2012年1月18日水曜日

もうすぐバレンタイン



 バレンタインデーのチョコレート・シーズンが、もうすぐ始まる。 ”愛”だとか”義理”をチョコに託す前に、CNNが今週末に放映すると予告している「The freedam project」を見るのはどうだろう。 チョコの原料カカオ豆の世界最大の産出国、西アフリカ・コートジボアールで続いている子ども奴隷がテーマ。 見たあとは、とろける甘みとともに、ざらついた罪悪感を味わうようになるかもしれない。

 子どもたちが人身売買でコートジボアールのカカオ農園に売られ、奴隷として過酷な労働に従事させられている現状は、以前から指摘されていた。 2001年には、子ども奴隷撲滅を目指して、米国下院議員がハーキン・エンゲル議定書を作成し、カカオ農家支援のNPO・世界カカオ基金(WCF)とチョコレート製造業者協会(CMA)が署名した。 日本の明治製菓と森永製菓も2006年WCFに加盟した。

 だが、いまだに、子ども奴隷を取り巻く環境に大きな変化はない。 CNNはこうした状況を現地から報告するという。

 世界カカオエコノミー諮問委員会議長Tony Lassによると、世界のカカオ豆生産は、コートジボアールのほか、ガーナ、カメルーン、ナイジェリアの西アフリカ4か国で世界の62%を生産している。 コートジボアールのカカオの大部分は欧州へ輸出され、日本は主として高品質のガーナ産を輸入している。

 日本とコートジボアールの直接的かかわりは深くない。 だが、ガーナの子ども労働も、かなり過酷なようだ。 日本のNGOで世界の子どもを児童労働から守ることを目指す「ACE(Action against Child Exploitation)」は、2010年11月、5周年記念事業で、ガーナの中学2年生を日本に招待した。 そのときのスピーチをホームページに掲載している。 以下、無断引用。

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 「ぼくの名前は、オティ・ゴッドフレッドです。三人兄妹の長男で、弟と妹がひとりずついます。ガーナのアシャンティ州アチュマ・ンプニュア郡にあるクワベナ・アクワ村の出身です。1995年生まれの15歳です。

 ぼくの家はカカオ農家でした。ぼくが7歳の時に父が亡くなりました。そのために9歳の時からカカオ畑で働き始めました。7歳の時に小学校に入学しましたが、ほとんど行けず、学用品などを何も持っていなかったので、学校があまり好きではありませんでした。母も字の読み書きはできませんでした。貧しい母がたった一人でぼくたち兄妹を養うために働いていたので申し訳ないと思い、ぼくの弟妹たちも学校に行っていませんでした。

 その後、同じ村に住む祖父母が、ぼくを養子として迎えてくれました。それで学校に通えるようになると思ったのですが、実際はもっと厳しい状況になりました。祖父母の農園で働きながら、自分の学用品を買うお金を稼ぐために、他の農園でも働きました。

 カカオ農園での仕事はとても骨が折れます。朝は、誰よりも早く、5時から農園へ行き、カカオの実を収穫しました。収穫したカカオの実を一箇所に集めたり、カカオの実を農園から家まで運んだり、本当に大変な仕事です。おとなたちはぼくよりもずっとあと、10時ごろに農園にきて、ぼくよりも先に仕事を終えて帰っていきました。朝ごはんを食べられなかったので、お腹が空くとカカオの果実を食べて空腹をまぎらわしていました。
 カカオは頭に乗せて運びます。とても重くて、頭から首、背中、腰、脚まで全身が痛くなりました。道の溝に足がはまって、足の骨を折ることもあります。毒をもったヘビやサソリにかまれて亡くなる人もいます。カカオ農園での仕事は作業が大変なだけでなく、危険がたくさんあります。

 まるで強制労働のようでした。しかし、ぼくには家族を支えるために仕事をする以外に他に選択肢がなかったのです。病気になったりしても、農園に働きにいかなければ、ごはんを食べさせてもらえなかったり、外で寝させられたり、体罰を受けたりしました。疲れたとか、休みたいと思っても、それを口に出すことさえできませんでした。ほかの子どもたちが学校へ通っているのに、自分は働かなければならないことを、とても悲しく思っていました。

2012年1月17日火曜日

札幌でビックリしたこと



 約20年ぶりに、極寒の札幌に行った。 新しいビルが増えて、風景がかなり変わっていた。

 最初に驚いたのは、未入居の新築マンションが林立していることだった。 目に入るマンションのほとんどが新築に見えた。 札幌市内の住宅開発がものすごい勢いで進んだのだろうか。

 いや、そんなわけはない。 すぐに自分の勘違いに気付いた。 新築と思ったのは、マンションのベランダが空っぽで、洗濯物やふとんといった人間臭いものがまったくなく、実に殺風景だったからだ。 東京周辺では、こんな光景は完成直後のマンションでしか見られない。

 そう、札幌では、氷点下の屋外に濡れた洗濯物を干すことなど出来ないのだ。 すぐに凍り付いてしまう。 北海道で安アパートに住んでいた友人の体験談を思い出した。 酔っ払って帰宅し、洗濯機に水を張ってパンツを放り込んだままスイッチを入れるのを忘れて寝込んでしまった。 朝起きたら、洗濯機の中はコチコチに凍っていて、春まで使えなくなってしまったそうだ。 もちろんパンツも。

 マイナス10°C。 この凍てつく寒さの中で、本当にギョッとさせられたのは、若い女たちがミニスカートの下から剥き出しにしたナマ足だった。 こちらは厚手のズボンの下にユニクロで買ったヒートテックを2枚も重ねて穿き、懸命に寒さから防御しているのに、どうなっているんだ!

 ミニスカート・ナマ足の北限はいったいどこまで北上できるのだろうか。 こんなテーマは、アホ民放テレビ局には、おあつらえ向きの材料だろう。

 すすき野歓楽街の賑わい、レベルの高さ、値段の安さは、嬉しい驚きだった。 ここでも時間制飲み放題がはやっていたが、60分単位が主流。 これが安い。 たった800円。 生ビール2杯で元をとれてしまう。 この値段に驚いていたら、700円というのもみつけた。 ついには500円というのに巡り会った。

 この界隈には、しゃれた店も多い。 東京も負けるかもしれない。 ビートルズのコピー・バンドには驚かされた。 オヤジ・ミュージシャンが、あのサウンドを気味が悪いほど見事に再現する。 札幌の夜が気持ち良く更けていく。

 夜の街を引き回してくれたのは、若いころアフガニスタンを徘徊していたバックパッカーだった友人Y。 今は北海道新聞運動部の部長という編集幹部になっている。 これは驚きではない。 驚かされたのは、Yがトライアスロンをやっていることだった。 かつて丸くなりかけていた体形はしっかりと引き締まっていた。 

 日本の大手新聞社の運動部長は毎日、スポーツに関わっているが、そのうち何人が自分自身で肉体的に過酷なスポーツを実行しているだろうか。 おそらく、Yは日本で唯一、トライアスロン選手の運動部長であろう。 負けてたまるかと、3日連続で昼間はスキーをかなりまじめにやってしまった。 

2012年1月6日金曜日

なぜかラオス



 ジャーナリストとして、かつて東南アジアに7年間も住み、この地域をみつめていたのに多くのことを見落としてきたことを悔やむことがある。 夜の街に繰り出し飲みすぎれば、翌日は二日酔い。 そんなことがしばしばあれば、ぼとぼとと落し物をするのは、当然と言えば当然だ。

 だが、インドシナ戦争終結から40年もたっているのに、その亡霊にとりつかれているラオスという国に無関心すぎたことは、大いに反省すべきだと思う。

 貧しくて小さな内陸国。 バンコクの道端には、海のないラオスをからかった”Laos Navy”なんてTシャツが売られていた。 文化的にも経済的にもタイの属国みたいで、観光でも外国人を強くひきつけるものはない。 国際ニュースに登場することもほとんどない。

 この国は1953年の独立以来、人目に付かないように運命付けられているのかもしれない。 つまり、それゆえにこそ、インドシナ戦争終了後、今も続くラオスの悲劇が世界に知られないのだと思う。

 ベトナム戦争中、北ベトナムは南ベトナムへの補給線「ホーチミン・ルート」をベトナム国境に沿ってラオス領内に作った。 米軍はこのルートにB52爆撃機による激しい攻撃を加えた。 だが、米国はラオスへの直接関与を避け、地上での戦闘には、CIAが秘密に軍事訓練した山岳少数民族モン族のゲリラが従事した。 当時、CIAが設立した航空会社Air Americaがタイからの支援物資補給にあたっていた。

 こうした状況は米国のメディアで報じられたが、米国政府が公式にラオスでの活動を認めたことは一度もなかった。 このため、ラオスでの戦闘は「秘密戦争」とメディアに名付けられた。

 ラオスが今も苦しめられているのは、この「秘密戦争」の後遺症だ。

 米軍は1964年から73年の10年間に、ラオス領内へ58万回の爆撃を加えた。 単純計算すれば、9分間に1回の割合。 爆弾の総量は200万㌧以上。 この量は、第2次大戦中にナチ・ドイツに落とされた爆弾の2倍にあたり、戦争史上最も激しい爆撃とされる。

 爆撃にはクラスター弾が多く使われた。 米軍がベトナム戦争で使用したのは、砲弾の中に野球ボール大の子弾300個が収められたもので、これが破裂すると、それぞれの子弾から600個の金属球が飛散し、効率的な人的被害を目的とした。

 ラオスに投下されたクラスター弾の子弾は、地元では「ボンビー」と呼ばれている。 今も8000万個が残り、うち約30%が不発で、いまだに2400万個がラオス全18県のうち17県に散らばっている。 不発弾の爆発による死傷者は、爆撃が開始された1964年から2008年までの総数が50,000人以上。 だが、このうち20,000人以上が戦争が終った1974年以降の犠牲者だ。

 犠牲者のほとんどは、名もなく貧しい農民たち、その多くは子どもたちだ。 だが、インドシナ戦争後も、様々な出来事で世界から注目を浴びたベトナムやカンボジアと比べると、無名の民の犠牲は世界から無視され続けてきた。 

 アジアの最貧国で、爆弾は生活の光景から切り離せない。 人の背丈ほどもあるナパーム弾の外殻はカヌー、BLUクラスター弾の筒はランタンにちょうどいい。 古い爆弾の金属部分は家の支柱にも使われる。 爆弾が身近すぎる。 虎視眈々と40年以上前の殺人兵器が彼らを狙っているのだ。

 かつて命を張ってベトナム戦争を取材した先輩ジャーナリストたちは、もう若くても70歳くらいか。 若いジャーナリストたちにとって、インドシナ戦争は既に歴史の出来事。 今、ラオスへの無関心に罪悪感を抱けるなら、なにか行動を起こすべきなのだ。 

2012年1月4日水曜日

もうひとつの日本・台北



 世界のいろいろな国をほっつき回った末、65か国目に訪れたのは、日本に一番近い外国のひとつ、台湾だった。 台北の街を歩いていて、なんとも不思議な感覚にとりつかれた。

 「ここはどこなんだ、外国なのか、日本なのか」と。

 街の光景が、日本ではないが、なんとなく日本なのだ。 数ブロックごとに、セブン・イレブンかファミリー・マートといったコンビニがあるのは東京と同じ。 牛丼その他のどんぶり屋も同じ。 屋台も、「関東煮」と書かれた看板を付けたおでん屋、稲荷や海苔巻きを売る寿司屋が目に付く。 道路にゴミがない。 日本以外でこんな清潔な道路を見たことがない。

 若者たちのファッションも東京と違いはない。 12月の台北は寒かった。 東京から飛ぶと、季節感も大きな違いがないから冬姿も同じ。 ダウン・ジャケットや女たちのブーツを見ていると、日本国内のどこかに旅行した錯覚に陥る。

 人々の話す言葉などは問題ではない。 日本でだって、鹿児島県や山形県の山村で会話を100%理解できなかった経験がある。 日本を感じさせる理由のひとつは、彼らの表情や動作かもしれない。 街行く人をながめて、日本人と台湾人の見分けはまったくと言っていいほどつかない。

 地下鉄に乗る。 日本と同じ「優先席」は、身障者や妊婦の絵柄デザインもそっくり。 これはパクリかな? 痴漢に注意を呼びかけるスティッカーまで日本と同じ。 どうやら、台北にも、席を譲らない横着者、陰湿な悪さをするヤカラがいるらしい。 つまり、そこまで「日本化」が進んでいるということか。

 それでは、日本との違いは何か。 短い滞在期間に観察してみると、まず、台北の街で酔っ払いを見ないことに気付いた。 彼らも酒を飲まないわけではない。 パブでは、これまた日本風にウイスキーのボトル・キープをやっていた。 まるで日本のサラリーマンとOLといったグループが元気に飲んでいた。 だが、酔っ払いの姿は皆無。

 おそらく、日本人のように、ところ構わず、いつでも自堕落に飲むという習慣がないのだろう。 屋台には美味そうな料理が溢れているのに、酒を飲んでいる人はいない。 高級レストランは別にして、餃子やソバを提供する安食堂にも酒は置いていない。 無論、酒を提供する食堂がないわけではないが、非常に限られている。 そういう店をやっと発見して紹興酒を飲めたときは、日本人としてホッとさせられた。

 そして、日本との非常に大きな違いを、初代総統・蒋介石を祀る巨大建築物「中正紀念堂」で発見した。 八角形の屋根が載った高さ70メートルの堂の中に、これまた巨大な蒋介石の坐像がある。 ここでは、午前11時から毎時、儀杖隊の交代式がある。 それを見ようと、大人数の生徒たちが教師に引率され押し寄せていた。 みつめる少年少女たちの顔は熱がこもり、真剣だった。 おとなたちは像の前で深々とお辞儀をしていた。

 この光景はナショナリズムの発露だと思う。 だが、彼らの胸のうちにあるものは何か。 共産党との闘争に敗れて中国大陸を去り、台湾で中華民国という体裁を整えた蒋介石。 だが、中国全土支配は見果てぬ夢となった。 今、二つの中国が厳然と存在する。

 蒋介石を敬う人々のナショナリズムの対象は中国であろう。 だが、その中国とは中国全土を含めたものなのか、それとも台湾だけなのか。

 台湾では、おそらく国のかたちのイメージが人によって様々に異なるに違いない。 日本人のイメージにある日本国なんて大きな違いはない。 北方領土を加えたって地図はほとんど同じ。 だが、台湾人は、自らが属する国というものを、はるかに複雑に想像しなければならない。

 コピー日本は上っ面だけのものであろう。 彼らの頭の中の本音を覗くために、中国語を勉強してみたい気がちょっと湧いてきた。 

2012年1月2日月曜日

夜明けの国際ターミナル



 羽田空港国際線ターミナル。 午前5時。 冬の夜は明けていない。 早朝のフライトへのチェックインを済ませ、出発まで2時間。 閑散としたターミナル内をうろつき、からだを伸ばして一眠りできるベンチかソファを探す。

 やっと、建物最上階の5階へエスカレーターで昇り、屋外展望デッキに出る手前のホールで、ころあいのベンチをみつけ、リュックサックを枕にして寝そべった。

 「これで1時間半は仮眠をとれる」。 と思いきや、そうはいかなかった。 そこには、まるで、「絶対に寝かせない」と主張するかのような女の声の録音アナウンスが、えんえんと響き渡っていた。

 ”Watch your step. 4階行き下りエスカレーターです。足元にご注意願います”

 ホールに人はほとんどいない。 だが、エンドレスのアナウンスは意に介さない。 寝付けなくて腕時計で計測してみたら、1回10秒、1分間に6回。 つまり、1時間に360回、1日8640回、女は”Watch your step…” を繰り返し続けることになる。

 「うるせえ!!!」と叫んでも、どうにでもなるわけではない。

 と思って、気付いた。 「ここは、まだ日本国内なんだ」と。

 電車の中だろうが、路上だろうが、どこに行っても、”ナントカにご注意”のアナウンスが耳障りに響き渡る日本。 トラックですら、「バックします。ご注意ください」としゃべる。 近ごろは、スキー場のリフトでも降り場で「ご注意」とアナウンスする。  余計なお世話だが、それが日本だ。 こんな国は、世界中どこにもない。

 眠れなくなったので、この真新しい国際ターミナルの中を歩き回ってみた。 すると、驚いたことに、トイレの入り口でもアナウンスがあった!! 「手前が男性用、奥が女性用云々」と。

 このターミナルは、単に日本というだけでなく、典型的な現代日本社会を見事に再現した施設だったのだ。 江戸時代の町並みを再現したという食堂街「江戸小路」は、安っぽい映画セットのようだが、ターミナル全体で聞くことができるアナウンスは、完璧に日本を演出している。

 アナウンスは視覚障害者のための優しい心遣いだと受け取れなくもない。 だが、必ずしも、そうとは言い切れない。 まずは、空港会社の小役人的言い逃れの臭いがぷんぷんする。 「事故が起きたとき、事前に十分対処していたのだから、当方に責任はない」という日本人にはお馴染みの言いぐさ。

 それよりも、このアナウンスは、日本人と日本社会の「優しさ」ではなく「冷たさ」を象徴しているのだ。 視覚障害者が困っていれば、赤の他人でも回りにいる人が助けるべきであろう。 生身の人間が助けないから、機械的なアナウンスに頼らざるをえない無機質な社会。

 このターミナルにいると、日本がとてもよく見える。 素晴らしい空港ではないか。 眠れなかったが、新しい東京名所の発見は大きな収穫だった。