2009年9月30日水曜日

「サモア津波」の報じられ方


 南太平洋のサモア諸島沖で日本時間9月30日午前2時48分、M8.0という強い地震が起き、サモアを襲った津波で100人が死亡した恐れがあると報じられた。

 この日の読売新聞夕刊が1面トップでこのニュースを伝えたのを見て、ほんの少し時代が変わってきたのかな、と思った。

 日本の新聞は伝統的に、人の命の値段で一番高いのは日本人と設定し、続いて米国や欧州の先進国の人々、そのあとに発展途上国、経済発展が遅れている国ほど命は安くなる。

 どこかの国で大災害があれば、真っ先に注目するのは日本人犠牲者だ。さらに、例えば、米国のカリフォルニアで山火事が起き10人も死ねば大ニュースとして報じるが、バングラデシュのサイクロンで1000人死んでも、日本人が関わっていなければ社会面の片隅に置かれればいい方で、ニュースとして無視されることだってある。

 欧米を崇拝し、非欧米の第3世界を卑下するという「近代化日本」のメンタリティは報道にも反映していた。

 だが、サモア津波の報じ方は、日本の新聞の伝統的ニュース価値判断尺度には適合しなかった。①日本人犠牲者がいない②”遅れた国”の出来事で、死者は”たったの100人”―これだけで、大きなニュースにならない条件が整ったはずだ。

 なぜ変化が起きているのか。

 おそらく、日本人および日本社会、それを取り巻く環境の変化を反映しているのだろう。

 かつての東南アジア観光は、スケベ男たちの買春ツアーで占められていたのに、今では「アジア趣味」を満たそうとする若い女たちが殺到している。「エスニック料理」は日本の辺鄙な温泉街にまで進出している。団塊世代以上の年齢の日本人なら、ガイジン=白人、白人=アメリカ人という予断と偏見がしみついていたはずだ。だが、今では、様々な人種の人間が街を歩いている。職場の同僚がインド人でも、誰もビックリしなくなった。

 グローバル化は、人と人との垣根を取り払い、日本人の悪しき偏見をも薄めているように思える。これは良いことだと思う。

 とは言え、NHKのニュースは朝から、サモア地震による日本への津波到来の可能性ばかりを繰り返していた。無論、危険性はほとんどないにしても警戒は必要だが、多数の犠牲者が出たサモアの様子そのものを伝えるニュースは昼近くまで皆無だった。

 同じころ、オーストラリアのABCテレビのウェブページを開くと、サモア取材の経験があるGillian Bradford という女記者がこんなコメントを載せていた。

 We hear so much in Australia about early warning systems and the lessons learnt from the Asian Boxing Day tsunami.But how do we spread this technology to some of the most isolated spots on the globe where a phone or a television is considered a luxury?There are so many islands in the Pacific that may have been touched.
 <電話やテレビすら贅沢品の太平洋の島々に、津波の早期警戒システムなどというテクノロジーをどうやって普及させるというのだ>

 ジャーナリズムとしての人間への関心の深さが違う。読売新聞もNHKも、この津波をサモア人の目線で捉えようとするところまでは至っていない。

(写真は、サモアの”普通の波”)

2009年9月17日木曜日

民主党政権の誕生


 9月16日、民主党政権が正式に発足した。この歴史的な日をテレビは1日中、ニュースと特集で伝えていた。だが、世間の普通の人たちは、とくに興奮している様子もなく、まだ強い日差しの残る初秋の日は淡々と過ぎていった。

 前日の読売新聞夕刊に出ていた記事「特派員が見た『日本のチェンジ』」に登場したAFP通信東京特派員パトリス・ノボトニーの感想は、まさに、この点に触れていて興味を引いた。

 「衆院選で大勝した時、民主党の幹部たちが見せた笑顔は、すぐに思い出せないほど印象が薄い。国民も冷静で、(オバマ・フィーバーが起きた)米国のように、数万人の支持者が夜通し勝利を祝うような光景に出会うことはなかった。母国フランスでも1995年、社会党から政権を奪還したシラク大統領の支持者が、パリでの勝利宣言を歓喜の渦で迎えた姿が今も記憶に刻まれている。なぜ日本人はお祭り騒ぎにならないのか」

 フランス人記者の疑問には、色々な答えが可能だろうが、お祭り騒ぎにならなかったのは、決して日本的慎み深さのためではなかったとは断言できるだろう。

 今回の総選挙が、55年体制と呼ばれる自民党長期支配を終焉させる歴史を作ったのは事実だ。だが、それは国民が幸福感を共有するような出来事ではなかった。そういう興奮で言えば、民主党政権発足2日前にイチローが達成した大リーグ9年連続200本安打の新記録の方が、はるかに国民の共感を呼び起こした。

 1986年2月、フィリピンのマルコス独裁政権が崩壊した直後の首都マニラの雰囲気を思い出す。人々は解放感に浸り、誰もが愛国者になったように見えた。レストランやバーでは見知らぬ客同士がフィリピン国歌を唱和し、乾杯を繰り返していた。あの幸福感、euphoriaは、敢えて例えれば、阪神タイガーズが優勝した夜(何年前のことか知らないが)の道頓堀みたいなものかもしれない。

 フランス人記者がそれを期待したのだとしたら、日本の今の政治的、社会的雰囲気を読み違えていたのであって、東京特派員失格と言えなくもない。

 今回の選挙は、長期政権の打倒ではあったが、マルコスやスハルト、あるいはサダム・フセインといった独裁者の追放や革命ではなかった。とは言え、ノボトニーが言うように、日本人は確かに、選挙結果に本当に静かだった。実際のところ、街に繰り出して祝いたいなどとたいていの人は思いもしなかったろう。

 なぜだろう。

 おそらく、起きるのが遅すぎた出来事だったからだ。冷戦時代を支えた古臭い支配体制が、日本では冷戦が終わってから30年も続いた。他の国では様々な変化や変革が起きたのに、日本では鼻をつまみたくなるような強烈な加齢臭をまき散らす醜悪な老人たちとその子飼いたちがずっと居座っていた。

 今、日本人たちは、ほっとしているというところだと思う。やっと終わったと。

 1988年7月18日、イラン政府はイラクとの戦争終結を求める国連安保理決議598号を受諾すると発表した。これによって、8年にわたる不毛な殺し合い、イラン・イラク戦争がやっと終わった。双方が消耗し尽くし、誰もがうんざりしていた。

 その夜、テヘランではこの季節には珍しい雨が降った。街を歩いてみたが、終戦を喜ぶ市民の姿はなく、人気はほとんどなかった。老婆がひとり、ぶつぶつ言いながら歩いていた。

 「ジャンギ タマムショッ」「ジャンギ タマムショッ」

 「戦争が終わった」「戦争が終わった」と繰り返し、呟いていたのだ。それが喜びの声だとは到底思えなかった。空しく過ぎ去った日々と死んだ100万人の若者に涙しているように聞こえた。

 今度の日本の選挙結果とイラン・イラク戦争の終結を並べるのは、いくらなんでも…とは思う。

2009年9月14日月曜日

時空瞬間移動の旅


 フィリピンのセブ島に行ってきた。

 日本から外国を訪れる場合、東京からであれば、成田か羽田で飛行機に乗り、ある国の首都あるいは首都に準ずる大都市近郊にある空港に降り立つ。空港からは、タクシー、バス、鉄道などの交通機関を利用して市内に入り、ホテルにチェックインする。

 その後の旅行は大抵、到着した大都市が拠点となる。交通の流れがそうなっている。とりあえず大都市に到着すれば、まあまあ快適なベッド、そこそこの食事は保証されるし、旅行のための情報収集、交通手段の確保も容易だ。無駄のない合理的な旅行計画が立てられるというものだ。

 それはそれで良いのだが、初めての国の短期訪問、なおかつ大都市だけとなると、往々にして、その国の素顔や実像を見る機会を逸してしまう。「そんなこたあ、どうでもええ」とばかりに、どこの国に行っても日本食レストランでしか食事をしないようなヤカラには、まさに、どうでもいいことだ。だが、人間というものに関心のあるデリカシーを持ち合わせる人々には、物足りない旅になってしまう。

 とくに、発展途上国は大都会の表通りだけでは見られない様々な顔、想像もできないような面を隠し持っている。

 それは、近代化=西欧化が届いていない伝統社会の文化や風習だったり、とんでもない貧富の格差だったりする。目をそむけたくなるような惨めな極貧生活がある一方で、竜宮城のような大邸宅に住む富豪の贅沢三昧生活も存在するのだ。

 だが、貧しいとされる途上国の玄関口である空港からタクシーに乗ってホテルに向かうハイウェイの車窓から、汚れた貧民街の光景などほとんど見えない。観光で外貨を稼ぎたい国の当局者たちは、姑息にもハイウエイ沿いに塀を作って貧民街が外国人の目に入らないようにするのだ。

 ’そんなことはない、空港からタクシーに乗っただけで不潔な臭いが漂ってくることもあるし、交差点で止まれば乞食や物売りにまとわりつかれることがある’という反論があるかもしれない。だが、そういう国では、目に見えない裏口は、もっと、もっとひどいのだ。

 大都会はどこの国でも、多かれ少なかれ人間関係が相対的に希薄で、強盗、引ったくり、こそ泥といった犯罪の温床になりがちだ。伝統社会の紐帯から離れてやって来た地方出身者にも、そこは外国みたいなものだ。

 日本人でも、東京はあくまでも東京で、心の中にある日本とはどこか違うと感じる人は多いと思う。

 セブ島は、日本人にすっかり馴染みになっている観光地だ。ダイビング、ショッピング、エステ、それにナイトライフも充実しているし、拳銃だとか麻薬だとかのいけないモノも比較的容易に手に入るようだ。

 セブには日本から直行便が頻繁に飛んでいる。4時間余りのフライト。

 このセブ旅行には、人の家に玄関口ではなく裏口からいきなり入るような面白さがあった。


 セブの国際空港は、本島ではなく、本島中央部の東側の小さな島・マクタン島にある。そして、セブ・リゾートと言われるビーチの多くもマクタン島にある。
 

 夜、空港からバスでマクタン島南端のリゾートホテルに向かう。このわずか30分ほどのツアーが、まるで、東南アジアの劇的な経済発展が始まる1985年以前の世界への時空瞬間移動なのだ。


 空港から出ると、バスは直ぐに、バイクにサイドカーを付けたバタバタと呼ばれる三輪車の群れに捉まり、身動きできなくなる。道路の両側は、ハロハロという小汚いミニ・ショップ、不潔そうだがうまそうな焼き鳥屋、下手くそな化粧をした女たちが顔を見せている怪しげなマッサージ屋などがぎっしり並ぶ。穴だらけの歩道を埋め尽くす暇そうな人々の顔、顔、顔。

 奇跡の発展を遂げた現在の東南アジア諸国の玄関口で、こんな光景をいきなり目の当たりにすることは、もはやない。だが、セブにはそれがあった。飾らないフィリピン人の率直さのなせる技かもしれない。東南アジアの経済発展が地方までは決して及んでいないという現実があからさまに広がっていたのだ。

 世界有数の清潔な都市・東京から4時間余りで飛びこんだ古き良き猥雑なアジア。

 翌朝、刑務所のように高い塀で外部世界から隔離されたリゾートホテルから一歩出ると、そこは、ただの貧しい村だった。痩せた犬と鶏が走り回り、ヤギの一団が狭い道をふさぐ。すれ違う村人たちが人懐こく笑いかける。人の温もりに欠けた東京との心地良い落差。塀の中の人工的リゾートではない素朴な本物のリゾート。

 それにしても、外国人にやさしいマクタン島の人々を見ていると、500年の歴史を感じてしまう。

 この島は、あのマゼランが世界一周の途上、1521年に上陸し、イスラム教徒の王ラプラプとの戦闘で死んだ土地なのだ。ラプラプは以来、フィリピン人抵抗運動の象徴になっていた。

 今、この島の人々は、日本人だろうが、韓国人だろうが、あるいはヨーロッパ人だろうが、外国人であれば誰でも大歓迎する。外国人は、かつてフィリピンを支配したスペイン人やアメリカ人、日本人のような侵略者ではありえない。訪問者をもてなすことが、彼らの生業になっている。

 近ごろは、日本でも西欧中心史観に基づいて、「マゼランがフィリピンを発見した」とは言わなくなった。「発見」ではなく「到達」と表現するようになった。だが、マゼランが「発見」し、「フィリピン」と名付けられなければ、この多島海が「フィリピン」と呼ばれることはなかったし、「フィリピン」というナショナル・アイデンティティも存在しなかったろう。

 マクタン島の人々が今、「発見」だとか「到達」にこだわっているとは思わない。現実の生活が目の前にある。

 リゾートホテルのウエイトレスは月給6000ペソ、日本円でわずか1万2000円程度だが、良い給料で「幸せ」と言って微笑んだ。