2017年12月22日金曜日

あのバリ島は消えた


 「バリは、ほんとに金儲けの島になってしまった。地獄へ堕ちるよ」「慣習上の儀式や宗教儀礼は金で買えるようになってしまった」「浜辺の白い砂やそよ吹く風は、もう漁師のものじゃない。聞いたかい、バリの男は外国女の奴隷になって満足しているって」

 バリ島出身のジャーナリスト、プトゥ・スティアの著作「Menggugat Bali」を翻訳した「バリ案内」(木犀社)の中で、スティアが友人の言葉として引用しているくだりだ。

 だが、世界中から観光客がやってくる現在のバリのことではない。 今から30年以上前、この本が書かれた1986年のことだ。 

 1986年といえば、G5(先進5か国)による為替安定化のためのプラザ合意の翌年、急激な円高で多数の日本企業が東南アジアへ脱出していたころだ。 このころから東南アジアは確かに変わり始めた。 経済発展と外国人観光客の増加。 伝統社会の変化も始まった。

 そのころのバリを知っている。 スティアの友人が言うほどバリ社会が変化していたとは思わなかった。 日本の農村を思わせる水田の風景、どこからか聞こえてくるガムランの音色、人々のほほえみ、そういったものが一緒になって独特のたおやかな雰囲気を醸し出していた。 だが、もちろん、そのころでも観光化の俗っぽさを感じることはできた。 われわれ外国人には、当時、それはまだたいしたことはない程度のものだったが、バリ人には既に破滅的な堕落になっていたのだろう。

 11月に、バリの伝統を色濃く残しているとされる内陸部ウブドに、15年ぶりに行った。 この土地の田舎っぽさ、何もしないでぼんやりしていても退屈しない時間の流れ、ずっと昼寝をしていたい気持ちになれるのが好きで、いつかは住んでみたいな、と思っていたからだ。

 だが、クルマでウブドに着いて、運転手から「ここだ」と言われても、そこがウブドだとわからなかった。 通りの両側は、ホテル、レストラン、バー、スパ、エステ、土産物屋、コンビニなどが、ぎっしりと並んでいた。 都会の繁華街のような光景。 

 15年前もこういった店はあった。 だが数ははるかに少なくて、建物と建物のあいだからは裏手に広がる水田を見渡すことができた。 あの田舎町は消えていた。 東京から7時間も飛行機に乗らなくても、こんな歓楽街なら電車ですぐのところにいくらでもある。

 どうやら、スティアの友人が30年前に指摘したことをやっと感じることができたようだ。 冷静になってみれば、自分があまりにナイーブになっていたことはわかる。 東南アジアはどの国も30年のあいだに大変貌を遂げた。 バリだけが例外であるはずはない。 それでも嬉しかったのは、バリの人々の昔と変わらない優しい微笑みだった。

 昔は、泥棒だの売春婦みたいな邪悪な人間は、ジャワ島などからやって来たよそ者で、バリの人間は悪いことはやらないと自慢していた。 多少の誇張ではあったろう。 ウブドの若者に、今はどうなんだ、と訊いてみた。 ニヤッと笑って、「今は、バリの人間でも悪いのが少しはいるよ」と言った。 きっと、”少し”ではなくて、”たくさん”いるのだろう。 そういう顔をしていた。    

2017年11月5日日曜日

何を意味する「トランプ報道」

 


 米国大統領ドナルド・トランプの来日が目前の11月2日付け読売新聞朝刊は、「トランプ主義」と題する企画記事を掲載し、かなり唐突にトランプを礼賛した。

 記事の内容は、昨年の大統領選挙でトランプが70%以上も得票した特異な州ワイオミングで拾ったトランプへの期待の声を集めたものだ。 日本の新聞報道の基準からすれば、この記事だけでは中立性を欠き、露骨な”偏向報道”ととらえられかねない。 さすがに、日本を代表する新聞だけに、そんなボロは出さない。 別の目立たない記事で、トランプに失望した声も紹介している。 だが、明らかに、とってつけた”中立性”だ。

 翌3日掲載の「トランプ主義」は、野党・民主党内部の分裂ぶりに焦点を当て、トランプへの抵抗勢力としての弱さを強調している。 この報道の仕方は、日本国内で安倍政権を持ち上げる一方、野党の体たらくを強調する得意の手法と同じようにみえる。

 まるで、日本も含め世界中で評判の悪いトランプへの支援キャンペーンを始めたかのようだと思ったら、2日に来日していた大統領補佐官を務める娘のイヴァンカ・トランプが、3日に都内で開いた国際女性会議「WAW!」で講演し、この会議であいさつした安倍晋三は、おそろしく気前のいい約束をした。 なんと5000万ドル、日本円で57億円をイヴァンカが提唱した女性起業家支援の基金に拠出すると表明したのだ。

 これは、いったい何を意味するのか。 米国ではイヴァンカといえば世間知らずの金持ちで庶民感覚に疎いとみられている。 そういう女の基金を支援すること自体が米国では不可思議な行為と受け取られるかもしれない。 しかし、イヴァンカが大統領に最も近い人物であることに目を向ければ、父親トランプへの安倍のご機嫌取り以外の狙いがあろうはずはない。

 安倍はこれからも評判の悪いトランプに擦り寄っていくのだろう。 当面の狙いが何かはわからないが、57億円はある種の賄賂の性格も持とう。

 トランプは日本でも一般的に好かれてはいない。 安倍は無論そのことを知っている。 だが、トランプに擦り寄りたい。 そのためには日本でのトランプの印象を改善したい。 そういうことなら、自分の後援会機関紙・読売新聞を使わない手はない。 おそらく、こうして読売の「トランプ支援キャンペーン」は始まったのだろう。

 それにしても、安倍はなぜトランプにべたべたとくっつこうとするのだろうか。 伝統的な日米関係とは異質な何かを感じる。 北朝鮮情勢、中国の脅威といった安全保障面では米国と密接な関係を維持したいだろう。 だが、トランプによる米国のTPP、パリ協定からの離脱は日本の国益とは相容れない。 利害が相矛盾し日米関係が複雑化する中で、露骨なトランプ接近が目指す先はまだ見えてこない。

 いくらなんでも、安倍の大好きな「お友だち」というレベルのものではないだろう。 

2017年10月18日水曜日

あの脱脂粉乳の不味さを知らないユニセフ


 「戦後食糧難の時代、ユニセフミルクとも呼ばれた学校給食の脱脂粉乳が、ユニセフを通じ世界から日本へ届けられました」

 きょうの新聞(2017・10・17 読売)に掲載されていたユニセフの広告は、学校給食の脱脂粉乳に実に誇らしげだ。 貧しかった日本の子どもたちの栄養改善に貢献したというわけだ。 おそらく、その通りなのだろう。 だが、当時、脱脂粉乳を半ば強制的に飲まされた世代の日本人、「団塊の世代」以上の年齢に達している人たちは、その誇りに嫌悪感や吐き気を催すかもしれない。

 とにかく不味かった。 当時の給食で出てくるものは、なにもかもが不味かった印象しか残っていない。 無論、ときには旨いものもあったのだろうが、給食に良い記憶はほとんどない。 教師も「残すな」と子どもたちを睨みつけ、吐き気をこらえながら飲み込まされたこともしばしばだった。 給食とは拷問であった。 その最強の武器が脱脂粉乳だった。 

 今どきのスーパーで売っている粉ミルクやスキムミルクも脱脂粉乳だそうだが、不味くはない。 給食ミルクがなぜ不味かったのかわからない。 だが、団塊オヤジたちが酒場で一杯やりながら、給食の思い出話を始めれば、無理やり飲まされた脱脂粉乳の悪口でかなり盛り上がるだろう。

 だから、きょうの広告は、犯罪者が自分の犯行であると自白したようなものでもある。 だが、「悪うございました」と謝罪するのではなく、逆に「感謝しろ」と威張りくさっているようにすら受け取れる。

 新聞広告に付けられている給食の写真は、まさに「フェイク」だ。 男の子が嬉しそうに脱脂粉乳を別の男の子の持つ容器に注いでいる。 冗談ではない。 

 この写真にふきだしを付けて、正しい台詞を書き込むなら、「おまえには、たっぷり飲ませてやるぞ、へへへ」「バカ、やめろ。ふざけるな」

 おそらく、この広告制作者はかなり若い人で、ある年齢以上の日本人が脱脂粉乳をいかに嫌悪していたかを知らないのだろう。

 学校給食を紹介している「学校給食」というサイトによれば、学校給食は昭和22年(1947年)に全国都市の児童300万人に対して始められ、アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳が使われた、となっている。 さらに、昭和24年(1949年)からは、ユニセフから寄贈を受けた、としている。

 「援助の歴史」というサイトによると、第2次大戦後、対日援助のために、アメリカ、カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの国から集められた物資の窓口を一本化するためにLARA(Licenced Agencies for Relief in Asia)という組織が発足し、1948年LARA物資による給食が開始されたとなっている。 また、1949年に始まったユニセフ活動では、62年までに脱脂粉乳が緊急用として71万4千ドル、母子福祉に101万9700ドル分が援助された(この金額、現在の感覚では少なすぎるが…)。

 LARAとユニセフを通じて日本に届いた脱脂粉乳は、実際には、ほとんどアメリカから来たものであろう。

 当時は、凶悪な軍国主義日本を倒したアメリカは憧れの輝ける国だった。 それでも、あの恐ろしく不味いミルクがアメリカから来たということは、子どもたちもなんとなく知っていた。 アメリカ人は日本人を人間扱いしていないから、あんなミルクを寄越すんだ、などという声も聞かなかったわけではない。 もしかしたら、それは本当かもしれない。 

 だが、今になってみれば、多くの日本人がアメリカへ観光旅行に行って、アメリカの食べものがひどく不味くて、アメリカ人の多くが味覚音痴だと知っている。 だから、ゲロを我慢しながら飲んだ脱脂粉乳も、善意のアメリカ人がご馳走だと信じて誠心誠意作った可能性も否定はできない。

 これは喜劇なのか悲劇なのか。 自分たちが常に正しいと信じきっているアメリカ人とつきあうとき、脱脂粉乳の味は教訓になるかもしれない。

2017年9月18日月曜日

パキスタンにクルマを売ろうと思ったけれど


 友人が最近、カッコいいクルマを買ったのに刺激を受けて、13年も乗っているマツダを乗り換えようかな、という気がした。

 しかし、こんな古いクルマを下取りに出したり、買い取り業者に引き取らせても、たいした額になるわけはない。 と思っているうちに、10年くらい前に横浜で偶然会ったパキスタン人の中古車業者の男を思い出した。 パキスタンばかりでなく、アジアには街を走るクルマのほとんどが、日本から輸入された中古車という国が珍しくない。 そういう国では日本製中古車がかなりの高額で売られている。 

 あのパキスタン人に売り込めば、いい値が付くかもしれない、確か名刺をもらったはず。 と思って、古い名刺のたばをめくってみたら出てきたではないか。 自分のクルマがこれからもアジアのどこかの街を走っている、と想像するのも楽しくはある。 

 こういう連中が怪しげな商売をしていることは十分承知している。 だから、名刺に記されていた番号に電話する前に、ネットで、彼の名前と会社名を検索してみた。

 ビンゴ‼ 見事に当たった。 2010年の新聞ニュースになっていた。 軽自動車を無免許運転していて警察につかまり、その後の調べでパキスタンのアルカーイダ系組織にクルマを売っていたことがわかったというのだ。 報じられた記事によれば、本人も売った事実を認めていた。

 10年前に会った印象では、この男は多少やばい商売をしているという印象はあったが断じてテロリストではない。 こういうタイプの商売人はパキスタンの街中にいくらでもいる。 話をしているだけなら楽しい相手だ。 彼のクルマを買った相手に関してアルカーイダ系と知っていたかもしれないが、そんなことはどうでもいいと売っぱらったにちがいない。 なにしろパキスタンでアルカーイダ系の組織に会うなどというのは日常生活の一部でしかないのだから。

 日本の警察がつまらない小者を捕まえて自慢げに公表し、パkスタン情勢に疎いアホな新聞記者がそれを記事にしたのだろう。 

 彼の電話番号にまだダイアルしていないが、きっと逮捕後すぐに国外追放されたにちがいない。 いずれにせよ、もう電話はしない。 警察がいまだに盗聴している可能性も否定できないからだ。 なんだか、クルマを買おうという気持ちも興醒めしてしまった。 

 

2017年9月14日木曜日

蘇炳添を忘れるな


 9月9日に、桐生祥秀が陸上100mで日本人として初めて9秒台の記録を出した。 9.98秒。 日本人には嬉しいニュースだった。 近ごろのスポーツ選手はイケメン揃いになった気がする。 だが、桐生クンは普通の田舎臭い若者面。 親しみの持てる新たなスターの誕生だ。 東京オリンピックのころ活躍した飯島英雄も田舎っぺ面だったっけ。 二人ともイボイノシシを思い起こす顔つきだ。

 桐生クンや他の若い日本人スプリンターへの期待はふくらむが、日本人よりも先に「黄色人種」として初めて9秒台を出した中国の蘇炳添(スービンティエン)とのライバル対決も楽しみだ。

 中国の経済発展や中国人の国際的活躍に嫉妬心を抱きがちな日本人には受けないニュースのせいか、日本のマスコミは蘇炳添の活躍をあまり報じない。 とにかくアフリカ系の選手を除けば、おそらく世界一だろう。 2年前2015年5月に日本人に先駆けて9.99秒を記録、その年の北京世界陸上の100mで決勝に進出し、アジア人(生まれ育ちがアジアのnative)で初めてのファイナリストになった。 さらに今年の8月のロンドン世界陸上でも決勝進出を果たし8位に入賞した。

 日本のメディアは引退するウサイン・ボルトの最後の姿ばかりに注目していたが、あの決勝レースで蘇炳添はボルツに果敢に挑んでいたのだ。 

 蘇炳添は広東省中山市出身の28歳。 からだは小さい。 172センチ、65キロ。 大型スプリンターが世界の主流になる中で、桐生(175センチ)より小さい。 このからだで、今年5月には、追い風2.4mで参考記録ながら9.92秒を叩きだした。

 100mを9秒台で走った人間は桐生が126番目だそうだ。 世界に目を向ければ、ニュースでも何でもない。 保守反動政権下で今、日本ナショナリズムがむやみに煽られている。100m9秒台の騒ぎも、そんな一コマであろう。 純粋にスポーツを楽しみたいなら、 蘇炳添は絶対に面白い存在だ。 日本ではスポーツ・ニュースも次第に政治化している。

2017年9月11日月曜日

これぞ日本の記者会見



 皇室「秋篠宮家」の長女と大学の同級生との婚約内定が、9月3日発表され、その記者会見が、テレビで生中継された。 

 主役の二人はやや緊張気味ではあったが、記者の質問に、言葉を詰まらせることもなく、よどみなく答え、会見はつつがなく終了した。

 だが、これは本来の記者会見とは言えない。 宮内記者会幹事社のフジテレビのタナカ、日本経済新聞のイマイが発する台本通りの質問に、十分な時間をかけて何度も練習して、滑らかに口に出せるようにして暗記した台本通りの回答をしただけだ。 

 そんなことは、日本の報道機関も会見を設定した宮内庁も承知の上であり、これこそが彼らの言う記者会見なのだ。  予定外の質問などありえない。 ロボットのように個性のない同級生は、既に皇室の一員に成りきったような話し方をしていた。 宮内庁で徹底した訓練を受けたのだろう。

 この記者会見が誰の目にも明らかにしたことは、日本のジャーナリズムの現実だ。 国家権力の思い通りに操られ、手も足も出ない。 

 とても悲しい婚約内定だ。 


2017年9月3日日曜日

ミサイル空襲体験記

(イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクによるテヘランへのミサイル空襲で家を失い茫然とする市民)


 イラン・イラク戦争が終わったのは1988年7月。 この年の2月。 イランの首都テヘランには、長引く戦争にもかかわらず、まだ150人ほどの日本人駐在員が残っていた。 商社員、大使館員、それに新聞記者などが、その中に含まれていた。 

 イラクがテヘランへのミサイル空襲を突然開始し、彼らは、ミサイル攻撃というものを初めて体験した。 私もその一人だった。 今、北朝鮮がミサイルを次々と飛ばし、日本ではちょっとした緊張感が広がっている。 この機に、数少ない日本人のミサイル体験を多少語っておくのは意味があるかもしれない。

 ミサイル空襲の開始は夜、それほど遅くない時間という記憶だ。 それ以前にも、イラク航空機による散発的な空襲はあった。 イラン側はテヘランのかなり高空を飛ぶイラク機に向かって対空砲を発射していたが、届く距離ではなく、砲弾はいつも空中で破裂し小さな破片が落下していた。 対空砲の発射音、空を輝きながら舞う破片。 その光景は、日本人になじみの花火大会の音と火花に似て、とても綺麗だった。

 最初のミサイル空襲はその比ではなかった。 空に飛び散る火花の数が従来の空襲とは違うスケールで、継続時間も長かった。 まるで派手な花火大会という様相だった。 ちょっとした興奮。 私は、禁酒国イランでも容易に入手できる密造ウオッカをグラスにたっぷり注いで、アパートの屋根に上って寝転がり、花火見物を決め込んだ。 下の部屋では2歳の息子がガラス窓にかじりつき、空中に火花が飛び広がるたびに「ウワーオー」と大声をあげて、はしゃいでいた。

 当時のイランでは、空襲警報はないし、テレビやラジオも何も伝えなかった。 だから、この時、ずいぶん長引く空襲だな、とは思ったが、ミサイルによるものだとは知らなかった。

 ミサイルと知ったのは翌日だった。 どうやって知り得たのかは忘れたが、多分テヘラン放送のラジオ・ニュースだろう。 だが、ミサイル攻撃を身近で見たわけではない。 その一端を知ったのは、その日テヘランの日本大使館で、大使と駐在日本人記者が会ったときだった。 とは言っても、貧弱な情報収集能力しかない日本大使館から貴重な情報を得たという意味ではない。

 大使との会見中、激しい対空砲の音が聞こえ、記者たちは大使をほったらかして、大使館屋上に駆け上がった。 われわれは空を見上げ、ぎょっとした。 大小の金属片がバラバラと降ってきたのだ。 小さなネジ状のものもあれば、30センチ四方ほどの大きさの金属板まで大きさと形は様々。 人間に当たれば命がないのは明らかだ。 記者たちは再びあわてて建物の中へ駆け戻った。

 このあとわかったのだが、イラクのスカッド・ミサイルはイラク領内で発射され、巡航速度でテヘラン上空に到達すると、弾頭部のブースターが点火し、急角度で地上の目標物へ突進する。 ロケット本体はブースターの点火で粉々に破壊され、破片が地上に落ちてくる。 記者たちをあわてさせたのは、この破片だ。 そして、前夜の「花火見物」が、実は命懸けの蛮行だったと知った。 もう少し日にちがたってからは、テヘラン市民の死傷者はミサイルの直撃ばかりでなく、爆発の衝撃で割れたガラスによるケースがかなりの数に上っていたこともわかった。 はしゃいでいた息子もかなり無謀なことをしていたのだ。

 あちこちに落ちてきたミサイルの破片の存在は、まもなくテヘラン中に知れ渡った。 やがて、ウソか本当か、イラン革命防衛隊がこの破片を1個いくらで買い集めているという話が広がった。

 大使館に行った日はいろいろなことがあった。 自宅は3階建てアパートの3階で2階には家主が住んでいた。 親しい付き合いだった。 このところ数日間美人の娘の姿を見ないと思っていたら、顔を包帯でグルグル巻きにしてアパートに帰ってきた。 病院で鼻の整形手術を受け、入院していたが、その病院にミサイルが当たり、とてもいられないので逃げてきたのだという。 ちなみに、イラン人の鼻の整形手術は高くするのではなく、高すぎる鼻を低くするのが普通だ。

 日本人は次々とイランから脱出した。 中には恐怖感で精神を痛めつけられ10円ハゲができた人もいた。 だが、イラン人たちはタフだった。 空襲避難を口実に郊外へピクニックに行って楽しんでいる姿をよく見た。 テヘラン北部の山の中腹に登ると、南から飛んでくるミサイルがよく見えたそうだ。 まるで自分に向かってくるような迫力があって、そのスリルに病みつきなって毎日登っているという男もいた。 スキー場も賑わっていたし、空襲下、個人の家で開くエアロビクス教室も盛況だった。 密造のウオッカやワインの入手に困ったという記憶もない。 ミサイル空襲の犠牲者はかなりの数にのぼったが、イラン人たちは7年にも及ぶ戦時下の不便な生活に慣れきっていたとも言える。

 だが、外国人にはきつい生活だった。 長引く停電、品不足の乳児用粉ミルク、ガソリン・スタンドの行列、等々。 数え上げれば、キリがない。 とは言え、不便さを楽しむ余裕もあった。 今だから笑い話にもなるが、当時は怖い思いもしたはずだ。 だが、戦争は嫌だという重苦しい気持ちを除けば、なにも記憶にない。 不思議なものだ。