2015年7月10日
2015年7月10日、読売新聞の第一面で、「ニッポンの貢献 戦後70年」という連載が始まった。 1回目は、日本の政府開発援助(ODA)の歴史をたどった記事だ。
日本のODAは、現在では中東、アフリカなどへも広がっているが、従来は東南アジアが中心だった。 そこに日本のODAの歴史的役割、本質がある。 だが、この連載はその本質部分には触れていない。 記事の内容からすると、外務省の役人のレクチャーをそのまま繰り返したという印象の記事ではある。
触れなければいけないのは、日本から東南アジア諸国への巨額のODAは、冷戦の産物だったという点だ。 東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ諸国で共産主義勢力が力をつけ、反共のタイやフィリピンでも、共産ゲリラが山間、農村部で影響力を拡大していた。
中国、北朝鮮、北ベトナムは既に共産化し、米国はさらに共産化が拡大するのではないか、共産化のドミノが起きるのではないかと警戒していた。
これを食い止めるには、どうすべきか。 米国は共産化の温床は貧困、経済発展の立ち遅れにあるとみた。 経済の底上げこそが、共産化を食い止めるための多少遠回りかもしれないが最良の道と考えた。
そこで利用したのが、敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本の経済力だ。 米国の軍事力と日本の経済力というふたつの傘の下で東南アジアを共産主義から守ろうという戦略だ。
援助の受け皿となったのは、非民主的な独裁だが反共指導者の国々。 こうして"開発独裁"という経済発展モデルが形成されていった。
政治的自由を国民に与えれば、経済格差や独裁政権を批判する共産主義がはびこって混乱が生まれる、独裁者のもとで自由を規制し、政治の安定を維持したほうが経済が発展する―。
フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルトの支配体制がその典型だ。 やがて、二人とも自由を求める人々に追い落とされていくが、こうした独裁支配を経済面で支えたのが日本のODAなのだ。
1989年のベルリンの壁崩壊、ヨーロッパ社会主義諸国の混乱は、突然すぎる政治の自由化が引き起こした。 冷戦構造が崩れていく中で、アジアでは同じような混乱は起きなかった。 いや、起こりかけたが押さえ込まれた。 ヨーロッパの混乱をじっと観察していたベトナムや中国の支配者たちは、皮肉にも、かつて敵対していた東南アジア反共諸国の"開発独裁"という手法を取り入れ、自由化は経済だけに留め、政治の自由化には歯止めをかけたのだ。
これは見事に成功した。 中国がソ連の二の舞になっていたら、現在の中国の目を見張る経済発展はありえなかったろう。
辿っていけば、日本のODAとは、"開発独裁"という支配システムを構築し、非民主的な政権が生き残る術を生み出した諸悪の根源なのだ。
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