2017年9月3日日曜日

ミサイル空襲体験記

(イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクによるテヘランへのミサイル空襲で家を失い茫然とする市民)


 イラン・イラク戦争が終わったのは1988年7月。 この年の2月。 イランの首都テヘランには、長引く戦争にもかかわらず、まだ150人ほどの日本人駐在員が残っていた。 商社員、大使館員、それに新聞記者などが、その中に含まれていた。 

 イラクがテヘランへのミサイル空襲を突然開始し、彼らは、ミサイル攻撃というものを初めて体験した。 私もその一人だった。 今、北朝鮮がミサイルを次々と飛ばし、日本ではちょっとした緊張感が広がっている。 この機に、数少ない日本人のミサイル体験を多少語っておくのは意味があるかもしれない。

 ミサイル空襲の開始は夜、それほど遅くない時間という記憶だ。 それ以前にも、イラク航空機による散発的な空襲はあった。 イラン側はテヘランのかなり高空を飛ぶイラク機に向かって対空砲を発射していたが、届く距離ではなく、砲弾はいつも空中で破裂し小さな破片が落下していた。 対空砲の発射音、空を輝きながら舞う破片。 その光景は、日本人になじみの花火大会の音と火花に似て、とても綺麗だった。

 最初のミサイル空襲はその比ではなかった。 空に飛び散る火花の数が従来の空襲とは違うスケールで、継続時間も長かった。 まるで派手な花火大会という様相だった。 ちょっとした興奮。 私は、禁酒国イランでも容易に入手できる密造ウオッカをグラスにたっぷり注いで、アパートの屋根に上って寝転がり、花火見物を決め込んだ。 下の部屋では2歳の息子がガラス窓にかじりつき、空中に火花が飛び広がるたびに「ウワーオー」と大声をあげて、はしゃいでいた。

 当時のイランでは、空襲警報はないし、テレビやラジオも何も伝えなかった。 だから、この時、ずいぶん長引く空襲だな、とは思ったが、ミサイルによるものだとは知らなかった。

 ミサイルと知ったのは翌日だった。 どうやって知り得たのかは忘れたが、多分テヘラン放送のラジオ・ニュースだろう。 だが、ミサイル攻撃を身近で見たわけではない。 その一端を知ったのは、その日テヘランの日本大使館で、大使と駐在日本人記者が会ったときだった。 とは言っても、貧弱な情報収集能力しかない日本大使館から貴重な情報を得たという意味ではない。

 大使との会見中、激しい対空砲の音が聞こえ、記者たちは大使をほったらかして、大使館屋上に駆け上がった。 われわれは空を見上げ、ぎょっとした。 大小の金属片がバラバラと降ってきたのだ。 小さなネジ状のものもあれば、30センチ四方ほどの大きさの金属板まで大きさと形は様々。 人間に当たれば命がないのは明らかだ。 記者たちは再びあわてて建物の中へ駆け戻った。

 このあとわかったのだが、イラクのスカッド・ミサイルはイラク領内で発射され、巡航速度でテヘラン上空に到達すると、弾頭部のブースターが点火し、急角度で地上の目標物へ突進する。 ロケット本体はブースターの点火で粉々に破壊され、破片が地上に落ちてくる。 記者たちをあわてさせたのは、この破片だ。 そして、前夜の「花火見物」が、実は命懸けの蛮行だったと知った。 もう少し日にちがたってからは、テヘラン市民の死傷者はミサイルの直撃ばかりでなく、爆発の衝撃で割れたガラスによるケースがかなりの数に上っていたこともわかった。 はしゃいでいた息子もかなり無謀なことをしていたのだ。

 あちこちに落ちてきたミサイルの破片の存在は、まもなくテヘラン中に知れ渡った。 やがて、ウソか本当か、イラン革命防衛隊がこの破片を1個いくらで買い集めているという話が広がった。

 大使館に行った日はいろいろなことがあった。 自宅は3階建てアパートの3階で2階には家主が住んでいた。 親しい付き合いだった。 このところ数日間美人の娘の姿を見ないと思っていたら、顔を包帯でグルグル巻きにしてアパートに帰ってきた。 病院で鼻の整形手術を受け、入院していたが、その病院にミサイルが当たり、とてもいられないので逃げてきたのだという。 ちなみに、イラン人の鼻の整形手術は高くするのではなく、高すぎる鼻を低くするのが普通だ。

 日本人は次々とイランから脱出した。 中には恐怖感で精神を痛めつけられ10円ハゲができた人もいた。 だが、イラン人たちはタフだった。 空襲避難を口実に郊外へピクニックに行って楽しんでいる姿をよく見た。 テヘラン北部の山の中腹に登ると、南から飛んでくるミサイルがよく見えたそうだ。 まるで自分に向かってくるような迫力があって、そのスリルに病みつきなって毎日登っているという男もいた。 スキー場も賑わっていたし、空襲下、個人の家で開くエアロビクス教室も盛況だった。 密造のウオッカやワインの入手に困ったという記憶もない。 ミサイル空襲の犠牲者はかなりの数にのぼったが、イラン人たちは7年にも及ぶ戦時下の不便な生活に慣れきっていたとも言える。

 だが、外国人にはきつい生活だった。 長引く停電、品不足の乳児用粉ミルク、ガソリン・スタンドの行列、等々。 数え上げれば、キリがない。 とは言え、不便さを楽しむ余裕もあった。 今だから笑い話にもなるが、当時は怖い思いもしたはずだ。 だが、戦争は嫌だという重苦しい気持ちを除けば、なにも記憶にない。 不思議なものだ。  

0 件のコメント: