人が、川崎港の「東扇島」という埋立地へ行くには、「人道」を通らなければならない。 非人道は許されない。 「人道」は海の底の下、地獄を
連想させるようなトンネルだ。
長さ1200メートル。 一直線。 まったく曲がらない。 「人道」を外れたり、曲がることはできない。 「非人道」は許されないのだ。 とにかく「人道」なのだから。
「人道」で可能な数少ない「非人道的」なことをやってみた。 歩かなくてはいけない「人道」を自転車で突っ走った。 平日の午後、「人道的」な人の姿が皆無だったので、緩やかな直線の下り坂を全速力。 まるで必死に逃げる極悪人。 なぜなら、「自転車は降りてください」というスピーカーから流れる 女の音声が、魔女のように追いかけてくるからだ。 下り坂は中間地点から上り坂になる。 スピードが落ち、魔女がすぐ背後まで迫ってくる。 捕まる寸前に出口にたどりつく。
出口から地上に出て、「人道」の束縛から解放されたところは、小さな公園だった。 そこには、草むらにやがて覆われそうな石碑があった。 「川崎漁業ゆかりの地」と記してある。
巨大な倉庫と貨物輸送用の大型トレーラーしか目に入らず、人の臭いが皆無の埋立地で、「漁業」という人の姿がたくさん詰まった言葉にばったり出会って、ぎょっとする。
ポケットからスマホをひっぱり出して調べる。
「川崎漁業ゆかりの地」の碑は、川崎区東扇島の海底トンネルの上に建っています。昔、このあたりは「大師の海」と呼ばれた遠浅の海が広がっていました。明治4(1871)年、村の有志が国から海面の使用権を借り受け、海苔の養殖を始めたのが川崎の漁業の始まりです。多摩川が運ぶ豊富な養分に恵まれたこの海は、ハマグリやアサリ、アオヤギがよく育ち貝捲き漁が盛んで、品質の良い海苔は「大師のり」として全国に知られました。大正年間には漁協の組合員が500人を数え、遠く東北地方などからも1,000人を超す出稼ぎの人が来ていたということです。
しかし、昭和になって海は順々に埋め立てられ、大規模工場や石油コンビナートの建設、運河を航行する船舶からの重油流出などにより海の様子は一変しました。昭和48(1973)年、さらに大規模な埋め立て工事によって漁場が失われ、川崎の漁業は100年の歴史の幕を閉じることになります。この碑は漁業組合の解散を記念して建てられました。「伊予石」という銘石が使われています。(川崎市川崎区)
1973年、今から43年前まで、ここに貝を採ったり海苔をつくる漁師たちがいたとは。
あの「人道」トンネルには、水圧ばかりでなく、漁師たちの亡霊が重くのしかかっていたのだ。
(広辞苑によれば、「人道」には「歩道」の意味もあるそうだ)
2015年10月6日火曜日
忘れてはいけない<サンダカン死の行進>
(サンダカン中心地。 隣接するフィリピンのイスラム過激組織「アブ・サヤフ」がたまに姿を現すこともあるが、今ではマレーシアの普通の地方都市だ) |
9月にボルネオに行って、オランウータンに会ってきた。 ほかにも、テングザルやマレーグマにも出会い、ジャングルのエコツアーを十分堪能した。 交通の拠点にしたのは、日本では山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で知られるようになったサンダカン市だ。 ここに行って観光案内を見て、かすかに記憶にあった「サンダカン死の行進」を思い出した。 日本軍の忌まわしい戦争犯罪だ。 今の日本で知る人は少ない。 外国人観光客がエコツアーを楽しむのと同じジャングルで、太平洋戦争末期、悲惨な出来事が起きていたのだ。 以下、2015年1月15日付け東京新聞からの引用。
七十年前の太平洋戦争末期、東南アジア・ボルネオ島で、日本ではあまり知られていないある悲劇が起きた。一九四五年一月二十九日、旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、連合軍の捕虜ら約千人にジャングルを二百六十キロ歩かせる「死の行進」が始まった。生き残ったのは脱走した六人のオーストラリア兵のみ。その一人、ディック・ブレイスウェイトさん(故人)の長男リチャードさん(67)は、戦後も恐怖におびえ続ける父を見て育った。 (菊谷隆文)
防衛拠点の移動に伴い捕虜に物資を運ばせた死の行進で、食糧は住民から略奪するしかなかった。脱走してもマラリアと飢えに苦しみ、木の根を枕に休んでいると、アリに足をかまれて目が覚めた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
死の行進で、捕虜は重い荷物を背に一日十八キロも歩かされた。途中で力尽きた人、遅れて銃や剣で殺された人もいた。ディックさんの班は四五年六月初めに出発。数日後、監視員の目を盗み茂みに飛び込んだ。
せきが止まらず日本兵に見つかったが、とっさに殴り殺した。密林を丸三日さまよい、日本軍のボートが行き来する川のほとりであきらめかけていた時、住民に助けられ、フィリピンの米軍基地にたどり着いた。体重は捕虜になる前の半分の三一キロだった。
多くの友を失ったディックさんは八一年、ボルネオ島での追悼式に出席した。途中のマニラで見た日本人の観光客に怒りがこみ上げた。その五年後、六十九歳で亡くなった。
強い反日感情を抱き続けた生涯だったが、晩年は日本車に乗り、日本人セールスマンに冗談を言うこともあった。リチャードさんら子どもには「日本人を憎むな」と教えたという。
リチャードさんは大学講師だった十年前、ある元日本兵(故人)の回想記を読んだ。ボルネオのジャングルを六百キロ歩き続けて生還した体験が、父と重なった。英訳本を編集し、言葉を寄せた。「私たちの周りの人が体験した恐ろしい出来事に憎しみを持ち続けることは、その傷を治すことを遅らせるだけだ」
サンダカン捕虜収容所で死亡したオーストラリア兵の顔写真=オーストラリア戦争記念館で
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◆悲劇伝える1787の顔
壁一面を覆い尽くしたおびただしい顔写真が、わずかな明かりに浮かび上がる。オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館の一室。太平洋戦争中、ボルネオ島にあった旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、「死の行進」などにより死亡した千七百八十七人のオーストラリア人捕虜の遺影だ。
サンダカンには約七百人の英国人を含め約二千五百人の捕虜が収容され、生き残ったのは六人だけだった。生存率はわずか0・24%。説明板には「オーストラリアの戦争史で最大の悲劇」と記されている。
「戦後、捕虜の過酷な経験が新聞やラジオで伝えられた。オーストラリアには個人の物語を賛辞する文化がある。私たちもそこに焦点を当て、遺族から写真を集めた」。戦争記念館で旧日本軍を研究しているスティーブン・ブラード博士(52)は、この部屋を特別に設けている理由を語った。
わずかな食糧で過酷な労働を強いられ、病で薬を与えられないまま死んだ人、ジャングルを二百六十キロも歩かされた死の行進で力尽きた人、衰弱して最後は殺害された人…。この部屋に入った来場者は、元気だったころの彼らのまっすぐなまなざしに息をのむ。 一つ一つの顔写真を指でなぞる幼い男の子がいた。父親が寄り添って語りかける。生き残った六人は既にこの世にいないが、旧日本軍に理不尽に命を奪われた捕虜たちの物語は、戦争を知らない世代にも刻み込まれている。
一方の日本では終戦から現在に至るまで、サンダカンをはじめ旧日本軍による連合軍捕虜への戦争犯罪は、ほとんど知られていない。
初めての謝罪は一九五七年。首相だった岸信介氏がオーストラリアを訪れた際に伝えた。その孫の安倍晋三首相は昨年七月、オーストラリアを訪問し、戦争記念館にも足を運んだ。
連邦議会での演説ではサンダカンに触れ、「何人の将来ある若者が命を落としたか。生き残った人々が戦後長く苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。哀悼の誠をささげます」と述べた。祖父が述べた謝罪の言葉は口にはしなかった。 ブラード博士は「日本の首相がオーストラリアを訪れるたびに謝罪が必要とは思わない。しかし、過去に実際にあったことを忘れていいとは思わない」と語る。そして、戦後五十年の区切りに当時の村山富市首相が出した「村山談話」にある「歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らない」という言葉を引き合いに、強調した。
「日本が収容したオーストラリア人捕虜は二万二千人で三分の一以上の八千人が死亡した。(日本と同盟国の)ドイツが収容した捕虜は約5%しか死んでいない。これが、過去に何があったかを振り返らなければならない理由だ」
2015年10月4日日曜日
秋空の下、東京・下町飲み歩き
われわれ山の手生まれの目で下町っ子を見ると、まず言葉遣いで落語の世界から飛び出してきたように思えてしまう。
例えば、東北や九州の人と会話すれば、相手を地理的に離れたところから来たと思う。 だが、下町の人は、まるでタイムマシンで時空を越えて、江戸時代の世界からやって来たかのようなのだ。 つまり、距離感とは違う遠さがあるのだ。
だから、下町に行くというのは、東京を西から東へ地下鉄で都心を横切って単に移動するだけではなく、見知らぬ土地に足を踏み入れるような、ある種の旅をする感覚を抱かせる。
「日本橋エリア利き歩き」という催しがあった。 日本橋から人形町あたりにかけての飲み屋が秋の土曜日の午後開放され、各地の日本酒利き酒の会場となった。 前払い2500円で飲みたいだけ利き酒をできる。
これは、ちょっとした”下町旅行”ではないか。 行ってみると、きっとこれが東京に遊びに来た”お上りさん”という気分。 同じ東京の光景なのだが、飲み屋のたたずまいはどこか違う。 なんとなく昔懐かしい、こういう店で腰を据えて飲みたいという気持ちにさせられる。
通りには、われわれと同じような”東京お上りさん”が大勢うろうろしている。 店によっては、酒を口にするまで、かなりの行列を待たねばならない。 とはいえ、長くて、せいぜい10分くらいか。
案内によれば、全部で37店。 酒は326種。 午後2時から6時30分までの4時間半で全部味わうのは不可能だ。 大吟醸だの、なんとか搾りといった値の張りそうな銘柄も並ぶ。
案内の注意書きには、「全蔵制覇は飲酒量的に危険ですので、おやめ下さい」とある。 そりゃ、そうだ。
だが焦ることはない。 飲み放題というから酒はたっぷりあるのだ。
店に入って、受付で貰ったお猪口に好みの酒を注いでもらう。 注いでくれるのは蔵元から派遣された味をよく知る玄人たちで、質問すれば色々教えてくれる。
われわれは4店ほど回ったか。 1か所で3種類飲んだとして、12種類の酒を楽しんだ。 それぞれ、お猪口で1,2杯といったところか。
晴れた秋空の下、次の店を目指して、ほろ酔い加減で街を歩く。 ちょっと飲んでは、ちょっと歩く。 だから、ずっと深くは酔わない。 これも悪くはない。 こんな飲み方は初めての体験だろう。
これを機に、人形町あたりで、また飲んでみようか。 次は、旅行者、観光客ではなく、東京人として。
とはいえ、山の手の連中の気取ったしゃべり方が気に食わねえ、って啖呵を切るような本物の江戸っ子には会えなかった。
そんな江戸っ子はもう絶滅しちまったから、気軽に飲めたのかな?
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