2015年7月17日金曜日

新国立競技場をデザインした女


(ザハがデザインしたアゼルバイジャンのハイデル・アリエフ・センター)
2015年7月17日

 新国立競技場の巨額の工費に対する世間の反発には、安保法案でめげなかった鉄面皮・安倍晋三も不安になったようだ。 ついに支持率低下に歯止めをかけようと計画変更を決めた。

 それは別にして、この新国立競技場をデザインしたザハ・ハディドという人物は非常に興味深い。 デザインを採用した審査委員会委員長で、安っぽい目立ちたがり屋の建築家・安藤忠雄などより、はるかに奥行きがある。

 イラク人というが、国籍はイギリスで、彼女のデザインは常にユニーク過ぎて議論を呼ぶ。 むしろ、それが彼女の生き方なのかもしれない。 なにしろ、デザインだけで建設が実現しなかった経験が何度もあるのだ。 新国立競技場はそのリストに加えられる一つにすぎない。

 <以下、Wikipedia から>

 ザハ・ハディッド(ザハ・ハディド、ザハ・ハディードとも表記、Zaha Hadid、1950年10月31日 - 、アラビア語表記:زها حديد)は、イラク・バグダード出身、イギリス在住の女性建築家。現代建築における脱構築主義を代表する建築家の一人である。

 ザハ・ハディッドはイラクの首都バグダードに産まれた。父は政治家でリベラル系政党の指導者だった。建築に対する関心は、イラク南部に残っているシュメール文明の遺跡を訪れたときに芽生えた。ハディッドは以下のように述懐している。「父は私たちをシュメールの都市を見せに連れて行きました」、「まずボートで、さらにもっと小さい葦でできた小舟で沼地にある村々を訪れました。その風景の美しさ-砂、水、葦、鳥たち、家々、そして人々が一緒くたになって流れてゆく-忘れたことはありません。私は現代的なやり方で同じ事をしようと、設計と都市設計の形態を発見-発明することだと思っていますが-しようとしています」

 彼女は幼少期にカトリックが運営していたフランス語学校で学んだ。この学校はイスラム教徒であるザハやユダヤ教徒も共に机を並べるリベラルな雰囲気の学校だった。ベイルートのアメリカン・ユニバーシティで数学を学んだ。イラクでサッダーム・フセインが権力を握ると彼女の家族はイラクを脱出した。1972年にザハは渡英し、ロンドンの私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学(Architectural Association School of Architecture、AAスクール)で建築を学んだ。1977年に卒業するとAAスクールでの教師でもあったオランダ人建築家のレム・コールハースの設計会社Office of Metropolitan Architecture (OMA) で働き始めた。1980年に独立して自分の事務所を構えた。

 彼女の名が知られるようになったのは、1983年に行われたピーク・レジャー・クラブ (The Peak Leisure Club) の建築設計競技(コンペ)である。これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。磯崎の推薦によりザハが一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が鋭い軌跡を宙に残しながら飛び交うような設計案は、コンペ勝利直後に事業者が倒産したことで実際に建設されることはなかった。1980年代にはハーバード大学、イリノイ大学シカゴ校で教鞭をとったこともあり、1988年にニューヨーク近代美術館が主催した『脱構築主義者建築展』などでも注目されたが、独立後から十数年間は実現に至った建築は無かった。

 1990年に札幌のMonsoon Restaurantの内装を手掛け、同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家らとともにフォリーを手がけている。1993年から1994年の作品であるドイツのヴェイル・アム・ラインのヴィトラ消防署が、彼女にとって最初の実際に建設されたプロジェクトになった。これはスイスの家具・インテリア製造会社であるヴィトラの工場跡地に建設されたヴィトラ・デザイン・ミュージアムの一部であり、安藤忠雄のConference Pavilion、アルヴァロ・シザのProduction Hall、ジャン・プルーヴェのガソリンスタンド、バックミンスター・フラーのドームテント、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるショップ・カフェを併設するショールームなどが隣接している。

 1994年にはウェールズの首府カーディフのカーディフ・ベイ・オペラハウス (Cardiff Bay Opera House) の設計コンペに勝利したが、保守的なチャールズ皇太子がメディアを通して伝統主義的建築の復興を訴えるキャンペーンを行なっていた影響もあり、コンペはやり直しになった。二度目の選考でもハディッドが勝利すると資金提供を予定した国営クジ公社 (National Lottery) は建築計画を中止した。

 以後は国際デザインコンペで多く勝利している。2002年、シンガポールの都市計画コンペで勝利し、2005年にはバーゼルの新カジノ建設計画のコンペも入賞した。2012年には日本の新国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞し、設計に当たることになった。また、建築設計以外にも、ブリタニカ百科事典の編集委員の一員になるなど、活躍の場を広げている。

 建築における顕著な功績で2002年に大英帝国勲章コマンダー (CBE)、2012年に同デイム・コマンダー (DBE) を受章。2004年には女性初のプリツカー賞を受賞した。

 インテリアの仕事も多く、ロンドンのミレニアム・ドームの『マインド・ゾーン』の内装設計などが有名であるほか、東京・原美術館におけるドイツ銀行コレクション展の展覧会場設計も行っていた。

 2022年のFIFAワールドカップで使用されるカタールの新スタジアム「アル・ワクラ・スタジアム」を設計したが、その際、「女性器」のようなデザインだとして海外で話題にされてしまった。ザハの事務所「ザハ・ハディド・アーキテクト」が2013年11月下旬に新スタジアムのコンセプト画像を公開し、カタールの伝統的な漁船「ダウ船」をイメージし、見た目の美しさだけでなく、現地の強烈な日差しにも耐えられるよう工夫してつくられた。しかし、一般の目には「ダウ船」には映らず。デザインが発表されるとインターネット上では「女性器に似ている」として瞬く間に笑い話となってしまい、天井の中央に開いた穴、ひだ状の外壁、どれも女性器に見えるという。外観がライトアップされ薄桃色に色づいていることも想像をかきたてる原因になっているとされた。

 ブログサイト「Buzzfeed」がいち早く取り上げたのを皮切りに、その後、英紙「The Guardian」や、オピニオン雑誌「The Atlantic」のウェブサイトなどでも「Vagina Stadium(女性器スタジアム)」として報道。いくつかの深夜テレビでも報道された。風刺が得意の米テレビ番組「The Daily Show」では、米女性画家ジョージア・オキーフ氏の花をモチーフにした官能的な雰囲気の作品になぞらえて「the Georgia O'Keeffe of things you can walk inside(オキーフが描いた作品の中に歩いて入っていくようなものだ)」とジョークを飛ばされた。

 ザハ本人も黙っておらず、米TIME誌に対し「彼らのナンセンスな意見には本当に戸惑っているの」「彼らが何て言っているかって?建物の穴が女性器に見えるってことばかりよ。ばかげているわ」と批判は全て男性がしているかのように語り、「もし仮に男性が設計したのなら、こんな卑猥な比較はされなかったでしょう」と付け加え、デザインの問題であるにも関わらず女性差別を受けたかの様な発言をしている。

 しかし、大衆の「女性器に見える」という意見は変わらず、むしろ、火に油を注ぐ形となり、米ニューズウィークと合併したニュースサイト「デイリー・ビースト」では11月26日、「芸術作品の本質において、鑑賞者の反応は作家が伝えようとした意図と同様に重要である」と主張。最後には、女性器に見えるという感想は誰も非難すべきものではないと結んでいる。

 彼女は、ロシア構成主義の建築や美術の強い影響を受け、コンセプチュアルで空想的なものを現実空間に出現させ、見学・利用者に驚きを与えている。かつては、同じく脱構築主義者であるダニエル・リベスキンド同様に、実際の建築作品ではなく、建築思想の提唱者として、また過激なコンセプトを示した図面の製作者としてもっぱら知られていた。

 無数の道路やパイプのようなラインがゆるやかに折れ曲がり交差し重なり合いながら高速で流れるイメージや、近未来的で巨大な有機体状の構造物などを描いたドローイングを特徴とする。

脱構築主義
 建築における脱構築主義(Deconstructivism、Deconstruction、デコンストラクティビズム、デコンストラクション)とは、ポストモダン建築の一派であり、1980年代後半以降、2000年代に至るまで世界の建築界を席巻している。

 脱構築主義の建築家の多くは実際の設計には恵まれず、もっぱら建築思想家として、また建つことのない建築のイメージを描いたドローイングで有名であったが(例:ダニエル・リベスキンド)、後述するMOMAによる『脱構築主義者の建築』展のあと、1990年代以降は各地で実際の建築を設計するようになっている。ポストモダンの退潮後、モダニズム建築が復権するかたわら、脱構築主義は各国でのコンペに勝利することで、スタジアムや超高層ビルなどより広い活躍の場を得るようになっている。

 構造や覆いといった建築の要素に歪みや混乱を起こす非ユークリッド幾何学の応用などが特徴である。この様式で建てられた「デコン建築」の最終的な外観は、伝統的な建築様式ともモダニズム建築の箱型とも違う、アンバランスで予測不可能かつ刺激的なもので、ひねられたりずらされたり傾けられたりと、コントロールされた混沌とでもいうべき様相を呈する。

 脱構築主義に含まれる建築家の一部は、フランスの哲学者ジャック・デリダの著書と、その「脱構築」という思想に影響を受けている。また、他の建築家らはロシア構成主義に影響され、その幾何学的でアンバランスな非対称的形態を再現しようとしている。

 総じて脱構築主義の建築家らは、「形状は機能に従う」「素材に忠実であること」といった、モダニズム建築の抑圧的な『鉄則』と彼らが考えるものから、建築を遠ざけようと意図している。ただし、脱構築主義者とされている建築家の中には、自分たちの建築を脱構築的と分類されることを積極的に拒否する者もいる。

 一方で、ポストモダン建築のなかにある、さまざまな過去の建築様式や装飾を引用する折衷主義的な考えを強く拒否しており、より純粋に新しい建築を生み出そうとしてきた。

ロシア構成主義
 キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。1917年のロシア革命のもと、新しい社会主義国家の建設への動きと連動して大きく展開した。1922年のアレクセイ・ガン(Aleksei Gan)の『構成主義』が理論的基盤をもたらした。 

2015年7月14日火曜日

日韓、二つの絶滅危惧民族

(今はにぎわう明洞)
2015年7月14日

 人口減少が止まらない日本人は、計算上、やがて地球から消滅する絶滅危惧種だ。 絶滅はいつか、というと基準の取り方で様々だが、国立社会保障・人口問題研究所の「人口統計資料集(2015年)」は、現在の死亡率と出生率がこのまま続く仮定では、西暦3000年に日本人の人口は1000人になる。

 東北大学大学院経済学研究科のHP「日本の子ども人口時計」は、つい見入ってしまう。 1年間に減少する子どもの数は現在15.3万人と設定し、最後に残された子どもが一人になるのは、西暦3776年8月13日としている。 この日までのカウントダウンを「日・時間・分・秒」で表示している。

http://mega.econ.tohoku.ac.jp/Children/index_2015.jsp

 厚生労働省発表の最新人口動態調査(2014年)によると、1人の女性が生涯に産む子どもの数を推計する日本の合計特殊出生率は1.42。 世界的な少子化国だが、今や日本に限らず、大きな人口を抱える中国やロシアですら、少子化による将来の人口減という不安に直面している。

 最も深刻なのは、韓国であろう。 以下、ソウルからの昨年(2014年2月27日)の報道だ。

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 韓国 再び「超少子化」に=出生率1.19人

 【ソウル聯合ニュース】韓国で昨年、人口1000人当たりの出生数が8.6人と過去最低を記録し、1人の女性が生涯に産む子どもの平均数を示す合計特殊出生率も1.19人で超少子化の基準となる1.30人を再び下回ったことが分かった。
  韓国統計庁が27日発表した2013年の出生・死亡統計(暫定)によると、昨年の出生数は43万6600人で前年比9.9%減少した。2010~2012年は増加したが、再びマイナスとなった。人口1000人当たりの出生数も前年比1.0人減の8.6人で、統計を取り始めた1970年以降で最低だった。
 合計特殊出生率は1.19人と、前年から0.11人減少した。2005年に1.08人まで落ち込んだ後は徐々に回復し、2012年は1.30人に達したが、昨年は超少子化国に逆戻りした。経済協力開発機構(OECD)の平均(2011年)は1.70人。韓国は34加盟国の中で最も低い。
 統計庁は「29~33歳の女性の人口が減り、初婚年齢も上がったために第2子を産む割合が低下している。未婚者も増えている」と説明した。2012年は強い運気に恵まれるとされる60年に1度の「黒竜の年」で出産が増えたが、昨年はその反動もあった。

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 さらに、この報道は、韓国・国会立法調査処のシミュレーションによれば、合計特殊出生率が続けば、韓国人は2750年に絶滅すると伝えている。

 それによれば、2014年現在の韓国の人口は5000万人。 現在のペースで人口が減り続けると、約120年後の2130年ごろに1000万人、そして2750年にゼロになる。

 おそらく、こうなる以前に南北朝鮮統一が実現しているだろうから、この通りにはならないだろう。

 だが、日本人と韓国人の両方が絶滅危惧種なら、竹島などというちっぽけな島の領有権を勝ち取っても、どれほどの意味があるのだろうか。 はるかかなたの未来のことではあるが、なにか虚しい気持ちになる。 そこには誰もいなくなっているのだから。

2015年7月10日金曜日

戦後70年 ニッポンのODAとは

2015年7月10日

 2015年7月10日、読売新聞の第一面で、「ニッポンの貢献 戦後70年」という連載が始まった。 1回目は、日本の政府開発援助(ODA)の歴史をたどった記事だ。 
 日本のODAは、現在では中東、アフリカなどへも広がっているが、従来は東南アジアが中心だった。  そこに日本のODAの歴史的役割、本質がある。 だが、この連載はその本質部分には触れていない。 記事の内容からすると、外務省の役人のレクチャーをそのまま繰り返したという印象の記事ではある。 

 触れなければいけないのは、日本から東南アジア諸国への巨額のODAは、冷戦の産物だったという点だ。 東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ諸国で共産主義勢力が力をつけ、反共のタイやフィリピンでも、共産ゲリラが山間、農村部で影響力を拡大していた。 

 中国、北朝鮮、北ベトナムは既に共産化し、米国はさらに共産化が拡大するのではないか、共産化のドミノが起きるのではないかと警戒していた。 

 これを食い止めるには、どうすべきか。 米国は共産化の温床は貧困、経済発展の立ち遅れにあるとみた。 経済の底上げこそが、共産化を食い止めるための多少遠回りかもしれないが最良の道と考えた。
 
 そこで利用したのが、敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本の経済力だ。 米国の軍事力と日本の経済力というふたつの傘の下で東南アジアを共産主義から守ろうという戦略だ。

 援助の受け皿となったのは、非民主的な独裁だが反共指導者の国々。 こうして"開発独裁"という経済発展モデルが形成されていった。

 政治的自由を国民に与えれば、経済格差や独裁政権を批判する共産主義がはびこって混乱が生まれる、独裁者のもとで自由を規制し、政治の安定を維持したほうが経済が発展する―。

 フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルトの支配体制がその典型だ。 やがて、二人とも自由を求める人々に追い落とされていくが、こうした独裁支配を経済面で支えたのが日本のODAなのだ。

 1989年のベルリンの壁崩壊、ヨーロッパ社会主義諸国の混乱は、突然すぎる政治の自由化が引き起こした。 冷戦構造が崩れていく中で、アジアでは同じような混乱は起きなかった。 いや、起こりかけたが押さえ込まれた。 ヨーロッパの混乱をじっと観察していたベトナムや中国の支配者たちは、皮肉にも、かつて敵対していた東南アジア反共諸国の"開発独裁"という手法を取り入れ、自由化は経済だけに留め、政治の自由化には歯止めをかけたのだ。

 これは見事に成功した。 中国がソ連の二の舞になっていたら、現在の中国の目を見張る経済発展はありえなかったろう。

 辿っていけば、日本のODAとは、"開発独裁"という支配システムを構築し、非民主的な政権が生き残る術を生み出した諸悪の根源なのだ。 

2015年7月7日火曜日

「なでしこジャパン」って何?


                                                   2015年7月7日

 バンクーバーのサッカー女子ワールドカップで、なでしこジャパンは決勝まで進出し、最後まで諦めないカミカゼ的頑張りをみせたが、米国に完敗した。 その実力からして太平洋戦争同様、順当な結果だった。それでも、「準優勝」だと日本では大騒ぎしている。 負けた選手たちの帰国を大歓迎はヘンだから、やはり「準優勝」と言うしかないのだろう。

 だが、なんだかナショナリズムを煽る右翼政権の尻馬に乗っているような感じがしないでもない(太平洋戦争で負けた日本を「準優勝」とは言わない)。 ワールドカップのサッカーは、常に根の部分でナショナリズムとつながっている。 国旗を振り回す騒ぎ方はオリンピック以上のナショナリズムの発露だ。

 これは日本だけではない。 イスタンブールに住んでいたころ、サッカーの国際試合がある日は、大小さまざまなトルコ国旗を売る露店が道路沿いにずらりと並んだのを覚えている。 トルコ人の国家意識は格別高い。 彼らの愛国心は、難敵ドイツを相手にするとき絶頂に達し、興奮して銃を発砲するヤカラまで出てくる。

 敵との戦いのために集団で気持ちを高揚させる。 サッカーのワールドカップとはの疑似世界大戦なのだ。 

 米国でも、なでしこジャパンを叩きのめした夜(日本では朝)は歴史に残った。

 ニューヨーク・タイムズによると、試合を放送したフォックス・テレビの視聴者は2540万人で、米国の英語テレビが放映したサッカー試合の最高記録になった。 さらに、スペイン語テレビ・テレムンドの130万人を加えた総数2670万人は、昨年の男子ワールドカップ決勝ドイツ-アルゼンチン2650万人の記録をも超えた。
 
 米国の女子サッカー人気はわからないでもない。 国際サッカー連盟(FIFA)は増収賄などの悪事ばかりでなく、役に立つ地道な統計も集計している。 それによると、米国の女子サッカー人口は世界一の720万人、協会登録者だけで130万人にのぼる。 世界の女子サッカー人口は2600万というから、28%がアメリカ人ということになる。

 西海岸オレゴン州に住む日本人の女友だちにきくと、米国では学校内スポーツは男女平等の機会が与えられている。 とくにサッカーは幼稚園から大学まで女子スポーツとしても盛んだという。 ワールドカップを圧倒的強さで制覇する実力を生む底辺の広さがうかがえる。

 ただ、彼女のアメリカ人ボーイフレンドは若いころプロになるのを夢見たサッカー狂だが、女子サッカーには関心がなく、サッカーは男のものだという態度をかいまみせる。 女子サッカーが本物のメジャーになるには、もう少しなのかもしれない。

 翻って、日本の女子スポーツの現状に目を向けると、なでしこ人気はなんとも不思議な現象だ。

 日本の女子サッカー人口は約30万人、協会登録者は26000人くらい(2006年段階)。 ドイツは日本の人口規模に比較的近い(8200万人)が、7倍以上の220万人、登録者は38倍以上の106万人。 他の強豪国と比べ、日本の裾野は実に小さい。

 高体連登録選手数(2010年)で見ても、女子サッカーは8421人で他競技と比較すると少ない方だ。ちなみに、バスケットボール62598人、バレーボール61575人、卓球18994人、柔道5220人、体操2870人、等々。

 実際、日本の日常生活で女子サッカーをみかけることなど、テレビを除けばまったくと言っていいほどない。 いったい、どこで練習をしているのだろうか。 

 女性たちがサッカーをやっているのを見たことがないわけではないが、たいていは"冗談"の域を出るものではない。 「あら、ボールどこに行っちゃったのかしら?」「いやーねえ、ゴールに入っているじゃない」「ホント、だれが蹴ったのかしら」「ヘンねえ、ハハハハ!」

 メディアが伝える華麗な女子サッカーと現実世界がまったく結びつかない。 実に不思議なスポーツだ。 

真珠の首飾り


                                                   2015年7月7日

 5月(2015年)のスリランカ旅行は、きっと良い思い出として、ずっと記憶に残るだろう。 人々の明るい笑顔と親切、緑あふれる自然、素朴な農村の風景、ずっしりと重みのある歴史遺産、愛くるしくも、ときに荒々しい野生動物たちとの出会い。 実に充実した時間を過すことができた。

 ただ、この旅で、ひとつだけ異様な光景にめぐりあった。 忘れないうちに記しておこう。

 首都コロンボでも最も現代的な景観のフォートと呼ばれる高層ビルが建ち並ぶ地域。 インド洋がすぐ目の前。 海沿いには片側2車線のよく整備された道路が走り、海岸には広い遊歩道が続いている。 ここは、家族連れや恋人たちの憩いの場でもある。

 この海岸通りに、海に向かって金網フェンスが延々と張られたところがある。 その先には広大な造成途中の埋立地が広がっている。 何本もの巨大なクレーンが立っている。 様々な建設機械も見える。 だが動いてはいない。 人の姿もない。 遊歩道を楽しげに散策する人々の姿とは対照的に、動きのない沈黙の世界。 

 フェンスに沿って歩いていて、大きな告知板をみつけた。

 「The Port City Project is temporarily suspended....... The project will be restarted after approval from relevant government institutions.....」

 ふーん、この造成地はポート・シティ・プロジェクトというのか。 それが一時的に中断されて、工事再開は当局の承認後...。

 これを見て思い出した。 この不気味な光景は、通常は漠としてイメージが定まらない国際政治の現実を、目の前に直接見ることができる珍しい現場だったのだ。
 
 2009年、スリランカでは30年にわたって続いていた内戦が終結し、海外資本を積極的に導入して国家再建が始まった。 当時の大統領ラージャパクサはインフラ整備で中国に全面的に頼った。 首都コロンボと空港を結ぶ高速道路建設はその関係を象徴する。 

 そして、2013年、中国が総額14億3000万米ドルを投じたポート・シティ・プロジェクトが始まった。 新たな港湾都市建設と呼んでいい規模で、開発面積は230ヘクタール。 日本の広さの単位「東京ドーム」で表現すれば49個分。 公園や居住区、オフィスビル、高級ホテル、ショッピングセンターなどが整備される。 完成は2016年で、中国は見返りとして50ヘクタールを99年間租借することになった。

 当然のことながら、中国の世界戦略の一環として、このプロジェクトは国際的な耳目を集めた。 米国の国防総省が2005年ごろから、中国を警戒して使い始めた表現である「真珠の首飾り戦略」にぴったりと当てはまったからだ。

 真珠の首飾り( String of Pearls)戦略とは、香港から南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、ペルシャ湾などを経て中東アフリカまで延びる中国の海上交通要路を政治的、軍事的に確保しようとするものだ。 中国はそんな戦略など存在しないと否定するが、現実は、この海域への中国の並々ならぬ関心を示唆している。 スリランカはインド洋に突き出した位置にあり、この"戦略"の地理的要衝になる。

 この一帯で戦略的に中国のライバルとなるインドや米国が警戒してみつめる中、ポート・シティの造成工事は着々と進んでいた。 だが、ドラマは急展開した。

 今年(2015年)1月8日に行われた大統領選挙で、中国べったりだった現役ラージャパクサが、対立候補の前保健大臣マイトリパラ・シリセーナに僅差の得票率で敗れたのだ。 シリセーナは、ラージャパクサの汚職体質、独裁的手法、さらに中国偏重の姿勢を「援助の罠」にかかっていると批判していた。

 シリセーナ新政権発足によって、スリランカの対中国姿勢にはたちまち変化が現われた。
 ラージャパクサの中国との関係には、出身地の南部ハンバントタに港湾や空港を建設するような不透明さがあった。 また、中国のプロジェクトには大量の中国人労働者が送り込まれ、地元から反感を持たれていた。 新政権は、こうしたプロジェクトのいくつかを中断させた。 その代表が「ポート・シティ」だった。

 シリセーナは、この地域で中国と覇権を競うインドにも接近する。 2月には大統領就任後初めての外遊でインドを訪問し、2国間の原子力協力に合意した。 さらに、安全保障面での協力拡大も進めることになった。 インド洋の地政図が瞬く間に塗り替えられた。 明らかに、中国の大きな後退だ。

 工事が止まったポート・シティ・プロジェクトの殺伐とした現場は、覇権争いという国際政治の戦場なのだ。
 
 ラージャパクサはまだ政治的に葬り去られたわけではない。 政権復帰への野心満々だという。 スリランカの政治は決して安定はしていないということだ。 今は岸辺でペリカンが巣を作っているだけのプロジェクト現場はまた騒々しくなるかもしれない。