(サンダカン中心地。 隣接するフィリピンのイスラム過激組織「アブ・サヤフ」がたまに姿を現すこともあるが、今ではマレーシアの普通の地方都市だ) |
9月にボルネオに行って、オランウータンに会ってきた。 ほかにも、テングザルやマレーグマにも出会い、ジャングルのエコツアーを十分堪能した。 交通の拠点にしたのは、日本では山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で知られるようになったサンダカン市だ。 ここに行って観光案内を見て、かすかに記憶にあった「サンダカン死の行進」を思い出した。 日本軍の忌まわしい戦争犯罪だ。 今の日本で知る人は少ない。 外国人観光客がエコツアーを楽しむのと同じジャングルで、太平洋戦争末期、悲惨な出来事が起きていたのだ。 以下、2015年1月15日付け東京新聞からの引用。
七十年前の太平洋戦争末期、東南アジア・ボルネオ島で、日本ではあまり知られていないある悲劇が起きた。一九四五年一月二十九日、旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、連合軍の捕虜ら約千人にジャングルを二百六十キロ歩かせる「死の行進」が始まった。生き残ったのは脱走した六人のオーストラリア兵のみ。その一人、ディック・ブレイスウェイトさん(故人)の長男リチャードさん(67)は、戦後も恐怖におびえ続ける父を見て育った。 (菊谷隆文)
防衛拠点の移動に伴い捕虜に物資を運ばせた死の行進で、食糧は住民から略奪するしかなかった。脱走してもマラリアと飢えに苦しみ、木の根を枕に休んでいると、アリに足をかまれて目が覚めた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
死の行進で、捕虜は重い荷物を背に一日十八キロも歩かされた。途中で力尽きた人、遅れて銃や剣で殺された人もいた。ディックさんの班は四五年六月初めに出発。数日後、監視員の目を盗み茂みに飛び込んだ。
せきが止まらず日本兵に見つかったが、とっさに殴り殺した。密林を丸三日さまよい、日本軍のボートが行き来する川のほとりであきらめかけていた時、住民に助けられ、フィリピンの米軍基地にたどり着いた。体重は捕虜になる前の半分の三一キロだった。
多くの友を失ったディックさんは八一年、ボルネオ島での追悼式に出席した。途中のマニラで見た日本人の観光客に怒りがこみ上げた。その五年後、六十九歳で亡くなった。
強い反日感情を抱き続けた生涯だったが、晩年は日本車に乗り、日本人セールスマンに冗談を言うこともあった。リチャードさんら子どもには「日本人を憎むな」と教えたという。
リチャードさんは大学講師だった十年前、ある元日本兵(故人)の回想記を読んだ。ボルネオのジャングルを六百キロ歩き続けて生還した体験が、父と重なった。英訳本を編集し、言葉を寄せた。「私たちの周りの人が体験した恐ろしい出来事に憎しみを持ち続けることは、その傷を治すことを遅らせるだけだ」
サンダカン捕虜収容所で死亡したオーストラリア兵の顔写真=オーストラリア戦争記念館で
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◆悲劇伝える1787の顔
壁一面を覆い尽くしたおびただしい顔写真が、わずかな明かりに浮かび上がる。オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館の一室。太平洋戦争中、ボルネオ島にあった旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、「死の行進」などにより死亡した千七百八十七人のオーストラリア人捕虜の遺影だ。
サンダカンには約七百人の英国人を含め約二千五百人の捕虜が収容され、生き残ったのは六人だけだった。生存率はわずか0・24%。説明板には「オーストラリアの戦争史で最大の悲劇」と記されている。
「戦後、捕虜の過酷な経験が新聞やラジオで伝えられた。オーストラリアには個人の物語を賛辞する文化がある。私たちもそこに焦点を当て、遺族から写真を集めた」。戦争記念館で旧日本軍を研究しているスティーブン・ブラード博士(52)は、この部屋を特別に設けている理由を語った。
わずかな食糧で過酷な労働を強いられ、病で薬を与えられないまま死んだ人、ジャングルを二百六十キロも歩かされた死の行進で力尽きた人、衰弱して最後は殺害された人…。この部屋に入った来場者は、元気だったころの彼らのまっすぐなまなざしに息をのむ。 一つ一つの顔写真を指でなぞる幼い男の子がいた。父親が寄り添って語りかける。生き残った六人は既にこの世にいないが、旧日本軍に理不尽に命を奪われた捕虜たちの物語は、戦争を知らない世代にも刻み込まれている。
一方の日本では終戦から現在に至るまで、サンダカンをはじめ旧日本軍による連合軍捕虜への戦争犯罪は、ほとんど知られていない。
初めての謝罪は一九五七年。首相だった岸信介氏がオーストラリアを訪れた際に伝えた。その孫の安倍晋三首相は昨年七月、オーストラリアを訪問し、戦争記念館にも足を運んだ。
連邦議会での演説ではサンダカンに触れ、「何人の将来ある若者が命を落としたか。生き残った人々が戦後長く苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。哀悼の誠をささげます」と述べた。祖父が述べた謝罪の言葉は口にはしなかった。 ブラード博士は「日本の首相がオーストラリアを訪れるたびに謝罪が必要とは思わない。しかし、過去に実際にあったことを忘れていいとは思わない」と語る。そして、戦後五十年の区切りに当時の村山富市首相が出した「村山談話」にある「歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らない」という言葉を引き合いに、強調した。
「日本が収容したオーストラリア人捕虜は二万二千人で三分の一以上の八千人が死亡した。(日本と同盟国の)ドイツが収容した捕虜は約5%しか死んでいない。これが、過去に何があったかを振り返らなければならない理由だ」
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