2015年11月30日月曜日
日本人は本当に人種差別主義者ではないのか
われわれ日本人は、中国人、韓国人への差別感情を持っていないか? 近隣の東南アジアや太平洋諸国の人々を”現地人”などと呼んで見下していないか?
日本社会にも「被差別部落」があるではないか。 アイヌ人たちは「土人」とまで呼ばれて虐げられていたのではないか。
日本人はアジア人の中で一番偉いと思っていないか? アパルトヘイト時代の南アフリカで日本人が「名誉白人」とみなされて鼻が高いと感じていなかったか?
11月28日、埼玉スタジアムで行われたJ1リーグチャンピオンシップ準決勝で、地元の浦和レッズがガンバ大阪に1-3で負けた夜、ダメ押しの1点を入れたガンバのフォワード、パトリック(ブラジル出身)に対し、浦和サポーターの名で、ツイッター・アカウントに、「黒人死ね」と書き込まれた。
日刊スポーツによれば、パトリックは「すごく悲しい気持ちになった。 昨日はいろいろ考えて眠れなかった」と、記者に傷ついた心情を明らかにした。 だが、彼を擁護するメッセージも溢れかえった。 パトリックはこれに感謝し、「やはり日本は世界で一番好きな国。 どこの国にもいい人、悪い人がいる。 ガンバだけでなく他のクラブ・サポーターからもたくさん励ましのメッセージをもらい、心強くなった」と語った。
確かに、ツイッターを見ると、人種差別メッセージへの反感、憎悪が続々と集まっていた。 パトリックが感動したのも頷ける。 美談である。
だが、報道は本当のことに触れていない。 たいていの日本人も”美談”で済ませている。 しかし、パトリックを安心させることができたとしても、日本人の腹の底にある根強い差別意識は、日本人自身に宿る不治の病のようなものかもしれない。
パトリックの騒ぎが美談になったことで、これまでも繰り返されてきたように、日本人が本音で自らを語る機会が失われつつあると思う。
2015年11月24日火曜日
政治家アウン・サン・スー・チーとは?
ミャンマーの民主化運動リーダー、アウン・サン・スー・チー率いる野党NLD(国民民主連合)が総選挙で地滑り的大勝を収めた。 長く軍事政権の下で政治的自由が押さえつけられていたミャンマーでは、独立以来の歴史に残る出来事だ。
この選挙結果が公表されたあと、11月20日、日本外務省は「外務大臣談話」を発表した。
「岸田外務大臣は,20日,ミャンマー連邦共和国で8日に行われた2011年の民政移管後初めての総選挙に関して,総選挙が概ね自由かつ公正に実施されたことを歓迎し,ミャンマーにおける民主化進展に向けた重要な一歩として祝福する談話を発出しました。
・・・・・・・・・・・・
日本国政府は,ミャンマーの更なる発展と繁栄に向けた取組を引き続き支援し,ミャンマーとの伝統的友好・協力関係を更に発展させていく考えです。」
スー・チーが、この談話をどう受け取ったか、非常に興味あるところだ。
1989年、国民の民主化要求の声が高まる中、軍事政権は危機感を抱き、スー・チーを自宅軟禁し、翌90年には総選挙でNLDが圧勝した結果を無視して軍政を継続した。 スー・チーは2010年まで断続的に解放されることはあったものの、20年以上拘された。
この間、欧米諸国は経済制裁などで軍事政権を国際的に孤立させ、民主主義の確立を迫った。 スー・チーも、軍事政権が解放の条件としたミャンマーからの出国などを拒否し、民主化実現への断固たる姿勢を維持した。
スー・チーの毅然たる態度、それを支える西欧諸国による経済制裁の継続によって、ミャンマー経済は疲弊し、追い詰められた軍事政権は2010年のスー・チー解放に続き、2013年には、ついに大幅な民主化に踏み出した。
ここに至るまでの日本政府の「ミャンマーの更なる発展と繁栄に向けた取組」への支援とは、欧米諸国の軍事政権との敵対、孤立化政策とはまったく異なる。 軍事政権への経済援助を含む友好的関係の維持だった。
日本外務省によれば、欧米とは異なる”独自の外交”で軍事政権を説得し、軟化を促すというものだ。 当時、外務省関係者は、だからスー・チーも頑固な態度を続けないで、少しは妥協してほしいと言っていたものだ。
結局、日本の「独自外交」なるものは意味を成さず、軍事政権は欧米の経済制裁に屈服して民主化に踏み切った。
スー・チーは、軍事政権と良好な関係を維持した日本に良い感情を持っているわけがない。 日本政府が「ミャンマーとの伝統的友好・協力関係」と言うとき、明らかに、彼女の感情は屈折している。
それでは、今後間違いなく大きな政治的影響力を持つことになるスー・チーが、日本と距離を置く立場をとるかというと、これがよくわからない。
解放されたあとのスー・チーからは、単なる理想主義者から現実政治を学んだ指導者へと変身した節がうかがえたからだ。
現在のミャンマーの政治状況は、民主化がかなり進行したものの、軍の政治的存在は依然として大きく、選挙結果を無視してクーデターを起こす可能性も完全否定できないというところだ。 NLDは圧勝したが、国を運営する行政手腕は、明らかに未熟で、軍事政権の実務者を利用せざるをえないであろう。 当面は、軍との対立は避けていくだろう。 また、最貧国から脱するため、今後の経済発展には西側諸国からの支援に期待せざるをえない。 中でも日本からの援助、民間投資は欠かせない。
スー・チーは賢く、したたかな女だ。 軟禁中の頑固さも、あるいは、戦略だったかもしれない。 そして今、現実政治への対応という新たな戦略・戦術を始動させている。
もしかしたら、彼女は、計算能力の高い冷徹な現実主義者に化けつつある。 それを感じさせたのは、軍事政権に弾圧されてきたイスラム教徒の少数民族ロヒンギャの問題に敢えて触れない態度を取り続けていることだ。 人権擁護者であるはずのスー・チーがロヒンギャ問題を無視するのは、総選挙で多数派の仏教徒からの得票を固めようとする計算だったという見方は、おそらく正しい。
スー・チーは、今年6月には、軍事政権と緊密な関係を持ち、支えてきた中国を訪問した。 確実に新たな指導者になるであろうスー・チーとの関係を構築しようとする中国の外交攻勢に答えたのだ。 中国は、軍事政権のパトロンとはいえ、地政学的に、ミャンマーは中国と安定した関係を維持しなければならない。 彼女は、その現実も受け入れた。
そうであれば、中国と比べれば、日本の軍事政権との関係など目くじらを立てるほどのことではない、と彼女は自分に言い聞かせたかもしれない。 いや、きっと、そうに違いない。
現ミャンマー憲法では、外国人の親族がいては大統領になれない。 この条項は、スー・チーを対象に軍が作り上げたものだ。 彼女は、この憲法の改正を目指しているが、最近、現憲法下でも大統領以上の存在になると発言し、最高権力獲得への強い願望を示した。
この女はどこまで化けるのか。 今、多くの人がそこに注目している。 すでに、新たな独裁者誕生への道が始まったのではないか、という疑念がミャンマー内外で少しずつ広がっている。
早くも、新しいドラマの幕が切って落とされたのだ。
2015年11月12日木曜日
宇都宮センチメンタル・ジャーニー
1970年代に北関東の田舎都市・宇都宮に5年間住んだことがある。 東京から、ほんの100キロほどしか離れていない土地だが、東京人には、まるで外国だった。
当時、夜の街が東京とはまったく違っていた。 飲み歩いているのは男ばかりで女の姿がなかった。 住んでみて気付いたのだが、この街では男女関係が古い因習に囚われたままだった。
交差点の歩道で信号待ちをしていたときに、顔見知りの女性がそばに立っているのに気付いた。 軽くあいさつして、横断歩道を並んで渡った。 その姿が彼女の職場の同僚に目撃された。 その日の夕方には彼女が男と歩いていたという悪意の噂が職場に広がっていた。
宇都宮にも職場結婚というものがあるという。 だが、恋愛途上で交際が知れると様々な噂、あること、ないこと取り混ぜて陰口をたたかれ、足を引っぱられて、二人の仲は破たんするのがおちだそうだ。 だから、付き合う二人はたいてい同僚たちに気付かれないよう密かなデートを続け、結婚が正式に決まって初めて職場で明らかにする。 したがって、職場結婚はだいたい突然なのだ。
福島以北の東北人には、東京とは異なる文化への誇りがある。 だが、栃木県人、とくに宇都宮人からは地元への文化的誇りは感じられなかった。 むしろ東京への劣等感が強かった。 そして、狭い社会の中での足の引っぱり合い、ひがみ、つげぐち。
当時、知り合いから、こんな話を聞いた。 友人が浮気をして、その相手と旅行をした。 妻には仕事で出張だと言い、勤務先からは休暇を取った。 だが、なぜか旅行中に職場で浮気がばれた。
こういうとき東京人であれば、おそらく個人生活に口出しはしないであろう。 だが、この職場の同僚は旅行中の彼の自宅に電話をし、「こういうことをされては困る」と、妻にすべて明かしてしまった。
独特の尻上がりの言葉使いもよく理解できなかった。 しかも、東京の標準語でしゃべるとよそ者扱いされ、冷たい人間とみられた。 しかたなく栃木弁を自分で練習して覚えたものだ。 栃木弁は、いわば初めてマスターした外国語になった。
そのころ、この土地を牛耳っていたのは、作新学院の経営者で自民党の大物政治家・船田中、足利銀行、下野新聞というトリオだった。 がっちりと固められた保守風土。 自由の気風を感じられず、居心地の良い土地ではなかった。 つまり、嫌いだった。
その嫌いな街に、つい最近(11月7日)東北を旅行した帰途、立ち寄ってみた。 JR宇都宮駅近くの安ホテルに荷物を置き、夜の街に出た。 あてもなく駅前大通りを歩いて、かつて飲み歩いた泉町の飲み屋街を目指した。 街の様相は40年近く前とは、まるで違っていた。 かつて暗かった通りに、誰か知恵者が思いついて捏造した”伝統の宇都宮餃子”の店が、けばけばしく並ぶ。
それでも、通りは、以前と比べ、随分あか抜けていた。 40年前、週末に豚カツを食べるのを楽しみやってきた田舎の人たちが入る食堂があった。 そのあたりには、洒落たイタリアンの看板が出ていた。
それよりも、本当に驚いた変化は、夜の宇都宮の通りを女たちが歩いていることだった。 かつて見ることのなかった親しげに手をつなぐカップル、若い男女の明るく楽しげなグループ、ほろ酔い気分の女たちの屈託のない会話…。 飲み屋に立ち寄ってみると、女が普通にビールを口にしていた。 東京の見慣れた光景が宇都宮にも実現していたのだ。
40年の年月は、街の様相ばかりでなく、人々の生き方も大きく変えたに違いない。 保守反動だった下野新聞だって、リベラル色を出すようになった。 きっと、男女関係だって、こそこそ隠す必要はなくなったのだろう。
耳をすまして彼らの会話を聞いてみると、あの栃木弁の訛りがほとんど感じられないではないか。 言葉の標準語化にはメディアの影響が大きいだろうが、内にこもっていた宇都宮人たちが閉ざされた社会から踏み出し、外部社会と接触する機会が増えたからかもしれない。 彼ら自身は誇りを持っていないが、栃木弁という文化と歴史が消えてしまうのは寂しいことではあるが。
懐かしい泉町は、ずいぶん暗い通りになっていた。 飲み屋やバーは昔のように並んでいるが、建て替えられ名前が変わり、昔の面影はない。 それは想像していたが、歩く人の姿が昔と比べるとまばらになっていたのは、ちょっとした驚きだった。
40年前に行った店を2軒みつけた。 だが両方とも閉まっていた。 その1軒「きよもと」の近くに、いかにも古そうな飲み屋があったので入った。
70代後半と思われるママは、案の定、泉町の生き字引のような人だった。 「きよもと」は看板は残っているが、ずいぶん前に閉店し、美人だったママがどこへ行ったか、生きているのか死んでしまったか、ぜんぜんわからないと言った。
泉町は客が減って、本当に寂しくなってしまったと嘆く。 客が減ったのは、今どきの若い人が酒を飲まなくなったからだという。 だから、商売が成り立たなくなって、たたんだ店も多いそうだ。
オールド・ママの言ったことは、その通りかもしれない。 だが、今風の新しい店には若い女たちも来て 賑わっていた。 おそらく、時代遅れの男の世界・泉町はすたれつつあるのだ。 もうひとつのかつての歓楽街・松ケ峰では、40年前、やくざの抗争まで繰り広げられた。 ここもさびれて、かつての面影はないそうだ。
年月は、人を変え、街を変えた。 自分自身の宇都宮を嫌っていた気持ちも、いとおしさに変った。
当時、夜の街が東京とはまったく違っていた。 飲み歩いているのは男ばかりで女の姿がなかった。 住んでみて気付いたのだが、この街では男女関係が古い因習に囚われたままだった。
交差点の歩道で信号待ちをしていたときに、顔見知りの女性がそばに立っているのに気付いた。 軽くあいさつして、横断歩道を並んで渡った。 その姿が彼女の職場の同僚に目撃された。 その日の夕方には彼女が男と歩いていたという悪意の噂が職場に広がっていた。
宇都宮にも職場結婚というものがあるという。 だが、恋愛途上で交際が知れると様々な噂、あること、ないこと取り混ぜて陰口をたたかれ、足を引っぱられて、二人の仲は破たんするのがおちだそうだ。 だから、付き合う二人はたいてい同僚たちに気付かれないよう密かなデートを続け、結婚が正式に決まって初めて職場で明らかにする。 したがって、職場結婚はだいたい突然なのだ。
福島以北の東北人には、東京とは異なる文化への誇りがある。 だが、栃木県人、とくに宇都宮人からは地元への文化的誇りは感じられなかった。 むしろ東京への劣等感が強かった。 そして、狭い社会の中での足の引っぱり合い、ひがみ、つげぐち。
当時、知り合いから、こんな話を聞いた。 友人が浮気をして、その相手と旅行をした。 妻には仕事で出張だと言い、勤務先からは休暇を取った。 だが、なぜか旅行中に職場で浮気がばれた。
こういうとき東京人であれば、おそらく個人生活に口出しはしないであろう。 だが、この職場の同僚は旅行中の彼の自宅に電話をし、「こういうことをされては困る」と、妻にすべて明かしてしまった。
独特の尻上がりの言葉使いもよく理解できなかった。 しかも、東京の標準語でしゃべるとよそ者扱いされ、冷たい人間とみられた。 しかたなく栃木弁を自分で練習して覚えたものだ。 栃木弁は、いわば初めてマスターした外国語になった。
そのころ、この土地を牛耳っていたのは、作新学院の経営者で自民党の大物政治家・船田中、足利銀行、下野新聞というトリオだった。 がっちりと固められた保守風土。 自由の気風を感じられず、居心地の良い土地ではなかった。 つまり、嫌いだった。
その嫌いな街に、つい最近(11月7日)東北を旅行した帰途、立ち寄ってみた。 JR宇都宮駅近くの安ホテルに荷物を置き、夜の街に出た。 あてもなく駅前大通りを歩いて、かつて飲み歩いた泉町の飲み屋街を目指した。 街の様相は40年近く前とは、まるで違っていた。 かつて暗かった通りに、誰か知恵者が思いついて捏造した”伝統の宇都宮餃子”の店が、けばけばしく並ぶ。
それでも、通りは、以前と比べ、随分あか抜けていた。 40年前、週末に豚カツを食べるのを楽しみやってきた田舎の人たちが入る食堂があった。 そのあたりには、洒落たイタリアンの看板が出ていた。
それよりも、本当に驚いた変化は、夜の宇都宮の通りを女たちが歩いていることだった。 かつて見ることのなかった親しげに手をつなぐカップル、若い男女の明るく楽しげなグループ、ほろ酔い気分の女たちの屈託のない会話…。 飲み屋に立ち寄ってみると、女が普通にビールを口にしていた。 東京の見慣れた光景が宇都宮にも実現していたのだ。
40年の年月は、街の様相ばかりでなく、人々の生き方も大きく変えたに違いない。 保守反動だった下野新聞だって、リベラル色を出すようになった。 きっと、男女関係だって、こそこそ隠す必要はなくなったのだろう。
耳をすまして彼らの会話を聞いてみると、あの栃木弁の訛りがほとんど感じられないではないか。 言葉の標準語化にはメディアの影響が大きいだろうが、内にこもっていた宇都宮人たちが閉ざされた社会から踏み出し、外部社会と接触する機会が増えたからかもしれない。 彼ら自身は誇りを持っていないが、栃木弁という文化と歴史が消えてしまうのは寂しいことではあるが。
懐かしい泉町は、ずいぶん暗い通りになっていた。 飲み屋やバーは昔のように並んでいるが、建て替えられ名前が変わり、昔の面影はない。 それは想像していたが、歩く人の姿が昔と比べるとまばらになっていたのは、ちょっとした驚きだった。
40年前に行った店を2軒みつけた。 だが両方とも閉まっていた。 その1軒「きよもと」の近くに、いかにも古そうな飲み屋があったので入った。
70代後半と思われるママは、案の定、泉町の生き字引のような人だった。 「きよもと」は看板は残っているが、ずいぶん前に閉店し、美人だったママがどこへ行ったか、生きているのか死んでしまったか、ぜんぜんわからないと言った。
泉町は客が減って、本当に寂しくなってしまったと嘆く。 客が減ったのは、今どきの若い人が酒を飲まなくなったからだという。 だから、商売が成り立たなくなって、たたんだ店も多いそうだ。
オールド・ママの言ったことは、その通りかもしれない。 だが、今風の新しい店には若い女たちも来て 賑わっていた。 おそらく、時代遅れの男の世界・泉町はすたれつつあるのだ。 もうひとつのかつての歓楽街・松ケ峰では、40年前、やくざの抗争まで繰り広げられた。 ここもさびれて、かつての面影はないそうだ。
年月は、人を変え、街を変えた。 自分自身の宇都宮を嫌っていた気持ちも、いとおしさに変った。
2015年11月9日月曜日
老人よ、遊びまくれ
(気仙沼駅で) |
それでは方向を変えようと、今度は、遠野物語で有名な遠野の宿を探してみた。 やはり、混んでいたが、やっと民宿を一軒みつけ、そこに決めた。 他に選択の余地はなかった。
結果的に、ここはいい宿だった。 2000円の追加で地元のドブロク、岩手の地酒が飲み放題というのが良かった。 いやー、実に美味かった。
夕食は、真ん中に大きな囲炉裏のある和室だった。 一緒になった一人旅の女性と話がはずんだ。 聞けば、70歳代前半というが見かけの若い人で60代かと思った。 4年前に夫がガンで先立ち、一人で山登りや各地の旅行をしているという。
この人に聞いて、この時期に宿が混んでいる理由がわかった。 JRの「大人の休日倶楽部」のせいだった。
入会者は、50歳以上がミドルカード、男65歳、女60歳でジパングカードというのを取得できる。 この倶楽部メンバーを対象に、JRは11月5日から17日までの期間使える新幹線を含む路線の乗り放題切符を売り出した。 JRの観光オフシーズン対策の商売だ。 とにかく、安い。 東日本は4日間15,000円、東日本と北海道のセットでは5日間25,000円。
遠野で会った女性もこれを利用していた。 そして、これがよく売れて、今、東北はどこも高齢の旅行者がいっぱいで宿を確保するのが、とても難しいと言っていた。
まさに、その通りだった。 遠野のあと、大船渡ー気仙沼ー石巻ー仙台と旅を続けたが、列車もバスも宿も、見かけるのは高齢者ばかりだった。
この旅行で、秋の東北の美しさ、地酒の旨さ、3・11被災地住民の生きざま、いろいろなことを見聞できた。 だが、もっとも印象に残ったのは何かと言えば、元気な老人たちが日本には、なんとたくさんいるのだろうという驚きだった。
70歳以上の高齢者ともなれば、年金受取額は悪くない。 彼らが旅行することによる経済効果は決して小さくはないだろう。
老人たちよ、社会のお荷物などと見下すバカ者どもに負けてはいけない。 元気なうちは、旅行しまくり、遊びまくり、経済発展に貢献しよう。
登録:
投稿 (Atom)