ジャーナリストとして、かつて東南アジアに7年間も住み、この地域をみつめていたのに多くのことを見落としてきたことを悔やむことがある。 夜の街に繰り出し飲みすぎれば、翌日は二日酔い。 そんなことがしばしばあれば、ぼとぼとと落し物をするのは、当然と言えば当然だ。
だが、インドシナ戦争終結から40年もたっているのに、その亡霊にとりつかれているラオスという国に無関心すぎたことは、大いに反省すべきだと思う。
貧しくて小さな内陸国。 バンコクの道端には、海のないラオスをからかった”Laos Navy”なんてTシャツが売られていた。 文化的にも経済的にもタイの属国みたいで、観光でも外国人を強くひきつけるものはない。 国際ニュースに登場することもほとんどない。
この国は1953年の独立以来、人目に付かないように運命付けられているのかもしれない。 つまり、それゆえにこそ、インドシナ戦争終了後、今も続くラオスの悲劇が世界に知られないのだと思う。
ベトナム戦争中、北ベトナムは南ベトナムへの補給線「ホーチミン・ルート」をベトナム国境に沿ってラオス領内に作った。 米軍はこのルートにB52爆撃機による激しい攻撃を加えた。 だが、米国はラオスへの直接関与を避け、地上での戦闘には、CIAが秘密に軍事訓練した山岳少数民族モン族のゲリラが従事した。 当時、CIAが設立した航空会社Air Americaがタイからの支援物資補給にあたっていた。
こうした状況は米国のメディアで報じられたが、米国政府が公式にラオスでの活動を認めたことは一度もなかった。 このため、ラオスでの戦闘は「秘密戦争」とメディアに名付けられた。
ラオスが今も苦しめられているのは、この「秘密戦争」の後遺症だ。
米軍は1964年から73年の10年間に、ラオス領内へ58万回の爆撃を加えた。 単純計算すれば、9分間に1回の割合。 爆弾の総量は200万㌧以上。 この量は、第2次大戦中にナチ・ドイツに落とされた爆弾の2倍にあたり、戦争史上最も激しい爆撃とされる。
爆撃にはクラスター弾が多く使われた。 米軍がベトナム戦争で使用したのは、砲弾の中に野球ボール大の子弾300個が収められたもので、これが破裂すると、それぞれの子弾から600個の金属球が飛散し、効率的な人的被害を目的とした。
ラオスに投下されたクラスター弾の子弾は、地元では「ボンビー」と呼ばれている。 今も8000万個が残り、うち約30%が不発で、いまだに2400万個がラオス全18県のうち17県に散らばっている。 不発弾の爆発による死傷者は、爆撃が開始された1964年から2008年までの総数が50,000人以上。 だが、このうち20,000人以上が戦争が終った1974年以降の犠牲者だ。
犠牲者のほとんどは、名もなく貧しい農民たち、その多くは子どもたちだ。 だが、インドシナ戦争後も、様々な出来事で世界から注目を浴びたベトナムやカンボジアと比べると、無名の民の犠牲は世界から無視され続けてきた。
アジアの最貧国で、爆弾は生活の光景から切り離せない。 人の背丈ほどもあるナパーム弾の外殻はカヌー、BLUクラスター弾の筒はランタンにちょうどいい。 古い爆弾の金属部分は家の支柱にも使われる。 爆弾が身近すぎる。 虎視眈々と40年以上前の殺人兵器が彼らを狙っているのだ。
かつて命を張ってベトナム戦争を取材した先輩ジャーナリストたちは、もう若くても70歳くらいか。 若いジャーナリストたちにとって、インドシナ戦争は既に歴史の出来事。 今、ラオスへの無関心に罪悪感を抱けるなら、なにか行動を起こすべきなのだ。
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