2009年7月29日水曜日

警察官を好きですか?



 警察官は大嫌いだ。彼らの勤務成績は基本的に犯罪者の検挙数で決まる。だから、世の中の人間すべてが犯罪者なら、砂糖つぼに入った蟻の恍惚気分になるに違いない。猜疑心に満ちた警察官の視線を浴びた経験をした人は少なくないだろう。そう、彼らは人を見るとき、まず、犯罪者かどうかを判断するように訓練されている。

 横浜市青葉区の路上で、真っ昼間、警察官2人に自転車泥棒の嫌疑をかけられたことがある。乗っていた自転車を止められ、警察官の1人はハンドルをしっかり押さえ、もう1人は前輪に跨る体勢で立ち、逃走を阻止する構えだった。

 彼らの抱いた疑いは実に単純だった。自転車の防犯登録が神奈川県警ではなく東京の警視庁だったというだけだ。

 ばかばかしくて、「東京で買った自転車を神奈川県で乗って、なにが悪い」と言って、その場を立ち去ろうとしたが、険しい表情の警察官は自転車を放さない。名前と住所を確認するまで、路上での監禁状態が続いた。

 成績の上がらない警察官が、自転車盗をお手軽な標的にするというのは本当だと思う。もう、ずいぶん前のことだが、未明の中原街道丸子橋は、終電を逃して路上の自転車を拝借して家路に向かう酔っ払いたちを、姑息な警察官たちがカモにする名所として知られていた。




 今朝、警察官のこれまでの悪いイメージが変わりそうな経験をした。

 ジョギングをしていると、消防車がサイレンを鳴らし、次々と近くにやって来た。何事かと思って消防車が集まったあたりに行ってみると、交差点で50がらみメタボ体形の警察官が交通整理をしていた。

 「なにが起きたんですか」と声をかけてみた。すると、メタボオヤジ警官は交通整理をうっちゃらかして、こっちに歩いてきた。

 「よくわからないが、火災報知機が誤作動してしまったらしいんですよ。たいしたことないね」

 なんだか、大都会東京で唐突に、どこか田舎の駐在さんに会ったみたいだった。ニコニコして、人懐こくて、よくぞ声を掛けてくれたという感じで、嬉しそう。「なんでもない!」と、つっけんどんに市民を追っ払う警察官独特の威圧的態度はかけらもない。

 あの体形では、かっぱらいを追いかける走力は絶対にない。だが、こういうのを「おまわりさん」というんだろうなと思った。

 どう見ても、出世コースからは、とうの昔に外れている。きっと、自転車盗検挙のばかばかしさも悟っているに違いない。勝手な想像だが…。

 彼の目を見たとき、誰かに似ていると思ったら、刑事コロンボの顔が浮かんだ。

 あの映画の良さは、コロンボが殺人者を相手にしても人間の眼差しを向けていることだ

 警視庁新葛飾署亀有公園前派出所の巡査長・両津勘吉が住民に愛されているのも、彼が警察官である前に人間だからだと思う。

2009年7月27日月曜日

狂気の自己陶酔


 「靖国神社に祀られている神さま方(御祭神)は、すべて天皇陛下の大御心のように、永遠の平和を心から願いながら、日本を守るためにその尊い生命を国にささげられたのです」

 「天皇陛下を中心に立派な日本をつくっていこうという大きな使命は、みなさんのご先祖さまのおかげでなしとげられました」

 「戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです。こういう事変や戦争(支那事変や大東亜戦争など)で尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖国神社の神さまとして祀られています」

 「戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に”戦争犯罪人”とせられ、むざんにも生命をたたれた千数十人の方… 靖国神社ではこれらの方々を『昭和殉教者』とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています」

 「靖国神社の神さまは、日本の独立と平和が永遠に続くように、そしてご先祖さまが残された日本のすばらしい伝統と歴史がいつまでも続くように、と願って、戦いに尊い生命をささげてくださいました」

 (靖国神社社務所発行「やすくに大百科」(私たちの靖国神社)より)

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 近ごろ、ネオ・ナチに似た日本のネオ・ナショナリズムになびく方々は、「靖国”史観”」を拒否する論を「自虐史観」と呼ぶ。

 だが、中国や朝鮮、東南アジアなどで莫大な数の人間を死なせた日本による戦争を美化することは、「他虐史観」に他ならない。そして、あの戦争における日本人の死すべてを美化することは、背筋をぞくぞくさせるような狂気の自己陶酔だ。

とっても楽しく遊べる多摩川!?





2009年7月23日木曜日

個人的日蝕ツアー


 ふと思い立って、ぶらりとでかける旅。当てが外れることもあるけれど、行き当たりばったり、それはそれで楽しいものだ。

 7月23日、皆既日蝕の日の朝、東京は重い雲がたれこめ、雨がしとしと降っていた。本州はどこも皆既日蝕の範囲外だが、晴れていれば部分日蝕は見られる。

 テレビを点けると、NHKの天気予報が言った。「関東地方は雲に覆われているが、北関東では雲が切れて日蝕を見られる可能性もある」 Yahooの「雲の動き予想」の動画を見ると、確かに、群馬県高崎市あたりは日蝕が続いている午前11時から正午ごろにかけて、雲が切れる。

 なんだか急に日蝕を見たくなった。

 とりあえず渋谷に行って、高崎行きの電車に乗った。雲の切れ目から太陽が姿を出したところで降りることにした。

 大宮を過ぎても、どんよりと曇っていたし雨がぱらついていた。

 近くの座席に、母親に連れられた小学生くらいの男の子と女の子がいた。彼らも日蝕を求めて高崎線に乗ったらしい。”日蝕グラス”をしっかりと手に持っていた。だが、曇り空に退屈したらしく、男の子は母親の二の腕のどろりと弛んだ肉を指ではじいて遊び始めた。

 扉のそばに立っている年金生活者とおぼしきジーンズ、ジョギングシューズ姿のオヤジは、律儀に駅に停車するたびにホームに半分身を乗り出し、太陽があるとおぼしき方向の曇り空を見上げていた。

 旅行社のぼったくりトカラ列島ツアーなどで散財せず、高崎線の部分日蝕個人ツアーでお茶を濁す賢い人たちは、かなりいたようだ。

 希望が出てきたのは桶川駅あたりだった。曇ってはいるが空が明るくなり、車窓の外には空を見上げる人の姿もあった。

 だが、晴れ間が現れるには至らない。もう少し電車に乗り続けてみよう。とは言え、日食は12時すぎまでだ。もう11時、いつまでも乗っているわけにはいかない。

 というわけで、曇っていたが、高崎の二つ手前、新町で電車を降りた。

 そして、ホームのはずれで、ほぼ真上を見上げれば雲を通して太陽が見えるではないか。だが、太陽の光線が強すぎて、とても肉眼で直視できない。思いつきで飛びだしてきたので、もちろん”日蝕グラス”などない。

 運良く、日蝕グラスを貸してくれそうな子供が通りかかるなどということもなかった。それどころか、電車が行った直後でホームに人気はまったくない。

 太陽が見えるのに、日蝕を見られない! なんというドジ!

 そのうち、空がまた暗くなり始めた。もうダメと思い、空を見上げて驚いた。

 日蝕が見えた。太陽が三分の一か四分の一、はっきりと黒く欠けているのが肉眼で見えたのだ。

 厚くなった雲がうまい具合に光のフィルターになったからだ。

 こうして、行き当たりばったりの日蝕ツアーは大成功となった。

 成功に酔って、高崎に住む友人Kを携帯で呼び昼飯に誘った。だが、残念ながら仕事で出られないというので、ホームの自動販売機でウーロン茶を買っただけで、上り電車に乗って東京へ向かった。

 そのうち、電車の中で気づいた。渋谷でパスモを使って乗って、新町ではホームにいただけで改札を出ていない。このまま戻って渋谷で降りるとどうなるのだろう。

 こういうことに知恵が回りそうなKにあらためてメールできくと、「『入ってからの時間が長すぎる』と言われるかもしれないので『新宿で改札出ずに人に会っていた』と言えば160円」というアドバイスが返って来た。

 そうか、なるほど、さすがK。

 しかし、ホントかなあ? 新宿ー渋谷は160円じゃなくて150円だから10円分は”遅れ賃”なのか? そもそも、駅員がこちらの話を信じてくれたにしても往復分を取るんじゃないか? あっ、新町の駅でパスモを使ってウーロン茶を買った! あれがパスモに記録されていて、新町まで行ったことがばれちゃうかもしれない。

 なんだか帰路は犯罪者の気分になってきた。

 さて、どうしたものか。

 結局、どうなるかわからなかったが、中途半端に池袋で降り、意を決してパスモを改札にかざしてみた。すると、駅員が飛んできたりせず、なんと、たった160円、渋谷ー池袋間の通常料金で通過できたではないか。

 あとで料金を調べてみると、渋谷ー新町間は1620円、往復で3000円以上をタダ乗りしてしまったことになる。これが合法か非合法かわからない。

 日蝕を見られて、3000円も儲かって、とても良い1日だと思った。

 ところが、夕方のテレビニュースでは、東京で部分日蝕が見えたと報じているではないか。なんだ、遠くまで行かずに、東京にいりゃ見られたんだ。

 なんだか、儲かったような、バカバカしかったような妙な1日でもあった。

 まあ、これが、行き当たりばったりで旅をする醍醐味と言えば、言えるかもしれない。

2009年7月21日火曜日

天空の茶畑



 静岡県を流れる安倍川の源流域・梅が島、険しい山の斜面にへばりつく茶畑に、人に誘われ酔っ払った勢いで行ってしまった。ふだん飲むのはコーヒー、緑茶はほとんど飲まず、お茶なら紅茶で、アールグレイのミルクティー。日本茶などに関心はまったくないのに、標高1,000メートル、「天空の茶畑」と称する日本一高いところにある茶畑に立った。

 そこからの遠景はすばらしかった。日本第2の高峰・北岳に繋がる南アルプスの南端に位置し、山々は深くて急峻だ。安倍川をはるか下界に見降ろす。その高さにはスリルすら覚える。友人Aは斜面で四つん這いになり立てなくなって高所恐怖症がばれてしまった。

 人が住めるとは思えないような急斜面に小さな集落が点在していた。その光景を目にしたとき、ふと既視感を覚えた。どこだっけ?

 フィリピンかインドネシアの棚田か。いや、鬱蒼とした緑は同じだが、こちらの景色の雄大さは桁が違う。

 そうだ。イエメンだ。人も気候も文化も静岡とはまったく異なる遠いアラビア半島の国が目の前に現れた。

 イエメンの険しい岩山では、緑ははるかに少ない。人々は、高い山の頂上や、いかにも不安定な尾根の上に石と泥で作った家に住んでいる。静岡では茶を作るため、イエメンでは外敵の侵入を防ぐために山に住み始めた。目的は違う。

 が、「なぜ、あんなところに人が!」という驚きの第一印象が同じだったのだ。

 連想のもうひとつは、茶だ。

 イエメン人の一番の嗜好品と言えば「カート」だ。街の市場で葉の付いた枝を束にして売っている。人々は葉をちぎって、口の中でくちゃくちゃ噛み、唾液と混ざった汁を飲み込む。軽い幻覚作用があり、国際的には麻薬に分類されているというが、イエメンでは合法だ。

 実際、イエメン政府の閣僚たちとの会合に行ったら、狭い部屋に呼ばれ、胡坐をかいた車座の真ん中にカートが山積みにされた。大臣たちと”麻薬”を楽しむなどという経験はそうあるものではない。

 イエメンでは、このカートは茶の一種だと誰もが言っていた。山の斜面のカート畑は、梅が島の茶畑のようだった。

 だが、静岡から帰ってWikipediaを見てみると、カートの学名は「ニシキギ科アラビアチャノキ」で、「ツバキ科チャノキ」とは近縁ではないという。つまり、カートは茶ではなかったのだ。連想のおかげで雑学の知識がひとつ増えた。今度イエメン人に会う機会があったら、この知識を披歴してやろう。

 今回の小旅行の小さな収穫だ。見知らぬ土地なら、どこでも行ってみるものだ。

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 ところで、茶畑に行った目的だが、御多聞にもれず、ここでも、日本農業の深い問題である農村からの若者の流出で茶畑の存続が危うくなっている。その茶畑をボランティアたちが無農薬栽培などで守っていこうという運動を見にいったのだ。

 聞けば、そこで作る日本茶は100グラム2000円とか3000円。超高級品と言っていい値段だろう。しかも、日本では、こんな値段の日本茶がネット通販で売れているという。

 素敵な運動だし、これなら儲かれば、ボランティアというよりベンチャー・ビジネスとして成り立つではないか。

 日本というのは、本当に凄い国だ。日本茶100グラムの値段が、貧しい平均的イエメン人の半月分くらいの収入に相当するのだ。

2009年7月15日水曜日

灰色の狼


 イスタンブール中心の繁華街、古びたビルの暗い階段を昇り、ドアをノックすると、鋭い目つきの男たちが顔を出した。獰猛さを漂わせ、到底まともな人間には見えない。こういう連中に囲まれるのは、決して気持ちの良いものではない。

 そこは「灰色の狼」と呼ばれる組織の事務所だった。

 トルコの極右政党「民族主義者行動党」、通称MHP(”メーヘーペー”と発音する)の下部組織で、左翼や少数民族クルド人組織への過激な暴力的行動で知られている。権力者の手先となり、秘かな殺人にも関わるとされる。1981年に起きたローマ教皇暗殺未遂事件の犯人メフメト・アリ・アジャもメンバーだった。観光立国としては、外国人にあまり知られたくないトルコの暗部だ。

 MHPは、1997年に死去したカリスマ的指導者アルパルスラン・テュルケシの下で党勢を伸ばした。国会では小政党にとどまっているものの、その民族主義的主張は、トルコ人の心に訴えるものがある。

 トルコ人のルーツは、バイカル湖から西シベリアとモンゴルに跨るアルタイ山脈に至る一帯の遊牧民族とされる。古代中国では「突厥(とっけつ)」と呼ばれ、常に北方からの脅威であった。(突厥はトルコ語のトルコ人「テュルク」の漢字表記とされる)

 この民族は、中央アジアをはじめユーラシア大陸の各地へと大移動し、その流れのひとつが現在のトルコまで辿りついた。

 伝説によれば、トルコへ向かう集団が道に迷ったとき、どこからともなく「灰色の狼」が現れ、行くべき方向へ無事に案内をしてくれた。

 「灰色の狼」は、トルコ人の民族ロマンに欠くことのできない存在なのだ。現代トルコ建国の父ケマル・アタチュルクも「灰色の狼」と呼ばれていた。

 トルコ人は一般的に、強い民族・国家意識を持っている。例えば、サッカーの国際親善試合があれば、スタジアム周辺では大きなトルコ国旗が飛ぶように売れる。そういうトルコ人にとって、思想的に極右でなくとも、「灰色の狼」伝説には琴線に触れるものがある。

 その心情を政治的に表現すると、MHPが主張する「大トルコ主義」「汎トルコ主義」となる。トルコ系、トルコ語系民族の大同団結だ。

 つまり、灰色の狼が案内してくれた道を逆戻りして、大昔ちりじりに分かれた仲間を糾合しようというものだ。具体的には、ソ連崩壊後に独立した国々、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、カザフスタンとのトルコ連合ということになる。

 さらに、この連合には、東トルキスタンと呼ばれることもあるトルコ系民族ウイグル人が住む中国の新疆ウイグル自治区も含まれる。

 MHPの主張は、国際政治の現実からすれば荒唐無稽な夢想であろう。それでも、多くのトルコ人にとって、この夢想には気持ちをかき立てさせる何かがある。

 中国当局の新疆ウイグル自治区での民族弾圧に対し、トルコが過敏に反応した。首相のエルドアンは「大虐殺」とまで表現し、イスタンブールでは反中国デモが発生した。これは、まさしくトルコ人意識の発露だ。

 この事態に、世界はちょっと驚き、戸惑った。おそらく、トルコと新疆の地理的な遠さにもかかわらず、精神的には非常に近いということに気付かなかったからだろう。そして、世界史と世界地図の別の読み方を多少は教えられたようだ。

 それにしても、トルコ人がウイグル人にどれだけ同情しようと、ウイグル人が直面する現実を変えるのは絶望的だ。

 新疆ウイグル自治区と接するカザフスタンとキルギスは、同じトルコ系にもかかわらず、ウイグル人の反政府活動抑制を目的のひとつとする中国との準軍事同盟「上海協力機構」に加盟している。

 トルコ人の視点からすると、ウイグルは兄弟たちに裏切られて完全包囲され、身動きひとつできないのだ。

2009年7月1日水曜日

ふれあい

 C君、死んだYも、近ごろ日本中に氾濫している「ふれあい」という言葉を目にすると虫唾が走ると言っていたそうだね。確かに、君やYのように硬派の一匹狼を気取っている男たちに、「ふれあい」などという言葉が似合うはずない。とにかく、気色悪くなるのは僕も同じだ。で、今回は、「ふれあい」について、お勉強しようではないか。
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    ふれあいとは、主に地域社会内において、年代層や職業などが異なる人間が情緒的につながった関係を形成することを指す。

     言語的定義

    「ふれあい」という単語が「触れる」(touch / contact)と「あい」(合い、相互関係を示す依存名詞)との合成語であることはすぐにわかることだろう。それら構成語の意味から単純に類推すると、「ふれあい」は相互接触(mutual touch / contact)を意味すると考えられるが、日本語話者であればこの単語がそのような原義を超えて使用されていることは直感的に誰もが知っている。少なくても、以下のような用法は一般的なものとは言えないだろう。

    一方、以下のような用法に対しては、違和感はあまり感じられない。

    このように考えると、ふれあいという単語は以下の範囲で適用されるといえる。

    • 基本的に社会的に善と考えられる範囲(福祉・教育・環境保護など)でのみ使用
    • 情緒的なつながりを重視し、理知的な知識の交換や政治的・経済的利害の調整などという意味での接触は含まれない
    • インターネットや携帯電話など情報機器を通じたものではなく、あくまでも人間同士(あるいは人間と動物など)が直接接触することが必要

    社会的背景

    パオロ・マッツァリーノによると、「ふれあい」という単語の初出は1956年の朝日新聞にまで遡るが、メディアなどでの使用頻度が増したのは1970年代から、また社会一般で広く使われるようになったのは1980年代からである(リンク)。このことから、日本語の長い歴史の中でも「ふれあい」は比較的最近登場した概念であることがわかる。

    1970年代から1980年代にかけて、「ふれあい」という単語が日本社会の中で受け入れられてきた背景には、それ以前に存在していた伝統的な地域社会(参照: 共同体の崩壊が挙げられる。すなわち、高度成長期以前の日本では全国各地に農林水産業を主要産業とする農村共同体が確固として存在しており、大家族制の中で幼児から高齢者が一堂に集まって生活を行うスタイルが一般的だったが、高度成長期以降核家族が一般的になり、核家族の中でも個人主義的な行動パターンが広まったため、特に高齢者がこういった社会風潮から取り残され、疎外感に苛まれるようになった。また、核家族になることによって伝統的な育児法の伝承も廃れ、それにより青少年の荒廃も進んだ。これらの問題を情緒的交流を通じて解決する目的で、「ふれあい」という概念が日本社会で強調されるようになったと言える。

    連帯との違い

    また、「ふれあい」に比較的似た概念として「連帯」(solidarity)という単語があるが、これも日本語の「ふれあい」とは異なるものであるといえる。「連帯」は、そもそも学生と労働者、主婦と高齢者など、社会的に違う立場の人たちが同じ目標に向かって団結してゆくことを指す。それに対し、「ふれあい」ではそのような目標は不要であり、あくまでも情緒的接触を行うことで対象者を満足させることを目的とする。たとえば喉の渇きを訴える人に対して飲料水を与えることでその人を満足させるように、情緒的交流の不足に苦しむ人に対して共感示し、情緒的つながりを形成することで対象者を心理的に満足させることが、「ふれあい」の目的であるといえるだろう。

    「ふれあい」を冠した団体名・施設名など

    また、「ふれあい」という単語に込められた以上のニュアンスから、団体名や施設名などにこの単語が使われることが少なくない。


    (出典・Wikipedia)

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     まあ、要するに、時代が「ふれあい」をいたるところに溢れさせたということかな。

     つまり、薄暗いバーカウンターで安ウイスキーを一人であおる君たちの濃密な時代は去り、明るく楽しいカラオケ・ボックスの空疎な時代に支配されているというわけだ。
     
     それにしても、「ふれあい」の名が付く施設は官製のものが多いのが気にかかる。

     「ふれあい昆虫館」「ふれあい牧場」「ふれあい科学館」「ふれあいの里」「ふれあい広場」「ふれあいプラザ」「ふれあいの道」「ふれあいネット」「ふれあい公園」「ふれあいの村」‥。大阪のどこかの小学校は「ふれあい参観」というのをやっている。「えひめ青少年ふれあいセンター」なんてところは、いったい、なんの触れ合いをしているのだろう。数えたらきりがない。

     きっと、役人たちが世の中の殺伐さを一番理解しているか、さもなくば、そういう世の中を作ってしまったのは自分たちだと自覚し、なおかつ手の施しようがないのでネーミングで誤魔化し、罪悪感から逃れようとしているに違いない。

     笑わせてくれる「ふれあい」もある。「秋田ふれあい信用金庫」なんてところは、秋田県でどんな金融業を営んでいるのだろうか。 

    「介護用品・住宅改修・介護リフォームふれあい」「不妊の鍼灸と円形脱毛症の鍼灸の『ふれあい鍼灸院』」 なんてのは、笑っちゃいけないのかもしれない。

     日本で最も多い温泉は、「ふれあい温泉」かもしれない。「ふれあいの湯」というのもある。お風呂に入って、なにに触れようというのか。

     ソープ嬢のブログを、間違って偶然に(絶対に意図的ではないという意味)覗いたら、「お客様との『心のふれあい』」などというセリフがあって大笑いした。

     今では、ああいうところも、からだではなく心の「ふれあい」らしい。それにしても、彼女たちの騙しの手口と役人たちのネーミングには、どこか共通するところがありはしまいか。