(ザハがデザインしたアゼルバイジャンのハイデル・アリエフ・センター) |
新国立競技場の巨額の工費に対する世間の反発には、安保法案でめげなかった鉄面皮・安倍晋三も不安になったようだ。 ついに支持率低下に歯止めをかけようと計画変更を決めた。
それは別にして、この新国立競技場をデザインしたザハ・ハディドという人物は非常に興味深い。 デザインを採用した審査委員会委員長で、安っぽい目立ちたがり屋の建築家・安藤忠雄などより、はるかに奥行きがある。
イラク人というが、国籍はイギリスで、彼女のデザインは常にユニーク過ぎて議論を呼ぶ。 むしろ、それが彼女の生き方なのかもしれない。 なにしろ、デザインだけで建設が実現しなかった経験が何度もあるのだ。 新国立競技場はそのリストに加えられる一つにすぎない。
<以下、Wikipedia から>
ザハ・ハディッド(ザハ・ハディド、ザハ・ハディードとも表記、Zaha Hadid、1950年10月31日 - 、アラビア語表記:زها حديد)は、イラク・バグダード出身、イギリス在住の女性建築家。現代建築における脱構築主義を代表する建築家の一人である。
ザハ・ハディッドはイラクの首都バグダードに産まれた。父は政治家でリベラル系政党の指導者だった。建築に対する関心は、イラク南部に残っているシュメール文明の遺跡を訪れたときに芽生えた。ハディッドは以下のように述懐している。「父は私たちをシュメールの都市を見せに連れて行きました」、「まずボートで、さらにもっと小さい葦でできた小舟で沼地にある村々を訪れました。その風景の美しさ-砂、水、葦、鳥たち、家々、そして人々が一緒くたになって流れてゆく-忘れたことはありません。私は現代的なやり方で同じ事をしようと、設計と都市設計の形態を発見-発明することだと思っていますが-しようとしています」
彼女は幼少期にカトリックが運営していたフランス語学校で学んだ。この学校はイスラム教徒であるザハやユダヤ教徒も共に机を並べるリベラルな雰囲気の学校だった。ベイルートのアメリカン・ユニバーシティで数学を学んだ。イラクでサッダーム・フセインが権力を握ると彼女の家族はイラクを脱出した。1972年にザハは渡英し、ロンドンの私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学(Architectural Association School of Architecture、AAスクール)で建築を学んだ。1977年に卒業するとAAスクールでの教師でもあったオランダ人建築家のレム・コールハースの設計会社Office of Metropolitan Architecture (OMA) で働き始めた。1980年に独立して自分の事務所を構えた。
彼女の名が知られるようになったのは、1983年に行われたピーク・レジャー・クラブ (The Peak Leisure Club) の建築設計競技(コンペ)である。これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。磯崎の推薦によりザハが一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が鋭い軌跡を宙に残しながら飛び交うような設計案は、コンペ勝利直後に事業者が倒産したことで実際に建設されることはなかった。1980年代にはハーバード大学、イリノイ大学シカゴ校で教鞭をとったこともあり、1988年にニューヨーク近代美術館が主催した『脱構築主義者建築展』などでも注目されたが、独立後から十数年間は実現に至った建築は無かった。
1990年に札幌のMonsoon Restaurantの内装を手掛け、同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家らとともにフォリーを手がけている。1993年から1994年の作品であるドイツのヴェイル・アム・ラインのヴィトラ消防署が、彼女にとって最初の実際に建設されたプロジェクトになった。これはスイスの家具・インテリア製造会社であるヴィトラの工場跡地に建設されたヴィトラ・デザイン・ミュージアムの一部であり、安藤忠雄のConference Pavilion、アルヴァロ・シザのProduction Hall、ジャン・プルーヴェのガソリンスタンド、バックミンスター・フラーのドームテント、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるショップ・カフェを併設するショールームなどが隣接している。
1994年にはウェールズの首府カーディフのカーディフ・ベイ・オペラハウス (Cardiff Bay Opera House) の設計コンペに勝利したが、保守的なチャールズ皇太子がメディアを通して伝統主義的建築の復興を訴えるキャンペーンを行なっていた影響もあり、コンペはやり直しになった。二度目の選考でもハディッドが勝利すると資金提供を予定した国営クジ公社 (National Lottery) は建築計画を中止した。
以後は国際デザインコンペで多く勝利している。2002年、シンガポールの都市計画コンペで勝利し、2005年にはバーゼルの新カジノ建設計画のコンペも入賞した。2012年には日本の新国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞し、設計に当たることになった。また、建築設計以外にも、ブリタニカ百科事典の編集委員の一員になるなど、活躍の場を広げている。
建築における顕著な功績で2002年に大英帝国勲章コマンダー (CBE)、2012年に同デイム・コマンダー (DBE) を受章。2004年には女性初のプリツカー賞を受賞した。
インテリアの仕事も多く、ロンドンのミレニアム・ドームの『マインド・ゾーン』の内装設計などが有名であるほか、東京・原美術館におけるドイツ銀行コレクション展の展覧会場設計も行っていた。
2022年のFIFAワールドカップで使用されるカタールの新スタジアム「アル・ワクラ・スタジアム」を設計したが、その際、「女性器」のようなデザインだとして海外で話題にされてしまった。ザハの事務所「ザハ・ハディド・アーキテクト」が2013年11月下旬に新スタジアムのコンセプト画像を公開し、カタールの伝統的な漁船「ダウ船」をイメージし、見た目の美しさだけでなく、現地の強烈な日差しにも耐えられるよう工夫してつくられた。しかし、一般の目には「ダウ船」には映らず。デザインが発表されるとインターネット上では「女性器に似ている」として瞬く間に笑い話となってしまい、天井の中央に開いた穴、ひだ状の外壁、どれも女性器に見えるという。外観がライトアップされ薄桃色に色づいていることも想像をかきたてる原因になっているとされた。
ブログサイト「Buzzfeed」がいち早く取り上げたのを皮切りに、その後、英紙「The Guardian」や、オピニオン雑誌「The Atlantic」のウェブサイトなどでも「Vagina Stadium(女性器スタジアム)」として報道。いくつかの深夜テレビでも報道された。風刺が得意の米テレビ番組「The Daily Show」では、米女性画家ジョージア・オキーフ氏の花をモチーフにした官能的な雰囲気の作品になぞらえて「the Georgia O'Keeffe of things you can walk inside(オキーフが描いた作品の中に歩いて入っていくようなものだ)」とジョークを飛ばされた。
ザハ本人も黙っておらず、米TIME誌に対し「彼らのナンセンスな意見には本当に戸惑っているの」「彼らが何て言っているかって?建物の穴が女性器に見えるってことばかりよ。ばかげているわ」と批判は全て男性がしているかのように語り、「もし仮に男性が設計したのなら、こんな卑猥な比較はされなかったでしょう」と付け加え、デザインの問題であるにも関わらず女性差別を受けたかの様な発言をしている。
しかし、大衆の「女性器に見える」という意見は変わらず、むしろ、火に油を注ぐ形となり、米ニューズウィークと合併したニュースサイト「デイリー・ビースト」では11月26日、「芸術作品の本質において、鑑賞者の反応は作家が伝えようとした意図と同様に重要である」と主張。最後には、女性器に見えるという感想は誰も非難すべきものではないと結んでいる。
彼女は、ロシア構成主義の建築や美術の強い影響を受け、コンセプチュアルで空想的なものを現実空間に出現させ、見学・利用者に驚きを与えている。かつては、同じく脱構築主義者であるダニエル・リベスキンド同様に、実際の建築作品ではなく、建築思想の提唱者として、また過激なコンセプトを示した図面の製作者としてもっぱら知られていた。
無数の道路やパイプのようなラインがゆるやかに折れ曲がり交差し重なり合いながら高速で流れるイメージや、近未来的で巨大な有機体状の構造物などを描いたドローイングを特徴とする。
脱構築主義
建築における脱構築主義(Deconstructivism、Deconstruction、デコンストラクティビズム、デコンストラクション)とは、ポストモダン建築の一派であり、1980年代後半以降、2000年代に至るまで世界の建築界を席巻している。
脱構築主義の建築家の多くは実際の設計には恵まれず、もっぱら建築思想家として、また建つことのない建築のイメージを描いたドローイングで有名であったが(例:ダニエル・リベスキンド)、後述するMOMAによる『脱構築主義者の建築』展のあと、1990年代以降は各地で実際の建築を設計するようになっている。ポストモダンの退潮後、モダニズム建築が復権するかたわら、脱構築主義は各国でのコンペに勝利することで、スタジアムや超高層ビルなどより広い活躍の場を得るようになっている。
構造や覆いといった建築の要素に歪みや混乱を起こす非ユークリッド幾何学の応用などが特徴である。この様式で建てられた「デコン建築」の最終的な外観は、伝統的な建築様式ともモダニズム建築の箱型とも違う、アンバランスで予測不可能かつ刺激的なもので、ひねられたりずらされたり傾けられたりと、コントロールされた混沌とでもいうべき様相を呈する。
脱構築主義に含まれる建築家の一部は、フランスの哲学者ジャック・デリダの著書と、その「脱構築」という思想に影響を受けている。また、他の建築家らはロシア構成主義に影響され、その幾何学的でアンバランスな非対称的形態を再現しようとしている。
総じて脱構築主義の建築家らは、「形状は機能に従う」「素材に忠実であること」といった、モダニズム建築の抑圧的な『鉄則』と彼らが考えるものから、建築を遠ざけようと意図している。ただし、脱構築主義者とされている建築家の中には、自分たちの建築を脱構築的と分類されることを積極的に拒否する者もいる。
一方で、ポストモダン建築のなかにある、さまざまな過去の建築様式や装飾を引用する折衷主義的な考えを強く拒否しており、より純粋に新しい建築を生み出そうとしてきた。
ロシア構成主義
キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。1917年のロシア革命のもと、新しい社会主義国家の建設への動きと連動して大きく展開した。1922年のアレクセイ・ガン(Aleksei Gan)の『構成主義』が理論的基盤をもたらした。