土地理院に飛鳥山を山として表記するように要望している。
標高 25.3m 東京で一番低い山としてイベントを企画。

<<道潅山> JR西日暮里駅
京浜東北線からの切通し以外は山の面影はないらしいが・・・

<箱根山> JR高田馬場駅
山手線内最高峰 標高44.6m (戸山公園内)

<西郷山> 東横線代官山駅
西郷隆盛の弟の別宅として知られ、東京ラブストーリーで脚光

<志村城山> 都営三田線志村3丁目駅
江戸の交通の要所

<島津山> 
清泉女子大学近くに石段として残る

<池田山>
正田邸跡地は区立公園「ねむの木の庭」となっている。

<御殿山>
高級住宅地、名前のみを留める

 確かに、手軽な東京散歩にはいいだろう。 だが、他人の二番煎じというのが面白くない。 それに舗装道路の照り返しで熱中症になりそうだ。

 それで、昼の熱気が薄らいでくる午後遅く、気持ち良い思いのできるユニークな東京山歩きを計画した。 「~山」という23区内の地名にある食堂や飲み屋を1か所でも訪れたら登頂成功とする。登山開始は午後5時以降。 とりあえず、候補の「山」を駅名と町名からピックアップした。 見逃しがあるかもしれないが、リストを作ってみた。 

①大山(板橋区・東武東上線駅名、町名)
②飛鳥山(北区・都電荒川線駅名)
③御嶽山(大田区・池上線駅名)
④大岡山(大田区・東急目黒線&大井町線駅名、目黒区町名)
⑤西小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑥武蔵小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑦小山(品川区町名)
⑧代官山(渋谷区・東急東横線駅名、町名)
⑨円山(渋谷区町名)
⑩鉢山(渋谷区町名)
⑪東山(目黒区町名)
⑫烏山(世田谷区町名)
⑬千歳烏山(世田谷区・京王線駅名)
⑭八幡山(杉並区・京王線駅名、世田谷区町名)
⑮久我山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)
⑯浜田山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)

 きっと、東京ローカルと呼べそうな雰囲気をみつけられると思う。 さて、どこから挑戦しようか。 ヒマラヤへの道もここから始まるのだ。 壮大な夢を抱いて、いざ、赤提灯へ。

2012年8月11日土曜日

「おんな」のロンドン・オリンピック





  ロンドン・オリンピックで日本の女子選手たちが活躍しているのをテレビで見て、”にわか愛国者”たちは大興奮している。 彼らの興味の対象からは大きく外れているだろうが、このオリンピックは、実は、女性の視点からは、とてつもない「歴史的出来事」なのだ。

 8月3日、女子柔道78kg超級1回戦で、プエルトリコのメリッサ・モヒカは試合開始1分22秒で簡単に1本勝ちした。 相手はサウジアラビアのワジュダン・シャヘルカニ、16歳。

 5日後の8月8日、陸上競技女子800m予選では、同じサウジアラビア代表のサラ・アッタル、19歳が、他選手から30秒以上も離され、ダントツのビリでゴールした。

 メダルには程遠い実力。 ワジュダンは黒帯すら取っていなかった。 サラの記録は、日本の中学生にもかなわない2分44秒95だった。 だが、歴史を作ったのは彼女たちだった。 この2人とともに、ブルネイとカタールの女性選手たちも、この栄誉を共有する。 栄誉というのは、オリンピック全参加国による女性選手派遣を史上初めて実現させたことだ。

 いずれも保守的なイスラム国。 他人の男の前で、髪の毛を見せ、あられもない姿でスポーツをすることなど宗教的戒律に則って許されない。 したがって、オリンピックに女性を派遣することなど決してなかった。 他のイスラム諸国にも同様の伝統があったが、時代は徐々に変わってきた。 前回2008年北京大会では、女性選手を派遣しなかったのは、サウジアラビア、ブルネイ、カタールの3か国だけになっていた。

 オリンピック憲章は、性差別を明確に禁じている。 憲章に反する国を除名することもできる。 国際オリンピック委員会は人権団体などからの突き上げもあり、3か国に対し女性を参加させるよう強い圧力をかけた。 確かに、オリンピックからのの除名は、国として拭いがたい汚点になる。 こうして、ロンドン大会開始直前の7月12日、3か国の女性派遣がなんとか実現にこぎつけた。 
 
 1896年第1回アテネ大会以来の近代オリンピックの歴史で、全参加国が女性を派遣したことはなかった。 そればかりではない。 ロンドン大会から女子ボクシングが始まり、これによってオリンピック全26競技のすべてで女子種目が実施されることになった。 ロンドンは、女性参加の記念碑的大会になったのだ。

 近代オリンピックの父クーベルタンですら、女性の参加に関しては「非現実的」「面白くもない」「美的でない」「間違っている」などと、けんもほろろの態度を取っていたとされる。 以来、1900年にテニスとゴルフの女性参加が実現し、1912年水泳、1928年陸上で女性が登場した。 それにしても、全競技、全加盟国による女性派遣までは、120年を要した。

 ワジュダンは試合後、BBCのインタビューにアラビア語で答えた。 「残念ながらメダルは取れなかったけれど、オリンピックに参加できて幸せです」  言葉だけなら負けた日本人選手と同じかもしれない。 だが、その重みはまったく違う。 彼女たちにとっては、まさに「参加することに意義がある」だったのだ。 

2012年7月31日火曜日

デモ見学の勧め



 ”トモヨー ヨアケマーエノー ヤーミーノナカデー”
とか
 ”ウイ シャル オーヴァーカーアム”
なんて、咽を嗄らして、怒鳴るように歌っていた1968,69年ごろの日米安保条約、ベトナム戦争反対の街頭デモ参加者たち。 当時若さを漲らせていた主役の団塊世代、70年安保世代は、何を求めていたのだろうか。 まさか、安保体制と自民党支配を倒して革命が成就されるなんて、誰も本気で思っちゃいなかったろう。

 1979年2月のイラン独裁者パーレビ支配を終らせたイラン革命。 のちにホメイニ信奉者たちが革命の果実を奪ってしまうが、当時、イラン人たちは思想も宗教も越えて、パーレビ打倒を目指し一致団結した。

 この世代のイラン人が言っていた。 「当時は、見ず知らず同士でも助け合う雰囲気が自然に生まれたんだ」と。 例えば、首都テヘランの街を歩いていて、にわか雨にあって濡れていると、通りかかった車が停まって「乗っていけ」と声をかけられるのが普通だった。 誰もが優しい心を持つようになったという。

 1986年2月フィリピンの独裁者マルコスが人民の100万人デモで権力の座から追いやられたころ、首都マニラにいた。 元来人懐っこいフィリピン人がさらに親しげな態度で寄ってくる。 バーで飲んでいるとき「おめでとう」と声を掛ければ、San Miguel ビールの一杯くらいは必ずおごってくれたものだ。 レストランでは、なにかをきっかけに、たちまちフィリピン国歌の大合唱が始まった。

 イランで、フィリピンで、人々のあいだに生まれたものは「連帯感」だと思う。 権力者たちではなく、無名の市民が何かを成し遂げた充実感の共有。

 70年安保世代は当時、何も成就することはできなかった。 そんなことは十分承知の上で街頭デモに繰り出していった。 そこにも、ある種の「連帯感」が生まれた。 みんなで馬鹿げたことをやっているんだぞ、という自虐的な連帯感。 それでも機動隊の催涙ガスに追われたあと、赤提灯で肉体労働者たちと飲む合成酒はうまかった。

 3・11の大災害。 日本人は呆然とした。 莫大な数の死者・行方不明者、東電の無責任体質、政府の間抜けぶり、政治家たちの国民を無視した政治議論と称するトンチンカンな口喧嘩。 すべてに呆然としたのだ。 このままでは、我々が乗っている日本という船は沈没してしまうのではないか。 どうにかしなければ。 

 毎週金曜日に、東京の総理官邸前に集まって反原発を叫んでデモをする人々を見に行った。 老若男女、様々な普通の人々の姿があった。 沈没前に、いても立ってもいられなくなって駆けつけてきたという印象だった。 多くの参加者がこういう催しに不慣れな人々だということは見て取れた。 緊張が表情にあらわれているからだ。

 そう、彼らが求めているのは、「未来への不安」を共有しようという「連帯感」なのだ。 もしかしたら、原発事故というのは、単なる象徴としての「不安」であって、実は、もっと漠とした巨大な不安がわれわれにのしかかっているのかもしれない。

 生レバーを食えない、鰻が高い、クソ暑いのに何が節電だ、上がる消費税、少ない年金、円高、欧州経済危機、シリア内戦、薄気味悪い北朝鮮…。 脈絡なく広がる不安の連鎖。

 うさ晴らしにデモにいくのもいいかもしれない。 警察官は相変わらず知性がなく、デモの規制や参加者数のカウント、写真撮影に忙しい。 だが、重装備の機動隊の姿はなく、当面は強制排除のような強硬策に出る様子はない。 楽しむなら、いまのうちだ。

 それに、日本人が、動員されたのではなく、自発的に、こんな大規模抗議行動をとるのを見る機会は決して多くない。 2003年3月の米国ブッシュ政権が始めた理不尽なイラク戦争に反対するデモは世界中に広がったが、東京での抗議は線香花火みたいなものだった。 とにかく、今回のデモは、歴史的とは言える。 見逃す手はない。

2012年7月23日月曜日

エジプト革命をどう見ようか



 エリザベス・テーラーが妖艶なクレオパトラを演じている古いハリウッド映画を最近、NHK/BS放送で見た。 2000年以上前、そのころの日本はまだ弥生時代だったが、映画で描かれているクレオパトラの宮殿のインテリアは、現在のエジプトの首都カイロにある高級ホテルより、はるかに豪華だった。

 映画のセットは無論大げさに誇張しているだろうが、それでも、あまりに非現実的ではウソ臭くなってしまうから、ある程度は史実を反映しているだろう。 古代エジプト文明は凄かったのだ。
 
 エジプト古代王朝は、日本が縄文時代だった紀元前3000年ごろ形成され、紀元前30年王女クレオパトラの自殺で終る。 最後の王朝は、紀元前332年アレキサンダー大王がエジプトを征服したあと樹立されたギリシャ系のプトレマイオス朝で、ヘレニズム文明の色彩が色濃く、エジプト王朝とは呼びがたい。

 それでは、ネイティブのエジプト王朝はいつまで続いたのか。

 紀元前1000年までにエジプトは、アッシリアなど他民族の侵攻を受けるようになり、紀元前525年にはペルシャに征服された。 その後もエジプト王朝は続くが、最後のエジプト人ファラオは、紀元前360年から342年まで在位したネクタネボ2世とされる。 最後は、ペルシャに追われて上エジプトへ脱出し、ヌビアへの亡命が許された。
 
 つまり、”エジプト人のエジプト人によるエジプト古代王朝”は紀元前342年に終った。 古代から様々な民族が集積してきたナイル川流域がエジプトの核を成すが、民族的に何をもってエジプト人と呼ぶかは難しい。 煎じ詰めれば、自分がエジプト人と思う人間がエジプト人であろう。
 
 その自分がエジプト人と思う人間たちは、最後のファラオ以来、第2次世界大戦後の西暦1952年ナセルを指導者とする自由将校団が150年続いたアルバニア人のムハンマド・アリ王朝をクーデターで倒すまで、実に2,293年間、外国人の支配を受けていた。
 
 以来60年余り。 古代王朝誕生から最後のファラオまでが2700年、それからナセルのクーデターまでが2300年ほど。 60年という期間は、戦争や大統領暗殺や人民革命など色々なことが起きたにせよ、気の遠くなるような歴史的時間の流れからすると、ほんの瞬間でしかない。

 2012年、エジプト初の民主的選挙による大統領が誕生したが、民主政治の定着には予断を許せない不安がある。 だが、ほんの60年という瞬間の中の出来事だ。 2000年単位で生きてきたエジプト人の歴史感覚を、時間尺度がまったく異なる我々が本当に理解できるとは思わない。
 
 おそらく、日干し煉瓦を積んだ粗末な家々が並ぶ農村の埃っぽい光景は、2000年前とそれほど違わない。 アッシリア人もペルシャ人もギリシャ人もローマ人もトルコ人もフランス人もイギリス人もなしで、エジプト人たちが自らの手で国家を作っていく様を、じっくりと見ていこうではないか。

2012年6月19日火曜日

「死病・大動脈瘤破裂からの生還」顛末


<突然の激痛>
  2012年5月13日・日曜日、二日酔い気味の午前中は、一人で、東京・大田区下丸子の自宅で過ごしていた。 

  前日午後、内幸町のプレスセンターで、元毎日新聞記者のジャーナリスト故草野靖夫の「偲ぶ会」が開かれた。 参加したのは、われわれと同じ団塊世代かそれ以上。 ジジイの集まりだったが、久しぶりに旧友と会い、午後明るいうちから有楽町のガード下で本格的に飲み始めた。 夜10時すぎまで話がはずんで、かなり酔った。 帰りの電車では居眠りをして駅を4つも乗り越し、いつ自宅にたどり着いたのか記憶にない。

  朝は二日酔いではあったが、気分が悪くなるほどではなかった。 朝食も普通に摂れた。 つまり、のんびりとした、初夏の日曜日だった。

 午後0時50分ころ、テレビ東京の「なんでも鑑定団」をみようとしたときだった。 便意を感じたのでトイレに行った。 だが便は出ない。それでいて下腹部に便秘時のような重苦しさがある。 数回トイレに行ったが同じだ。 そして、突然の痛みがやってきた。

 これまで経験したことのない痛み。 便意と思った感覚が次第に深い痛みに変わっていく。 からだをエビのように曲げて耐えるが、もうだめだと思った。 病院に行くしかない。

<病院探し>
 だが、救急車は呼びたくなかった。 以前の経験で、救急車は到着しても、車内で問診や血圧、体温測定などで30分近くは出発しようとしない。 しかも、患者を搬送すべき病院を電話で探すが、ベッドが足りない、医師がいないなど様々な理由で、簡単には決まらない。 自分の痛みに、それほど長い時間耐えきる自信はなかった。

 そこで、自分でタクシーを使って病院に行くことにした。 痛みを懸命にこらえながら、大田区の休日診療所の電話番号を探し出し、近隣の大病院、荏原病院に電話した。 だが、交換手は出てくれたが、救急担当が内線の呼び出しに応答しない。 交換手は、ここに直接来てもらっても困る、他を当たってくれという。

 次に電話したのは、田園調布医師会診療所だった。 そして、すぐに来ていいと言った。 無線タクシーを呼んで15分。 やっと来たタクシーの車内に、からだを「く」の字に曲げたまま倒れこむ。運転手の顔が引きつっていた。

<意識を懸命に保ちながら>
 診療所にたどり着いたときには、痛みで気が遠くなり気絶寸前だった。 待合室にいるとき、だれかが「結石?」「盲腸?」などと言っているのが聞こえる。 「こっちの痛みも知らず、勝手なことを言ってやがる」。 診療室に入る。 黒い網目のストッキングをはいた長い足、豹柄のミニスカート。 からだを曲げたままなので顔は見えないが若い女の医師のようだった。 なぜか、気を失いそうなくせに、こんな観察と判断だけはできた。

 その女医は言った。 「ここでは手に負えない」。 そして、自分で電話したときは断られた荏原病院を紹介し、すぐに行くようにと言われた。 どうやら、医療機関同士のあいだには、一般人とは異なる連絡ルートがあるらしい。
 
 ただ、診療所の態度は実に非人間的だった。 激痛で身動きがほとんどできないのに、2000円余りの請求書を突きつけた。 ズボンの尻ポケットから財布を引っ張り出し、やっとの思いでテーブルの上に放り投げる。 「勝手に取ってくれ」という意思表示だ。 相手は「そんなことはできない」と言って、ザルみたいなものの上に見えるように財布を置き、カネを引き出し、釣りと領収書を置いた。 きちんとカネの授受があったことを示すためだ。

 だが、それが終ると、歩くこともできないのに、外に行ってタクシーを捕まえて病院に行けという。 冗談じゃない。 激痛をこらえ歯を食いしばって、救急車を呼んでくれと頼んだ。

 これから先の記憶は曖昧だ。 荏原病院で検査を受けたのは間違いない。 「大動脈瘤破裂、血液外科の専門医がいる昭和大学病院に移って手術をする」と言われたところで、意識は消えた。 「大動脈瘤って何だ?」 消える意識が考えた。

<意識が戻る>
 気付いたのは、翌日5月14日・月曜日だった。 自分でそれがわかったわけではない。 そばにいた誰かが教えてくれた。 もう痛みはなかった。

 あとでわかったことだが、この瞬間が大動脈瘤破裂 という恐ろしい死の病から生還した瞬間だった。自分のからだがどうなっているのか、まったくわからない。 すぐにまた眠りに落ちたのだと思う。  次に目覚めたとき、自分のからだに様々な管がつながれていたのに気付いた。 鼻、口、腕、胸、腹…。 この病院に来てから、何日がたっているのか、まったくわからない。

<大動脈瘤破裂>
 のちに、自分がどういうことになっていたのか知らされて、生きていることが奇跡に近いことがわかった。 平均的数字では、大動脈瘤が破裂し苦痛でのた打ち回っているうちに6割が死ぬ。 そして病院に搬送される途中で2割、手術中に1割、つまり9割が死亡する。 石原裕次郎の死因にもなった。
 
 大動脈瘤ができる原因は、コレステロールによる動脈硬化と高血圧だという。 だが、体質にもよる。 私の場合、コレステロール値、血圧とも悪くはなかった。

 破裂したのは腸骨大動脈瘤だった。 心臓から、からだの下へ腹部大動脈が伸びる。 途中、腎臓への血管が枝分かれし、その先が下腸間膜大動脈、それが両脚の付け根方向へ左右二股になる。 この2本を腸間大動脈という。

 大動脈瘤は左右にひとつずつあり、破裂したのは右側だった。 通常、この破裂で血液約2リットルが体内に流出し、多くの人がこの多量の出血でショック死する。 私の場合、医師によれば、理由は不明だが、この出血が少なめだった。 だが、もうひとつの腸間動脈瘤は、8㌢×11㌢×5㌢という巨大なもので、医学の常識では破裂しないで成長したのが不思議な大きさだったという。 さらに、下腸間膜大動脈にも、,ある程度の大きさの大動脈瘤ができていた。 

<手術>
 手術は、病院に運び込まれた13日の午後6時から始まり、14日午前1時45分まで7時間45分に及んだ。 大動脈瘤を処理し、下腸間膜大動脈から二股に分かれた腸管大動脈までの部分を切除し、長さ約40㌢、逆Y字形の人工血管で繋いだ。 家族は最悪事態(死亡)に備え、手術終了まで、ずっと待機していた。

 手術では、臍の上10㌢あたりから恥骨の上まで開腹した。 術後すぐに縫合すると内臓が壊死する恐れがあるため、3日間開いたままにしていた。

 意識がちゃんと戻ったのは、おそらく、病院に運び込まれてから4日後の5月16日、腹部の縫合が終ったあとだったのだと思う。

<ICU(集中治療室)>
 術後入ったICUのベッドで、5月16日に家族と筆談したノートが残っている。 ほとんど判読不能だ。 文字を書こうとしても、ペンを持った指とノートとの距離感がわからず、しかも指があらぬ方向へ動いてしまう。 なにかを書いても文字にならないのだ。 ただ、かろうじて読める部分にはこう書いてあった。

「死にそこなった?」

 どうやら、このときには事態を呑み込めていたようだ。

 ICUには、5月26日まで2週間近く入っていた。 尿道にはカテーテルが入れられ小便は垂れ流し、大便はオムツに排出する。 初めての経験で、若い男女の看護師たちに後始末をしてもらうのは、当初かなりの抵抗感があった。 だが、身動きできず自分で何もできないとわかってみると抵抗感はすぐに消えた。

 顔なじみになった若い女の看護師は後始末をナース・コールのスウィッチを押して頼むと、気軽な ダジャレで返事をした。 「シリコンバレーね、すぐ行きま~す」。 (参考までに、病院語では、ションベンを「お小水」、ウンコを「お通じ」という)

 それにしてもICUでの2週間は辛かった。 鼻と口から栄養補給と呼吸のための管が差し込まれ、からだを思うように動かせず、節々が痛くなる。 ときどき息苦しくなったり、腹痛がする。 脂汗をじっとりとかいたかと思うと寒気に襲われる。

 もっとも辛かったのは、喉にたまった痰の吸引だった。 看護師が喉に管を差し込み、痰を吸い出す。 5秒間か10秒間、苦しくて全身が硬直する。 

<ICUシンドローム>
 長くICUに入っていると、日にちや時間の感覚がなくなり、様々な幻想、幻覚にとらわれるようになる。 これをICUシンドロームという。

 確かに、それはやってきた。 まず、今いる病院が、かつて住んでいたトルコのイスタンブールにあると思い始めた。 場所は市中心部から郊外の国際空港へ向かう道路沿いのどこか。
目を閉じて、なにかを見るとデジタル・カメラのズームのように、視線を向けたものが拡大されて見える。 目を離すと小さくなる。

 ベッドから首をあげて足元の方を見ると、水平なはずのベッドも床も垂直になっていて、恐ろしく高いところから下を見下ろしている。 足がすくむ。 何度かまばたきをすると元に戻る。
こうした現象は、目覚めている時間が次第に長くなり、日にちの感覚が戻ってくるにつれ消えていった。

<ICUから一般病棟へ>
 ICUにいた最後の数日、からだを起こしベッドのへりに座れるようになった。 さらに、看護師たちの手助けで立ち上がってみる。 かろうじてバランスをとることができる。 ためしに、その場足踏みをやってみるが、膝が上がらない。 それでも、足を動かせたのは、嬉しい瞬間だった。

 5月25日、口と鼻に差し込んであった管がとっぱらわれた。 これだけで、ずいぶん元気を取り戻せた気になった。
 
 翌26日、ついにICUから一般病棟に移された。 瀕死の病人が晴れて、普通の病人に格上げされたのだ。 ただ、チンボコのやつは、かなり戸惑ったようだ。 尿道のカテーテルが外され、それまで2週間も続いていた垂れ流しが急に終った。 だが直ちには適応でjきない。 尿意を感じるや否や、我慢することができず排出してしまうのだ。 適応するまでには1日以上かかった。

 点滴も終わり、おかゆ中心の食事になった。 だが、縮んでしまった胃は簡単には食べ物を受け付けない。 当初は、ほんの一口、二口を飲み込むのが精いっぱいだった。 腸も働かない。 このときから、消化器官のリハビリが始まった。

 手術後の点滴で水ぶくれになり異常に増えた体重とウエストが減少し始めたのは、このころからだった。 入院前、体重は66㌔、ウエストは79㌢程度だったが、ICUにいたときには、体重が74㌔、ウエストが94㌢にも達した。 (2週間後に退院したときに体重は60㌔にまで落ちていた)

<体力の回復>
 歩く練習も始めたが、車輪の付いた支え車につかまって10㍍も歩くと、へとへとに疲れた。
しかし、このあとの体力回復はめざましかった。 病棟の廊下は約50㍍。 支え車なしで動けるようになってからは、ここを毎日歩き、少しずつ距離を伸ばした。 初めのうちは50㍍歩くと息が切れた。 だが、まもなく廊下往復100㍍に距離が伸びた。 だが、たったこれだけの距離を歩くだけで、股関節周辺の筋肉に疲労感がどっとやってきた。
 
 ところが、10日後の6月4日には、この廊下を1日のべ30往復、3㌔も歩けるようになった。 こうなってくると、病院の中はいかにも狭い。 病院からの無断外出の回数が次第に増えていったのは、当然の成り行きだった。 おかげで、病院から近い旗の台駅周辺の商店街については、かなり詳しくなった。

 ベテラン看護師が言った。 「ひょっとして、勝手に外出していない?」 どうやら、無断外出はバレバレだった。

<退院>
 着実に体力回復している姿を見て、医師が「いつ退院してもいい」と言ってから1週間、6月16日に退院した。 当分は、食事を食べ過ぎないようにきちんと摂り、与えられた薬を忘れずに飲む。 病院内とそれほど変わらない生活が続く。 急ぎすぎないように体力を回復しなければならない。 今年の秋にはテニス、冬にはスキーが目標だ。

<支えてくれた友情・愛情>
 5月13日に入院したあと、妻が何人かの友人・知人に連絡した。 「あいつが死にそうだ」というニュースは瞬く間に広まったようだ。 意識が戻ってから、友人たちからの応援メールを見た。 こんなに多くの人々が心配してくれたんだ、と驚きながら感激した。 

 Mは、「あなたを必要としている人たちのために頑張って」と意識不明の私にメールしていた。 敬虔なクリスチャンのSは神に祈ってくれていた。 
5月30日、メールを打てるまで体力が回復し、友人たちに「ありがとう」のメールを送った。

 「やっとメールを書けるようになりました。ただ、皆さま一人一人に書く体力がないので、とりあえずは、このご挨拶で許してください。
どうやら、地獄の一丁目までさ迷い込み、三途の川を振り返ってみたら、戻った方が絶対楽しいと気付いたんでしょうね。
 生き返って、皆さまから頂いたメールを読ませてもらって、それを実感しました。不覚にも、うれしくてベッドでぼろぼろと泣いてしまいました。
 ボクは、ダイハードで悪運が強いと自覚(自負?)してましたが、それはカンボジアとかアフガニスタンとかイランとかイエメン、アルジェリアといった戦場の修羅場で、今度みたいに、自分のからだを戦いの場にしたのは初めてのことでした。
 色々な意味で勉強になりました。
 元気に退院したら、話をたくさんきいてください。
 皆さま、本当にありがとう。会える日を楽しみにしています。」

 退院した今、私が死なないで済んだのは、実は、偶然でも悪運でもなく、家族や友人、多くの人たちの心の支援があったからだと思えてきた。