2011年10月30日日曜日

川端康成 vs RKナラヤン

 10月29日、心地よい秋の土曜日の午後、鎌倉で、米国の著名な日本文学研究者ドナルド・キーンの講演会が開かれ、顔を出してみた。 キーンの著作など読んだこともなし、関心はなかったが、先輩ジャーナリストの高木規矩郎がコーディネーターをやるというので行ってみる気になった。 話の内容は、場所が鎌倉ということで、鎌倉にまつわる話題が中心になった。

 その中で、ひとつ興味を引くエピソードがあった。

 いつのことかわからないが、川端康成が存命中のことだから、1972年より以前のことだ。 日本を訪問したインド人の作家が、キーンに日本の作家を紹介して会わせてほしいと頼んだ。 そこでキーンは日本の作家何人かに接触したが、「インドは嫌いだ」とか「インド人と共通の話題はない」といった理由で断られた。

 そして、やっと会えることになったのが、川端だった。 キーンは、さらに、そのインド人作家の名前は、ナラヤンだと言った。 ナラヤンといえば、世界的に有名でノーベル文学賞の呼び声もあったRKナラヤン(1906~2001)だ。
 
 人知れず、川端の自宅で、キーンの通訳によるノーベル賞作家vsノーベル賞候補作家という超豪華対談が行われたのだ。
 
 このエピソードに惹かれたのは、豪華な顔ぶれというだけではない。 川端以外の日本の作家たちが、ナラヤンに会おうとしなかったことが、当時の小説家ばかりでなく、日本人の精神的方向性を如実に示していると思ったからだ。

 作家たちは欧米からの訪問者だったら会ったに違いない。 彼らは”遅れた”アジアなどに、まったく関心がなかったのだと思う。 おそらく、大作家ナラヤンの存在すら知らなかったであろう。

 キーンは、このときの会合について、岡倉天心の名言「アジアはひとつ」は信じないが、二人は言葉が異なっても大いにわかりあうことができたと語った。

 「アジアはひとつ」は、大東亜共栄圏という妄想と野望の背後にあるアジア主義を象徴する言葉だ。 大東亜戦争の破滅的敗北でアジア主義は光を失ったが、それとともに、日本人はアジアへの関心そのものも無くしていった。(現在の韓流ブームやインド人ITエンジニアの急増からすれば大昔のことにも思える)

 キーンの言葉は、取りようによっては、当時の日本人作家の知的関心の偏りに対する大いなる皮肉だ。 いつもニコニコして日本人に口当たりのいい彼の言葉を、こんな風に解釈した聴衆が他にいたかどうかは知らない。
 
 ついでに加えれば、キーンがインド人だったら、日本人が彼を尊敬し、その言葉をありがたがったかどうか、確信は持てない。
 (写真はRKナラヤン)

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