今年のアカデミー賞は、イラク戦争を題材にした「ハート・ロッカー」(The Hurt Locker)が、作品賞をはじめ主要部門を総なめにした。 あの安っぽい筋書きの立体紙芝居「アバター」でなくて、ほっとした。 「アバター」を選ばなかったことで、アメリカ人のオツムにも想像以上に精神的デリカシーのあることが、わかったからだ。
それでは、「ハート・ロッカー」の方は、どうなのだろうか。 渋谷・道玄坂の映画館に行ってみた。
平日の午後という時間帯では同情の余地はかなりあるが、500人は入れる館内の座席に座っているお客は50人程度。 娯楽性をひたすら追求した「アバター」の熱気で華やいだ上映風景とは、なんという違い。 くら~い戦争がテーマでは仕方ないのか。
舞台は爆弾テロの横行で恐怖が支配した2004年のイラク。 hurt locker とは、米軍のスラングで、「棺桶」を意味するそうだ。
映画は、ドキュメンタリー・タッチで、危険の最前線にいる米軍爆弾処理班の兵士3人が直面する恐怖への対応ぶりを描く。
映画に登場する3人の兵士とは、死の恐怖に酔った戦争中毒者、経験で冷静さを培ったまともな兵士、経験不足で恐怖に震える新参もの。 危険の現場での3人の異なる対応ぶりは、実にリアリスティックに描かれていた。
日本の戦争映画で見られるような、芝居がかった勇敢さや逆の臆病さではない。 ジャーナリストとして、戦争の現場で実際に目撃した兵士、一般人、ジャーナリストなど、恐怖の只中に置かれた様々な人間たちが見せたのと同じ表情がそこにあった。
押しつけがましいメッセージはない。 あえて、この映画から感じるメッセージは何か、といえば、「良い戦争も悪い戦争も醜い」。
だが、手に汗握る爆弾処理の緊張感がこの映画の質の高さを示す一方、いくつかの場面では、こんなことが現実にあるのだろうか、と首をひねってしまった。
例えば、爆弾処理班の3人だけが武装車両に乗って、イラクの砂漠をうろうろしていて戦闘に巻き込まれる場面。 爆弾が発見されたときに出動する彼らが、まるで偵察中の戦闘要員のように、独立して危険な砂漠で行動することがあるのだろうか。
同じように、バグダッドの街、しかも夜の路地裏で、爆弾処理の3人が発砲しながら”テロリスト”を追いかける。 2004年当時、日本のメディアでも繰り返し報じられたように、バグダッドの市中は、米兵からすれば、イラク人のすべてが”テロリスト”に見える恐怖が支配していた。 そんな状況下で、対テロ専門要員でもない兵士が、未経験の追跡行動などとれるだろうか。
米軍のオンライン新聞「Air Force Times」には、面白い記事が掲載されていた。 イラク南部ナシリヤで、「ハート・ロッカー」の感想を現場の兵士たちに聞いてまとめたものだ。 それによれば、映画はやはり現実とは異なる。 とくに主役となった戦争中毒の兵士に関しては、「まさに、我々が求めていない男」と言わせている。 また、映画の中で描かれたような行動は、軍では絶対に許されないと指摘している。
イラク、アフガニスタン退役軍人のブログのいくつかも、爆弾処理班があんな行動を取るわけがないと手厳しい。
どうやら、軍の専門家からすると、この映画は「リアリスティック」ではないのだ。 この反応は、実に興味深い。 なぜなら、「ハート・ロッカー」を称賛する映画評論家たちは、米国でも日本でも、「リアリスティック」であることを、その理由に挙げているからだ。
そもそも、非現実ないしは仮想現実である映画の世界にのめりこんで生活している映画評論家なる種族が、「リアリスティック」などという単語を発すること自体が矛盾している。 とは言え、現場を知っている専門家が「非現実的」と言い、何も知らない素人が「現実的」と感じるところが、映画の映画たる所以かもしれない。
しかも、素人たちは、”非現実的な現実”に感動し、「戦争とは何か」を考えるきっかけを得る。 「ウソも方便」と言っては言いすぎであろうが、「現実」につきまとわざるをえない退屈な時間の流れ、散漫さをはしょって、「真実」を抉り出せるなら、「非現実」もいいんじゃないか。
「アバター」を見終わって映画館から出てきても「面白かった」だけで忘れてしまうかもしれない。 だが、ある種の映画は人の心のロッカーに何かを残してくれるのだ。
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