フィリピンの南西部、マレーシアのボルネオ島とをつなぐ橋と言っていいだろう。 長さ397kmで幅の平均約40km。 極端に細長い形状をしている。 世界一美しい島に米国の旅行雑誌が選んだというパラワン島だ。 西側は南シナ海に面し、中国が理不尽な領有権を主張している南沙諸島にも近い。 その先の彼方はベトナムだ。
この島で1週間、海で遊び、街をうろつき、ポークのスペアリブをかじりながらサンミゲル・ビールとタンドゥアイ・ラムを飲みながら、のんびりと過ごした。
パラワン島は、フィリピンの経済・政治の中心から遠く離れ、「最後のフロンティア」と呼ばれている。
マルコス独裁が倒れた1986年まではフィリピンをよく訪れた。以来、30年以上たって、パラワンという「僻地」で久しぶりにフィリピンを眺めた。 パラワンの住民たちは以前と同じように貧しい人々で、粗末な小屋のような家々の光景は30年前とさして違いはない。 だが、フィリピンがこの30年で明らかに変化したこともわかる。
島の中心地プエルトプリンセサには、大きくて洒落た近代的ショッピング・ビルができていた。 貧しい人ばかりでなく、こんなところで買い物をできる中産階層や富裕層が生まれていることを示しているのだと思う。 30年前の僻地には、雑然として汚らしい市場しかなかった。
世界遺産に登録されている地底河川国立公園やホンダ湾の小島をめぐるアイランド・ホッピングのツアーに行ってみた。 かつて、観光地のツアーに参加するのは、ほとんど外国人だった。 だが、今はマニラなどから休暇で遊びに来たフィリピン人がほとんど、9割くらいを占めていただろうか。 これも大きな変化だ。 東南アジア経済の発展ぶりがよく見える。
この30年余りの変化は、消えつつあるベトナム人集落にも見ることができる。 1979年前後、ベトナムの共産化を嫌って大量のベトナム人が小舟に乗って南シナ海へ逃げ出した。 ボートピープルだ。 彼らの多くは、対岸というには1000キロ以上も離れているがパラワン島に辿り着いた。 こうして、島の西側、プエルトプリンセサの郊外には大きなベトナム人居住区ができた。 おそらく数百人単位であったろう。 今、ここには、たった2人のベトナム人しか住んでいないという。 ほとんどは米国へ渡ったという。
だが、ボートピープルの名残りは、街の目抜き通りにちゃんとある。 いくつかのベトナム料理の食堂だ。 フォー(ベトナムうどん)やゴイクン(生春巻き)を出している。 まあまあの味。 島に居ついた人、知り合いを頼って渡ってきた人など様々のようだ。
この国の変わらない実態も垣間見えた。 フィリピンの現大統領ドゥテルテは、犯罪者を情け容赦なく殺害してきた。 本人自身も人を殺した経験があると語ったこともある。 国際社会は、こういう大統領に嫌悪感を抱くが、フィリピンでは絶対的な人気がある。 その根底にあるのは、銃社会の伝統だ。 この国では新聞記者でも拳銃を身につけている。 自分が書いた記事で命を狙われていると感じた記者は自宅に自動小銃を置き、レストランでは襲撃者の動きを捉えやすいように、奥のテーブルで壁を背に座っていた。
プエルトプリンセサでは、2001年に米国人20人がイスラム武装集団に誘拐される事件があった。 そのせいか、治安は維持されているが、ホテルやビーチの警備要員は必ず銃を携行している。 パラワン滞在中に読んだフィリピンの新聞の一面に大きなニュースが掲載されていた。 麻薬取り締まりで233人を検挙したというのだが、ニュースの力点は、「no bloodshed」、流血なしでこれだけの人数を捕まえたというところにある。 警察の取り締まりでも、血を見るのが当たり前の現状を反映している。
おそらく、フィリピン人は銃の扱いに馴染んでいて、今でも入手は容易だと思う。 以前と同様に、警察や軍も横流しをしているだろう。 最近は聞かなくなったが、日本の暴力団がセブ島から密造拳銃を持ち出して逮捕されたニュースがあった。 最近はどうなっているのだろうか。
暗い側面があっても、フィリピン人は笑顔を絶やさない。 見知らぬ外国人に気安く挨拶し、話しかけてくれる。 変わらぬフィリピンの一番いいところだ。 次はいつ行こうか。
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