(瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」=ちくま新書) |
とりあえず、アイヌの出自に関する概略は以下を参照に(Wikipedia)。
『アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
自然人類学から見たアイヌは、アイヌも大和民族も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる。』
「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」は、以上の視点を踏まえ、「アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。 平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原卿の思想が明らかになるにちがいない」と、新たな日本人観のアプローチを提案している。
最近の研究では、アイヌとは、日本人と異なる民族ではなく、非常に近くて縄文人の血を色濃く残した人々だ。 つまり、現代の日本人のほとんどは朝鮮半島からの渡来人の血と文化を受け入れ、縄文の血が薄くなって弥生人となったが、アイヌとは同じ祖先というわけだ。
アイヌの文化に縄文文化の痕跡を見ることができるが、弥生文化に移行して異なる歴史を歩んだ本州でも、縄文時代に起源があると思われる風習があるという。 例えば、山岳信仰は、仏教渡来以前、さらに弥生、古墳時代より遡り、山と濃密にかかわっていた縄文時代に端を発している可能性がある。
北海道の屋根、大雪山の小泉岳付近、標高2100メートルの高所で縄文時代の石器数十点が採集されている。 現代でも登るには本格的登山装備が必要だ。 このような高地の縄文遺跡は、本州でも山梨県の甲斐駒ケ岳、栃木県の男体山、長野県の八ヶ岳連峰の編笠山、蓼科山など2000メートルを超える高山で発見されている。
だが、弥生時代から古墳時代には、本州の高山遺跡は確認できない。 農耕を主とする弥生文化を受け入れなかった縄文人は狩猟・採集の生活を維持して山に残った。 その直系がアイヌだ。 だが弥生人たちは山から下りた。
本州の高山に再び登頂の痕跡があらわれるのは奈良時代以降で、山岳信仰の修験者たちだった。 弥生時代に入ったあとも、狩猟を生業にして山中に暮らす人々はみとめられた。 彼らが縄文人だった可能性がある。 山岳信仰は彼らを通じて脈々と受け継がれた縄文文化とも考えられる。 現代日本人の生活・風習にも縄文の痕跡があるにちがいない。
著者が「もうひとつの日本の歴史」と言うのは、日本人が、アイヌは民族も習俗も異なる人々と感じるほど両者は違っておらず、2000年前のご先祖様の人生の決断次第で、あなたはアイヌになっていたかもしれないという意味でもあろう。
煎じ詰めれば、人間の違いとは何か、という問いかけだ。 現生人類がアフリカを出発したときまで遡れば、ヒトはヒトでしかいなかったろう。 さらに遡れば、人類学伝説によれば、現生人類を生んだたった一人の母に辿り着く。
アイヌの文化に縄文文化の痕跡を見ることができるが、弥生文化に移行して異なる歴史を歩んだ本州でも、縄文時代に起源があると思われる風習があるという。 例えば、山岳信仰は、仏教渡来以前、さらに弥生、古墳時代より遡り、山と濃密にかかわっていた縄文時代に端を発している可能性がある。
北海道の屋根、大雪山の小泉岳付近、標高2100メートルの高所で縄文時代の石器数十点が採集されている。 現代でも登るには本格的登山装備が必要だ。 このような高地の縄文遺跡は、本州でも山梨県の甲斐駒ケ岳、栃木県の男体山、長野県の八ヶ岳連峰の編笠山、蓼科山など2000メートルを超える高山で発見されている。
だが、弥生時代から古墳時代には、本州の高山遺跡は確認できない。 農耕を主とする弥生文化を受け入れなかった縄文人は狩猟・採集の生活を維持して山に残った。 その直系がアイヌだ。 だが弥生人たちは山から下りた。
本州の高山に再び登頂の痕跡があらわれるのは奈良時代以降で、山岳信仰の修験者たちだった。 弥生時代に入ったあとも、狩猟を生業にして山中に暮らす人々はみとめられた。 彼らが縄文人だった可能性がある。 山岳信仰は彼らを通じて脈々と受け継がれた縄文文化とも考えられる。 現代日本人の生活・風習にも縄文の痕跡があるにちがいない。
著者が「もうひとつの日本の歴史」と言うのは、日本人が、アイヌは民族も習俗も異なる人々と感じるほど両者は違っておらず、2000年前のご先祖様の人生の決断次第で、あなたはアイヌになっていたかもしれないという意味でもあろう。
煎じ詰めれば、人間の違いとは何か、という問いかけだ。 現生人類がアフリカを出発したときまで遡れば、ヒトはヒトでしかいなかったろう。 さらに遡れば、人類学伝説によれば、現生人類を生んだたった一人の母に辿り着く。
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