2010年4月13日火曜日

ハート・ロッカーは非現実的だが…


 今年のアカデミー賞は、イラク戦争を題材にした「ハート・ロッカー」(The Hurt Locker)が、作品賞をはじめ主要部門を総なめにした。 あの安っぽい筋書きの立体紙芝居「アバター」でなくて、ほっとした。 「アバター」を選ばなかったことで、アメリカ人のオツムにも想像以上に精神的デリカシーのあることが、わかったからだ。

 それでは、「ハート・ロッカー」の方は、どうなのだろうか。 渋谷・道玄坂の映画館に行ってみた。

 平日の午後という時間帯では同情の余地はかなりあるが、500人は入れる館内の座席に座っているお客は50人程度。 娯楽性をひたすら追求した「アバター」の熱気で華やいだ上映風景とは、なんという違い。 くら~い戦争がテーマでは仕方ないのか。

 舞台は爆弾テロの横行で恐怖が支配した2004年のイラク。 hurt locker とは、米軍のスラングで、「棺桶」を意味するそうだ。

 映画は、ドキュメンタリー・タッチで、危険の最前線にいる米軍爆弾処理班の兵士3人が直面する恐怖への対応ぶりを描く。

 映画に登場する3人の兵士とは、死の恐怖に酔った戦争中毒者、経験で冷静さを培ったまともな兵士、経験不足で恐怖に震える新参もの。 危険の現場での3人の異なる対応ぶりは、実にリアリスティックに描かれていた。

 日本の戦争映画で見られるような、芝居がかった勇敢さや逆の臆病さではない。 ジャーナリストとして、戦争の現場で実際に目撃した兵士、一般人、ジャーナリストなど、恐怖の只中に置かれた様々な人間たちが見せたのと同じ表情がそこにあった。

 押しつけがましいメッセージはない。 あえて、この映画から感じるメッセージは何か、といえば、「良い戦争も悪い戦争も醜い」。

 だが、手に汗握る爆弾処理の緊張感がこの映画の質の高さを示す一方、いくつかの場面では、こんなことが現実にあるのだろうか、と首をひねってしまった。

 例えば、爆弾処理班の3人だけが武装車両に乗って、イラクの砂漠をうろうろしていて戦闘に巻き込まれる場面。 爆弾が発見されたときに出動する彼らが、まるで偵察中の戦闘要員のように、独立して危険な砂漠で行動することがあるのだろうか。
 同じように、バグダッドの街、しかも夜の路地裏で、爆弾処理の3人が発砲しながら”テロリスト”を追いかける。 2004年当時、日本のメディアでも繰り返し報じられたように、バグダッドの市中は、米兵からすれば、イラク人のすべてが”テロリスト”に見える恐怖が支配していた。 そんな状況下で、対テロ専門要員でもない兵士が、未経験の追跡行動などとれるだろうか。

  米軍のオンライン新聞「Air Force Times」には、面白い記事が掲載されていた。 イラク南部ナシリヤで、「ハート・ロッカー」の感想を現場の兵士たちに聞いてまとめたものだ。 それによれば、映画はやはり現実とは異なる。 とくに主役となった戦争中毒の兵士に関しては、「まさに、我々が求めていない男」と言わせている。 また、映画の中で描かれたような行動は、軍では絶対に許されないと指摘している。

 イラク、アフガニスタン退役軍人のブログのいくつかも、爆弾処理班があんな行動を取るわけがないと手厳しい。
 どうやら、軍の専門家からすると、この映画は「リアリスティック」ではないのだ。 この反応は、実に興味深い。 なぜなら、「ハート・ロッカー」を称賛する映画評論家たちは、米国でも日本でも、「リアリスティック」であることを、その理由に挙げているからだ。

 そもそも、非現実ないしは仮想現実である映画の世界にのめりこんで生活している映画評論家なる種族が、「リアリスティック」などという単語を発すること自体が矛盾している。 とは言え、現場を知っている専門家が「非現実的」と言い、何も知らない素人が「現実的」と感じるところが、映画の映画たる所以かもしれない。

 しかも、素人たちは、”非現実的な現実”に感動し、「戦争とは何か」を考えるきっかけを得る。 「ウソも方便」と言っては言いすぎであろうが、「現実」につきまとわざるをえない退屈な時間の流れ、散漫さをはしょって、「真実」を抉り出せるなら、「非現実」もいいんじゃないか。

 「アバター」を見終わって映画館から出てきても「面白かった」だけで忘れてしまうかもしれない。 だが、ある種の映画は人の心のロッカーに何かを残してくれるのだ。 

2010年4月8日木曜日

ツクシの再発見


 この春一番の発見は、ツクシの味だった。 サクラが咲くより前、冬の気配がやっと消えたころ、東京でも青くなってきた草むらからツクシが顔を出していた。 


 もくもくとツクシを摘んでいるオヤジに、食べ方をきいてみた。 「油で炒めて甘辛く味付けするとビールのつまみにいい。 詳しい作り方は女房にきかんとわからん」。 そばにいたオバサンが「あく抜きなんかしなくても食えるよ」と教えてくれた。


 「それならオレも」と、ジャケットの両のポケットがいっぱいになるくらい摘んで、うちに帰り、早速調理してみた。 かなりいいかげんな味付けだったが、うまくできた。 確かに、あのオヤジが言ったとおり、ビールのつまみに悪くなかった。 心が満たされた春の夕暮れ。


 味をしめ、翌日も取ってきて、またビールを飲んだ。


 サクラが散り始めた今では、もちろんツクシは消えている。 もう来年まで食べられないのかと思ったら、ツクシという植物が一体何なのか、「春の風物詩」という以外、まったく知らない自分に気が付いた。 惚れた女の素性がわからないようなものだ。


 そこで調べてみて驚いた。 ツクシは女に例えれば”毒婦”だったのだ。


 ツクシの正式名称はスギナ。 日本語では土筆だが、英語ではhorsetail、馬の尻尾だ。 多年生のシダ植物。 北半球の温帯に広く分布している。 ツクシとは、春になると地中から出てくる胞子茎のことで、頭の部分から胞子を飛ばし、そのあと枯れる。 根茎は地中に長く張り巡らされ、その節から、ツクシとは似ても似つかない栄養茎が出てくる。 緑色で細い茎、関節から輪状に細い葉を伸ばす。 丈は40センチ程度だが、形が杉の木のようにみえる。 スギナの名前の由来だ。


 ツクシは愛らしい外見とは裏腹に、その根茎はしつこく蔓延り、農業者には駆除しずらく憎々しげな雑草だ。 毒婦が表面には出さない素顔である。


 毒婦の毒婦たる所以はそれだけにとどまらない。 ツクシには本物の毒があるらしいのだ。


 詳しく説明しているのは、厚生労働省の「『健康食品』の安全性・有効性情報」だ。 国民の税金で集めた国民のための情報なのだから、国民が自由に利用できなければ意味がないと思われるが、なぜか、「無断利用禁止」になっている。 こんな馬鹿げた役人のたわ言は無視して、一部を引用してみよう。


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 ・経口摂取で長期摂取した場合、おそらく危険と思われる。短期の場合も危険性が示唆されている。

 ・スギナにはチアミナーゼ様活性があるため、経口摂取するとチアミン欠乏を引き起こすことがある。

 ・無機ケイ素を含むので、高用量のスギナを摂取すると、発熱や四肢の冷え、運動失調などのニコチン様中毒を起こすことがある。ニコチン過敏症の患者がスギナを摂取したところ、皮膚炎を発症したという報告がある。

 ・子供にとってはおそらく危険と思われる。茎を噛んだ小児でニコチン様の中毒作用がみられたという報告がある。

 ・妊娠中・授乳中の安全性については充分なデータがないため、摂取は避けたほうがよい。

 ・外用の副作用として脂漏性皮膚炎が知られている。

 ・スギナ茶粉末の摂取者で皮膚炎の報告がある。

 ・腎結石患者を対象にスギナを摂取させたところ、副作用として腹部膨満や排便回数の増加、悪心が認められたという報告がある。

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 地中のミネラルをたっぷり吸収したツクシには薬効があると言われるが、現代科学はそれを裏付ける材料をみつけていない。 ツクシを”毒”とみなしていると言っていい。


 食べ物でも人間でも毒は味に深みを与える。 とはいえ、来年も毒婦ツクシを口にするかどうか、心が揺らぐ。 

2010年4月5日月曜日

イギリスを馬鹿にするな!!




 イアン・フレミングの007シリーズを全部読んだわけではないが、イギリスの秘密諜報員ジェームズ・ボンドが食べる料理で登場するのは、記憶にあるかぎり、朝食のベーコン&エッグだけだったと思う。 確か、カリカリに炒めたベーコンの味の良さを、ジェームズが事細かく説明し、礼賛するのだ。                       


 全体のストーリー展開からすると、たかだか朝食のベーコンに関する、詳細すぎる記述はバランスを欠く。 本筋とは関係のないディテールでもある。 だが、おそらく、この感想は外国人だから抱くものであろう。 イギリス人読者には大サービスなのだと思う。


 イギリスの食事は、朝食を除けば、ほとんど見るべきものはない。 ただ、ボリュームのある朝食だけはイギリス料理を馬鹿にする外国人も評価する。 自国の料理を自虐的にけなすイギリス人が自慢できるのは朝食くらいしかない。 イアン・フレミングは褒めようのないイギリス料理を小説家らしいシニカルさで褒めてみたのだ。


 言い古されたジョーク。 「世界で一番みじめな男とは?」「日本の家に住み、中国の給料を貰い、アメリカ女を妻にし、イギリスの食事をとるヤツさ」


 かつて大英帝国は世界を支配し、イギリス人は各地に足跡を残したが、イギリス料理は痕跡すら見あたらない。 ローストビーフとフィッシュ&チップスはイギリス発祥というが、単純な料理だから似たような料理は世界中に存在していたであろう。


 イギリス人の偉大さは、むしろ、自らの食文化を持たなかったことだと思う。 食事に拘らなかったからこそ、見知らぬ土地へ臆せず入りこむことができた。 そして、自国の食事のまずさを自覚していた彼らは、冷酷な侵略者でありながら、他国の食文化には実に寛大であった。


 イギリスの食事がまずいというのは、実は、半面の真実でしかない。 ロンドンの中国料理レストランの味は、パリのレストランより、はるかに上だ。インド、アラブ、タイ、ベトナムなど各国料理も、かなりのハイレベルにランクされる。


 フランス人が見下しているイギリスは、フランスばかりでなく世界のワインの最大の輸入国でもある。 ワインを飲むということは食事を楽しむということだ。 つまり、イギリス人は食事を楽しんでいる!!


 イギリス人を馬鹿にするのはやめよう。 明治以来の日本は、あらゆる知識、情報を西欧経由で輸入した。 インドのカレーだって、イギリスでアレンジされたものが日本に伝わった。 他国の食文化を丸呑みするイギリスがなかったら、日本の国民食カレーライスも、そこから派生したカレーパンも、この世に存在しなかったにちがいない。


 要するに、イギリスの食文化は貧弱だったゆえに偉大なのだ。

 (唐突に、イギリスの食文化などをテーマにしたのは、先週、読売新聞のコラムが取り上げていたのを読み、何か補足してみたくなったからだ)
 

2010年4月2日金曜日

”幸せって 何だっけ 何だっけ”



 早朝のスーパーマーケット。 男の客が多いことに、近ごろ気付いた。 むしろ、女より男の方が多いかもしれない。 朝っぱらから酔っ払って、缶チュウハイを買いにきた近所の公園居住のホームレスがうろついている。 その横をスーツ姿の若い男たちがすり抜け、298円の弁当をさっと掴んでレジに向かう。 そして隠居生活に入ったとおぼしき高年齢者たち。

 どいつもこいつも、ろくな食生活をしていない。 豊かさの中の貧困。 スーパー店内で、なかでも気になるのは、高年齢者たちのカゴの内容だ。 いちいち覗いているわけではなく、レジに並べば他人の食生活があからさまに見えてしまう。

 彼らが買う食料は、出来合いの惣菜、レトルト食品、インスタントの麺類が主体。 納豆、豆腐、ハム、ソーセージ、サバ缶など、火を通さずに食える品がそれにう加わる。 コーヒーや日本茶もペットボトルで買い込む。

 こうした品目から想像するかぎり、彼らは自宅で料理をしない。 ここで言う料理とは、野菜、魚、肉などの食材を自分で調理して食卓に並べて食べるもので、どこかの工場で製造された袋の中身を取り出し、電子レンジで温めて口に放り込む行為は、市場経済システムの最終処理段階でしかない。


 朝の男たちに気付いて、夕方のスーパーも観察してみた。 かつて買い物は主婦の仕事だった。 だから、男の姿が多いことに今さらながら驚いた。 もちろん、カゴの中の個人生活もじっくり観察した。 朝とそれほどの違いはないが、缶ビール(主として、発泡酒か第3のビール)、紙パック入りの日本酒、焼酎が加わる。


 そういえば、朝のジョギングのあとコーヒーを飲むために立ち寄るファミリーレストランで、老人たちが一人もくもくと朝定食を口にしている姿を何度も見たことを思い出した。


 おそらく、彼らは妻に先立たれた、妻がいたとしても夫が介護をしている、などと想像する。


 とくに、一人身だとすれば、食卓風景の寂しさは思い描きたくもない。


 料理をしない、できない男たちが長生きして、何を楽しみに生活しているのだろう?


  ♪ 幸せって 何だっけ 何だっけ ♪
  ♪ 幸せって 何だっけ 何だっけ ♪


 明石家さんまがノーテンキに、なおかつ、しつこく繰り返して歌うキッコーマンのCMソングは、哀しく老いた男たちをいたぶる残虐行為にもきこえる。