2010年1月5日火曜日

780円で時空を旅する


 酒を飲むにしても、飯を食うにしても、チェーン店には行きたくない。 大量生産・消費システムの末端に組み込まれ、口を動かすことが楽しみではなく、単純労働のように味気なく思えてくるからだ。

 きょう、たまたま昼時に自由が丘駅近くを歩いていて、なぜか無性に豚カツを食いたくなった。 そこで、その一帯をうろついて豚カツ屋を探した。 だが、みつからず、目に留まったのは、有名な和食チェーン「大戸屋」だけだった。 いったん食べたいと思い込むと欲求が止まらない。仕方なく、入り口に出ていたメニューの「豚カツ定食780円」を食べようと中に入った。

 出てきた豚カツはメニューの写真から受けたイメージより、かなり小さく思えた。まあ、780円じゃあ仕方ないか、といったところ。 味は可もなく不可もなし。 大好物の豚カツを食った!という感激はあるわけがない。

 だが、テーブルに置いてあった大戸屋のパンフレットをなにげなく広げてみたら、その中に、なかなか読ませるコラム記事があった。 「食をみつめる温故知新」というタイトル。 原文を引用してみよう。



 お食事の際に使う「いただきます」と「ごちそうさま」。
本来の意味をご存知ですか。

 「いただきます」とは、「自分のために動植物の命を頂 く」ことから感謝の気持ちを込めた食事の際の挨拶として伝えられてきました。
 人は古くから自然の恵みをもらって生きてきました。 しかし、それは数々の動植物の生命を頂くということを意味します。 人間のための食料となる動植物へ、私たちは感 謝する気持ちを込めて、心から「いただきます」と言います。
大切な生き物の命を粗末にしてはいけません。
(以下、「ごちそうさま」は省略)



 これを読んでいるうちに、雪原でマンモスを倒そうとヤリを握る旧石器時代人の姿が浮かんだ。 そうか、そういうことだったんだ。 人間はずっと動物を殺し、森林を荒らし搾取しながら、地球の支配者にのし上がってきた。

 「いただきます」という言葉がいつから使われ始めたのかはわからない。きっと、その当時の日本人は動植物の命を頂くことに、「人類」として、現代人より、はるかに生々しいものを感じたに違いない。

 今、普通の都会人なら、牛や豚のような大動物はもちろん、ニワトリをさばくことすらできないだろう。

 何年も前、中央アジア・キルギスの山奥で泊まったコテージで、ヒツジを料理してくれたコックを思い出した。 あれは、ある種のクッキング・ショウだった。 だが、日本の民放テレビのグルメ番組などで取り上げられる代物ではなかった。

 夕方、コテージの庭でショウは始まった。 コックが三日月形のナイフでヒツジの喉をすぱっと切る。 料理は、まさに殺すところから始まったのだ。 そして解体。

 ヒツジには食えない部分はないという。 大きなアルミニウムのタライのような容器に、肉も骨も内臓も脳みそも、なにもかもを放り込んで煮る。

 食堂のテーブルに座ったわれわれの前に、筋骨隆々としたコックは大きなタライを軽々と運んで置いた。 そして、タライの中に手を突っ込み、内蔵をわしづかみにして持ち上げ、われわれに解剖教室の教師のように説明する。 彼は言った。 「神に感謝し、ヒツジを食べ残してはいけない」。

 冗談じゃない、現代文明の人間たちは、吐き気をこらえるのが精一杯だった。
 
 そう、きっと、あれが、自然に向かって「いただきます」と感謝の言葉が心から出てくる食事だったのだ。

 ちまちました大量生産定番料理を提供する店のテーブルで、心は石器時代へ、中央アジアへと時空を超えてさまよっていた。

 豚カツ定食を食べ終わってみれば、780円で、ずいぶんお得な旅をしていた。

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