インドネシアの村では、ニワトリが飛ぶ。 2,3mの高さの木の枝へ軽々と舞い上がる。 日本で見慣れたニワトリより小柄で痩せている。 市場に行くと、生きたまま売られている。 ブロイラーと比べれば、限りなく野生に近いトリと言えるかもしれない。
これがインドネシア伝統のフライドチキン、「アヤムゴレン」になる。 数種類のスパイスで下味を作って揚げたアヤムゴレンは引き締まった肉と深い味わいの逸品だ。
1983年、首都ジャカルタ中心部メンテン地区の繁華街アグス・サリム通りに、ケンタッキー・フライドチキンの店KFCがインドネシアで初めてオープンした。 典型的ジャンクフードのぶよぶよしたブロイラーのフライを、アヤムゴレンに親しんでいたインドネシア人が受け入れるとは思えなかった。 ところが、かなりの人気になってしまったのだ。
当時のインドネシアは現在につながる経済発展は動き出しておらず、貧富の差は絶望的な大きさで、ケンタッキーといえども庶民には高嶺の花だった。 結局、あの人気は、チキンよりも、金持ちたちが目新しい”アメリカ文化”を味わうために群がったことで成立したのだと思う。
そして、経済発展で庶民にも”文化”を味わう余裕が生まれ、今では、ぶよぶよチキンの店が地方都市にまで進出している。 アヤムゴレンという素晴らしい伝統料理がありながら、なぜ醜悪なケンタッキーが好まれるのか。 この背景には、Americanization という名のglobalization という我々が考えなければいけない問題が潜んでいるのかもしれない。
これは日本でも同じことだ。 実は、きのう、ケンタッキーは昔より美味くなったと誰かに言われ、10数年ぶりにケンタッキーの店に行って、クリスピー、つまりカラッと揚がってパリパリという触れ込みのフライドチキンを注文して食べた。 だが、相変わらず、クリスピーとは言えず、しかも、見事にジャンクフードであり続けていた。 トイレに行って吐きたくなった。
自作の和風唐揚げの方がはるかに美味い。 鶏肉を酒、醤油、にんにく、胡椒に漬け、片栗粉をまぶして揚げる。 味がしみ込み、パリンパリンのクリスピーが出来上がる。
昼時のケンタッキーの店は、若者のグループや家族連れで賑わっていた。 だが、よく見れば、誰も美味そうに食べている顔ではなかった。 とりあえず安い食い物で腹をふくらませているという無表情さだ。
貧しいからケンタッキーに行くのか、ケンタッキーに行くから心が貧しくなるのか。 あのまがい物のハンバーガー、マクドナルドと同様、食べると気持ちが萎えるKFCには、もう2度と行くまい。