2012年11月29日木曜日
昼下がりのババア・イン・ラプソディ
たまに、昼下がり、近所のドトール・コーヒーで、ボーッとしているのは悪くない。 ただ、その時間、婆さんたちが集団で来て、耳が遠いせいか大声で世間話をしているのに、かち合うことがよくある。そうなると最悪だ。
若い女たちのさんざめく声なら、バカ話でもBGMのように聞き流せるのだが、婆さんたちの周囲を圧倒するダミ声はたまらない。 女は中高年のある年齢に達すると声変わりするに違いない。
最近、ブラック・コーヒーを飲みながら「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」をのんびりと読んでいたとき、運悪く、数人の婆さんグループが入ってきた。 そして案の定、ダミ声会話が始まったので、帰ろうかと思ったが、話の内容にちょっと興味を引かれて、盗み聞きしてしまった。 いや、盗み聞きというのはおかしい。 店中に響き渡るような声なのだから。
婆さんの一人の知り合いだが、知り合いの知り合いのことらしい。 道路を歩いているとき、すれ違った自転車に乗っていた人が葉書を落とした。 それを拾って渡してあげようとしたが、自転車は瞬く間に遠ざかって声をかけることができなかった。
葉書は、古い年賀葉書を使って懸賞に応募したものだった。 重要なものではないと思って、あとでポストに入れてやろうと持ち帰った。 翌日でかけるときに、自分のうちにも古い年賀葉書があるのを思い出し、その1枚に拾った葉書と同じ宛先を書いて、なんの懸賞かも知らず、拾ったのと一緒にポストに投函した。
本人、そんなことはすっかり忘れていたが、あるとき乗用車が当たったという連絡があったという。 びっくりしたが、とにかく、ありがたく受け取った。
ただ、 なんとなく後ろめたい気がしているという。 自分が葉書を出さなければ、自転車の人が当選したのではないかという気がしてならないのだそうだ。 この優しい人物に同感しているところをみると、ダミ声の婆さんたちも、声は悪くとも人物は悪くなさそうだ。
しかし、これ、本当の話かなあ?
2012年11月21日水曜日
パイナップル・プリンセス
リゾート地ハワイの代名詞になっているワイキキ・ビーチを歩いているときに、なぜか、中学生時代の同級生YNの顔が思い浮かんだ。 ちょっとませたヤツ、今ではすっかり好々爺づらになっているが。
なんで、あんなヤツの顔が突然思い浮かぶんだ!!! すぐに、簡単な連想ゲームだったことに気が付いた。 ワイキキの地名が、中学生のころ流行った田代みどりのポピュラーソング「パイナップル・プリンセス」を思い出させた。 この歌を教えてくれたのが、田代みどりの熱烈なファンだったYNだった。 もっとも、当時の記憶では、YNは浮気なガキで、まもなく伊東ゆかりに鞍替えした。
1960年代、アメリカン・ポップスを日本語歌詞で歌う「ポピュラーソング」全盛の時代だった。 YNは成績はたいしたことなかったが、こういう分野の情報に関しては教室の中で一番だった。
あらためて、「パイナップル・プリンセス」の歌詞をウエブで調べてみると、すぐにみつかった。
’パイナップル・プリンセス
かわいいパイナップル・プリンセス
小さなウクレレ片手にお散歩よ
・・・・・・・・・・
私はワイキキ生まれ 緑の島のお姫さま
背高ノッポの彼といつでも一緒なの
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
彼氏のポッケにゃチョコレート
私のポッケにゃココナツ
・・・・・・・・・・
(作詞・漣健児)
当時の日本人がほとんど行ったことのない「あこがれのハワイ」をイメージした歌詞なのだろう。
だが、なんともヘンな歌詞だ。
彼氏がチョコレートをポケットに入れたら、とろけてドロドロになってしまうではないか。 もっと凄いのは、このお姫さま、ココナツをポケットに入れてしまうのだ。 ココナツは1個2キロくらいの重さはあるし、直径は20センチ近い。 そんな巨大なものをポケットに入れてお散歩する女の姿を想像すると、身長は5メートルくらいあるかもしれない。 その彼女が背高ノッポと言うのだから、彼氏は6メートルといったところか。 でたらめな歌詞ではないか。
ついでに、ワイキキ。 ハワイ王朝が独立国だった19世紀末までは湿地帯で、王族の保養地だった。 当時のビーチには砂浜がなく、オアフ島北部や遠くカリフォルニアから白砂を運んで作った人工砂浜が現在のワイキキビーチだ。
1910年代からアメリカ本土から観光客が訪れるようになり、今もあるハレクラニ・ホテルなどが建設された。 だが、観光客が急増したのは第2次大戦後で、60年代から80年代にかけて多くの高級ホテルやコンドミニアムが建てられた。
パイナップル・プリンセスが日本で流行ったのは1961年。 彼女がそのころ15歳から20歳とすると、だいたい太平洋戦争中に生まれたことになる。 そのころのワイキキは高級ホテルばかりだったから、彼女はホテルで生まれたのか。 ちょっと不自然だ。 おそらく、「ワイキキ生まれのお姫さま」というのも幻想だ。
あの歌がはやってから3年後の1964年、日本人の海外旅行が自由化され、のちの海外旅行ブームにつながる。 YNもハワイに行って、ワイキキ・ビーチを歩いたことがあるのだろうか。
なんで、あんなヤツの顔が突然思い浮かぶんだ!!! すぐに、簡単な連想ゲームだったことに気が付いた。 ワイキキの地名が、中学生のころ流行った田代みどりのポピュラーソング「パイナップル・プリンセス」を思い出させた。 この歌を教えてくれたのが、田代みどりの熱烈なファンだったYNだった。 もっとも、当時の記憶では、YNは浮気なガキで、まもなく伊東ゆかりに鞍替えした。
1960年代、アメリカン・ポップスを日本語歌詞で歌う「ポピュラーソング」全盛の時代だった。 YNは成績はたいしたことなかったが、こういう分野の情報に関しては教室の中で一番だった。
あらためて、「パイナップル・プリンセス」の歌詞をウエブで調べてみると、すぐにみつかった。
’パイナップル・プリンセス
かわいいパイナップル・プリンセス
小さなウクレレ片手にお散歩よ
・・・・・・・・・・
私はワイキキ生まれ 緑の島のお姫さま
背高ノッポの彼といつでも一緒なの
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
彼氏のポッケにゃチョコレート
私のポッケにゃココナツ
・・・・・・・・・・
(作詞・漣健児)
当時の日本人がほとんど行ったことのない「あこがれのハワイ」をイメージした歌詞なのだろう。
だが、なんともヘンな歌詞だ。
彼氏がチョコレートをポケットに入れたら、とろけてドロドロになってしまうではないか。 もっと凄いのは、このお姫さま、ココナツをポケットに入れてしまうのだ。 ココナツは1個2キロくらいの重さはあるし、直径は20センチ近い。 そんな巨大なものをポケットに入れてお散歩する女の姿を想像すると、身長は5メートルくらいあるかもしれない。 その彼女が背高ノッポと言うのだから、彼氏は6メートルといったところか。 でたらめな歌詞ではないか。
ついでに、ワイキキ。 ハワイ王朝が独立国だった19世紀末までは湿地帯で、王族の保養地だった。 当時のビーチには砂浜がなく、オアフ島北部や遠くカリフォルニアから白砂を運んで作った人工砂浜が現在のワイキキビーチだ。
1910年代からアメリカ本土から観光客が訪れるようになり、今もあるハレクラニ・ホテルなどが建設された。 だが、観光客が急増したのは第2次大戦後で、60年代から80年代にかけて多くの高級ホテルやコンドミニアムが建てられた。
パイナップル・プリンセスが日本で流行ったのは1961年。 彼女がそのころ15歳から20歳とすると、だいたい太平洋戦争中に生まれたことになる。 そのころのワイキキは高級ホテルばかりだったから、彼女はホテルで生まれたのか。 ちょっと不自然だ。 おそらく、「ワイキキ生まれのお姫さま」というのも幻想だ。
あの歌がはやってから3年後の1964年、日本人の海外旅行が自由化され、のちの海外旅行ブームにつながる。 YNもハワイに行って、ワイキキ・ビーチを歩いたことがあるのだろうか。
2012年11月20日火曜日
3・11 ハワイの痕跡
(津波のあと放置されたままの土地) |
(ここにレストランありき) |
コナから南へ約10キロ、高級リゾートホテルSheraton Kona Resort & Spa が面しているケアウホウ湾。 小さな入り江だが、ヨットやカヌーが停泊し、ダイビングや鯨・イルカウォッチング船の拠点にもなっている。 ちょっとスノッブな金持ちアメリカ人たちが寛ぎ、静けさとともに華やぎを感じさせる雰囲気がある。
貧相な日本人がうろうろするのは場違いかもしれないが、とりあえず、うろうろしてみた。 すると、すぐに目に留まったのは、<Tsunami Repair Zone>と記した看板が掲げられ、囲いで立ち入り禁止になっている土地だった。
ダイブ・ショップの若者にきいてみた。 ジョーと名乗った若者が教えてくれた。 「まだ暗い朝4時ごろ、突然津波がやって来た。 波の高さは11フィート(3メートル)もあった。 うちの店、それに隣のレンタル・ボート事務所、レストランも1軒押し流された。 うちは再建したけれど、ほら、レストランの土地は、いまだに更地のままだよ。 津波の直後、この湾は、ビーチの椅子やテーブル、その他いろんなものが浮かんで、まるでゴミに覆いつくされたみたいだった」
幸い、死傷者はなく、日本の未曾有の悲劇と比べれば、被害は軽微なものだった。 だが太平洋の地図を広げてみると、楽園ハワイは実に恐ろしいところに位置していることがわかる。 地震が多発する環太平洋のど真ん中、日本からもフィリピンからもカリフォルニアからもチリからも、四方八方から津波が押し寄せてくる。 ここに住むのは、日本とはちょっと違った恐さがあるかもしれない。
2012年11月19日月曜日
当たり前だが、ハワイはアメリカ
2004年、ホノルル・マラソンの自転車版「Century Ride」(100マイル=160キロを自転車で走る)に出場して以来だから、8年ぶりのハワイ。 これまでハワイには何度か行っていたが、いつも短い滞在で街をゆっくりと探索する機会はなかった。 だが、、今回は、レンタカーに乗って8日間ののんびり旅行。 とはいえ、ハワイの人たちの素顔が見えるようになるには至らない。 まあ、その程度の旅ではあったが、この社会の一端を感じることはできた。
その一端とは、本土から海を隔てて遠く離れたハワイ諸島であっても、ここは、本土と同じ成熟したクルマ社会であったということだ。 アメリカ映画がお得意のカーチェイスを見慣れたせいではないだろうが、とにかく、彼ら、運転がうまい。 さすが、世界で初めてクルマが世の中に浸透した国だ。
真っ直ぐで見通しの良い道路では、制限速度の時速55マイル(88キロ)か、せいぜい60マイル(96キロ)で運転する。 おとなしい運転ぶりだ。 だが、くねくねとカーブが続くワインディング・ロードで、わざとスピードを上げても、ほとんどの後続車はぴたりとついて離れない。 これまで、色々な国で多少乱暴な運転をしてきた。 その経験で比較してみると、どこの国の運転者より、明らかに、平均的アメリカ人の運転技術は高い。 つまり、普段はスピード違反を回避するために、おとなしく走っているが、実力を隠して猫をかぶっているのだ。
だが、クルマ社会としての成熟度をこんな尺度だけで測ってはいけない。
ハワイでは、横断歩道があろうがなかろうが、歩行者が道路を渡る気配を見せれば、通りかかるクルマは直ちに停車して道を譲る。 歩行者を蹴散らして走るような態度は決してとらない。 彼らには、道路での歩行者最優先が、まるで生まれついての条件反射のように染み付いている。 成熟とは、このことを言いたいのだ。 日本と距離的に近く、日系人も多く住んでいる。 ワイキキ・ビーチは日本人観光客だらけで、ここは日本の一部ではないかと錯覚する。 だが、クルマ社会というフィルターを通して見ると、ハワイは絶対に日本ではなく、絶対にアメリカなのだ。
東京でも、いつのころまでだったろうか、横断歩道に足をかけた人がいるとクルマが停車した時代があった。 1980年代? もっと前? 遠い昔。 今、信号機のない歩道を歩いて渡るのは命がけだ。 クルマはブレーキをかけず、ハンドルを切りながら歩行者をよけて走り抜けていく。 横柄な運転者はクラクションを鳴らして歩行者を追い散らす。 日常茶飯事の殺人未遂。
今の日本では、強い者が弱い者をいたわる心配りが欠如している。 それにひきかえアメリカ人は、と考えたとき、いや、ちょっと待てよ、と躊躇した。
確かに、アメリカ人の弱い者をいたわるマッチョ精神は、ある意味、賞賛に値する。 歩行者へのいたわりも、そこから来ているのかもしれない。 それは素晴らしい一面だ。
だが、それじゃあ、なぜ、アメリカ人は世界中で嫌われるのだ。 中東や東南アジアやヨーロッパでは、正義の味方づらをしてチョッカイを出し、自分たちのルールを押し付けようとするアメリカ人に対し、善意は感じられても、好意は持たれない。 むしろ、押し付けがましい横柄な態度と受け取られ、鬱陶しい存在になってしまう。
そうなのだ、歩行者へのいたわり精神でアメリカ人は世界を支配してきたのだ。 クルマからすれば、歩行者に対しては圧倒的に強い。 負けるわけがない。 マッチョなアメリカ人は余裕綽々で対応し、実は、そうやって強さを誇示しているのだ。 アフガニスタンでもイラクでも、そして沖縄でも。 非アメリカ人を見下していると言ってもいい。
とはいえ、話を元に戻すと、歩行者最優先の精神が、粗野なジャンクフードを生んだアメリカ文化の産物というのは、やはり不思議だ。 謙譲の美徳を切り捨てては成り立ち得ない日本文化こそが尊重すべき精神ではないか。 そう思うと、日本文化といいうのは、どことなくウソ臭くもみえてくる。 よくわからなくなってきた。
2012年11月6日火曜日
インドの本屋
インドの大手書籍取次会社幹部の友人がいる。 たまに日本に出張すると、大好きな焼き鳥とビールを楽しみに”red lantern”、つまり、赤提灯に行く。 ちなみに、”red lantern”は、冗談で教えたインチキ英語だが、彼はすっかり気に入って、われわれの会話ではすっかり定着してしまった。 彼は、完璧な発音で「ビール1本ください」と注文する。 だが、彼の他の日本語ボキャブラリは「ありがとう」くらいしかない。 店のオヤジは、ビールの注文以外は身振り手振りのガイジンに首をかしげる。
ニューデリーに行ったとき、その友人が「たまにはインドで飲もう」と誘ってくれた。 ところが、連れて行ってくれたのは、街の小さな本屋だった。 訊けば、いつも、そこに仲間が集まって飲み会をやっているのだという。 夕刻、仲間たちがそろうと、店主はさっさと閉店し、店のすきまに椅子を並べ、瞬く間に宴会場ができあがった。
集まったのは、作家、ジャーナリスト、出版社社員など、本の出版に関わる連中ばかり5人ほど。 インド製のラム酒で口が滑らかになるにつれ、政治、経済、社会、国際問題など、話題と議論がどんどん広がっていく。 仕事は異なるが、本という1点でつながる様々な人種が、親しい仲間になっている。
2012年11月6日の読売新聞くらしページで特集していた日本における書店の苦境ぶりを読んで、すぐに、ニューデリーの本屋の店先宴会での面白おかしかった光景が目に浮かんだ。
当時は、ただ楽しかったと思っただけだったが、今、多少まじめに考えてみると、あれが本屋の原点じゃないかという気がしてくる。 原稿を書く人間から、それが本になって、最後に読者となる人々に直接売る人間まで、全員が揃う場が、本屋なのだ。 そんな集まりを日本で見ることはできないだろう。
Amazonを通して本を購入したり、電子書籍を使うようになると、本屋のオヤジの顔は消える。 それ以前だって、出版産業という巨大機構の細分化された分業体制のもとで、人間の顔はとっくに消えていた。 本屋のオヤジが最後の顔みたいなものだった。
だが、ニューデリーの本屋店先宴会は、本の作り手、売り手が一堂に会し、人間の顔が、多過ぎるほどの人間の顔が見えた。
インドみたいに、あまりにうじゃうじゃと人が溢れていると、うんざりするかもしれないが、あんな本屋が日本にもあったら行ってみたいものだ。 見果てぬ夢だろうが。
いや、どうせ客が来ないのだから、店を閉めてやけ酒でも飲もうというのはありうるか。 ちょっと哀しいが。
登録:
投稿 (Atom)