タイ料理は日本にすっかり定着したらしい。本場と比べればギョッとする値段だが、東京のレストランは結構はやっている。日本の物価水準からすれば許容範囲なのだろう。しかし、バンコクの道端で小銭を使って買うような食い物が、皿の上に小ぎれいに載せられただけで、えらいカネを要求されるのには、いまだに違和感を覚えざるをえない。
典型的なのは、ソムタム(青パパイヤをスライスしたサラダ)、ガイヤーン(焼き鳥)、それにカオニャーオ(もちごめ)といったところか。屋台に並べられたのを注文すると、車の排気ガスで真っ黒になったような顔のおばさんが、ビニールの袋に入れて手渡してくれる。これで昼飯として十分。いずれもイサーンと呼ばれるタイ東北部の料理だ。
イサーンみたいなところへ普通の日本人観光客は行かない。見るべき名所はないし、土地は乾いて痩せていて、人は貧しい。彼らに東京のレストランの値段を教えて驚かせてみたいものだ。ちょっと悪趣味か。
タイがめざましい経済発展を遂げたと言っても、その恩恵は大都会から地方へは、なかなか及ばない。その大都会だが、実はタイにはひとつしかない。首都バンコクだけなのだ。
この国の人口分布はかなりいびつだ。全人口6,500万人の1割に当たる650万人がバンコクに集中し、日本で言えば東京に次ぐ大阪とか名古屋にあたる都市がない。第2の都市はバンコクのわずか15分の1程度のサムットブラカン、あとは推して知るべし。つまり、首都を除けば全部いなか町。
このいびつさは、経済発展、富の配分のいびつさ、後進性を反映するものだが、バンコクで増えてきた中産階級と呼ばれる小金持ちたちが、そんなことを気に病んでいる様子はかけらもない。
それどころか、彼らは、無論だれもがそうだとは言わないが、貧乏人を見下す傾向がある。そして、貧乏人の代表はイサーンの人々だ。
バンコクのホワイトカラー人種は概して見栄っ張りだと思う。ファッションや見てくれには、かなりカネを使う。その同じ尺度で、イサーンや貧しい隣国のラオスやカンボジアの人たちを馬鹿にする。
抜き差しならない差別意識だ。これなしではタイ社会を語れない。「微笑みの国」もいいが、どんな人間にも醜悪な裏の表情があるものだ。
今も続いているタイの政治危機を生んだ背景には様々な社会的、政治的要因が複雑にからまっている。それを解きほぐそうとするとき、どうしても無視できないのは、タイにはびこる貧乏人を蔑む差別意識だ。
現在の対立の色分けは、赤と黄色の2色。赤いシャツを着た群衆はタクシン元首相を支持、黄色は現政権を支持する反タクシン派。単純な色分けに合わせて単純化すると、タクシン派にはイサーンに代表される貧乏人、反タクシン派にはバンコクの中産階級に代表される小金持ちが集結している。
タイの政界は肥溜めみたいに臭くて、政治家や政党の対立はウジ虫の共食いみたいなものだが、現在の政治危機の特徴は、政界の外では「持たざる者」と「持てる者」の階級闘争が展開されていることだ。発展に取り残された貧しい人々が富の再配分を要求し、発展の恩恵を受けている都会人たちは既得権を維持しようとしている。
貧乏人がタクシンを支持する理由は、カネのばらまきとかポピュリストと批判されようと、タクシンがイサーンにまともに目を向け、貧しくても病院に行ける「30バーツ医療」に象徴される大規模な貧困対策をを打ち出したからだ。
都会人たちが大衆動員と軍に頼って、「腐敗したタクシン」を首相の座から引きずり降ろし、国外へ追い出した行動は「タイ式民主主義」に則れば、正しかったのかもしれない。だが、貧しいイサーンの農民たちにすれば、貧困から脱出するための希望の星が失せたことになる。
「それじゃあ、誰がいったい、俺たちの面倒をみてくれるんだ」
この答えは、まだ見えていない。現状の「バンコク支配」という、いびつな社会経済構造が続くかぎり、何も変わらないのだ。
利権にまみれたタクシンを排除したあと、新たな、根本的な貧困対策を誰も描くことができない。それでも、ヘラヘラと微笑んでいるタイ人は、とても不思議な人たちだ。
典型的なのは、ソムタム(青パパイヤをスライスしたサラダ)、ガイヤーン(焼き鳥)、それにカオニャーオ(もちごめ)といったところか。屋台に並べられたのを注文すると、車の排気ガスで真っ黒になったような顔のおばさんが、ビニールの袋に入れて手渡してくれる。これで昼飯として十分。いずれもイサーンと呼ばれるタイ東北部の料理だ。
イサーンみたいなところへ普通の日本人観光客は行かない。見るべき名所はないし、土地は乾いて痩せていて、人は貧しい。彼らに東京のレストランの値段を教えて驚かせてみたいものだ。ちょっと悪趣味か。
タイがめざましい経済発展を遂げたと言っても、その恩恵は大都会から地方へは、なかなか及ばない。その大都会だが、実はタイにはひとつしかない。首都バンコクだけなのだ。
この国の人口分布はかなりいびつだ。全人口6,500万人の1割に当たる650万人がバンコクに集中し、日本で言えば東京に次ぐ大阪とか名古屋にあたる都市がない。第2の都市はバンコクのわずか15分の1程度のサムットブラカン、あとは推して知るべし。つまり、首都を除けば全部いなか町。
このいびつさは、経済発展、富の配分のいびつさ、後進性を反映するものだが、バンコクで増えてきた中産階級と呼ばれる小金持ちたちが、そんなことを気に病んでいる様子はかけらもない。
それどころか、彼らは、無論だれもがそうだとは言わないが、貧乏人を見下す傾向がある。そして、貧乏人の代表はイサーンの人々だ。
バンコクのホワイトカラー人種は概して見栄っ張りだと思う。ファッションや見てくれには、かなりカネを使う。その同じ尺度で、イサーンや貧しい隣国のラオスやカンボジアの人たちを馬鹿にする。
抜き差しならない差別意識だ。これなしではタイ社会を語れない。「微笑みの国」もいいが、どんな人間にも醜悪な裏の表情があるものだ。
今も続いているタイの政治危機を生んだ背景には様々な社会的、政治的要因が複雑にからまっている。それを解きほぐそうとするとき、どうしても無視できないのは、タイにはびこる貧乏人を蔑む差別意識だ。
現在の対立の色分けは、赤と黄色の2色。赤いシャツを着た群衆はタクシン元首相を支持、黄色は現政権を支持する反タクシン派。単純な色分けに合わせて単純化すると、タクシン派にはイサーンに代表される貧乏人、反タクシン派にはバンコクの中産階級に代表される小金持ちが集結している。
タイの政界は肥溜めみたいに臭くて、政治家や政党の対立はウジ虫の共食いみたいなものだが、現在の政治危機の特徴は、政界の外では「持たざる者」と「持てる者」の階級闘争が展開されていることだ。発展に取り残された貧しい人々が富の再配分を要求し、発展の恩恵を受けている都会人たちは既得権を維持しようとしている。
貧乏人がタクシンを支持する理由は、カネのばらまきとかポピュリストと批判されようと、タクシンがイサーンにまともに目を向け、貧しくても病院に行ける「30バーツ医療」に象徴される大規模な貧困対策をを打ち出したからだ。
都会人たちが大衆動員と軍に頼って、「腐敗したタクシン」を首相の座から引きずり降ろし、国外へ追い出した行動は「タイ式民主主義」に則れば、正しかったのかもしれない。だが、貧しいイサーンの農民たちにすれば、貧困から脱出するための希望の星が失せたことになる。
「それじゃあ、誰がいったい、俺たちの面倒をみてくれるんだ」
この答えは、まだ見えていない。現状の「バンコク支配」という、いびつな社会経済構造が続くかぎり、何も変わらないのだ。
利権にまみれたタクシンを排除したあと、新たな、根本的な貧困対策を誰も描くことができない。それでも、ヘラヘラと微笑んでいるタイ人は、とても不思議な人たちだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿