2012年11月19日月曜日

当たり前だが、ハワイはアメリカ



  2004年、ホノルル・マラソンの自転車版「Century Ride」(100マイル=160キロを自転車で走る)に出場して以来だから、8年ぶりのハワイ。 これまでハワイには何度か行っていたが、いつも短い滞在で街をゆっくりと探索する機会はなかった。 だが、、今回は、レンタカーに乗って8日間ののんびり旅行。 とはいえ、ハワイの人たちの素顔が見えるようになるには至らない。 まあ、その程度の旅ではあったが、この社会の一端を感じることはできた。

 その一端とは、本土から海を隔てて遠く離れたハワイ諸島であっても、ここは、本土と同じ成熟したクルマ社会であったということだ。 アメリカ映画がお得意のカーチェイスを見慣れたせいではないだろうが、とにかく、彼ら、運転がうまい。 さすが、世界で初めてクルマが世の中に浸透した国だ。

 真っ直ぐで見通しの良い道路では、制限速度の時速55マイル(88キロ)か、せいぜい60マイル(96キロ)で運転する。 おとなしい運転ぶりだ。 だが、くねくねとカーブが続くワインディング・ロードで、わざとスピードを上げても、ほとんどの後続車はぴたりとついて離れない。 これまで、色々な国で多少乱暴な運転をしてきた。 その経験で比較してみると、どこの国の運転者より、明らかに、平均的アメリカ人の運転技術は高い。 つまり、普段はスピード違反を回避するために、おとなしく走っているが、実力を隠して猫をかぶっているのだ。

 だが、クルマ社会としての成熟度をこんな尺度だけで測ってはいけない。 

 ハワイでは、横断歩道があろうがなかろうが、歩行者が道路を渡る気配を見せれば、通りかかるクルマは直ちに停車して道を譲る。 歩行者を蹴散らして走るような態度は決してとらない。 彼らには、道路での歩行者最優先が、まるで生まれついての条件反射のように染み付いている。 成熟とは、このことを言いたいのだ。 日本と距離的に近く、日系人も多く住んでいる。 ワイキキ・ビーチは日本人観光客だらけで、ここは日本の一部ではないかと錯覚する。 だが、クルマ社会というフィルターを通して見ると、ハワイは絶対に日本ではなく、絶対にアメリカなのだ。

 東京でも、いつのころまでだったろうか、横断歩道に足をかけた人がいるとクルマが停車した時代があった。 1980年代? もっと前? 遠い昔。 今、信号機のない歩道を歩いて渡るのは命がけだ。 クルマはブレーキをかけず、ハンドルを切りながら歩行者をよけて走り抜けていく。 横柄な運転者はクラクションを鳴らして歩行者を追い散らす。 日常茶飯事の殺人未遂。

 今の日本では、強い者が弱い者をいたわる心配りが欠如している。 それにひきかえアメリカ人は、と考えたとき、いや、ちょっと待てよ、と躊躇した。
 
 確かに、アメリカ人の弱い者をいたわるマッチョ精神は、ある意味、賞賛に値する。 歩行者へのいたわりも、そこから来ているのかもしれない。 それは素晴らしい一面だ。

 だが、それじゃあ、なぜ、アメリカ人は世界中で嫌われるのだ。 中東や東南アジアやヨーロッパでは、正義の味方づらをしてチョッカイを出し、自分たちのルールを押し付けようとするアメリカ人に対し、善意は感じられても、好意は持たれない。 むしろ、押し付けがましい横柄な態度と受け取られ、鬱陶しい存在になってしまう。

 そうなのだ、歩行者へのいたわり精神でアメリカ人は世界を支配してきたのだ。 クルマからすれば、歩行者に対しては圧倒的に強い。 負けるわけがない。 マッチョなアメリカ人は余裕綽々で対応し、実は、そうやって強さを誇示しているのだ。 アフガニスタンでもイラクでも、そして沖縄でも。 非アメリカ人を見下していると言ってもいい。

 とはいえ、話を元に戻すと、歩行者最優先の精神が、粗野なジャンクフードを生んだアメリカ文化の産物というのは、やはり不思議だ。 謙譲の美徳を切り捨てては成り立ち得ない日本文化こそが尊重すべき精神ではないか。 そう思うと、日本文化といいうのは、どことなくウソ臭くもみえてくる。 よくわからなくなってきた。 

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