2014年1月31日金曜日
<恵方巻>と<バレンタイン>のサンバ
「恵方巻」と「バレンタイン」に踊らされる2月。 以下、Wikipediaからの抜粋。
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<恵方巻>
恵方巻は、節分に食べると縁起が良いとされる太巻き(巻き寿司)を食べる行為で大阪地方を中心として行われている習慣。
恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされている。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれており「恵方巻き」と呼ばれていたという文献等は見つかっていない。 大阪地方の地元における名称として、単に「巻き寿司」や「丸かぶり寿司]」などがある。
起源・発祥は複数の諸説が存在しており、信憑性についても定かではない。
商業的イベントとして、これを利用した関係業界の販売促進活動・関連商品・商戦が20世紀後半から活性化している。また、関連するイベントとして、多人数で一斉に食べたり、「日本一長い恵方巻き」「○○メートルの恵方巻」「巨大恵方巻」「ジャンボ恵方巻」などの内容で開催されている。
節分の日は暦の上で春を迎える立春の前日にあたるので、一年の災いを払うための厄落としとして「豆撒き」が行事として行われているが、大阪などでは同日に太巻きを「巻き寿司」「丸かぶり寿司」や「恵方巻」と呼び、それを食べるイベントが行われる場合がある。
恵方巻は、太巻き(巻き寿司)を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。「目を閉じて」食べるともされるが、一方「笑いながら食べる」という人もおり、様々である。
このイベントが活発化したきっかけは、関係業界の販売促進活動である。2000年代以降には、形が恵方巻に類似する円柱状の食べ物、ロールケーキなどの各種商品においても販売促進活動が見られる。
ミツカンの調査による恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%が2006年(平成18年)には92.5%となり、マイボイスコムの調査では、「認知度」と「食べた経験」に関して増加傾向となっているが、「実際に食べた」と答えた人の全国平均は2006年(平成18年)の時点で54.9%である。
また、「実際に恵方巻を食べるか」についての地域差は大きく、2008年(平成20年)12月後半にアイシェアが行った調査では、関西・中国・四国にて「実際に食べる」が半数以上占めたのに対し、関東では「6割が食べない」などの結果が出ている。
かつて行われ廃れていた事柄であったが、大阪の大阪鮓商組合や大阪海苔問屋協同組合が販売促進の為に(スーパーやコンビニでも)大々的な宣伝をしており、日本のイベントとして各地に広がっている。
1973年(昭和48年)から大阪海苔問屋協同組合が作製したポスターを寿司屋が共同で店頭に貼り出し、海苔を使用する太巻きを「幸運巻ずし」として販促キャンペーンが展開された。1974年(昭和49年)には大阪市で海苔店経営者らがオイルショック後の海苔の需要拡大を狙いとして節分のイベントで「巻き寿司早食い競争」を始めたこと、1977年(昭和52年)に大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事、そのイベント「巻き寿司早食い競争」がマスコミに取り上げられたこと、関西厚焼工業組合も同時期頃に宣伝活動を開始したこと、などが契機となって、徐々に知名度が上がっていった。
商業的に売り上げの落ちる1月後半から2月初旬の販売イベントとして、主にコンビニエンスストアを中心とし、スーパーマーケットなどの店舗において各地で展開。前述の道頓堀における販売促進イベントの影響があったり、コンビニではファミリーマートが先駆けであり、1983年(昭和58年)に大阪府と兵庫県で販売が開始された。
全国への普及はセブン-イレブンによる。1989年(平成元年)、広島市にある加盟店7~8店舗を担当していた「OFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)が加盟店オーナーとの会話の中で恵方巻の存在を知り、新たなイベントとして仕掛けた。1989年、広島市のセブン-イレブンが販売を開始し、翌年より販売エリアを広げ、1995年(平成7年)から西日本に販売エリアを拡大、1998年(平成10年)に全国展開をしたことで急速に普及した。
2000年代に入ると全国の各コンビニで販売促進キャンペーンが行われている。
スーパーマーケットでは、ダイエーが関西地方において1980年代頃には販売を行っており、関東地方の一部地域では1990年代前半から販売開始、ジャスコでは1992年(平成4年)から全国同時に販売を開始[。2000年代以降は地方の小規模スーパーや個人経営店も参入する動きがある。
売上・販売数量において、2007年の日本全体での販売本数は約3000万本であった。2008年では2月2日と2月3日の2日間において、コンビニ大手3社で約700万本を売り上げ、セブン-イレブンだけで388万本が売れたという。
また、円柱状が類似しているだけで本来の太巻きとは全く関係が無い食べ物においても恵方巻的な商品が各種展開され、ロールケーキや形状さえ似ていないワッフルなどの洋菓子、かす巻などの和菓子、江崎グリコから「節分かぶりつきシリーズ」としてポッキー(鬼の金棒モチーフ)・プリッツ・コロンなどの一般菓子、パン・トルティーヤ・ロールサンド・オムライス・包餅などの料理を恵方巻仕様の商品に仕立て便乗して販売する事例が存在している。ファーストフード業界では日本ケンタッキーフライドチキンがレギュラーメニューの一つであるツイスターを恵方巻き替わりに奨めるPRを2000年代末期以降に実施しているほか、パンやサンドウィッチなどにおいても便乗商品が見られる。
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<バレンタインデー>
日本では、1958年ころから流行した。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。戦前に来日した外国人によって一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。「主として女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのでは?と最初に考案して実践したのは、大田区の製菓会社である。
欧米でも恋人やお世話になった人にチョコレートを贈ることはあるが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもない。女性から男性へ贈るのがほとんどという点と、贈る物の多くがチョコレートに限定されているという点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴である。
「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となる。
・贈答品にチョコレートが重視される点
・女性から男性へ一方通行的贈答である点
・(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点
このほか、職場における贈答習慣が強い点や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点も日本型バレンタインデーの特徴である。
日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源については、以下のようなものがあるが、判然としていない。
・神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ)説
東京で発行されていた英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』1936年2月12日付けに同社が広告を掲載したことを重視するものである。「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告であった。確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。ちなみに以前モロゾフの本社があった最寄り駅の阪神御影駅南側の広場はバレンタイン広場の名前がある。
・メリーチョコレートカムパニー & 伊勢丹説
同社が1958年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重視する説である。
・森永製菓説、伊勢丹説
1960年より森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、さらに伊勢丹が1965年にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となったとする説がある。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、1956年の西武百貨店や松屋の新聞広告や、1959年の松坂屋の新聞広告にも掲載されており、デパート業界では伊勢丹が最初というわけではない。
・ソニープラザ説
ソニー創業者の盛田昭夫は、1968年に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈ることを流行させようと試みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている。ただいずれにしても、すぐに大きな反響があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである。
各種の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主張されたために誇張も含まれると思われる。
総じて昭和30年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識はまだなかった。当時のバレンタインデーの新聞広告によると、購入を勧める贈答品にチョコレートは登場しなかった。森永製菓の広告ですら、チョコレートは贈答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永製菓の新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手紙などを)贈る日」として書かれていた。バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「愛の日」という点は強調されていた。
デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたがなかなか定着せず、1968年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もあった。しかし、オイルショック(1973年)に見舞われ高度経済成長が終焉した1970年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増した。オイルショックによる不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会になった時期とも重なる。現在、一般に「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と認識されていることとは裏腹に、バレンタインデー定着の過程には、小学校高学年から高校生の主導的な選択があったことが指摘されている。
1970年代後半頃に、女子が男子に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が社会に定着すると、さらに日本独自の習慣が登場した。1980年前半に登場したホワイトデーと義理チョコである。ホワイトデーの起源については、福岡県の和菓子屋・石村萬盛堂のキャンペーンと、全国飴菓子工業協同組合の構想が注目されている。1977年に石村萬盛堂は、バレンタインデーの返礼としてマシュマロデーを開始した。これは社長が女性雑誌の投稿欄を見て思いついたものだという。1979年には他の菓子店と協同で「ホワイトデー」という名称を用いたとされる。
一方、全国飴菓子工業協同組合の主張によると、1978年6月の組合の総会で、「ホワイトデーキャンペーン」の実施が決定され、1980年に第1回「愛にこたえるホワイトデー」キャンペーンが行われたという。そして2回目の1981年には「好きな女の子にキャンデーを贈ろう」というキャッチフレーズが添えられた。1984年の第5回キャンペーンには各地で品不足になるほどの盛況となり、同組合では、この1984年をホワイトデー定着の年としている。
日本のチョコレートの年間消費量の2割程度がこの日に消費されると言われるほどの国民的行事となっており、女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的以外にも、すでに交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着している。だが、義理チョコは1990年代後半以降衰退傾向にあり、2000年代後半から2010年代前半においてもその傾向は継続している。
また、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」の動きが2000年代初旬より広まってきてバレンタイン市場・商戦を支える存在となっており、特に2000年代後半以降、友チョコの市場規模は拡大傾向となっている。バレンタインデーにおけるチョコの売上停滞に危機感を抱いた関連業界の企業において、友チョコを重視したキャンペーンを行ったり、欧米では当然でも日本では一般的でない行為、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった様々な展開で消費活性化を図っている。逆チョコは特に森永製菓が積極的に展開している。
上記のような習慣について日本人自身が抱く感想はさまざまである。
2006年2月にインターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ社が実施したバレンタインデーに関する独身男女(20代〜30代)に対するアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOLで70%、同じく男性社員は50%であった。ただし、OLの反対意見では、女性の側から贈る習慣に反対しているのであって、男性側から贈られるのであれば賛成とする「ご都合主義的意見」も多かったとされる。同じく、男性側はホワイトデーのお返しが大きな金銭的な負担となっており、この義務的なイベントに対する不快感を強く持っている人が多い。妻子ある男性までも、他人の女性にプレゼントをすることを強要されており、その分のお金を妻や子供に対するサービスに費やしたいと考えている男性にとっても非常に人気がない。中には義務的なイベントを無理矢理作り出して、強制的にチョコを買わせるのは非人道的な卑劣な商法であるといった痛烈な意見もある。
また、労働法の専門家によると、職場内におけるバレンタインデー・ホワイトデー・おごりの強要は環境型セクシャルハラスメントの温床とされており、危険性を指摘する声もある。性別を理由に一定の義務を課し、本人の意に反する行為を強要するわけであるから、環境型セクシャルハラスメントにあたる。しかも、女性のみならず『男性が被害者』になるセクシャルハラスメントである(2007年8月30日 読売新聞)。
2014年1月16日木曜日
”黒い未亡人”は登場するか
ソチ冬季五輪の幕開けが迫るにつれ、日本のスポーツ・メディアはお得意の期待願望キャンペーンで、日本選手メダル獲得の夢をお祭り騒ぎのように煽っている。 だが、浮かれてばかりではいられない大会でもある。 真っ白な雪のゲレンデや氷のリンクが真っ赤な血に染まらないという保証がないからだ。 この大会には、能天気にスポーツ祭典を楽しめない重苦しさがのしかかっている。 テロの恐怖だ。
ソチ五輪を悲劇の舞台と化す恐れのあるテロリストを拡大再生産しているのは、まさしく、主催国ロシアそのものだ。 ソチが位置するカフカス地方は、黒海とカスピ海に挟まれ複雑な歴史に翻弄されてきた土地だ。 民族的、宗教的にも入り組んでいる。 ソ連崩壊後、イスラム教徒のチェチェン人たちは独立国家を樹立しようと立ち上がった。 だが、ソ連を引き継いだロシアは圧倒的軍事力で独立運動を潰した。 1999年以来、60,000人のチェチェン人がロシア軍によって殺されたとされる。
武力と政治的弾圧によって、抵抗するチェチェン人たちは地下に潜り、テロ活動に向かうしかなかった。 その中で、特筆すべき傾向は、女のテロリストの数が非常に多いことだ。 彼女たちは「黒い未亡人」と呼ばれ、恐れられている。
欧米メディアの報道から、「黒い未亡人」の関わったとされるテロ事件に関する記事をピックアップしてみた。
「黒い未亡人」として最初に知られたのは、カーワ・バライェワという女だ。 彼女は2000年6月、チェチェンのロシア軍特殊部隊基地に爆発物を満載したトラックを運転して突入して自爆、27人を殺害した。
第2の「黒い未亡人」は、2001年11月のエルザ・ガズイェワだ。 チェチェンのウルス・マルタンのロシア軍司令官に「私を覚えているか」と話しかけ、爆弾を破裂させた。 この司令官は、以前に、彼女の目の前で夫を殺害していたという。
2002年10月23日のモスクワ劇場占拠事件は、あまりにも有名だ。 42人の武装勢力が、モスクワ中心部にある劇場ドブロフカ・ミュージアムで観客922名を人質に取り、第2次チェチェン紛争により進駐してきたロシア軍のチェチェン共和国からの撤退を要求した。これが受け入れられない場合は人質を殺害、自分達も爆弾を使って劇場ごと自爆すると警告した。3日後の26日ロシア連邦保安庁(FSB)の特殊部隊が突入。その際、犯人を無力化するためにKOLOKOL-1と呼ばれる非致死性兵器ガスを使用。劇場内にいた大半はこのガスによって数秒で昏倒し、異変に気付いて対処しようとした武装グループの何人かと特殊部隊との間で銃撃戦が発生した。 だが、短時間で制圧され、武装勢力側は全員射殺された。 あとで判明したのは、このうち19人ものメンバーが「黒い未亡人」だったことだ。
2003年5月には、チェチェンの首都グロズヌイ郊外の村で行われたイスラム教祭典の人混みの中で、「黒い未亡人」が、のちにロシア政府任命チェチェン大統領となるアフマド・カディロフを暗殺しようと自爆、16人が死亡、150人が負傷した。(カディロフは1年後に暗殺された)
2003年6月5日、北オセチアで、ロシア空軍パイロットの乗ったバスを女が爆破、21人が死亡、14人が負傷した。
2003年7月5日、モスクワの飛行場で行われたロック・コンサートで2人の自爆攻撃で16人が死亡、6人が負傷した。
2003年12月、ロシア南部カフカス地方のイェセンツキで、発車したばかりの列車の中で男女2人が自爆し、46人が死亡、100人が負傷した。
2004年8月24日、ロシア南部ロストウとトゥーラで起きた2機の旅客機墜落で計90人が死亡した。2機ともモスクワ発で、ソチ行きとヴォルゴグラード行き、両機には、それぞれ出発直前に航空券を買って乗ったチェチェン人の女がおり、この2人が爆発物を持ち込み爆破したとみられている。
ベスラン学校占拠事件も世界的に大きく報道された。 2004年9月1日から9月3日にかけてロシアの北オセチア共和国ベスラン市のベスラン第一中等学校が、チェチェン独立派を中心とする多国籍の武装集団(約30人)によって占拠され、7歳から18歳の少年少女とその保護者、1181人が人質となった。3日間の膠着状態ののち、9月3日に犯人グループと治安部隊の銃撃戦になり、治安部隊が建物を制圧し事件は終了した。 だが、子ども186人を含む386人以上が死亡した。この犯行グループにも「黒い未亡人」とされる2人の女が含まれていた。
2010年3月29日モスクワの2つの地下鉄駅で起きた爆破事件で40人近くが死亡、100人が負傷した。 当局は黒い未亡人が関わったとみている。 犯人の1人は、3か月前ロシア軍に夫を殺された30歳の女で、チェチェンと接するダゲスタン出身だった。
2011年1月24日にモスクワのドモジェドボ空港で起きた爆弾テロで35人が死亡、180人が負傷した。この犯行には少なくとも「黒い未亡人」1人が関わったとされる。
2012年3月7日、ダゲスタンの首都マハチカラ南の村で、1か月前に夫を殺害された女が自爆、警察官5人が死亡した。
ソチ五輪が近付いても爆弾テロが止む気配はない。2013年5月25日ダゲスタンで、夫を殺された女が自爆、18人が負傷した。 10月21日には、イスラム勢力によるテロがたびたび起きているロシア南部ヴォルゴグラードで、40人が乗ったバスの中で女が自爆、6人が死亡した。
年末には、テロリストの性別は判明していないが、ヴォルゴグラードで2日連続の爆弾テロが発生した。12月29日、ヴォルゴグラードの鉄道駅で起きた自爆テロで、17人が死亡した。30日には、中心部の路上で、走行中の満員のトロリーバスが爆発した。 少なくとも乗客ら14人が死亡、約40人がけがをした。
ソチ五輪の成功に権力者としての自分の威信を賭けている首相プーチンは間違いなく神経をいらだたせている。
一連のテロで大きな役割を演じている「黒い未亡人」とは、いかなる組織なのだろうか。
いや、実は、組織なのかどうかもわかっていないらしい。 多くの「黒い未亡人」は、ロシア人との戦闘や拷問で夫や兄弟などの近親者を殺された女で、チェチェン武装組織にリクルートされたという。 幼いときに人身売買で売り飛ばされた子どもたちが含まれるという見方もある。
彼女たちは、組織の中で自爆テロの訓練を受けるのであろうが、からだに巻き付けた爆弾を別の者がリモート・コントロールで爆破するケースもあり、こういうケースの場合は訓練すら必要ないという指摘もある。
「黒い未亡人」たちがどのような経緯を辿って、そこに至ったにせよ、不幸を背負ってきたのは疑いようがない。 その不幸が終わる気配はなく、テロリストは再生産されていく。 優美なスポーツの祭典とはあまりに落差の大きいロシアの現実だ。
2014年1月11日土曜日
すばらしき逃亡者たち
強姦容疑で逮捕された若い男が横浜地方検察庁川崎支部から、ちょっとしたすきをついて逃亡し、つまらないチンピラの逃走劇を日本のテレビも新聞も大々的に報じた。
この男に、なにか社会的、政治的背景があるわけではない。 有名人でもない。 無実の罪を主張するといったドラマ性があるわけでもない。 逃亡の手口が巧妙だったわけでもなく、検察庁がおっちょこちょいだっただけだ。
こういう男を「逃亡者」と呼んでほしくはない。 「逃亡者」は、ロマンや反体制的臭いがしなければいけない。 権力の裏をかき、巧みに逃げる。 川崎の強姦男みたいに、ただ逃げるだけではない。 逃げるのは、命がけで達成したい目的があるからだ。 「逃亡者」は大衆のヒーローにもなりうるのだ。
1960年代のアメリカ連続テレビドラマ「逃亡者」の主人公リチャード・キンブルは、妻殺しの罪を着せられて逃亡し、ジェラード警部の執拗な追跡をかわし真実にせまる。 日本でも放映され人気を博した。 これは実話に基づいた物語だ。
源義経の逃亡劇は、日本人の心の琴線に触れる。 米軍の秘密軍事作戦で最後はパキスタンで暗殺されたオサマ・ビンラーディンの生涯も劇的だった(テロリストを称賛するわけではないが)。
胸に蝶の刺青をした男「パピヨン」が、1931年に無実を叫びながら終身刑となった。だが、堅固な牢獄からの脱出を何度も試み、ついに成功し、後にベネズエラ市民権を取得して自由の身となる。 この人物、アンリ・シャリエールの伝記小説はベストセラーとなり、のちに映画化され、スティーブ・マクイーンが「パピヨン」を演じた。
逃亡者を語るなら、「モンテクリスト伯」を無視することはできない。 アレクサンドル・デュマのこの長大な小説は、読み始めたら止まらない。 ”逃亡者文学”の古典と言えるだろう。
嗚呼、すばらしき逃亡者たちよ。
川崎チンピラ強姦男の大袈裟な報道は、「逃亡者」たちへの侮辱以外のなにものでもない。
2013年12月27日金曜日
日本人は安倍晋三と手を切ろう
国民の大多数が反対した特定秘密保護法案に曖昧な態度をとっていた右派・読売新聞ですら、安倍晋三の唐突な靖国神社参拝を批判した。 「なぜ、今なのか。 どんな覚悟と準備をして参拝に踏み切ったのか。 多くの疑問が拭えない」「外交建て直しに全力を挙げよ」「国立追悼施設を検討すべきだ」
中道・日本経済新聞も、経済界の失望ばかりではないと安倍の参拝を批判する。 「本人の強い意向によるものだろうが、内外にもたらすあつれきはあまりに大きく、国のためになるとは思えない」「いまの日本は経済再生が最重要課題だ。 あえて国論を二分するような政治的混乱を引き起こすことで何が得られるのだろうか」
無論、左派の朝日新聞、毎日新聞は容赦しない。 「首相がどんな理由を挙げようとも、この参拝を正当化することはできない。… 中国や韓国が反発するという理由からだけではない。 首相の行為は、日本人の戦争への向き合い方から、安全保障、経済まで広い範囲に深刻な影響を与えるからだ」(朝日)、 「安倍晋三首相は、先の大戦における日本の戦争責任をあいまいにしたいのか。 首相が政権発足1年を迎えた26日、東京・九段北の靖国神社を参拝したことは、首相の歴史認識についての疑念を改めて国内外に抱かせるものだ」(毎日)
安倍の行為を唯一歓迎する大手新聞は、極右・産経新聞だけだ。 「多くの国民がこの日を待ち望んでいた。 首相が国民を代表し国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげることは、国家の指導者としての責務である。 安倍氏がその責務を果たしたことは当然とはいえ、率直に評価したい」
12月26日の安倍の靖国神社参拝は、この人物の薄気味悪さをさらに深めた。 米国がアジアの同盟国として最も信頼していた日本への信頼感は、この参拝で確実に薄らぐ。 米国が日本との距離を広げるということは、最悪のシナリオとなれば、アジアの地政図を大幅に描きかえることを意味し、日本という存在そのものが地域にとって危険な不確定要因になる。
日本と日本人は、安倍を切り捨てるときを迎えたようだ。 東京五輪などで浮かれていてはいけない。
2013年12月13日金曜日
ヒツジ飼いとヒツジ―特定秘密保護法案
安倍晋三という首相の政治的メンタリティは、自分はヒツジ飼いで国民はヒツジと位置付けているのだと思う。 ヒツジの群れは放っておくと勝手にどこへ行くかわからない、だからヒツジ飼いは棒を振り回して、ヒツジが牧場の中におとなしく留まるようにしなければならない。
憲法改定議論でも特定秘密保護法案議論でも、ヒツジ飼いがヒツジを小バカにするような国民への目線をどうしても感じてしまう。
それでは、国民の大半が反感を抱く特定秘密保護法案を成立させることに、安倍が固執する動機は何だろうか。 おそらく、その一つは、一国の首相としての抜き難い国際的劣等感だと思う。
この法案が参議院を通過したあとの記者会見の短い冒頭スピーチの中で、安倍はわざわざアルジェリア人質事件に言及した。 この事件は、今年(2013年)1月16日、アルジェリア東部の天然ガス精製プラントで起きた。 イスラム武装勢力が、日本人、アメリカ人、イギリス人、フランス人など外国人多数を人質に取り、翌日の救出作戦の際、日本人10人を含む人質37人が死亡した。
「アルジェリア人質事件では英国のキャメロン首相から情報提供を受けた。情報交換を進めることが国民の生命と財産を守ることにつながる。各国には国家秘密の指定、解除、保全などに明確なルールがある。わが国が機密情報の管理ルールを確立していなければ、外国から情報を得ることはできない。日本を守る航空機や艦船の情報が漏洩する事態になれば、国民の安全が危機にひんする。人命を守るためテロリストへの漏洩を防止しなければならない情報がある」
この1か月前、時事通信は「背景に米の意向=アルジェリア事件が後押し-秘密保護」の見出しで、こんな記事を配信していた(2013年11月7日)。
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安倍政権が特定秘密保護法案の成立を急ぐ背景には、同盟国間で共有する機密の保全を求める米政府の意向がある。特に、政権発足間もない今年1月のアルジェリア人質事件で、在留邦人の安全確保に米国の情報が不可欠であることを痛感し、法制化に前のめりとなった。
米政府は「スパイ天国」とも称される日本の情報管理に懸念を抱き、日本政府に機密保全への具体的対応を求めてきた。とりわけ2001年の同時テロ以降、米政府はテロ情報の収集と保全を強化。05年10月の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の共同発表には「共有された秘密情報を保護するために必要な追加的措置を取る」と明記された。
第1次政権でもNSC法案を提出した首相にはもともと秘密保全への問題意識があったが、危機感をあおったのがアルジェリア人質事件だ。同国の複数の政府機関から寄せられた情報は相矛盾することもあったため、日本政府は米英両国の「確度が高い」(政府高官)情報に頼らざるを得なかった。両国の情報機関とより緊密に連携するため、秘密保護法制化を急務ととらえた。
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アルジェリア事件に限らず、国外の出来事に関する日本政府の情報収集能力は非常に貧困とされる。 北朝鮮の核実験やミサイル発射の際も、日本政府が独自に収集した情報はおそらく皆無だ。 米国と韓国が譲ってくれる情報がすべてであろう。
世界各国の日本大使館には防衛省から派遣された武官が駐在している。 彼らの責務は軍事情報の収集だが、非公開・機密に属する対象が多いだけに、プロのスパイでもない武官に独自の情報収集など簡単にできるわけがない。 各国の武官も似たり寄ったりで、日常業務は地元新聞やテレビのニュースを細かくチェックする以外にさしてやることはない。
そのせいか、どこの国でも各国駐在武官たちは非常に緊密なコミュニティを形成し、頻繁にパーティを開いて酒を酌み交わす。 こうやって、数少ない手持ちの情報を交換しあうのだ。
だが、こういうコミュニティの中で、米国は別格だ。 ときには英国やフランスも別格になる。 国際的影響力のある大国のもとには情報も吸い寄せられる。 だから日本の武官は大国、とくに米国の武官にすり寄る。 耳新しい情報をめぐんでもらうと東京へご注進となる。
これが現場での”軍事機密情報収集活動”の実情と言って大きな間違いはないはずだ。 日本の情報収集とは、スパイ映画のCIAやMI6のヒーローたちの姿とはかけ離れた平身低頭の乞食にすぎない。
しかも、現場ばかりでなく、政府のトップである首相も情報乞食をしていることを、安倍はアルジェリア事件を例にして白状したのだ。
貴重な情報が国際的影響力のある大国に集まるのだとしたら、日本は依然として中小国だ。 イランの核開発問題がそれを示す。 イランの核開発を抑止するための交渉に参加している国は、国連安保理常任理事国5か国とドイツの6か国だ。 イランへの影響力と世界規模の問題への対応力によって、交渉参加国は決まった。
イスラム革命後、日本政府は、米国をはじめとする西側諸国を敵視するイランとは独自の関係があり、米国との仲介役を果たせると言い続けていた。 だが、革命から30数年、日本がなんらかの仲介に貢献した気配はなく、核問題でも”独自の関係”があるイランに何かをした様子はうかがえない。 日本など、まったく相手にされなかったのだ。
日本が国際政治の一流プレイヤーの仲間に入れる見通しは、当面まったくない。 だが、安倍は乞食をしても、見下されたりバカにされたくはなかった。 ”頂いた情報はきちんと大切にしますから、どうかお恵みを”。
それにしても、安倍が情報を提供されることに劣等感を抱いているとしたら、なぜか。 米国は、日本の同盟国なのだから日本に情報提供するのは米国の義務だ。 もっと寄越せと堂々と要求することだってできるはずだ。 そればかりではない。 日本が軍事・治安機密情報を独自に収集できる能力を身につけるということは、軍事大国になることをも意味しよう。 そうなれば、アジア地域ばかりでなく世界の政治バランスの現状に予測不能の不安が生じるかもしれない。 米国だって、それは望まない。
安倍の劣等感は、強くなりたい、大きくなりたいという野心の裏返しだと思う。 日本を世界的大国にして、強大な権力を持つ指導者になることを夢想しているのだ。 危険の臭いがぷんぷんする。
富士山、東京オリンピック、和食…。 近ごろ、日本人のナショナリズムを鼓舞しようとするニュースが多過ぎはしないか。 安倍の野心と軌を一にした妙な雰囲気作りが進行しているのではあるまいか。 気味が悪い。
2013年12月4日水曜日
真面目すぎると笑っちゃう
こういうテーマをあまりに生真面目に書かれると、つい噴き出してしまう。 筆者がそれを意識して書いたのだとしたら、凄い名文だ。
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Wikipedia 「屁」より
屁(へ)は、肛門から排出される気体で、腸で発生されるガスも含める。おなら、ガスともいう。
平均的には大人は普通一日に合計0.5~1.5リットルの量の屁を5回から20回に亘って放出する。屁を放出することを放屁という。
<メカニズム>
小腸上部で消化吸収されなかった食物の残渣(カス)は、小腸の下部や大腸で腸内細菌の作用によって分解されるときに、ガス(腸内ガス)を発生させる。このガスのほとんどは腸管から吸収されるが、吸収しきれないものが肛門から排出される。
また、開腹手術を行った後は腸管蠕動運動が一時停止し、屁が出ないようになる。
<成分>
*気体成分
腸内のガスの9割は体外から口と鼻を通って入ってくるもので、残りの1割は体内の微生物により造られる。主成分を以下に示す。
・窒素(体外から取り込まれたもの)
・酸素(体外から取り込まれたもの)
・メタン(体内のメタン生成古細菌により生産):主に肛門の近くにいるメタン菌によって合成されるが、3人の内2人はメタンを一切含まない屁をする事がわかっている。メタン菌がいないと硫酸還元菌が優勢になるため硫化水素が増加することも。
・二酸化炭素(体内の好気呼吸微生物により生産、体外からも取り込まれる)
・水素(微生物により排出):体内の古細菌がメタンを合成するために、もしくは硫酸還元菌が硫化水素を合成するために消費する。
*微量だが臭いの元となる成分
・酪酸:腐ったバターのにおい。
・硫化水素:腐った卵のにおいがある。タンパク質の分解や硫酸還元菌の活動で作られる。
・二酸化硫黄:タンパク質の分解によって造られる。
・二硫化炭素:タンパク質の分解によって造られる。
・アンモニア:尿素と関係がある。
・リン化水素:魚臭いにおいがする。リン酸塩や食物中のリンと関係がある。
・インドール
・スカトール
*その他の成分
・腸内細菌 これは大腸菌等の腸内菌が、ガスを排出する際に一緒に放出されてくるものである。一回あたり数千~数万個が放出されるといわれる。
*臭いと原因
・小腸には、繊維分を分解する酵素がないため、繊維分は小腸で消化吸収されず、大腸へ送られて分解される。その際に発酵してガスが発生する。したがって、食べた物や量、又は体調によりガスの発生が異なってくる。
・イモ類など繊維分の多い食物 :繊維質の多い食物を多く食べると、それだけガスの量も多くなる。その際、水素ガス、メタンガスが多量に発生するが、匂いは強くない。水素、メタンはまったくの無臭である。
・肉、ねぎ類、にんにく、にらなど硫黄分が多い食物 :これらの食物を多く食べると、大腸で分解されるときに腐敗し、インドール、スカトールなどのガスが大量に発生し、においの強いガスが発生する。
・病気によるガス :胃、腸、肝臓、胆道、膵臓の病気や菌交代症の際には、蛋白質の腐敗による、不快なにおいのガスが発生することがある。
・その他 :炭酸飲料(ビール等)を摂取する人の方が、摂取しない人よりも、ガスの量が多いという俗説がある。
・口臭が腸内ガスと同じ臭いを発することがある。これは便秘している腸から腸内ガスが吸収され血管内を運ばれ、肺から放出され口腔に至る為である。
・屁には水素やメタン、硫化水素などが含まれるため、ライターなどを近づけると、燃えることがある。これは体質、食したものなどによる成分によって、よく燃える場合と燃えない場合がある。ただし、二酸化硫黄を発生したり、火炎による火傷を起こす恐れがある。
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こういう話題になると盛り上がるヤツがいるんだなあ。
2013年12月2日月曜日
古き良き食材偽装の時代
見るからに、客が入りそうもないしょぼくれた飲み屋。しかも、入口の「居酒屋」と染め抜かれたヨレヨレの暖簾は裏表が逆だった。 どうしようもない店だ。 だが、あまりにうらぶれた佇まいに好奇心が湧いて、われわれは建てつけの悪いガラス戸をつい開けてしまった。
年老いた店主が顔を出したので、「暖簾が裏返しだよ」と教えたら、外に出てきて暖簾をかけ直そうとした。 しかし、年のせいか、ぎこちないからだの動き。 見かねて暖簾をかけ直してやって店に入った。
「1年前に女房が先立って、食べるものはほとんどないんで申し訳ない」
確かに、狭い店内は手入れが行き届いていないせいか、なんとなく薄汚れている。出されたお手拭きのタオルは汚れていて雑巾のようだった。 とても手を拭く気にはなれない。
とはいえ、背中がすっかり丸くなった店主は話好きで気の良い人物のようだった。 聞けば、東京のラグビーの名門、あの保善高校ラグビー部のレギュラーで、1953年に保善が全国大会で初めて決勝に進出したときのメンバーだったという。 今の弱々しげな姿からは想像もつかないが、店主が言う通り、店の隅には黄ばんだ表彰状が飾ってあった。 栄光の過去。
その後、立教大学ラグビー部に引っぱられて入ったが、当時の立教は長嶋のいた野球部だけが注目されていた。 大学を出てからはサラリーマン、そして脱サラ。 以来40年、この場所で居酒屋をやってきた。
「昔はヤキトリもやっていたんだよ。市場で豚肉を仕入れて」
店主のこの一言が引き金になって、われわれも汚らしい横丁が当たり前だった過去の東京世界に思いが飛んだ。
そう、あのころ、安い飲み屋でヤキトリと言えば、豚肉か豚肉の臓物だった。 今と違って、ブロイラーの”チキン”などなかったから、鶏は豚よりはるかに高かった。 ヤキブタをヤキトリと言って食っていたのだ。 店も客も、そんなことは百も承知だった。
あれを、また食いたいなあ。 あのヤキトリには本物の日本酒じゃなくて合成酒が合うんだ。 ひどい臭いだったけどね。
あの酒だってヤキトリと同じで、日本酒ということにして飲んでいた。 誰も、これは「合成酒だ」なんてヤボなことは言わなかった。
もしかしたら、戦後日本の都会で繁殖(?)した闇市の文化かもしれない。 みんなでウソをついて騙しあって、お互いにそれがわかっている。 今だったら”食材偽装だ”とマスコミが目くじらを立てて叫ぶだろう。
ほんのちょっとのウソで、みんながほんのちょっと幸せな気分になる。 称賛してはいけないが、なぜか、ほんのりとした懐かしさを覚えてしまう。 年をとったせいかな? いや、老店主のペースに、いつのまにか引き込まれてしまったかな?
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