2013年8月2日金曜日
お盆のシーズンだから
がしじょうぶつどう みょうしょうちょうじっぽう
きょうみしょもん せいふじょうしょうがく
りよくじんしょうねん じょうえしゅぼんぎょう
しぐむじょうどう いしょてんにんし
じんりきえんだいこう ふじょうむさいど
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日本語だか、なんだか見当もつかない意味不明のお経を、僧侶の声に合わせて唱和、というより口をモゴモゴさせているだけの参列者たち。
なーまーんだーぶー なーまーんだーぶー
なーまーんだーぶー なーまーんだーぶー
なーまーんだーぶー
このお経は浄土真宗のウエブからダウンロードしたが、日本の仏教各宗派の法事では、ごく普通の光景、 誰もお経の意味など意に介さない。 仏教がどのような教えの宗教なのか知りもしない。
それにもかかわらず、日本人のほとんどは、自分を仏教徒だという。 日本中のいたるところ寺院がある。 観光ツアーに参加した外国人観光客は、あちこち連れていかれても、寺ばかりなのでうんざりし疲れた顔でホテルに帰る。
だが、普通の日本人が仏教に接する機会は、人の死に関わる法事、お盆、お彼岸、それに大晦日の夜に響く除夜の鐘くらい。 日々の生活に深く関わってくるキリスト教、イスラム教と比べると、日本の仏教は宗教と言えるのか疑問にすら思えてくる。
キリスト教の聖書、イスラム教のコーランは、それぞれの宗教の根本であると同時に、読み物としても、歴史や文化人類学、民俗学の資料としても興味深く、面白い。 だが、仏教には、われわれ”信徒"が親しんでいる教典がない。
なぜか今年は前半だけでも、知り合いがずいぶん亡くなった。 それに、もうすぐお盆。 そのせいか、すっかり通い慣れてしまった寺と坊主と仏教を知らない仏教徒への興味がじわりと湧いてきた。
興味のきっかけは、もうひとつあった。 多摩川下流域に点在する玉川八十八ヶ所の寺を散歩がてら三十まで回ってみた。 どこも同じような寺なので興味を失ってやめてしまったが、気になったのは、どの寺も同じように、財力が十分あるようにみえたことだ。 多くの寺には警備会社ALSOKのスティッカーが張ってあった。 カネをかけても守るべき財産があるということだろう。 信者の信仰心は薄いが、寺は金持ちになる。 不思議なメカニズム。
お経など唱えても仏教の真髄など理解できるわけがない。 仏教を極めようなどとは決して思わないが、今夏のお盆期間中は、仏教の古典を読んでみよう。
原始仏教の経典「スッタニパータ」の労作日本語訳「ブッダのことば」(中村元訳・岩波文庫)を、とりあえず開いてみよう。 そこでは、ブッダがやさしい言葉で直接語りかけている。
こんなことをほざいていると、危険な原理主義思想の持ち主と胡散臭く見られるかもしれないが。
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